第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手 2
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
水が、落ちてきた。
壁のように聳えていた黒い水が、頭上から、音もなく、ゆっくりと崩れかかってくる。
朔夜は、目を閉じなかった。
瞬きもしなかった。
あまねの小さな手を、右手でしっかりと握ったまま、戦鎚の鎚頭を石畳に預けて、ただ、まっすぐに立っていた。
水が、触れた。
最初に、頬に。
冷たい、と思ったのは、ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、冷たさという感覚そのものが、水の中に溶けて、どこかへ流れ去っていった。
髪が浮く。
雨合羽の裾が、ふわりと広がる。
耳の奥で、音が、ごぼりと鳴った。
そして、世界が、静かになった。
息が、できる。
肺に、冷たい水が流れ込んでいるはずなのに、苦しくない。
胸が、ゆっくりと、上下している。
吸って。
吐いて。
その呼吸が、水の中を、細い泡になって昇っていく。
朔夜は、右手を、握りしめた。
小さな掌が、そこにある。
左隣には、芹香の指が、しっかりと絡んでいる。
その温もりだけが、水の底で、確かな現実として、朔夜を繋ぎとめていた。
「……先輩」
声が出た。
水の中なのに、言葉が、そのまま、空気を震わせるように響いた。
「ええ」
芹香の声が、すぐ隣から返ってきた。
「聞こえているわ」
「あまねくんも」
「うん」
「みんな、いるよね」
「ええ。手を、離さないで」
「うん」
朔夜は、前を見た。
水の向こうに、淡い光が、揺らいでいる。
白い、柔らかい、朝の光のような。
その光の中から、何かが、ゆっくりと、近づいてきた。
最初は、ただの、ぼんやりとした輪郭だった。
けれど、それが、次第に、はっきりとした形を取り始める。
屋根。
障子。
庭の松。
縁側に干された、赤い着物。
朔夜は、息を呑んだ。
「……これ」
あまねが、小さく呟いた。
「ぼくの、おうち」
水が、ほどけた。
*
そこは、夏の夕暮れだった。
蝉の声が、遠くで、ひぐらしの声に変わっていく時刻。
空は、橙色から、淡い紫へと、ゆっくりと染まり始めている。
古い木造の大きな屋敷の、縁側に、朔夜は立っていた。
足の裏に、木の板の、ぬくもりが伝わってくる。
昼間の日差しを、まだ吸い込んでいる。
雨合羽も、戦鎚も、背中の鞄も、そこにはなかった。
ただ、あまねの手だけが、右手の中にあった。
「…………」
朔夜は、隣を見た。
あまねが、そこに立っていた。
いつもの白い薄い着物ではなく、藍色の小さな浴衣を着ている。
髪は、白銀ではなく、柔らかな黒色だった。
けれど、その左右の瞳は、琥珀色と銀青色のまま。
その顔が、ひどく幼く、そして、ひどく嬉しそうに、微笑んでいた。
「……ここ」
「うん」
「ぼくが、おぼえてる、いちばん、しあわせな、ひ」
縁側の向こうの庭に、人影が見えた。
浴衣姿の、若い女の人。
黒い髪を、きれいに結い上げている。
その横顔が、あまねに、そっくりだった。
女の人は、庭に咲いた朝顔の鉢を、ひとつ、ひとつ、手に取って、縁側へ運んでいた。
「あまね」
その声が、夕風に乗って、優しく響いた。
「ほら、見てごらん。今夜は、お祭りだよ」
「おかあさん」
幼いあまねが、縁側を駆けていく。
朔夜は、その背中を、目で追った。
小さな足が、縁側の板を、ぱたぱたと鳴らす。
浴衣の裾が、ひらひらと揺れる。
女の人が、振り返って、しゃがみ込んで、あまねの頭を撫でた。
その手が、あまねの手首に、赤い細い紐を結んだ。
「これは、お守り」
「おまもり」
「あまねが、迷子にならないように」
「まいごに、ならない」
「そう。この紐を、握っていたら、必ず、お母さんが、見つけてあげる」
あまねは、嬉しそうに笑って、紐を握りしめた。
朔夜は、胸の奥が、じんと熱くなった。
(……だから)
(あまねくんの手首に)
さっき、車の中で、気づいていた。
あまねの右手首に、色褪せた赤い紐が、細く巻かれていたことを。
それは、この日の、お守りだったのだ。
縁側の向こうの空が、ゆっくりと暗くなっていく。
庭の灯籠に、ぽつ、ぽつと、火が灯り始めた。
その光が、あまねの顔を、橙色に照らしている。
遠くから、太鼓の音が、聞こえてきた。
どん、どん、どん。
笛の音が、風に混じる。
村の人々が、縁側の外の道を、笑いながら歩いていく。
「おや、あまねちゃん、浴衣、よく似合うねえ」
「トミおばあちゃん!」
「今夜は、よう、お祭りを楽しんでおいで」
「うん!」
あまねが、手を振る。
道の向こうの老婆が、皺だらけの顔を、くしゃりと綻ばせて、手を振り返した。
朔夜は、その老婆の顔を、じっと見つめた。
(……トミさん)
あの夜、庭で、自分が名前を呼んだ人だった。
「森下、トミ」
あの影が、人の姿を取り戻して、涙を流した、あの老婆だ。
その同じ人が、いま、ここで、笑っている。
元気に。
生きて。
朔夜の目の奥が、熱くなった。
「……あまねくんは、愛されてたんだね」
「うん」
あまねは、朔夜を見上げて、頷いた。
「みんな、やさしかった」
「うん」
「ぼく、ここが、だいすきだった」
「うん」
朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握りしめた。
けれど、その手の中で、あまねの指が、ほんの少しだけ、強張った。
「でもね」
「…………」
「このあと」
その瞬間、空気が、変わった。
遠くの太鼓の音が、ぴたりと止まった。
笛の音も、笑い声も、風の音も。
全てが、凍りついたように、消えた。
縁側の灯籠の火が、一斉に、ぱちんと揺れた。
そして、空から。
一粒、雫が、落ちてきた。
あまねの頬に。
「……あめ」
幼いあまねが、きょとんとして、空を見上げた。
晴れていたはずの夜空に、どす黒い雲が、渦を巻いて広がっていく。
その雲の中心から、無数の雨粒が、降り注ぎ始めた。
最初は、ぽつり、ぽつりと。
やがて、ざあざあと、滝のような勢いで。
屋敷の庭の土が、黒く濡れていく。
灯籠の火が、一つ、また一つと、消えていく。
「おかあさん!」
あまねの悲鳴が、雨音を切り裂いた。
女の人が、駆け寄ってきた。
その顔が、真っ青になっている。
「あまね、あまね!」
「あめが、あめが」
「大丈夫、大丈夫」
女の人は、あまねを、強く抱きしめた。
その背後の闇の向こうで、地鳴りのような音が、轟いた。
ごごごご。
山が、動いていた。
「……山崩れ」
芹香の声が、静かに響いた。
朔夜は、いつの間にか、隣に立っている芹香を見た。
彼女もまた、雨合羽を脱いで、制服姿で、この過去の夜の中に、立っている。
灰茶色の瞳が、悲しげに、細められていた。
「これが、あの夜」
「ええ」
「あまねくんの」
「ええ」
女の人が、あまねを抱いたまま、屋敷の廊下を駆け出した。
足音が、板を叩く。
障子が、次々と、後ろへ流れていく。
その背後で、屋敷の柱が、軋み始めた。
土砂の音。
人々の悲鳴。
「逃げろ!」
「山が!」
「谷へ!」
叫び声が、闇の中で交錯する。
朔夜は、あまねの小さな手を握ったまま、その後を追った。
追うというより、見えない糸に引かれるように、過去の流れの中を、ついていった。
女の人は、屋敷の裏手の、石段を駆け上がった。
その先に、黒い鳥居が、闇の中に立っていた。
湖の中央に聳えていた、あの巨大な鳥居と同じ形をしている。
けれど、それは、まだ、水の中にはなかった。
乾いた石の上に、静かに、立っていた。
「あまね」
女の人が、鳥居の下で、足を止めた。
雨に濡れた顔が、ひどく静かだった。
「聞いて」
「おかあさん」
「お母さんの、言うことを、よく聞いて」
あまねの小さな顔が、涙と雨で濡れている。
女の人は、あまねの両頬を、両手で包んだ。
「あなたは、この村の、鍵なの」
「かぎ」
「ごめんね」
女の人の声が、震えた。
「本当は、もう少し、大きくなってから、話すつもりだった」
「…………」
「でも、時間が、ないの」
その瞳から、涙が、ぽろりと零れた。
「この扉を、閉じ続けるには、あなたの目が、必要なの」
「…………」
「ひだりのめと、みぎのめが」
女の人は、あまねの両目に、そっと、口づけた。
「世界を、繋いでいるから」
あまねは、泣いていた。
けれど、頷いた。
小さな身体が、女の人の腕の中で、震えている。
「……いや」
声が、掠れた。
「おかあさんと、いたい」
「うん」
「ひとりに、しないで」
「うん」
「ぼく、こわい」
女の人は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。
その背中が、激しく震えている。
朔夜は、その光景を、息もできずに見つめていた。
「……ごめんね」
女の人が、囁いた。
「ごめんね、あまね」
「…………」
「でも、お母さんは、ずっと、ここにいる」
「…………」
「この紐を、握っていたら」
女の人は、あまねの手首の赤い紐を、そっと撫でた。
「必ず、あなたを、見つけるから」
背後から、轟音が、迫ってきた。
土砂の波が、屋敷を呑み込み、村を呑み込み、谷を、黒い水で満たしていく。
女の人は、あまねを、鳥居の向こうの、神殿の階段の上へ、そっと押し出した。
「行きなさい」
「おかあさん!」
「扉を、閉じて」
「おかあさん!」
「愛してる」
その一言を残して。
女の人の身体が、黒い波に、呑み込まれた。
あまねの悲鳴が、雨音の中に、引き裂かれた。
朔夜は、目を閉じた。
涙が、止まらなかった。
胸の奥が、ずたずたに裂かれるように痛かった。
けれど、握った小さな手を、離さなかった。
(……ひとりで)
(この子は、ひとりで)
あの階段の上で。
扉の前で。
雨が降り続ける中で。
何十年も。
何十年も。
「……あまねくん」
「…………」
「ごめんね」
朔夜は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。
その小さな身体は、もう、幼い浴衣の少年ではなく、いつもの、白銀の髪の、儚い子供に戻っていた。
あまねは、朔夜の胸に顔を埋めて、肩を震わせていた。
「……おかあさん」
「うん」
「ぼく、まってた」
「うん」
「ずっと、まってたの」
「うん。分かるよ」
「だから、うれしかった」
あまねの声が、小さく、小さく、かすれた。
「おねえちゃんが、きてくれて」
朔夜は、あまねの頭に、頬を寄せた。
その白銀の髪から、微かな、雨の匂いがした。
「……もう、ひとりじゃないよ」
「…………」
「わたしが、いる」
「…………うん」
あまねは、朔夜の胸の中で、声を上げて、泣き始めた。
四十年分の、涙だった。
その涙が、朔夜の胸の服を濡らして、じんわりと、温かく染みていく。
朔夜は、あまねを抱きしめたまま、ただ、そこに、立ち続けた。
周りの景色が、ゆっくりと、溶けていく。
黒い水が、屋敷を、鳥居を、石段を、全てを、ゆっくりと、呑み込んでいく。
そして。
水の底に、無数の、小さな光が、浮かび上がった。
*
光は、糸だった。
無数の、細い、透明な糸が、水の中を、ゆらゆらと、漂っている。
その一本一本の端に、小さな結び目が、ついていた。
朔夜は、その結び目を、じっと見つめた。
一つの結び目の中に、声が、聞こえた。
『……反物、仕立てておかないと』
老いた女の声だった。
『孫の、七五三に、間に合わなくなる』
その声は、縫い針を持つ、皺だらけの手の映像を連れてきた。
赤い、小さな着物の、縫いかけの袖。
『あと少しなのに』
別の結び目から、別の声が聞こえた。
『稲刈りが……まだ、終わっとらん』
『蔵に、あの子への、土産を』
『母ちゃんに、ごめんって、言えなかった』
『あの人に、好きだって』
『ただいまって、言いたかった』
声が、重なり合って、水の中に、響き渡る。
一つ一つの声が、一つ一つの、未練だった。
四十年。
いや、もっと長い間、結ばれたまま、解けなかった想い。
朔夜は、胸が締めつけられた。
「……これが」
「村の人たちの」
芹香が、静かに言った。
「果たせなかった、願い」
「…………」
朔夜は、一歩、前へ出た。
右手には、あまねの手。
左手を、そっと、伸ばした。
近くに漂っていた一本の糸の、結び目に、指先で触れる。
その瞬間、結び目が、温かく、脈打った。
『……ああ』
老いた女の声が、震えた。
『あたたかい』
朔夜は、その結び目を、掌の上に、そっと載せた。
固く結ばれた、小さな、小さな、輪。
その輪を、指先で、ゆっくりと、撫でた。
「……大丈夫」
囁いた。
「ちゃんと、縫えたよ」
『…………』
「お孫さん、赤い着物、着てたよ」
『…………』
「とっても、似合ってたって」
それは、朔夜が、知るはずのないことだった。
けれど、口が、勝手に、動いていた。
胸の奥の残り火が、朔夜の声を、導いていた。
結び目が、ふわりと、緩んだ。
固く縛られていた糸が、一本、また一本と、ほどけていく。
そして、その糸の端から、白い、温かな光が、溢れ出した。
光は、水の中を、ゆっくりと、昇っていった。
『……ありがとう』
老いた女の声が、微笑んだ。
『これで、やっと』
光が、遠くへ、遠くへ、溶けていく。
朔夜は、次の結び目へ、手を伸ばした。
一つ。
また一つ。
名前のない声たちの、手を、一つ一つ、取っていく。
『稲刈りは、息子が、やってくれたよ』
『母さんは、許してくれてたよ』
『あの人は、ずっと、待ってたよ』
『おかえりなさい』
『ただいま』
朔夜の口から、次々と、言葉が溢れた。
それは、朔夜自身の言葉ではなかった。
けれど、朔夜の心から出た、嘘偽りのない祈りだった。
結び目が、一つずつ、ほどけていく。
光が、一つずつ、昇っていく。
水の中が、少しずつ、少しずつ、明るくなっていった。
朔夜の頬を、涙が伝っていた。
けれど、その涙は、冷たくなかった。
温かかった。
背後で、芹香の声が、静かに響いた。
「朔夜ちゃん」
「うん」
「あなたが、ほどいている間」
芹香は、朔夜の左手を、しっかりと握りしめた。
「私が、握っているわ」
「…………」
「あなたが、落ちてしまわないように」
朔夜は、振り返った。
芹香の灰茶色の瞳が、すぐそこにあった。
その瞳の奥に、光が、揺れていた。
小さな、静かな、記憶の光。
朔夜は、その光に、目を奪われた。
そこに、映っていたのは。
道場だった。
あの、樫の床の、懐かしい、蝋の匂いのする道場。
夕暮れの光が、高窓から差し込んで、床板に、長い影を落としている。
そこに、一人の少女が、立っていた。
十五歳の、小柄な、黒髪の少女。
トンファーを握りしめて、肩で息をしながら、笑っている。
額に、汗が光っていた。
『芹香先輩!』
その声が、元気に、道場に響いた。
『わたし、橘朔夜です! これから、よろしくお願いします!』
その笑顔が、あまりにも、眩しかった。
十九歳の、いや、そのとき十六歳の、芹香は、教官から言い渡された。
『あの子の、安全装置になれ』
その役目が、重かった。
怖かった。
ひとりの少女の人生を、背負わされるなんて。
けれど。
あの子が、あんなふうに笑って、手を振ってきたとき。
胸の奥の、固く結ばれていた何かが、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。
(……この子を)
(守りたい)
その想いが、芹香の瞳の奥で、小さく、けれど確かに、輝いていた。
「…………」
朔夜は、息を呑んだ。
「先輩」
「見えてしまった?」
芹香は、少し困ったように、笑った。
「恥ずかしいわね」
「ううん」
朔夜は、首を振った。
涙が、ぽろぽろと、頬を伝った。
「嬉しい」
「…………」
「先輩が、そんなふうに思ってくれてたなんて」
「あなたが、私を、救ってくれたのよ」
芹香は、静かに言った。
その声が、水の中で、柔らかく震えた。
「私は、お母さんにはなれなかった」
「…………」
「私の、本当のお母さんは、早くに、いなくなってしまったから」
朔夜は、はっと、芹香の顔を見た。
「だから、あなたを見たとき」
芹香は、微笑んだ。
「誰かの『お母さん』を、やってみたくなったの」
「…………」
「それが、私にとっての、救いだったの」
朔夜は、芹香の手を、両手で包み込んだ。
細くて、長くて、少し乾いて、温かい指。
その指に、頬を寄せた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「ずっと、お母さんでいてね」
「ええ」
芹香は、涙を流しながら、笑った。
「ずっと」
二人の手が、固く、固く、結ばれた。
その結び目から、白い光が、温かく、溢れ出した。
*
光が、深くなった。
水が、さらに、透明になっていく。
その奥に、一つだけ、まだ、結ばれたままの、大きな糸が、浮かんでいた。
他のどの糸よりも、太く、強く、そして、悲しげに、脈打っている。
朔夜は、その糸に、そっと近づいた。
結び目の中から、声が、聞こえた。
幼い女の子の声だった。
『……サクヤ』
朔夜の心臓が、とくんと跳ねた。
その名前を、そんなふうに呼ぶ声を、朔夜は、知っていた。
聞いたことが、あった。
遠い、遠い、記憶の底で。
『サクヤ、ずっと、いたよ』
朔夜は、息を止めた。
胸の奥の残り火が、ゆっくりと、揺れた。
そして、その火の中から、小さな光の粒が、ふわりと、浮かび上がった。
最初は、ただの、ぼんやりとした光だった。
けれど、それが、次第に、小さな、小さな、少女の形を取り始めた。
白い、薄い着物。
長い、淡い、藍色の髪。
そして、瞳。
左右とも、深い、深い、名前のない色。
黄金と藍色が、渦を巻いて、混じり合っている。
その少女が、朔夜の目の前に、そっと、立っていた。
年は、五歳か、六歳か。
幼い顔が、不安そうに、朔夜を見上げている。
「……あなたが」
朔夜の声が、震えた。
「ずっと、わたしの中に」
「うん」
少女は、小さく頷いた。
「ごめんね」
「え」
「こわがらせて」
少女の瞳から、涙が、ぽろぽろと零れた。
「わたし、サクヤに、きらわれたくなかったの」
「…………」
「でも、わたしの、ちからは、おおきすぎて」
「…………」
「サクヤを、こわがらせちゃった」
朔夜の胸が、きゅうと締めつけられた。
あの測定場で。
あの影の庭で。
暴れそうになるたびに、必死に押さえつけていた、あの熱。
あれは、この子が、泣いていたのだ。
どうしていいか分からなくて。
朔夜に、触れたくて。
けれど、触れ方が、分からなくて。
「……ごめんね」
朔夜は、少女の前に、膝をついた。
目線を、同じ高さに合わせる。
「わたしこそ」
「…………」
「ずっと、怖がって、ごめんね」
少女の目が、大きく見開かれた。
「ずっと、あなたを、押さえつけてた」
「…………」
「でも、本当は、わたしの、一番、近くにいた子なのに」
朔夜は、少女の小さな手を、そっと、両手で包み込んだ。
小さくて、柔らかくて、驚くほど、温かい。
「……名前は」
「ないよ」
少女は、首を振った。
「わたし、むこうがわの、こども」
「うん」
「うみに、しずんだとき、おかあさんが、わたしを、とびらの、すきまから、おとしたの」
「…………」
「サクヤの、からだの、なかに」
朔夜の頭の中に、映像が、流れ込んできた。
雨の夜だった。
山の中の、小さな病院。
白い、薄暗い病室。
ベッドの上に、小さな、小さな赤ん坊が、横たえられている。
その赤ん坊は、息をしていなかった。
青白い顔。
動かない胸。
傍らで、疲れ果てた若い女性が、涙を流しながら、赤ん坊に手を伸ばしている。
『……お願い』
か細い声が、病室に響いた。
『この子を』
そのとき、天井から、一筋の光が、降ってきた。
金色と藍色が、渦を巻いた、小さな、小さな光。
その光が、ゆっくりと、赤ん坊の胸に、吸い込まれていった。
ひゅう、と、小さな息の音。
赤ん坊の胸が、ぴくりと動いた。
そして。
「……おぎゃあ」
産声が、病室に、響き渡った。
若い女性は、泣き崩れながら、赤ん坊を抱きしめた。
『……生きてる』
『生きてる』
『ありがとう、ありがとう』
その人の顔は、涙で濡れて、よく見えなかった。
けれど、朔夜は、その人の面影に、胸が震えるのを感じた。
(……お母さん)
声に出さずに、呼んだ。
その女性が、赤ん坊の頬に、そっと、口づけた。
『……朔夜』
『朔の夜に、生まれたから』
『朔夜』
『元気に、育ってね』
その声が、病室の雨音の中に、溶けていった。
朔夜の目から、涙が、止めどなく溢れた。
(わたしの、名前)
(お母さんが、くれた名前)
その、病室の扉が、静かに開いた。
灰色の制服の男が、冷たい雨の匂いを連れて、入ってきた。
若い。
けれど、その窪んだ眼窩の、冷たい瞳の色を、朔夜は、知っていた。
参事官だった。
『……確認した』
低い声が、病室に響いた。
『欠片が、定着した』
若い女性の顔が、強張った。
『あの、この子は』
『予備の鍵として、保護する』
『予備の……』
『それが、この子にとって、最善だ』
淡々とした声だった。
けれど、その声の底に、わずかに、揺らぎがあった。
『あなたには、別の保護を』
『嫌です!』
女性が、赤ん坊を抱きしめた。
『この子は、わたしの子です!』
『…………』
『渡しません!』
けれど、その叫びは、すぐに、他の人間の手によって、封じられた。
扉の外から、白衣の男たちが、入ってきた。
赤ん坊が、腕から、引き剥がされる。
女性の悲鳴が、病室に響き渡った。
『朔夜! 朔夜ぁ!』
その声が、どんどん、遠ざかっていく。
朔夜は、拳を握りしめた。
涙が、頬を伝って、顎から、ぽたぽたと落ちた。
(……そうだったんだ)
(わたしは)
(最初から、予備の鍵として)
胸の奥が、冷たく、重くなった。
けれど、そのとき。
小さな、温かい手が、朔夜の手を、きゅっと握った。
「サクヤ」
少女の声が、囁いた。
「かなしまないで」
朔夜は、顔を上げた。
少女が、涙に濡れた顔で、微笑んでいた。
「わたしが、サクヤと、いっしょに、うまれたから」
「…………」
「サクヤは、いきてる」
「…………」
「それだけは、ほんとう」
朔夜は、少女を、ぎゅっと抱きしめた。
小さな身体が、腕の中で、ふわりと、温かく広がった。
「……ありがとう」
声が、掠れた。
「わたしを、生かしてくれて」
「ううん」
少女は、朔夜の首に、小さな腕を回した。
「サクヤが、わたしを、うけとめて、くれたから」
「…………」
「わたしも、いきてる」
二人は、しばらく、そのまま、抱き合っていた。
水の中で。
光の中で。
やがて、少女が、そっと、体を離した。
「ねえ、サクヤ」
「うん」
「わたしの、なまえ、つけて」
朔夜は、目を瞬いた。
「え」
「サクヤの、なかに、いるだけじゃ、さみしいの」
少女は、恥ずかしそうに、微笑んだ。
「ちゃんと、よんで、ほしい」
朔夜は、少し考えた。
それから、にっこりと、笑った。
「……灯」
「ひ」
「灯って、どうかな」
「あかり」
「うん。わたしの中の、あたたかい、明かり」
少女の瞳が、大きく、大きく、見開かれた。
それから、ぱあっと、輝いた。
「……あかり」
「うん」
「わたしの、なまえ」
「そう」
「あかり、あかり、あかり」
少女は、嬉しそうに、何度も繰り返した。
その身体が、ふわりと、光の粒になって、朔夜の胸に、溶けていった。
『ありがとう、サクヤ』
胸の奥で、声が、響いた。
『これからは、いっしょに、たたかうね』
朔夜は、胸に手を当てた。
温かい。
さっきよりも、ずっと、ずっと、温かい。
残り火が、もう、火ではなかった。
静かで、穏やかな、柔らかな、灯火だった。
「……うん」
朔夜は、微笑んだ。
「よろしくね、灯」
*
水が、静かに、引いていった。
朔夜は、気づくと、石畳の参道の上に、立っていた。
雨合羽も、戦鎚も、背中の鞄も、そのままだった。
右手には、あまねの手。
左手には、芹香の手。
ただ、胸の奥の、あの温かさだけが、さっきまでとは、まるで違っていた。
「…………」
朔夜は、顔を上げた。
湖面が、凪いでいた。
黒かった水が、いつの間にか、深い青色に澄み渡っている。
その水面に、無数の光の粒が、ふわり、ふわりと、浮かんでいた。
結び目がほどけた、村人たちの、最後の光だ。
それが、ゆっくりと、空へ、昇っていく。
雨が、降っていなかった。
凍りついていた雨粒は、いつの間にか、細かな光の粒に変わって、ゆらゆらと、舞っていた。
その向こうに、あの白衣の女が、立っていた。
長い、白い髪が、ゆっくりと、波打っている。
その顔に、さっきまでの悲しみは、なかった。
代わりに、静かな、深い、慈しむような微笑みが、浮かんでいた。
「……よくぞ」
声が、水面を渡ってきた。
今度は、重なり合う無数の声ではなく、たった一つの、温かい女性の声だった。
「見せてくれました」
「…………」
「あなたの、心を」
朔夜は、頷いた。
涙が、まだ、頬に残っていた。
けれど、その顔は、晴れやかだった。
「わたしは」
白衣の女が、ゆっくりと、近づいてきた。
石畳の上を、水面を滑るように。
「凪、と申します」
「凪さん」
「はい」
凪は、あまねの前に、そっと膝をついた。
その白い手が、あまねの頬に触れた。
「よく、頑張りましたね」
「……おばあさま」
「ひとりで」
「…………」
「ずっと」
あまねの目から、涙が、ぽろぽろと、零れた。
凪は、あまねを、優しく抱き寄せた。
「もう、いいのですよ」
「…………」
「もう、あなたは、ひとりではない」
「……うん」
あまねは、凪の胸に顔を埋めて、声もなく泣いた。
凪は、その背を、ゆっくりと撫でた。
白い髪が、あまねの身体を、包み込む。
そして、凪は、顔を上げて、朔夜を見つめた。
白い瞳が、微笑んでいる。
「橘、朔夜」
「はい」
「あなたの、お母様は、あなたを、愛していました」
朔夜の呼吸が、止まった。
「わたくしは、見ていました」
「…………」
「あの病室の、雨の夜を」
凪の声が、静かに響いた。
「あなたが、生まれたとき、あなたのお母様が、どれほど、あなたを、抱きしめていたか」
「…………」
「その想いは、いまも、あなたの中に」
朔夜は、胸に手を当てた。
温かい。
そこに、灯の温もりと、そして、遠い、遠い、母の腕の温もりが、重なっている気がした。
「……ありがとうございます」
声が、震えた。
「教えてくれて」
「いいえ」
凪は、そっと微笑んだ。
「さあ」
白い手が、ゆっくりと、扉のほうへ、差し伸べられた。
「扉を、開きましょう」
その瞬間、背後で、轟音が響いた。
ごおおおおおお。
朔夜は、振り返った。
湖の中央に聳える、巨大な二枚の石の扉。
その表面の円が、ゆっくりと、回り始めていた。
左半分の琥珀色の光。
右半分の銀青色の光。
その二つが、互いを追うように、ゆっくりと、廻っている。
石が、軋む。
ぎいいいいい、と、低く、重い、地の底から響くような音。
何百年も、何千年も、動かなかったものが、目を覚ます音。
水面が、揺れた。
参道の石畳が、微かに、震えた。
「……扉が」
芹香が、息を呑んだ。
「動いている」
「ええ」
凪が、静かに頷いた。
「あなたたちの、心が、扉の鍵を、回したのです」
朔夜は、あまねの手を、握り直した。
あまねも、朔夜の手を、強く握り返した。
三人は、並んで、扉を見つめた。
その背後で。
遠く、遠く、山の尾根の向こうから。
低い、不気味な、角笛のような音が、響いてきた。
ぶおおおおお。
ぶおおおおお。
朔夜は、はっと、芹香を見た。
芹香は、腕時計に、素早く目を落とした。
灰茶色の瞳が、鋭く細められる。
「……十一時、四十一分」
「…………」
「閉鎖班の、準備信号よ」
「あと」
「十九分」
朔夜の心臓が、どくんと鳴った。
扉は、まだ、ほんの少ししか、動いていない。
石の表面が、ゆっくりと、重々しく、回転しているだけだ。
十九分で、開ききるのか。
開いた後、何を、どうすればいいのか。
けれど、朔夜の胸の中には、もう、迷いはなかった。
「……行こう」
「ええ」
「うん」
「はい」
凪が、静かに、頷いた。
「参りましょう」
四人は、並んで、参道を歩き出した。
石畳が、足の裏に、冷たく、確かに、触れる。
湖の水面を渡る風が、雨合羽の裾を、ひらりと揺らした。
扉の軋む音が、ますます大きくなっていく。
ぎいいいい。
ぎいいいいい。
その石の隙間から、細い、一筋の光が、漏れ始めた。
金色と、藍色が、渦を巻いた光。
朔夜の瞳と、同じ色の。
あまねの瞳と、同じ色の。
そして、その光の向こうから。
遠く、微かに、無数の声が、聞こえてきた。
かえして。
かえして。
けれど、その声は、もう、悲しくなかった。
どこか、待ちわびた喜びを、帯びていた。
ただいま、と。
おかえり、と。
その二つの言葉が、一つの祈りになって、光の隙間から、静かに、溢れ出していた。
朔夜は、胸の中の灯を、そっと抱きしめた。
その灯が、扉の光に呼応して、ふわりと輝いた。
「……灯」
囁いた。
「いくよ」
『うん』
胸の奥で、小さな声が、応えた。
『いっしょに』
その瞬間、巨大な扉が、ごおおおんと、重く、深く、鳴り響いた。
――第5章 Part 3/4 へ続く
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