第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手 2の表紙画像

第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手 2

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 11,194文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

水が、落ちてきた。

壁のように聳えていた黒い水が、頭上から、音もなく、ゆっくりと崩れかかってくる。

朔夜は、目を閉じなかった。

瞬きもしなかった。

あまねの小さな手を、右手でしっかりと握ったまま、戦鎚の鎚頭を石畳に預けて、ただ、まっすぐに立っていた。

水が、触れた。

最初に、頬に。

冷たい、と思ったのは、ほんの一瞬だった。

次の瞬間には、冷たさという感覚そのものが、水の中に溶けて、どこかへ流れ去っていった。

髪が浮く。

雨合羽の裾が、ふわりと広がる。

耳の奥で、音が、ごぼりと鳴った。

そして、世界が、静かになった。

息が、できる。

肺に、冷たい水が流れ込んでいるはずなのに、苦しくない。

胸が、ゆっくりと、上下している。

吸って。

吐いて。

その呼吸が、水の中を、細い泡になって昇っていく。

朔夜は、右手を、握りしめた。

小さな掌が、そこにある。

左隣には、芹香の指が、しっかりと絡んでいる。

その温もりだけが、水の底で、確かな現実として、朔夜を繋ぎとめていた。

「……先輩」

声が出た。

水の中なのに、言葉が、そのまま、空気を震わせるように響いた。

「ええ」

芹香の声が、すぐ隣から返ってきた。

「聞こえているわ」

「あまねくんも」

「うん」

「みんな、いるよね」

「ええ。手を、離さないで」

「うん」

朔夜は、前を見た。

水の向こうに、淡い光が、揺らいでいる。

白い、柔らかい、朝の光のような。

その光の中から、何かが、ゆっくりと、近づいてきた。

最初は、ただの、ぼんやりとした輪郭だった。

けれど、それが、次第に、はっきりとした形を取り始める。

屋根。

障子。

庭の松。

縁側に干された、赤い着物。

朔夜は、息を呑んだ。

「……これ」

あまねが、小さく呟いた。

「ぼくの、おうち」

水が、ほどけた。

*

そこは、夏の夕暮れだった。

蝉の声が、遠くで、ひぐらしの声に変わっていく時刻。

空は、橙色から、淡い紫へと、ゆっくりと染まり始めている。

古い木造の大きな屋敷の、縁側に、朔夜は立っていた。

足の裏に、木の板の、ぬくもりが伝わってくる。

昼間の日差しを、まだ吸い込んでいる。

雨合羽も、戦鎚も、背中の鞄も、そこにはなかった。

ただ、あまねの手だけが、右手の中にあった。

「…………」

朔夜は、隣を見た。

あまねが、そこに立っていた。

いつもの白い薄い着物ではなく、藍色の小さな浴衣を着ている。

髪は、白銀ではなく、柔らかな黒色だった。

けれど、その左右の瞳は、琥珀色と銀青色のまま。

その顔が、ひどく幼く、そして、ひどく嬉しそうに、微笑んでいた。

「……ここ」

「うん」

「ぼくが、おぼえてる、いちばん、しあわせな、ひ」

縁側の向こうの庭に、人影が見えた。

浴衣姿の、若い女の人。

黒い髪を、きれいに結い上げている。

その横顔が、あまねに、そっくりだった。

女の人は、庭に咲いた朝顔の鉢を、ひとつ、ひとつ、手に取って、縁側へ運んでいた。

「あまね」

その声が、夕風に乗って、優しく響いた。

「ほら、見てごらん。今夜は、お祭りだよ」

「おかあさん」

幼いあまねが、縁側を駆けていく。

朔夜は、その背中を、目で追った。

小さな足が、縁側の板を、ぱたぱたと鳴らす。

浴衣の裾が、ひらひらと揺れる。

女の人が、振り返って、しゃがみ込んで、あまねの頭を撫でた。

その手が、あまねの手首に、赤い細い紐を結んだ。

「これは、お守り」

「おまもり」

「あまねが、迷子にならないように」

「まいごに、ならない」

「そう。この紐を、握っていたら、必ず、お母さんが、見つけてあげる」

あまねは、嬉しそうに笑って、紐を握りしめた。

朔夜は、胸の奥が、じんと熱くなった。

(……だから)

(あまねくんの手首に)

さっき、車の中で、気づいていた。

あまねの右手首に、色褪せた赤い紐が、細く巻かれていたことを。

それは、この日の、お守りだったのだ。

縁側の向こうの空が、ゆっくりと暗くなっていく。

庭の灯籠に、ぽつ、ぽつと、火が灯り始めた。

その光が、あまねの顔を、橙色に照らしている。

遠くから、太鼓の音が、聞こえてきた。

どん、どん、どん。

笛の音が、風に混じる。

村の人々が、縁側の外の道を、笑いながら歩いていく。

「おや、あまねちゃん、浴衣、よく似合うねえ」

「トミおばあちゃん!」

「今夜は、よう、お祭りを楽しんでおいで」

「うん!」

あまねが、手を振る。

道の向こうの老婆が、皺だらけの顔を、くしゃりと綻ばせて、手を振り返した。

朔夜は、その老婆の顔を、じっと見つめた。

(……トミさん)

あの夜、庭で、自分が名前を呼んだ人だった。

「森下、トミ」

あの影が、人の姿を取り戻して、涙を流した、あの老婆だ。

その同じ人が、いま、ここで、笑っている。

元気に。

生きて。

朔夜の目の奥が、熱くなった。

「……あまねくんは、愛されてたんだね」

「うん」

あまねは、朔夜を見上げて、頷いた。

「みんな、やさしかった」

「うん」

「ぼく、ここが、だいすきだった」

「うん」

朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握りしめた。

けれど、その手の中で、あまねの指が、ほんの少しだけ、強張った。

「でもね」

「…………」

「このあと」

その瞬間、空気が、変わった。

遠くの太鼓の音が、ぴたりと止まった。

笛の音も、笑い声も、風の音も。

全てが、凍りついたように、消えた。

縁側の灯籠の火が、一斉に、ぱちんと揺れた。

そして、空から。

一粒、雫が、落ちてきた。

あまねの頬に。

「……あめ」

幼いあまねが、きょとんとして、空を見上げた。

晴れていたはずの夜空に、どす黒い雲が、渦を巻いて広がっていく。

その雲の中心から、無数の雨粒が、降り注ぎ始めた。

最初は、ぽつり、ぽつりと。

やがて、ざあざあと、滝のような勢いで。

屋敷の庭の土が、黒く濡れていく。

灯籠の火が、一つ、また一つと、消えていく。

「おかあさん!」

あまねの悲鳴が、雨音を切り裂いた。

女の人が、駆け寄ってきた。

その顔が、真っ青になっている。

「あまね、あまね!」

「あめが、あめが」

「大丈夫、大丈夫」

女の人は、あまねを、強く抱きしめた。

その背後の闇の向こうで、地鳴りのような音が、轟いた。

ごごごご。

山が、動いていた。

「……山崩れ」

芹香の声が、静かに響いた。

朔夜は、いつの間にか、隣に立っている芹香を見た。

彼女もまた、雨合羽を脱いで、制服姿で、この過去の夜の中に、立っている。

灰茶色の瞳が、悲しげに、細められていた。

「これが、あの夜」

「ええ」

「あまねくんの」

「ええ」

女の人が、あまねを抱いたまま、屋敷の廊下を駆け出した。

足音が、板を叩く。

障子が、次々と、後ろへ流れていく。

その背後で、屋敷の柱が、軋み始めた。

土砂の音。

人々の悲鳴。

「逃げろ!」

「山が!」

「谷へ!」

叫び声が、闇の中で交錯する。

朔夜は、あまねの小さな手を握ったまま、その後を追った。

追うというより、見えない糸に引かれるように、過去の流れの中を、ついていった。

女の人は、屋敷の裏手の、石段を駆け上がった。

その先に、黒い鳥居が、闇の中に立っていた。

湖の中央に聳えていた、あの巨大な鳥居と同じ形をしている。

けれど、それは、まだ、水の中にはなかった。

乾いた石の上に、静かに、立っていた。

「あまね」

女の人が、鳥居の下で、足を止めた。

雨に濡れた顔が、ひどく静かだった。

「聞いて」

「おかあさん」

「お母さんの、言うことを、よく聞いて」

あまねの小さな顔が、涙と雨で濡れている。

女の人は、あまねの両頬を、両手で包んだ。

「あなたは、この村の、鍵なの」

「かぎ」

「ごめんね」

女の人の声が、震えた。

「本当は、もう少し、大きくなってから、話すつもりだった」

「…………」

「でも、時間が、ないの」

その瞳から、涙が、ぽろりと零れた。

「この扉を、閉じ続けるには、あなたの目が、必要なの」

「…………」

「ひだりのめと、みぎのめが」

女の人は、あまねの両目に、そっと、口づけた。

「世界を、繋いでいるから」

あまねは、泣いていた。

けれど、頷いた。

小さな身体が、女の人の腕の中で、震えている。

「……いや」

声が、掠れた。

「おかあさんと、いたい」

「うん」

「ひとりに、しないで」

「うん」

「ぼく、こわい」

女の人は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。

その背中が、激しく震えている。

朔夜は、その光景を、息もできずに見つめていた。

「……ごめんね」

女の人が、囁いた。

「ごめんね、あまね」

「…………」

「でも、お母さんは、ずっと、ここにいる」

「…………」

「この紐を、握っていたら」

女の人は、あまねの手首の赤い紐を、そっと撫でた。

「必ず、あなたを、見つけるから」

背後から、轟音が、迫ってきた。

土砂の波が、屋敷を呑み込み、村を呑み込み、谷を、黒い水で満たしていく。

女の人は、あまねを、鳥居の向こうの、神殿の階段の上へ、そっと押し出した。

「行きなさい」

「おかあさん!」

「扉を、閉じて」

「おかあさん!」

「愛してる」

その一言を残して。

女の人の身体が、黒い波に、呑み込まれた。

あまねの悲鳴が、雨音の中に、引き裂かれた。

朔夜は、目を閉じた。

涙が、止まらなかった。

胸の奥が、ずたずたに裂かれるように痛かった。

けれど、握った小さな手を、離さなかった。

(……ひとりで)

(この子は、ひとりで)

あの階段の上で。

扉の前で。

雨が降り続ける中で。

何十年も。

何十年も。

「……あまねくん」

「…………」

「ごめんね」

朔夜は、あまねを、ぎゅっと抱きしめた。

その小さな身体は、もう、幼い浴衣の少年ではなく、いつもの、白銀の髪の、儚い子供に戻っていた。

あまねは、朔夜の胸に顔を埋めて、肩を震わせていた。

「……おかあさん」

「うん」

「ぼく、まってた」

「うん」

「ずっと、まってたの」

「うん。分かるよ」

「だから、うれしかった」

あまねの声が、小さく、小さく、かすれた。

「おねえちゃんが、きてくれて」

朔夜は、あまねの頭に、頬を寄せた。

その白銀の髪から、微かな、雨の匂いがした。

「……もう、ひとりじゃないよ」

「…………」

「わたしが、いる」

「…………うん」

あまねは、朔夜の胸の中で、声を上げて、泣き始めた。

四十年分の、涙だった。

その涙が、朔夜の胸の服を濡らして、じんわりと、温かく染みていく。

朔夜は、あまねを抱きしめたまま、ただ、そこに、立ち続けた。

周りの景色が、ゆっくりと、溶けていく。

黒い水が、屋敷を、鳥居を、石段を、全てを、ゆっくりと、呑み込んでいく。

そして。

水の底に、無数の、小さな光が、浮かび上がった。

*

光は、糸だった。

無数の、細い、透明な糸が、水の中を、ゆらゆらと、漂っている。

その一本一本の端に、小さな結び目が、ついていた。

朔夜は、その結び目を、じっと見つめた。

一つの結び目の中に、声が、聞こえた。

『……反物、仕立てておかないと』

老いた女の声だった。

『孫の、七五三に、間に合わなくなる』

その声は、縫い針を持つ、皺だらけの手の映像を連れてきた。

赤い、小さな着物の、縫いかけの袖。

『あと少しなのに』

別の結び目から、別の声が聞こえた。

『稲刈りが……まだ、終わっとらん』

『蔵に、あの子への、土産を』

『母ちゃんに、ごめんって、言えなかった』

『あの人に、好きだって』

『ただいまって、言いたかった』

声が、重なり合って、水の中に、響き渡る。

一つ一つの声が、一つ一つの、未練だった。

四十年。

いや、もっと長い間、結ばれたまま、解けなかった想い。

朔夜は、胸が締めつけられた。

「……これが」

「村の人たちの」

芹香が、静かに言った。

「果たせなかった、願い」

「…………」

朔夜は、一歩、前へ出た。

右手には、あまねの手。

左手を、そっと、伸ばした。

近くに漂っていた一本の糸の、結び目に、指先で触れる。

その瞬間、結び目が、温かく、脈打った。

『……ああ』

老いた女の声が、震えた。

『あたたかい』

朔夜は、その結び目を、掌の上に、そっと載せた。

固く結ばれた、小さな、小さな、輪。

その輪を、指先で、ゆっくりと、撫でた。

「……大丈夫」

囁いた。

「ちゃんと、縫えたよ」

『…………』

「お孫さん、赤い着物、着てたよ」

『…………』

「とっても、似合ってたって」

それは、朔夜が、知るはずのないことだった。

けれど、口が、勝手に、動いていた。

胸の奥の残り火が、朔夜の声を、導いていた。

結び目が、ふわりと、緩んだ。

固く縛られていた糸が、一本、また一本と、ほどけていく。

そして、その糸の端から、白い、温かな光が、溢れ出した。

光は、水の中を、ゆっくりと、昇っていった。

『……ありがとう』

老いた女の声が、微笑んだ。

『これで、やっと』

光が、遠くへ、遠くへ、溶けていく。

朔夜は、次の結び目へ、手を伸ばした。

一つ。

また一つ。

名前のない声たちの、手を、一つ一つ、取っていく。

『稲刈りは、息子が、やってくれたよ』

『母さんは、許してくれてたよ』

『あの人は、ずっと、待ってたよ』

『おかえりなさい』

『ただいま』

朔夜の口から、次々と、言葉が溢れた。

それは、朔夜自身の言葉ではなかった。

けれど、朔夜の心から出た、嘘偽りのない祈りだった。

結び目が、一つずつ、ほどけていく。

光が、一つずつ、昇っていく。

水の中が、少しずつ、少しずつ、明るくなっていった。

朔夜の頬を、涙が伝っていた。

けれど、その涙は、冷たくなかった。

温かかった。

背後で、芹香の声が、静かに響いた。

「朔夜ちゃん」

「うん」

「あなたが、ほどいている間」

芹香は、朔夜の左手を、しっかりと握りしめた。

「私が、握っているわ」

「…………」

「あなたが、落ちてしまわないように」

朔夜は、振り返った。

芹香の灰茶色の瞳が、すぐそこにあった。

その瞳の奥に、光が、揺れていた。

小さな、静かな、記憶の光。

朔夜は、その光に、目を奪われた。

そこに、映っていたのは。

道場だった。

あの、樫の床の、懐かしい、蝋の匂いのする道場。

夕暮れの光が、高窓から差し込んで、床板に、長い影を落としている。

そこに、一人の少女が、立っていた。

十五歳の、小柄な、黒髪の少女。

トンファーを握りしめて、肩で息をしながら、笑っている。

額に、汗が光っていた。

『芹香先輩!』

その声が、元気に、道場に響いた。

『わたし、橘朔夜です! これから、よろしくお願いします!』

その笑顔が、あまりにも、眩しかった。

十九歳の、いや、そのとき十六歳の、芹香は、教官から言い渡された。

『あの子の、安全装置になれ』

その役目が、重かった。

怖かった。

ひとりの少女の人生を、背負わされるなんて。

けれど。

あの子が、あんなふうに笑って、手を振ってきたとき。

胸の奥の、固く結ばれていた何かが、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。

(……この子を)

(守りたい)

その想いが、芹香の瞳の奥で、小さく、けれど確かに、輝いていた。

「…………」

朔夜は、息を呑んだ。

「先輩」

「見えてしまった?」

芹香は、少し困ったように、笑った。

「恥ずかしいわね」

「ううん」

朔夜は、首を振った。

涙が、ぽろぽろと、頬を伝った。

「嬉しい」

「…………」

「先輩が、そんなふうに思ってくれてたなんて」

「あなたが、私を、救ってくれたのよ」

芹香は、静かに言った。

その声が、水の中で、柔らかく震えた。

「私は、お母さんにはなれなかった」

「…………」

「私の、本当のお母さんは、早くに、いなくなってしまったから」

朔夜は、はっと、芹香の顔を見た。

「だから、あなたを見たとき」

芹香は、微笑んだ。

「誰かの『お母さん』を、やってみたくなったの」

「…………」

「それが、私にとっての、救いだったの」

朔夜は、芹香の手を、両手で包み込んだ。

細くて、長くて、少し乾いて、温かい指。

その指に、頬を寄せた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

「ずっと、お母さんでいてね」

「ええ」

芹香は、涙を流しながら、笑った。

「ずっと」

二人の手が、固く、固く、結ばれた。

その結び目から、白い光が、温かく、溢れ出した。

*

光が、深くなった。

水が、さらに、透明になっていく。

その奥に、一つだけ、まだ、結ばれたままの、大きな糸が、浮かんでいた。

他のどの糸よりも、太く、強く、そして、悲しげに、脈打っている。

朔夜は、その糸に、そっと近づいた。

結び目の中から、声が、聞こえた。

幼い女の子の声だった。

『……サクヤ』

朔夜の心臓が、とくんと跳ねた。

その名前を、そんなふうに呼ぶ声を、朔夜は、知っていた。

聞いたことが、あった。

遠い、遠い、記憶の底で。

『サクヤ、ずっと、いたよ』

朔夜は、息を止めた。

胸の奥の残り火が、ゆっくりと、揺れた。

そして、その火の中から、小さな光の粒が、ふわりと、浮かび上がった。

最初は、ただの、ぼんやりとした光だった。

けれど、それが、次第に、小さな、小さな、少女の形を取り始めた。

白い、薄い着物。

長い、淡い、藍色の髪。

そして、瞳。

左右とも、深い、深い、名前のない色。

黄金と藍色が、渦を巻いて、混じり合っている。

その少女が、朔夜の目の前に、そっと、立っていた。

年は、五歳か、六歳か。

幼い顔が、不安そうに、朔夜を見上げている。

「……あなたが」

朔夜の声が、震えた。

「ずっと、わたしの中に」

「うん」

少女は、小さく頷いた。

「ごめんね」

「え」

「こわがらせて」

少女の瞳から、涙が、ぽろぽろと零れた。

「わたし、サクヤに、きらわれたくなかったの」

「…………」

「でも、わたしの、ちからは、おおきすぎて」

「…………」

「サクヤを、こわがらせちゃった」

朔夜の胸が、きゅうと締めつけられた。

あの測定場で。

あの影の庭で。

暴れそうになるたびに、必死に押さえつけていた、あの熱。

あれは、この子が、泣いていたのだ。

どうしていいか分からなくて。

朔夜に、触れたくて。

けれど、触れ方が、分からなくて。

「……ごめんね」

朔夜は、少女の前に、膝をついた。

目線を、同じ高さに合わせる。

「わたしこそ」

「…………」

「ずっと、怖がって、ごめんね」

少女の目が、大きく見開かれた。

「ずっと、あなたを、押さえつけてた」

「…………」

「でも、本当は、わたしの、一番、近くにいた子なのに」

朔夜は、少女の小さな手を、そっと、両手で包み込んだ。

小さくて、柔らかくて、驚くほど、温かい。

「……名前は」

「ないよ」

少女は、首を振った。

「わたし、むこうがわの、こども」

「うん」

「うみに、しずんだとき、おかあさんが、わたしを、とびらの、すきまから、おとしたの」

「…………」

「サクヤの、からだの、なかに」

朔夜の頭の中に、映像が、流れ込んできた。

雨の夜だった。

山の中の、小さな病院。

白い、薄暗い病室。

ベッドの上に、小さな、小さな赤ん坊が、横たえられている。

その赤ん坊は、息をしていなかった。

青白い顔。

動かない胸。

傍らで、疲れ果てた若い女性が、涙を流しながら、赤ん坊に手を伸ばしている。

『……お願い』

か細い声が、病室に響いた。

『この子を』

そのとき、天井から、一筋の光が、降ってきた。

金色と藍色が、渦を巻いた、小さな、小さな光。

その光が、ゆっくりと、赤ん坊の胸に、吸い込まれていった。

ひゅう、と、小さな息の音。

赤ん坊の胸が、ぴくりと動いた。

そして。

「……おぎゃあ」

産声が、病室に、響き渡った。

若い女性は、泣き崩れながら、赤ん坊を抱きしめた。

『……生きてる』

『生きてる』

『ありがとう、ありがとう』

その人の顔は、涙で濡れて、よく見えなかった。

けれど、朔夜は、その人の面影に、胸が震えるのを感じた。

(……お母さん)

声に出さずに、呼んだ。

その女性が、赤ん坊の頬に、そっと、口づけた。

『……朔夜』

『朔の夜に、生まれたから』

『朔夜』

『元気に、育ってね』

その声が、病室の雨音の中に、溶けていった。

朔夜の目から、涙が、止めどなく溢れた。

(わたしの、名前)

(お母さんが、くれた名前)

その、病室の扉が、静かに開いた。

灰色の制服の男が、冷たい雨の匂いを連れて、入ってきた。

若い。

けれど、その窪んだ眼窩の、冷たい瞳の色を、朔夜は、知っていた。

参事官だった。

『……確認した』

低い声が、病室に響いた。

『欠片が、定着した』

若い女性の顔が、強張った。

『あの、この子は』

『予備の鍵として、保護する』

『予備の……』

『それが、この子にとって、最善だ』

淡々とした声だった。

けれど、その声の底に、わずかに、揺らぎがあった。

『あなたには、別の保護を』

『嫌です!』

女性が、赤ん坊を抱きしめた。

『この子は、わたしの子です!』

『…………』

『渡しません!』

けれど、その叫びは、すぐに、他の人間の手によって、封じられた。

扉の外から、白衣の男たちが、入ってきた。

赤ん坊が、腕から、引き剥がされる。

女性の悲鳴が、病室に響き渡った。

『朔夜! 朔夜ぁ!』

その声が、どんどん、遠ざかっていく。

朔夜は、拳を握りしめた。

涙が、頬を伝って、顎から、ぽたぽたと落ちた。

(……そうだったんだ)

(わたしは)

(最初から、予備の鍵として)

胸の奥が、冷たく、重くなった。

けれど、そのとき。

小さな、温かい手が、朔夜の手を、きゅっと握った。

「サクヤ」

少女の声が、囁いた。

「かなしまないで」

朔夜は、顔を上げた。

少女が、涙に濡れた顔で、微笑んでいた。

「わたしが、サクヤと、いっしょに、うまれたから」

「…………」

「サクヤは、いきてる」

「…………」

「それだけは、ほんとう」

朔夜は、少女を、ぎゅっと抱きしめた。

小さな身体が、腕の中で、ふわりと、温かく広がった。

「……ありがとう」

声が、掠れた。

「わたしを、生かしてくれて」

「ううん」

少女は、朔夜の首に、小さな腕を回した。

「サクヤが、わたしを、うけとめて、くれたから」

「…………」

「わたしも、いきてる」

二人は、しばらく、そのまま、抱き合っていた。

水の中で。

光の中で。

やがて、少女が、そっと、体を離した。

「ねえ、サクヤ」

「うん」

「わたしの、なまえ、つけて」

朔夜は、目を瞬いた。

「え」

「サクヤの、なかに、いるだけじゃ、さみしいの」

少女は、恥ずかしそうに、微笑んだ。

「ちゃんと、よんで、ほしい」

朔夜は、少し考えた。

それから、にっこりと、笑った。

「……灯」

「ひ」

「灯って、どうかな」

「あかり」

「うん。わたしの中の、あたたかい、明かり」

少女の瞳が、大きく、大きく、見開かれた。

それから、ぱあっと、輝いた。

「……あかり」

「うん」

「わたしの、なまえ」

「そう」

「あかり、あかり、あかり」

少女は、嬉しそうに、何度も繰り返した。

その身体が、ふわりと、光の粒になって、朔夜の胸に、溶けていった。

『ありがとう、サクヤ』

胸の奥で、声が、響いた。

『これからは、いっしょに、たたかうね』

朔夜は、胸に手を当てた。

温かい。

さっきよりも、ずっと、ずっと、温かい。

残り火が、もう、火ではなかった。

静かで、穏やかな、柔らかな、灯火だった。

「……うん」

朔夜は、微笑んだ。

「よろしくね、灯」

*

水が、静かに、引いていった。

朔夜は、気づくと、石畳の参道の上に、立っていた。

雨合羽も、戦鎚も、背中の鞄も、そのままだった。

右手には、あまねの手。

左手には、芹香の手。

ただ、胸の奥の、あの温かさだけが、さっきまでとは、まるで違っていた。

「…………」

朔夜は、顔を上げた。

湖面が、凪いでいた。

黒かった水が、いつの間にか、深い青色に澄み渡っている。

その水面に、無数の光の粒が、ふわり、ふわりと、浮かんでいた。

結び目がほどけた、村人たちの、最後の光だ。

それが、ゆっくりと、空へ、昇っていく。

雨が、降っていなかった。

凍りついていた雨粒は、いつの間にか、細かな光の粒に変わって、ゆらゆらと、舞っていた。

その向こうに、あの白衣の女が、立っていた。

長い、白い髪が、ゆっくりと、波打っている。

その顔に、さっきまでの悲しみは、なかった。

代わりに、静かな、深い、慈しむような微笑みが、浮かんでいた。

「……よくぞ」

声が、水面を渡ってきた。

今度は、重なり合う無数の声ではなく、たった一つの、温かい女性の声だった。

「見せてくれました」

「…………」

「あなたの、心を」

朔夜は、頷いた。

涙が、まだ、頬に残っていた。

けれど、その顔は、晴れやかだった。

「わたしは」

白衣の女が、ゆっくりと、近づいてきた。

石畳の上を、水面を滑るように。

「凪、と申します」

「凪さん」

「はい」

凪は、あまねの前に、そっと膝をついた。

その白い手が、あまねの頬に触れた。

「よく、頑張りましたね」

「……おばあさま」

「ひとりで」

「…………」

「ずっと」

あまねの目から、涙が、ぽろぽろと、零れた。

凪は、あまねを、優しく抱き寄せた。

「もう、いいのですよ」

「…………」

「もう、あなたは、ひとりではない」

「……うん」

あまねは、凪の胸に顔を埋めて、声もなく泣いた。

凪は、その背を、ゆっくりと撫でた。

白い髪が、あまねの身体を、包み込む。

そして、凪は、顔を上げて、朔夜を見つめた。

白い瞳が、微笑んでいる。

「橘、朔夜」

「はい」

「あなたの、お母様は、あなたを、愛していました」

朔夜の呼吸が、止まった。

「わたくしは、見ていました」

「…………」

「あの病室の、雨の夜を」

凪の声が、静かに響いた。

「あなたが、生まれたとき、あなたのお母様が、どれほど、あなたを、抱きしめていたか」

「…………」

「その想いは、いまも、あなたの中に」

朔夜は、胸に手を当てた。

温かい。

そこに、灯の温もりと、そして、遠い、遠い、母の腕の温もりが、重なっている気がした。

「……ありがとうございます」

声が、震えた。

「教えてくれて」

「いいえ」

凪は、そっと微笑んだ。

「さあ」

白い手が、ゆっくりと、扉のほうへ、差し伸べられた。

「扉を、開きましょう」

その瞬間、背後で、轟音が響いた。

ごおおおおおお。

朔夜は、振り返った。

湖の中央に聳える、巨大な二枚の石の扉。

その表面の円が、ゆっくりと、回り始めていた。

左半分の琥珀色の光。

右半分の銀青色の光。

その二つが、互いを追うように、ゆっくりと、廻っている。

石が、軋む。

ぎいいいいい、と、低く、重い、地の底から響くような音。

何百年も、何千年も、動かなかったものが、目を覚ます音。

水面が、揺れた。

参道の石畳が、微かに、震えた。

「……扉が」

芹香が、息を呑んだ。

「動いている」

「ええ」

凪が、静かに頷いた。

「あなたたちの、心が、扉の鍵を、回したのです」

朔夜は、あまねの手を、握り直した。

あまねも、朔夜の手を、強く握り返した。

三人は、並んで、扉を見つめた。

その背後で。

遠く、遠く、山の尾根の向こうから。

低い、不気味な、角笛のような音が、響いてきた。

ぶおおおおお。

ぶおおおおお。

朔夜は、はっと、芹香を見た。

芹香は、腕時計に、素早く目を落とした。

灰茶色の瞳が、鋭く細められる。

「……十一時、四十一分」

「…………」

「閉鎖班の、準備信号よ」

「あと」

「十九分」

朔夜の心臓が、どくんと鳴った。

扉は、まだ、ほんの少ししか、動いていない。

石の表面が、ゆっくりと、重々しく、回転しているだけだ。

十九分で、開ききるのか。

開いた後、何を、どうすればいいのか。

けれど、朔夜の胸の中には、もう、迷いはなかった。

「……行こう」

「ええ」

「うん」

「はい」

凪が、静かに、頷いた。

「参りましょう」

四人は、並んで、参道を歩き出した。

石畳が、足の裏に、冷たく、確かに、触れる。

湖の水面を渡る風が、雨合羽の裾を、ひらりと揺らした。

扉の軋む音が、ますます大きくなっていく。

ぎいいいい。

ぎいいいいい。

その石の隙間から、細い、一筋の光が、漏れ始めた。

金色と、藍色が、渦を巻いた光。

朔夜の瞳と、同じ色の。

あまねの瞳と、同じ色の。

そして、その光の向こうから。

遠く、微かに、無数の声が、聞こえてきた。

かえして。

かえして。

けれど、その声は、もう、悲しくなかった。

どこか、待ちわびた喜びを、帯びていた。

ただいま、と。

おかえり、と。

その二つの言葉が、一つの祈りになって、光の隙間から、静かに、溢れ出していた。

朔夜は、胸の中の灯を、そっと抱きしめた。

その灯が、扉の光に呼応して、ふわりと輝いた。

「……灯」

囁いた。

「いくよ」

『うん』

胸の奥で、小さな声が、応えた。

『いっしょに』

その瞬間、巨大な扉が、ごおおおんと、重く、深く、鳴り響いた。

――第5章 Part 3/4 へ続く

ジャンル・タグ

, , , , , ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 3 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

紫陽花工房

紫陽花工房

家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

👥 フォロワー: 3人

作者ページを見る