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第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 10,907文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

車のダッシュボードの時計は、八時四十二分を指していた。

朔夜は、その数字を、後部座席から、じっと見つめていた。

緑色の小さな文字が、エンジンの振動に合わせて、かすかに震えている。

正午まで、三時間十八分。

その数字が、胸の奥で、冷たい石のように沈んでいた。

窓の外は、灰色だった。

朝焼けは、とうに消えていた。

低く垂れ込めた雲が、山の稜線を呑み込んで、世界から色を奪っている。

ワイパーが、フロントガラスを往復するたびに、きゅ、きゅ、と小さな音を立てた。

その合間を縫って、細かな雨が、また降り注ぐ。

「……あったかい」

膝の上で、あまねが、小さく呟いた。

その両手に、白い紙の包みが、大事そうに握られている。

調理員が持たせてくれたおにぎりだった。

ほんのりと湯気が立っている。

「食べていいの?」

「いいよ」

朔夜は、頷いた。

「たくさん食べて」

あまねは、包みをそっと開いた。

三角の白いおにぎりが、ふっくらと現れる。

黒い海苔が、帯のように巻かれている。

それを、小さな両手で、慎重に持ち上げて、ぱくりと一口、齧った。

「…………」

あまねの左右の異なる瞳が、大きく見開かれた。

「……おいしい」

「でしょ」

「しょっぱくて、あまい」

「うん。お米の味と、お塩の味と、鮭の味」

「さけ」

「お魚」

「おさかな……」

あまねは、もぐもぐと口を動かしながら、ほうと息を吐いた。

「ぼく、あめのなかで、なにも、たべなかった」

「…………」

「おなか、すかなかったから」

朔夜は、胸が締めつけられるのを感じた。

「でも、これ、すき」

「うん」

「おばちゃんの、おにぎり」

「うん。わたしも、大好き」

朔夜は、あまねの白銀の髪を、そっと撫でた。

指先に、柔らかな毛先が絡む。

その温もりが、掌に静かに染みた。

隣で、芹香が、膝の上の腕時計を、黙って見つめていた。

細い文字盤の針が、カチ、カチ、と規則正しく時を刻んでいる。

その横顔は、凪いでいた。

けれど、その唇が、ほんのわずかに、きゅっと結ばれている。

「……先輩」

「なあに」

「食べて」

朔夜は、包みをもう一つ、差し出した。

「お腹空いてたら、戦えないよ」

「…………」

「先輩が言ったんだよ。身体は燃料を入れなきゃ動かないって」

芹香は、朔夜の顔を、ちらりと見た。

それから、ふっと、柔らかく笑った。

「……そうだったわね」

「うん」

「ありがとう」

芹香は、包みを受け取って、小さく一口、齧った。

ゆっくりと咀嚼して、静かに目を閉じる。

「おいしいわ」

「でしょ」

「ええ。とても」

三人は、しばらく、黙って食べた。

窓の外を、濡れた景色が、流れていく。

水田が、銀色の水鏡になっていた。

その上を、雨粒が、無数の波紋で埋め尽くしている。

道端の用水路は、あふれて、道の半分まで水が這い出していた。

車のタイヤが、水を切る、ざあ、という音が、車内に響いている。

家々は、ひっそりと静まり返っていた。

雨戸が閉められ、庭先の洗濯物は取り込まれ、軒先の提灯さえ、ひとつも灯っていない。

人の気配が、なかった。

避難が、終わっているのだ。

朔夜は、窓ガラスに、そっと額を寄せた。

冷たい。

その冷たさの向こうに、あの日の鳥居が、少しずつ、近づいてくる気がした。

「……お客さん」

運転席から、低い声がした。

仕切り板の小さな窓が、がらりと開いた。

「失礼します」

昨日と同じ、黒い制服の男だった。

バックミラーの中で、疲れた目が、こちらを見ている。

「ひとつ、お伝えしておきたいことが」

「はい」

芹香が、静かに応じた。

「閉鎖処置の、件です」

車内の空気が、ひやりと冷えた。

「十二時ちょうどに、谷の周囲の尾根へ配置された閉鎖班が、一斉に処置を開始します」

「…………」

「谷全体を、焼却する」

男の声は、乾いていた。

けれど、その響きの底に、押し殺した何かが沈んでいた。

「正確な方式は、自分も聞かされていません。ただ」

男は、一度、喉を鳴らした。

「十一時四十分を過ぎたら、谷の中にいることは、危険です」

「…………」

「どうか」

バックミラーの中の瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。

「それまでには、必ず、出てきてください」

朔夜は、一瞬、言葉を失った。

それから、ゆっくりと、頷いた。

「はい」

「…………」

「できるだけ、そうします」

「…………」

「でも」

朔夜は、あまねの手を、そっと握った。

「もし、間に合わなくても」

「…………」

「わたしたち、後悔はしません」

男は、何も言わなかった。

ただ、仕切り板の窓が、静かに閉まった。

その向こうで、ハンドルを握る手が、わずかに震えているのを、朔夜は見た。

*

車が、止まった。

エンジンの唸りが、低く沈んで、消える。

静寂が落ちた。

屋根を叩く雨音だけが、ざあああと途切れずに響いている。

「到着、しました」

男の声は、掠れていた。

朔夜は、窓の外を見た。

目の前に、あの鳥居が、立っていた。

赤い柱。

苔むした石段。

細い注連縄は、もう、跡形もなかった。

その鳥居の、手前も、向こうも、同じ灰色の雨に包まれていた。

境界線は、すでに、ずっと外側へ押し流されたのだ。

ここは、もはや、境界ではない。

ただの、雨の中の、一つの門にすぎなかった。

けれど、朔夜には、分かった。

鳥居の向こうの空気が、こちら側とは、まったく違うことが。

雨粒が、重い。

一粒一粒が、鉛のような密度で、地面を叩いている。

その音が、ただの雨音ではなく、無数の囁きの重なりのように聞こえる。

「……行こう」

朔夜は、扉の取っ手に、手をかけた。

冷たい。

その冷たさを、掌に焼きつけるように、握った。

「ありがとうございました」

振り返って、頭を下げる。

男は、仕切り板の向こうで、深く、深く、頭を下げた。

「……ご武運を」

その声は、昨日よりも、ずっと震えていた。

朔夜は、扉を押し開けた。

冷たい風と、雨の匂いが、一気に流れ込んできた。

*

雨合羽のフードを引き上げる。

黒い布が、頭をすっぽりと覆った。

その上を、雨粒が、ばらばらばらと叩く。

朔夜は、戦鎚の柄を、腰の金具から抜いた。

ずしりと、確かな重み。

革の巻かれた握りが、掌に、しっとりと吸いついた。

背には、小さな防水の鞄を背負っている。

その中に、あの古びた台帳が、油紙に包まれて収まっている。

その重みが、背骨に、静かに寄り添っていた。

「いい?」

芹香が、隣で、フードを深くかぶった。

灰茶色の瞳が、雨の薄闇の中で、凛と光っている。

肩には、長い狙撃銃。

腰には、細身の銀色の拳銃。

そして、ベルトの脇の小さな革のケースに、三本の真鍮色の筒が、静かに収まっていた。

位相干渉弾。

その数を、芹香は、鳥居の手前で、指先でそっと確かめた。

一、二、三。

「ええ。大丈夫」

「うん」

朔夜は、あまねの手を、右手で握った。

小さな掌が、冷たい雨の中で、ほんのりと温かい。

もう片方の手には、戦鎚を握っている。

その柄に、あまねが、そっと、左手を添えた。

「ひだり」

「うん」

「ぼく、こっちがわ、みえない」

「うん」

「だから、おねえちゃんが、ひだりに、いてくれる?」

朔夜は、笑った。

「もちろん」

「…………」

「あまねくんの、左の目に、なるよ」

あまねの唇が、ふわりと緩んだ。

「ありがとう」

「どういたしまして」

朔夜は、あまねの左側に、そっと立ち位置を変えた。

その肩が、小さな身体に、寄り添う。

そして、反対側に、芹香が立った。

三人が、並んだ。

あまねを真ん中にして。

朔夜が左に。

芹香が右に。

その手と手が、しっかりと繋がれている。

「行きましょう」

芹香が、静かに言った。

「ええ」

「うん」

「うん」

三人は、同時に、一歩を踏み出した。

*

鳥居の下を、くぐった。

その瞬間、雨が、変わった。

さっきまでの雨は、ただの冷たい雨だった。

けれど、赤い柱の影を通り抜けた途端に、雨粒の一粒一粒が、まるで意志を持つかのように、重く、粘り、肌に張りついてきた。

フードを叩く音が、ばらばらではなくなった。

ざあ。

ざあ。

ざあ。

一定の拍で、全方向から、同時に降ってくる。

まるで、世界そのものが、巨大な心臓の鼓動に合わせて、雨を降らせているように。

朔夜は、思わず、息を呑んだ。

呼吸が、苦しい。

肺に入る空気が、ひどく湿って、重い。

吸うたびに、雨の味が、舌の上に広がった。

鉄と、苔と、古い石と。

そして、ほんの少しの、塩の味。

涙の味だった。

「……すごい」

声が、雨音に呑まれた。

芹香が、繋いだ手を、ぎゅっと握り返してきた。

その掌の温もりが、冷えきった指先に、じんと染みた。

「離れないで」

「うん」

「何があっても」

「うん」

朔夜は、前を見た。

雨の向こうに、石段が、ぼんやりと続いている。

その石段が、半ば、黒い水に浸かっていた。

昨日、朔夜たちが駆け上がった、あの石段だ。

黒い水は、足首ほどの高さまで、石段を覆っている。

けれど、その水面は、もう、動いていなかった。

静かに、湖のように、凪いでいる。

あまねが、一歩、前へ出た。

素足が、黒い水の中へ、そっと入る。

「…………」

水が、わずかに、波紋を作った。

その波紋が、あまねの足元から、ゆっくりと広がっていく。

そして。

水面が、淡く、光り始めた。

銀青色の、静かな光。

あまねの右の瞳と、同じ色の。

その光が、足元から、石段の上へ、ずっと、ずっと、続いていく。

道のように。

「……おいで、って、いってる」

あまねが、囁いた。

「みちが、あるの」

「道」

「うん。むこうがわへ、つながる、みち」

「…………」

「ぼくが、あるくと、ひらく」

朔夜は、頷いた。

「じゃあ、一緒に歩こう」

「うん」

あまねは、朔夜の手を、きゅっと握った。

三人は、光の道を、並んで歩き始めた。

水を踏むたびに、ぴちゃ、ぴちゃ、と小さな音が響く。

靴の中に、冷たい水が染み込んでくる。

けれど、不思議と、足は凍らなかった。

あまねの光に守られているのか、あるいは、朔夜の中の残り火が、足元から温めてくれているのか。

胸の奥で、あの子が、ことり、ことりと、穏やかに脈打っている。

その鼓動が、あまねの掌の鼓動と、重なっていた。

とく。

とく。

とく。

*

石段を、登りきった。

その向こうに、あの日の山道が、続いているはずだった。

けれど、そこにあったのは、道ではなかった。

深い、深い、霧だった。

乳白色の霧が、地面から立ち昇って、視界のすべてを覆い尽くしている。

雨は、その霧の中に、吸い込まれるように降り注いでいた。

数メートル先すら、見えない。

「……こんなの、なかった」

「ええ」

芹香が、低く答えた。

「昨日までは、霧はなかったわ」

「谷が、深まってる」

「そうね」

あまねが、静かに言った。

「ここから、さきは、まよう」

「迷う」

「うん。ふつうの、ひとは」

あまねの右の銀青色の瞳が、霧の向こうを、じっと見据えた。

その瞳から、淡い光の筋が、一本、まっすぐに、霧の奥へ伸びていく。

まるで、灯台の光のように。

「でも、ぼくが、いるから」

「うん」

「ぼくが、みちを、ひらく」

「お願い」

「うん」

あまねは、一歩、霧の中へ踏み出した。

その光が、霧を、すうっと、割った。

乳白色の壁に、細い一本の隧道が開く。

その両脇で、霧が、ゆっくりと渦を巻いている。

朔夜と芹香は、あまねに続いて、その隧道へ入った。

霧が、すぐ背後で、閉じた。

世界が、白く、静かになった。

足音だけが、聞こえる。

ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。

三人分の足音が、規則正しく、霧の中に吸い込まれていく。

雨音が、遠い。

さっきまでの轟くような雨音が、薄い膜の向こうに押しやられたように、くぐもって聞こえた。

その静けさが、かえって、神経を逆撫でした。

朔夜は、周囲を見回した。

白い霧の壁に、何かの影が、ぼんやりと映っていた。

人の形をした、黒い影。

一つ。

また一つ。

霧の向こうの、すぐそこに、立っている。

「……いる」

「ええ」

芹香が、拳銃に手を添えた。

「でも、襲ってこないわ」

「うん」

影たちは、動かなかった。

ただ、霧の壁の向こうに、静かに立っている。

朔夜たちが通り過ぎるのを、じっと見送るように。

「……ぼくを、まってた」

あまねが、囁いた。

「ぼくが、かえってくるのを」

「…………」

「ずっと、まってた」

朔夜は、影の列を、そっと見つめた。

顔のない、黒い曲面。

その奥に、深い、静かな、切ない光が、宿っている気がした。

「ごめんね」

朔夜は、小さく呟いた。

「もうすぐだから」

「…………」

「もうすぐ、帰してあげる」

影たちは、答えなかった。

けれど、その一体が、わずかに、頭を下げたように見えた。

霧の壁の向こうで、黒い輪郭が、静かに揺れた。

朔夜の目の奥が、熱くなった。

「……行こう」

「うん」

三人は、歩き続けた。

霧の中を。

光の隧道を。

*

どれほど歩いただろうか。

時間の感覚が、曖昧になっていた。

芹香の腕時計の針だけが、現実を繋ぎとめていた。

「十時十分」

芹香が、低く告げた。

「正午まで、一時間五十分」

「うん」

朔夜は、唇を結んだ。

焦燥が、胸の奥でじりじりと燻っている。

けれど、走ってはいけない。

あまねの小さな歩幅に、合わせなければならない。

その小さな足は、素足のまま、水と泥の道を、ひたひたと進んでいる。

朔夜は、一度、立ち止まって、あまねの足元を見た。

「痛くない?」

「うん」

「冷たくない?」

「うん。ひかりが、あったかい」

あまねは、にっこりと笑った。

「それに、おねえちゃんが、そばにいるから」

朔夜は、胸が詰まった。

「……ありがとう」

「どうして、ありがとう?」

「だって」

朔夜は、笑った。

「あまねくんが、いてくれるから、頑張れるんだもん」

「…………」

あまねは、きょとんとして、それから、くすぐったそうに笑った。

そのとき。

霧が、ふっと、薄れた。

隧道の先が、開けた。

朔夜は、目を見張った。

そこにあったのは、村だった。

いや、かつて村だった場所だった。

雨に濡れた、黒い瓦屋根が、霧の中から、ぬっと現れる。

一軒。

また一軒。

古い木造の家々が、道の両脇に、ひっそりと並んでいた。

けれど、どの家も、半ば、水に沈んでいた。

一階の窓が、黒い水面の下に消えている。

二階の窓から、障子の白が、ぼんやりと覗いている。

屋根の上に、苔が、びっしりと生えていた。

軒先に、風鈴が吊るされていた。

錆びた、小さな鉄の風鈴。

風はないのに、それが、ちりん、と一度だけ鳴った。

朔夜は、息を呑んだ。

「……ここが」

「ええ」

芹香が、囁いた。

「霖ヶ谷の、村」

「…………」

「四十年前の、そのままの」

道の脇に、看板が立っていた。

錆びた、白いペンキの剥げた、バス停の標識。

『霖ヶ谷口』

その下に、色褪せた時刻表が、雨に濡れて、ぼろぼろになって貼りついている。

文字は、ほとんど読めなかった。

けれど、一番上の行に、かろうじて、年号が読み取れた。

昭和。

朔夜は、時刻表の前で、立ち止まった。

その隣の家の窓に、一枚のカレンダーが、貼られているのが見えた。

破れかけた、黄ばんだ紙。

その数字が、ある月の、ある日で、止まっている。

あの、山崩れの夜の日付だ。

「……時間が」

「止まってる」

芹香が、低く言った。

「この村では、あの日から、何も動いていない」

朔夜は、ゆっくりと、村の道を歩き始めた。

水の音が、足元でぴちゃぴちゃと鳴る。

道の脇の家の軒先に、子供用の三輪車が、半ば水に沈んで、錆びたハンドルだけを覗かせていた。

その隣に、赤い長靴が、片方だけ、転がっている。

誰かが、慌てて、逃げようとした跡。

けれど、逃げきれなかった。

朔夜の胸が、きゅうと痛んだ。

「……みんな、ここに」

「うん」

あまねが、静かに頷いた。

「ここで、くらしてた」

「…………」

「ぼくの、かぞくも」

朔夜は、あまねの顔を見た。

白銀の髪が、雨に濡れて、頬に張りついている。

その横顔は、ひどく穏やかだった。

けれど、琥珀色の左目の奥に、深い、遠い悲しみが、揺れていた。

「……あまねくんの、家は」

「あっち」

あまねは、前方の、ひときわ大きな屋敷の跡を指差した。

水面に、黒い瓦屋根の一部だけが、島のように浮かんでいる。

その屋根の棟に、苔むした、小さな鳥の飾りが、載っていた。

「あれが、ぼくの、おうち」

「…………」

「でも、もう、だれも、いない」

あまねの声は、淡々としていた。

けれど、その掌が、朔夜の手を、きゅっと握りしめた。

朔夜は、その小さな手を、両手で包んだ。

「……いたかったね」

「え」

「家に」

「…………」

「みんなと、一緒に」

あまねの瞳が、潤んだ。

涙が、ひと粒、雨に混じって、頬を伝った。

「……うん」

「ごめんね」

「おねえちゃんが、あやまること、ないよ」

「でも」

「ありがとう」

あまねは、涙を拭って、笑った。

「ここまで、きてくれて」

朔夜は、何も言えなかった。

ただ、あまねの身体を、ぎゅっと抱きしめた。

雨が、二人の背中を、静かに叩いている。

芹香が、その傍らに、無言で立っていた。

その手が、そっと、二人の肩に置かれた。

「……行きましょう」

その声は、柔らかく、震えていた。

「時間は、待ってくれないわ」

「うん」

朔夜は、頷いて、立ち上がった。

*

村の道を、さらに奥へ進んだ。

霧は、薄くなったり、濃くなったりしながら、三人の周囲を漂っている。

家々が、少しずつ、まばらになっていった。

その代わりに、道の両側に、石の塔が、現れ始めた。

苔むした、古い石の供養塔。

一基。

また一基。

等間隔に並んで、奥へ奥へと続いている。

その表面に、小さな文字が、びっしりと刻まれていた。

名前だ。

何十、何百という、人々の名前。

雨に濡れて、墨が滲んで、読めなくなっているものも多い。

けれど、その全てに、確かな人の手の跡があった。

朔夜は、背中の鞄を、そっと撫でた。

台帳。

あの中の名前と、この塔の名前が、重なっている。

「……ここの人たちの」

「ええ」

芹香が、頷いた。

「村人が、残していった供養の塔ね」

「…………」

「あの日、生き残った人たちが、建てたのでしょう」

朔夜は、一基の塔の前で、足を止めた。

その表面に、指先で触れた。

冷たい。

けれど、石の奥に、微かな、微かな温もりが、残っている気がした。

「……見てて」

囁いた。

「いま、迎えに来たから」

塔は、何も答えなかった。

けれど、その上に降る雨粒が、ほんの一瞬だけ、ぴたりと止まったように見えた。

朔夜は、もう一度、頭を下げて、歩き出した。

道が、緩やかな下り坂になった。

霧が、足元に、濃く溜まっていた。

雨音が、さらに、遠くなる。

代わりに、別の音が、聞こえ始めた。

低い、深い、地の底から響くような音。

ごお、ごお、と。

水が、渦を巻く音。

その音は、霧賀原ダムで聞いたあの轟音とは、まったく違った。

もっと静かで、もっと広大で、そして、ひどく、懐かしかった。

「……この音」

「うん」

あまねが、囁いた。

「とびらが、いきしてる」

朔夜は、息を呑んだ。

十二秒周期の呼吸。

けれど、あの水の女のそれよりも、ずっとずっとゆっくりで、そして、深い。

吸って。

吐いて。

吸って。

吐いて。

一回の呼吸が、まるで、地球の鼓動のように感じられた。

「……もうすぐ」

「うん」

「そこに」

あまねは、前方を、じっと見据えた。

霧が、ふっと、割れた。

朔夜は、立ち尽くした。

目の前に、広大な窪地が、広がっていた。

すり鉢のような、巨大な盆地。

その底に、黒い湖が、静かに横たわっている。

水面は、鏡のように凪いでいた。

空の鉛色を、そのまま映して、一枚の巨大な黒い硝子のように。

その湖の、ちょうど中央に。

何かが、聳えていた。

石の鳥居。

朔夜たちが、入口で見たものよりも、遥かに大きい。

高さは、二十メートル近いだろうか。

その柱が、湖面から、そそり立っている。

そして、その向こうに。

神殿が、あった。

水底から、半ば、浮かび上がるようにして、古い石造りの建物が、霧の中に、ぼんやりと姿を現している。

柱の列。

階段。

そして、その奥に、巨大な、巨大な、二枚の石の扉。

朔夜は、呼吸を忘れた。

あれが。

あれが、真の扉。

あの向こうに、向こう側の世界が、ある。

その表面に、円が、刻まれていた。

二枚の扉に跨る、一つの大きな円。

その左半分は、淡い琥珀色の光を放っている。

右半分は、深い銀青色の光を、静かに湛えている。

あまねの瞳と、同じ色。

そして、朔夜の瞳と、残り火と、同じ色。

「……あれが」

朔夜の声が、掠れた。

「ぼくの、おうち」

あまねが、静かに言った。

「ほんとうの」

*

湖の縁へ、降りていった。

斜面は、ぬかるんでいた。

足元の泥が、ぬちゃり、ぬちゃり、と鳴る。

芹香が、朔夜の肘を、しっかりと支えてくれた。

湖の岸辺に、細い石の道が、延びていた。

水面すれすれに、幅二メートルほどの石畳が、湖の中央の鳥居へ向かって、まっすぐに続いている。

参道だ。

その両側は、深い、深い、黒い水。

水面に、雨粒が落ちるたびに、小さな波紋が広がって、消えた。

けれど、その波紋の中に、ときおり、白いものが、ふわりと浮かび上がった。

人の顔だった。

水の底から、静かに、こちらを見つめている、青白い顔。

目を閉じて。

唇を開いて。

髪を、水の中に漂わせて。

一つ。

また一つ。

参道の両側に、数え切れないほどの顔が、ゆらゆらと揺れていた。

「……見ないで」

芹香が、低く言った。

「触れないで」

「うん」

「あれは、水底に沈んだ人たちよ」

「うん」

「でも、私たちを、傷つけるつもりはない」

「うん。分かる」

朔夜は、ゆっくりと、参道へ足を踏み入れた。

石畳が、靴底に、ひやりと冷たい。

その冷たさが、足首を、膝を、這い上がってくる。

けれど、あまねの銀青色の光が、足元を、静かに照らしている。

三人は、並んで、参道を進んだ。

一歩。

また一歩。

水面を渡る風が、フードの端を、ひらりと揺らした。

芹香の腕時計が、カチ、カチ、と時を刻んでいる。

「十一時、二分」

「…………」

「正午まで、五十八分」

朔夜は、唇を噛んだ。

あと、五十八分。

この参道の先に、すべてがかかっている。

胸の奥の残り火が、とく、とく、と、いつもより強く脈打っていた。

(……大丈夫)

心の中で、言い聞かせた。

(わたしは、ひとりじゃない)

右手には、あまねの温もりがある。

その向こうには、芹香がいる。

背中には、台帳がある。

そして、胸の中には、佐伯の竹刀の音が、美月の笑顔が、調理員のおにぎりの温かさが、鬼塚の低い声が、静かに息づいている。

(全部、持ってきた)

(全部、背負ってる)

だから、行ける。

朔夜は、顔を上げた。

参道の先、鳥居の手前の、石畳の広場に。

誰かが、立っていた。

白い、長い衣を纏った、人影。

背が高い。

女の人のようだった。

髪が、長い。

腰まで届く、真っ白な長い髪が、風もないのに、ゆらゆらと揺れている。

その髪は、水のように、透き通っていた。

朔夜は、息を止めた。

あの、霧原の水の女を、思い出した。

けれど、あの怪異のような、禍々しさはなかった。

むしろ、静かで、荘厳で、そして、ひどく、悲しげだった。

その人影が、ゆっくりと、こちらを向いた。

顔が、見えた。

若い女の顔だった。

雪のように白い肌。

薄い、薄い、唇。

そして、瞳。

左も、右も。

どちらも、淡い、銀青色だった。

けれど、その左の瞳だけが、ほんの少しだけ、色を失っていた。

白く濁った、水晶のように。

あまねの、左目と、同じように。

「……ああ」

あまねが、息を呑んだ。

その小さな手が、朔夜の手を、ぎゅっと握りしめた。

「……おばあさま」

朔夜は、はっと顔を向けた。

「おばあさま、って」

「うん」

あまねの声が、震えていた。

「まえの、かぎ」

「先代の」

芹香が、低く呟いた。

白衣の女は、静かに、三人を見つめていた。

その唇が、ゆっくりと、開いた。

声は、一つではなかった。

水が、幾重にも重なって響くような、無数の声が、一つの声になって、湖面を渡ってきた。

「……ようこそ」

朔夜の背筋が、ぞくりと粟立った。

「鍵を継ぐ者たち」

その声は、穏やかだった。

けれど、その穏やかさの奥に、底知れぬ深さがあった。

「そして、境目を持つ、もう一人の子」

白い瞳が、朔夜を、まっすぐに見つめた。

その視線が、胸の奥の残り火を、見透かしていた。

朔夜は、一歩、前へ出た。

「わたし、橘朔夜です」

声が、震えないように、腹に力を込めた。

「あまねくんと一緒に、扉を開きに来ました」

女は、何も答えなかった。

ただ、静かに、朔夜を見つめている。

その背後で、巨大な二枚の扉が、ゆっくりと、呼吸をしている。

ごお。

ごおおお。

「……扉を、開く」

女が、ゆっくりと、繰り返した。

「その意味を、知っているのですか」

「はい」

「向こう側の悲しみが、すべて、こちらへ流れ込む」

「はい」

「それは、あなたたちの世界の、終わりかもしれない」

「…………」

朔夜は、唇を結んだ。

「それでも、開きますか」

「はい」

朔夜は、頷いた。

「ほどくんです」

「ほどく」

「閉じ込めるんじゃなくて。壊すんでもなくて」

朔夜は、あまねの手を、握りしめた。

「みんなが、帰れるように」

「…………」

「あまねくんが、ひとりで、閉じ込められなくていいように」

女の唇が、わずかに動いた。

「……優しい子」

その声は、水面を渡る風のように、静かだった。

「けれど」

白い髪が、ふわりと、波立った。

湖面が、ざわめいた。

水底の顔たちが、一斉に、目を開いた。

その瞳が、全て、淡い銀青色に光っている。

「優しさだけでは、扉は開きません」

女の右手が、ゆっくりと、持ち上がった。

「示しなさい」

雨が、止んだ。

唐突に。

空から降り注いでいた無数の雨粒が、空中で、ぴたりと、静止した。

世界が、無音になった。

湖面の波紋が、凍りついた。

参道の両側の水が、ゆっくりと、盛り上がり始めた。

黒い水が、壁のように、立ち上がっていく。

その壁の中に、無数の影が、揺れていた。

朔夜は、戦鎚を、両手で握り直した。

鎚頭が、琥珀色と銀青色の光を、静かに宿した。

芹香が、拳銃を抜いた。

かちり、と、安全装置が外れる音。

あまねが、朔夜の手を、きゅっと握った。

「おねえちゃん」

「うん」

「ぼく、こわくない」

「うん」

「でも」

あまねは、小さく、息を吸った。

「おばあさまは、ほんとうは、やさしいひと」

「…………」

「だから」

あまねの右の銀青色の瞳が、強く、澄んで、光った。

「たたかわないで」

朔夜は、はっと、あまねを見た。

「戦わない」

「うん」

「でも、示せって」

「うん。でも、たたかうんじゃ、ない」

あまねは、静かに言った。

「きっと、ぼくたちの、こころを、みたいの」

朔夜は、白衣の女を見た。

その白い瞳の奥に、深い、深い、悲しみがあった。

四十年を超える、いや、それよりもずっとずっと長い年月の、孤独と、祈り。

(……そうか)

(この人も、ずっと、待ってたんだ)

誰かが、扉を、ほどいてくれるのを。

朔夜は、戦鎚を、ゆっくりと、下ろした。

鎚頭が、石畳の上に、静かに触れた。

「先輩」

「ええ」

「撃たないで」

「分かっているわ」

芹香は、拳銃を、そっと下げた。

けれど、その指は、安全装置から離さなかった。

「でも、危なくなったら」

「うん」

「必ず、撃つわ」

「うん。お願い」

朔夜は、白衣の女の目を、まっすぐに見つめた。

琥珀色の瞳が、凍りついた雨の中で、静かに、燃えるように輝いた。

「見てください」

声が、澄んで、広い湖面に響いた。

「わたしの、全部を」

水の壁が、轟音を上げて、三人へ向かって、崩れ落ちてきた。

その真ん中に、朔夜は、あまねの手を握ったまま、まっすぐに立っていた。

胸の奥で、残り火が、大きく、大きく、燃え上がった。

――第5章 Part 2/4 へ続く

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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