第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手3
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あらすじ
世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。
本文
扉は、ゆっくりと、呼吸をするように開いていった。
ぎいい。
ぎいいいいい。
石と石が擦れ合う音が、湖の水面を震わせて、窪地の底全体に重たく反響している。
何千年、何万年と動かなかったものが、ようやく目を覚まして、錆びついた関節を、一つずつ伸ばしているような音だった。
朔夜は、参道の終わりの石段を、一段ずつ登りながら、その音を全身で聞いていた。
足の裏から、膝の骨へ、腰へ、背骨へ。
低い振動が、這い上がってくる。
胸の奥の灯が、その振動に合わせて、とく、とく、と脈打っていた。
神殿の広場は、思っていたよりもずっと広かった。
湖の中央に浮かぶ、円形の石の台地。
その縁に、苔むした太い石柱が、等間隔に立ち並んでいる。
柱の表面には、古い、古い、見たこともない文字が、びっしりと刻まれていた。
水に濡れて、艶やかに光っている。
その柱の列の向こうに、二枚の巨大な扉が、聳えていた。
間近で見ると、それは、もはや「扉」という言葉では足りなかった。
山だった。
空まで届くような、灰色の石の壁が、湖の底から、ぬっとそそり立っている。
その表面に、琥珀色と銀青色の二つの光が、ゆっくりと廻る円となって刻まれている。
そして、その二枚の壁の間に、細い、一本の亀裂が、縦に走っていた。
最初は、髪の毛一本ほどの細さだった。
それが、いまは、人の腕ほどの幅に、広がっている。
その隙間から、光が、溢れていた。
金色と、藍色と、白色が、渦を巻いた、柔らかな、深い光。
風が、吹いてきた。
扉の向こうから。
朔夜の頬を、そっと撫でる。
冷たかった。
けれど、その冷たさの中に、嗅いだことのない匂いが混じっていた。
潮の香りに似ている。
けれど、もっと澄んで、もっと古く、そして、どこか甘い。
名前のない花が、水底で咲いているような。
雨上がりの、まだ誰も踏んだことのない野原のような。
「……いい匂い」
朔夜は、思わず呟いた。
「ええ」
芹香が、隣で小さく息を吸った。
「不思議ね。懐かしい気がするわ」
「わたしも」
「向こう側の、匂い」
あまねが、静かに言った。
その右の銀青色の瞳が、扉の隙間の光を、まっすぐに映している。
「みんなの、ふるさとの、においだよ」
朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握った。
その小さな掌が、ほんのり汗ばんで、わずかに震えている。
「緊張してる?」
「うん」
「わたしも」
「でも」
あまねは、朔夜を見上げて、にっこりと笑った。
「うれしい」
「うん」
「ずっと、あけたかったの」
朔夜は、胸が熱くなって、ただ、頷いた。
広場の中央に、凪が、立っていた。
白い衣の裾が、風もないのに、ゆらゆらと波打っている。
長い白い髪が、水のように、肩から背へ、流れ落ちていた。
その白い瞳が、朔夜たちを、静かに見つめていた。
「ここから、先は」
凪の声が、水面を渡って、澄んで響いた。
「鍵の道です」
「はい」
「扉は、いま、半ば、開いています」
「はい」
「けれど、まだ、足りません」
凪は、ゆっくりと、扉の隙間のほうへ、顔を向けた。
「向こう側の魂たちは、名前を、失っています」
「はい」
「名前のないままでは、こちらの世界に、居場所を、見つけられない」
「…………」
「そして、居場所のない魂が、一度に、溢れ出せば」
凪は、一度、言葉を切った。
「世界は、その悲しみの重さに、耐えられないでしょう」
朔夜は、唇を結んだ。
あの霖ヶ谷の庭で見た、影たちの姿が、頭に浮かんだ。
顔のない、空っぽの、黒い曲面。
あの影の奥にあった、深い、深い、孤独。
あれが、数千。
数万。
いや、もっと。
扉の向こうの、広大な水底に。
「……だから」
朔夜は、顔を上げた。
「ほどくんですね」
「はい」
「ひとりずつ」
「ええ」
凪は、静かに頷いた。
「ひとりずつ、名前を、返して」
「…………」
「帰り道を、示す」
「どうやって」
朔夜の問いに、凪は、そっと、微笑んだ。
「唄です」
「唄」
「ええ」
凪は、白い手を、自分の胸に当てた。
「鍵が、代々、受け継いできた、帰りの唄」
「…………」
「わたくしが、教えましょう」
「はい」
「あなたと、あまねで、歌うのです」
朔夜は、あまねを見た。
あまねは、こくりと頷いた。
「ぼく、しってる」
「え」
「おかあさんが、うたってた」
「…………」
「あの、おまつりの、よるにも」
朔夜の胸が、じんと熱くなった。
あの縁側で、あまねの手首に赤い紐を結びながら、母親が、そっと口ずさんでいた旋律。
あれが、この唄だったのだ。
「じゃあ」
朔夜は、あまねの手を、両手で包み込んだ。
「教えて」
「うん」
あまねは、深く、息を吸った。
小さな胸が、ふくらんだ。
それから、ゆっくりと、唇を開いた。
声が、流れ出した。
細く、澄んだ、子供の声だった。
けれど、その声は、広い湖の水面を、まっすぐに渡っていった。
ほどけ、ほどけ、名のないものよ。
朔夜は、息を呑んだ。
あまりにも、美しい旋律だった。
ゆっくりとした三拍子。
けれど、あの白鷺堂の子守唄のような、人を眠りに引きずり込む重たさは、少しもなかった。
水面に落ちた雫が、波紋を広げていくような。
春の風が、花びらを運んでいくような。
柔らかく、温かく、そして、ほんのり切ない。
灯をたよりに、帰っておいで。
朔夜の胸の奥で、灯が、ぱあっと光った。
『……しってる』
小さな声が、囁いた。
『わたしも、しってる』
「灯」
『うたいたい』
「うん」
朔夜は、頷いた。
そして、あまねの歌声に、そっと、自分の声を重ねた。
雨の底から、空の下へ。
声が、震えた。
けれど、歌い続けた。
呼ぶ声のほうへ、おかえりなさい。
二つの声が、重なって、ひとつの旋律になった。
その瞬間、扉の隙間から溢れていた光が、ふわりと揺れた。
金色と、藍色が、渦を巻いて、ゆっくりと、広場へ流れ出してくる。
朔夜は、歌いながら、目を見開いた。
光の中に、無数の影が、立っていた。
扉の向こう側の、水底の岸辺に。
何千。
何万。
数え切れないほどの、顔のない、黒い人影が、静かに、静かに、こちらを見つめている。
その全てが、歌に耳を傾けていた。
じっと。
動かずに。
ただ、その黒い曲面の奥から、微かな、微かな、涙の気配が、立ち昇っている。
「……みんな」
歌の合間に、朔夜は、囁いた。
「聞こえてる」
「うん」
あまねも、歌いながら、頷いた。
「みんな、まってた」
「うん」
「うたを」
朔夜は、胸の灯に、そっと、問いかけた。
(……灯)
『なあに』
(あの人たちの、名前は、どこにあるの)
『あのね』
灯の声が、温かく響いた。
『うみの、そこに、ある』
(海の、底)
『うん。しずんだ、ときに、おちたの』
(落ちた)
『ひとりひとり、ひとつずつ』
朔夜は、扉の向こうの、広大な水面を見つめた。
その水面の奥、深い、深い、闇の底で。
小さな、小さな、光の粒が、無数に、きらめいているのが見えた。
星空を、逆さまにしたような。
その一つ一つが、名前だった。
誰かの、名前。
誰かが、誰かを呼んだ、声の欠片。
「……見える」
朔夜は、息を呑んだ。
「名前が」
「うん」
「あれを」
『よべばいい』
灯が、囁いた。
『サクヤの、こえで』
朔夜は、頷いた。
歌を、続けた。
唄の旋律に、そっと、祈りを乗せる。
(来て)
(あなたの名前が、ここにあるよ)
(帰っておいで)
その祈りが、声になって、光の波となって、扉の向こうへ、ふわりと流れていった。
水底の、光の粒たちが、ゆらりと揺れた。
そして、一つ。
また一つ。
ゆっくりと、水面を目指して、昇り始めた。
*
光の粒は、昇りながら、形を変えた。
ただの光の点が、ふわりと膨らんで、小さな、小さな、紙の灯籠のような形になっていく。
白い、柔らかな、淡い光の灯籠。
その表面に、墨のような、細い文字が、浮かび上がっていた。
名前だ。
一つ、一つの灯籠に、一つ、一つの名前が。
その灯籠が、水面に、ふわりと着いた。
そして、水面を、ゆっくりと、岸辺の影たちのほうへ、滑っていった。
朔夜は、歌い続けながら、その光景を、見守った。
灯籠が、一人の影の前に、そっと止まる。
影は、動かなかった。
じっと、灯籠を見つめている。
顔のない曲面に、灯籠の光が、柔らかく映っている。
やがて、影の細い腕が、そっと、持ち上がった。
灯籠を、両手で、抱き上げる。
その瞬間。
灯籠の中の文字が、影の胸に、すうっと、溶け込んでいった。
影の黒い輪郭が、ほろりと、解けた。
白い光が、全身を包む。
そして、そこに、一人の女の人が、立っていた。
髪の長い、柔らかな顔立ちの、若い女の人。
見慣れない、水色の衣を纏っている。
その瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れた。
「……わたし」
声が、水面を渡って、朔夜の耳に届いた。
「わたしの、名前」
その唇が、震えた。
「……リオ」
その名前を口にした瞬間、女の人の身体が、ふわりと光り輝いた。
そして、彼女は、深く、深く、朔夜たちのほうへ、頭を下げた。
その顔が、花のように、綻んだ。
「ありがとう」
声が、風に乗って届いた。
「やっと、帰れる」
朔夜は、涙を流しながら、歌い続けた。
灯籠が、一つ。
また一つ。
水面を滑って、影たちの前に、辿り着いていく。
そのたびに、一人、また一人と、影が、人の姿を取り戻していく。
老人。
少年。
母親と、赤ん坊。
腕を組んだ、逞しい男たち。
誰もが、自分の名前を、震える声で、確かめるように、呟いた。
「トウマ」
「サヤ」
「ハルト」
「ミナ」
見たことのない、聞いたことのない名前が、水の上に、ひとつ、またひとつと、灯っていく。
その声が、柔らかな、静かな、祝福の合唱のように、湖面を満たしていった。
「……すごい」
芹香が、囁いた。
その声が、わずかに潤んでいた。
「こんなに、たくさん」
「うん」
「みんな、笑っているわ」
朔夜は、頷いた。
涙で滲んだ視界の向こうで、無数の、名前を取り戻した人々が、互いに抱き合って、泣いて、笑っていた。
その光景が、あまりにも、美しかった。
あまりにも、尊かった。
これが、ほどくということ。
壊すのではなく。
閉じ込めるのでもなく。
ただ、結ばれたものを、そっと、ほどいて。
あるべき場所へ、帰していく。
朔夜は、胸が、いっぱいになった。
歌声が、広がっていく。
扉の隙間が、さらに、ゆっくりと広がっていく。
ぎいいいいい。
ぎいいいいいい。
もう、人が三人、並んで通れるほどの幅になっていた。
扉の向こうから、さらに、さらに、光が溢れてくる。
その光に、朔夜の頬が、温かく照らされた。
けれど、そのとき。
芹香が、はっと、顔を上げた。
「……朔夜ちゃん」
声が、低く、鋭くなっていた。
「何か、来るわ」
「え」
「空から」
朔夜は、歌を止めなかった。
けれど、視線を、空へ向けた。
鉛色の雲が、渦を巻いている。
その向こうの、尾根の稜線に。
小さな、赤い光が、いくつも、瞬いていた。
チカ、チカ、チカ。
規則正しい、点滅。
そして、その光の背後から。
低い、低い、地鳴りのような唸りが、響いてきた。
ごおおおおおお。
ぶおおおおおお。
角笛のような音が、再び、山々に轟いた。
けれど、今度のそれは、準備ではなかった。
開始だった。
芹香の耳の後ろの髪留めが、ざざざざと、激しく雑音を立てた。
そして、その雑音の向こうから、切れ切れの声が、聞こえた。
『……こちら……本部……』
「応答します」
芹香が、素早く答えた。
『橘訓練生……一条訓練生……聞こえるか……』
その声は、ひどく低く、そして、掠れていた。
朔夜は、聞き覚えがあった。
「……参事官」
『聞こえているのか』
「はい」
芹香の声が、静かに響いた。
「扉は、現在、半ば開放されています」
『……見えている』
「向こう側の魂たちが、名前を取り戻しつつ」
『分かっている』
参事官の声が、重く、遮った。
『いま、我々のセンサーが、扉の開放を、最大規模で検知した』
「…………」
『上が、判断した』
朔夜の背筋が、ぞくりと凍りついた。
『閉鎖処置が、前倒しとなった』
「前倒し」
『……私の権限では、止められなかった』
声が、苦しげに、途切れた。
『すまない』
その一言に、朔夜は、息を呑んだ。
あの参事官が。
あの冷たい、窪んだ眼窩の男が。
謝っていた。
『第一射は、あと、二分』
「二分」
芹香の声が、わずかに震えた。
『本来の正午を待たず、十一時五十分に、開始される』
「…………」
『それ以降の、停止は、不可能だ』
沈黙。
通信の向こうで、誰かが、何かを叫んでいる声が、微かに聞こえた。
『……生きて、帰ってきなさい』
参事官の声が、そう告げた。
『できるなら』
通信が、ぷつりと切れた。
朔夜は、唇を噛んだ。
胸の奥が、きゅうと縮んだ。
歌が、一瞬、途切れそうになった。
けれど、あまねの小さな手が、朔夜の指を、ぎゅっと握りしめた。
「だいじょうぶ」
あまねが、囁いた。
「うたを、とめないで」
「でも」
「ひとりずつ、かえしてる、とちゅうだから」
あまねの瞳が、静かに、強く、輝いていた。
「とめたら、みんな、おいてけぼり」
朔夜は、はっと息を呑んだ。
そうだ。
いま、扉の向こうには、まだ、何千もの影が、名前を待っている。
歌を止めれば、その全てが、また、闇の底に取り残される。
「……分かった」
朔夜は、頷いた。
「歌い続ける」
「うん」
「先輩」
「ええ」
芹香は、既に、動いていた。
背中の長い狙撃銃を、素早く肩から外して、広場の縁の太い石柱の上へ、跳び乗る。
そこから、尾根の方角を、鋭く見据えた。
灰茶色の瞳が、凍てついた湖面の光を映して、研ぎ澄まされた刃のように光っている。
「私が、守るわ」
声が、凛と響いた。
「あなたたちは、歌い続けて」
「先輩!」
「大丈夫」
芹香は、微笑んだ。
その横顔が、石柱の上で、揺るぎなく立っている。
「あなたの背中は、私が、守ると言ったでしょう」
朔夜は、涙を堪えて、頷いた。
「うん」
「お願い」
「任せて」
芹香は、ボルトを引いた。
かちゃり。
重く、確かな金属音。
そして、ベルトの脇の革のケースから、真鍮色の筒を、一本、取り出した。
位相干渉弾。
その一本を、薬室へ、ゆっくりと、送り込む。
かちり。
銃床を肩に当てる。
頬を、銃身に預ける。
スコープの向こうの、尾根の方角を、静かに覗き込んだ。
呼吸が、浅く、長く、整えられていく。
狙撃手の、凪の呼吸。
その背中が、朔夜の目に、どこまでも、頼もしく映った。
*
最初の一撃は、空から降ってきた。
ひゅううううう。
甲高い、悲鳴のような音。
朔夜は、反射的に空を見上げた。
鉛色の雲を割って、一筋の白い光の尾が、尾根の向こうから、まっすぐに、こちらへ伸びてきている。
その先端に、小さな、黒い点があった。
近づくにつれて、それは、細長い、銀色の筒の形を、取り始めた。
砲弾だった。
大きさは、人の背丈ほど。
その表面に、青白い紋様が、びっしりと刻まれている。
封印焼却弾。
あれが、谷を焼く、本部の最終手段。
「一発目」
芹香が、冷静に告げた。
「弾道、確認。着弾予想地点は」
「どこ」
「広場の、真上」
朔夜の血の気が、さっと引いた。
「あそこに落ちたら」
「扉が、焼かれるわ」
「…………」
「そして、扉の前の、あなたたちも」
芹香の声は、凪いでいた。
けれど、その指先が、引き金の上で、わずかに、白くなっていた。
「撃つわ」
「先輩」
「大丈夫」
「でも、位相干渉弾は、三発しか」
「ええ」
芹香は、静かに頷いた。
「だから、無駄にはしない」
銃声が、轟いた。
ぱん。
乾いた、小さな音。
けれど、その音は、世界のあらゆる雑音を切り裂いて、遠く、遠く、空へ吸い込まれていった。
白い光の糸が、真っ直ぐに、落下する砲弾へと、駆けた。
そして、触れた。
砲弾の、尖った先端に。
その瞬間。
銀色の筒に刻まれた青白い紋様が、ばらばらに、乱れた。
ぱちぱちぱち、と、細かな火花が散る。
砲弾の内部の同期が、ずれたのだ。
信管が、時を失う。
そして。
砲弾は、空中で、ただの鉄の塊に変わって、ゆっくりと、湖の外縁の山肌へ、墜ちていった。
どおおおん。
遠くで、鈍い衝撃が、地面を震わせた。
「……一発目、無力化」
芹香が、低く呟いた。
「残り、二発」
朔夜は、息を呑んだ。
あの、一瞬の、神業のような狙撃。
けれど、芹香は、すでに、次の弾道を、見ていた。
「二発目、三発目、同時」
「えっ」
「来るわ」
尾根の向こうから、さらに、二筋の白い光が、駆け上がってきた。
ひゅうううう。
ひゅうううううう。
二つの砲弾が、微妙に違う軌道を描いて、広場へ迫ってくる。
「一発しか、止められない」
芹香の声が、わずかに震えた。
「もう一発は」
「わたくしが、受けましょう」
凪の声が、凛と響いた。
白衣の女が、ゆっくりと、両手を空へ掲げた。
長い白い髪が、風もないのに、大きく広がる。
湖面が、轟音を立てて、盛り上がった。
水が、立ち上がる。
巨大な、透き通った、水の壁が、広場の上空に、そびえ立った。
その壁に、砲弾の一つが、真正面から、突っ込んだ。
どおおおん。
衝撃が、広場全体を、揺らした。
水の壁が、爆ぜる。
白い飛沫が、雨のように降り注いだ。
けれど、砲弾は、水の中で、勢いを失い、ゆっくりと、湖の底へ、沈んでいった。
「凪さん!」
「大丈夫です」
凪は、静かに、振り返って、微笑んだ。
その唇の端から、一筋の細い光が、零れていた。
血ではない。
水の記憶が、削られているのだ。
「わたくしの力は、この水に、宿るもの」
「…………」
「あまり、長くは、持ちませんが」
「無理を」
「いいえ」
凪は、白い瞳を、あまねへ向けた。
「あなたたちの、唄が、わたくしを、支えています」
朔夜は、頷いた。
歌を、続ける。
声が、喉の奥で、震えた。
けれど、決して、止めなかった。
そのとき、芹香が、二発目の砲弾に向けて、引き金を絞った。
ぱん。
白い糸が、駆ける。
砲弾の紋様が、乱れる。
けれど、完全には、止まらなかった。
軌道が、わずかに逸れて、広場の外縁の、石柱の一本に、突き刺さった。
どおおおおん。
石柱が、粉々に砕け散った。
衝撃波が、広場を、薙ぎ払った。
朔夜の身体が、風圧に押されて、後ろへ吹き飛びかけた。
けれど、あまねの手を、離さなかった。
足を踏ん張る。
戦鎚の柄を、石畳に突き立てて、身体を支えた。
石の破片が、頬を、掠めていく。
熱い痛みが、走った。
けれど、歌は、止まらなかった。
ほどけ、ほどけ、名のないものよ。
声が、掠れて、割れた。
けれど、その掠れた声が、かえって、祈りのように、切実に響いた。
「朔夜ちゃん!」
芹香の叫びが、飛んだ。
「無事!?」
「うん!」
「あまねくんは!」
「だいじょうぶ!」
「よかった」
芹香の声が、安堵に震えた。
けれど、すぐに、鋭く、研ぎ澄まされる。
「次が来る!」
尾根の向こうの、赤い光の点滅が、加速していた。
チカチカチカチカ。
そして、その向こうから、一斉に、無数の白い光の尾が、天へ向かって、噴き上がった。
十。
二十。
三十。
数えきれないほどの、封印焼却弾が、雲を切り裂いて、こちらへ向かってきている。
「…………」
芹香の唇が、わずかに動いた。
声にならない呟きだった。
けれど、朔夜には、その唇の形が、読み取れた。
――足りない。
位相干渉弾は、残り二発。
あの全てを、止める術は、ない。
凪の水の壁も、もう、長くは持たない。
朔夜の心臓が、どくんと、大きく鳴った。
(……どうしよう)
(どうしたら)
歌は、止められない。
けれど、このままでは、扉が、焼かれる。
名前を取り戻した人々が、焼かれる。
あまねが、焼かれる。
芹香が、焼かれる。
胸の奥の灯が、ぱあっと、激しく燃え上がった。
『サクヤ』
灯の声が、強く響いた。
『だいじょうぶ』
(灯)
『わたしが、いる』
(でも)
『サクヤは、うたいつづけて』
(でも、どうやって)
『かんがえて、みて』
灯の声が、柔らかく、微笑んだ。
『あのとき、サクヤは、なにを、したの』
(あのとき)
『しろいかみの、まちで』
朔夜は、はっと、目を見開いた。
折り畳まれた、あの灯宵銀座。
天蓋が崩れ落ちてきたとき。
あの折り目を。
ほどいた。
(……そうか)
(壊すんじゃ、ない)
(ほどく)
(あの弾も)
朔夜は、空を、見上げた。
迫り来る、無数の白い光の尾。
その一つ一つが、封印された焼却の力を、内に孕んでいる。
あれを、砕くのではなく。
あの「結び目」を、ほどけば。
「……あまねくん」
歌の合間に、朔夜は、囁いた。
「お願いが、あるの」
「うん」
「わたしの、ひだりてを、貸して」
「ひだり」
「うん」
朔夜は、戦鎚の柄を、右手に持ち替えた。
左手を、そっと、あまねの小さな掌に、重ねた。
「二人の、ひかりを、合わせよう」
あまねは、にっこりと、笑った。
「うん」
朔夜は、顔を上げた。
迫る砲弾の群れを、真正面から見据える。
そして、戦鎚を、空へ向けた。
鎚頭が、琥珀色と銀青色の光を、静かに、強く、放った。
その光に、胸の灯が、黄金色と藍色の輝きを、重ねた。
朔夜の全身が、光に包まれた。
髪が、風もないのに、ふわりと浮き上がる。
瞳の奥で、名前のない色が、渦を巻いて、燃え上がった。
けれど、怖くなかった。
その光は、朔夜の、仲間だった。
「……ほどけ」
朔夜は、囁いた。
そして、戦鎚を、天へ向かって、振り抜いた。
*
光が、空へ、駆け上がった。
戦鎚の鎚頭から迸った、黄金と藍色の光の筋が、一直線に、迫り来る砲弾の群れへと、突き刺さった。
最前列の砲弾の、尖った先端に、光が、触れた。
その瞬間。
砲弾の表面の、青白い紋様が、一斉に、ほどけた。
ぱらぱらぱら、と、細かな光の粒となって、はらはらと散っていく。
内部に封じられていた、焼却の力が、結び目を失って、静かに、解き放たれる。
けれど、それは、爆発ではなかった。
ただ、柔らかな、温かな、白い炎となって、ふわりと、空中に広がった。
その炎は、何も焼かなかった。
誰も、傷つけなかった。
ただ、淡い光の花びらのように、空を舞って、やがて、静かに、消えていった。
二発目。
三発目。
朔夜の光が、砲弾の群れを、次々と、貫いていく。
その度に、焼却の力が、ほどけて、優しい光の花になって、空を満たしていった。
見上げる広場の全てが、白い花びらの雨に、染まっていく。
「…………」
芹香が、息を呑んだ。
「……なんて」
「…………」
「綺麗」
朔夜は、戦鎚を、振り抜いた姿勢のまま、荒い息を吐いた。
全身から、力が抜けていく。
けれど、あまねの手を、離さなかった。
「……できた」
「うん」
あまねが、嬉しそうに、頷いた。
「おねえちゃん、すごい」
「あまねくんのおかげ」
「ううん」
あまねは、首を振った。
「おねえちゃんと、あかりのおかげ」
朔夜は、笑った。
涙が、頬を伝った。
けれど、その笑顔の向こうで。
芹香の表情が、ふいに、凍りついた。
「……朔夜ちゃん」
「え」
「あれを」
朔夜は、芹香の指差す方向を、見た。
尾根の向こうの、鉛色の雲の中心。
そこから、一際、大きな、白い光の尾が、ゆっくりと、昇ってきていた。
他の砲弾とは、桁違いだった。
直径、十メートルを超える、巨大な、銀色の球体。
その表面に、金色の複雑な紋様が、びっしりと、刻まれている。
球体の周囲の空気が、ぐにゃりと歪んでいた。
重力そのものが、その球体に向かって、引き寄せられている。
「……母艦弾」
芹香が、掠れた声で呟いた。
「閉鎖処置の、本命よ」
「…………」
「谷ごと、一度に、焼き尽くす」
朔夜の呼吸が、止まった。
あれは。
さっきまでの砲弾とは、まるで次元が違った。
あの封印焼却の力が、一点に凝縮されている。
ほどくには、あまりにも、大きすぎる。
「位相干渉弾で」
芹香が、スコープを覗き込んだ。
「あれの核を、ずらせば」
「できるの」
「分からないわ」
芹香の声が、震えた。
「でも、他に、手がない」
「…………」
「やるしかないの」
彼女は、残りの二本のうちの一本を、素早く薬室へ送り込んだ。
かちり。
銃床を、肩に押し当てる。
指が、引き金に、かかる。
その瞬間、朔夜は、見た。
芹香の肩が、ほんのわずかに、震えているのを。
右肩。
先ほどの衝撃波で、石の破片に打たれた箇所から、制服が裂けて、血が、滲んでいる。
それでも、芹香は、構えを崩さなかった。
灰茶色の瞳が、スコープの向こうの、巨大な銀色の球体を、静かに、見据えている。
呼吸が、浅く、長く。
引き金が、絞られる。
ぱん。
白い光の糸が、空を駆けた。
球体へ向かって。
まっすぐに。
そして、その表面に、触れた。
球体の紋様が、一瞬、乱れた。
金色の線が、ぶれて、ほどけかける。
けれど、その乱れは、すぐに、立て直された。
あまりにも、巨大すぎる。
一本の糸では、足りない。
球体は、ほんの少しだけ、速度を落として、それでも、止まらずに、迫ってきた。
「……効いていない」
芹香が、唇を噛んだ。
「あと、一発」
「先輩」
「分かっているわ」
彼女は、最後の筒を、薬室へ送り込んだ。
その指が、確かに、震えていた。
そのとき、朔夜の耳の奥で、芹香の腕時計の音が、聞こえた気がした。
カチ、カチ、カチ。
十一時、五十七分。
あと、三分。
けれど、あの球体は、その三分を待たずに、あと数十秒で、この広場に、到達する。
朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握りしめた。
歌声が、掠れていく。
扉の隙間は、まだ、完全には、開き切っていない。
名前を取り戻した人々の、半分も、まだ、こちら側へ渡っていない。
ここで歌を止めれば、全てが、失われる。
けれど、歌い続ければ、あの球体に、焼かれる。
(……どうしたら)
胸の奥の灯が、ふわりと、揺れた。
『サクヤ』
(うん)
『うたは、あまねと、なぎが、つづけてくれる』
(でも)
『サクヤは、いかなきゃ』
(行く)
『あの、おおきな、たまを、ほどけるのは』
灯の声が、静かに、強く響いた。
『サクヤだけ』
朔夜は、顔を上げた。
迫り来る、巨大な銀色の球体。
その向こうに、遠く、鉛色の空が、広がっている。
あまねが、朔夜の手を、そっと、握り返した。
「いって」
「あまねくん」
「うたは、ぼくが、まもる」
あまねの瞳は、静かに、強く、輝いていた。
「おねえちゃんが、もどってくる、まで」
「…………」
「ずっと、うたってる」
朔夜の目から、涙が、溢れた。
「……うん」
「やくそく」
「うん。約束」
朔夜は、あまねの手を、一度、強く握ってから、そっと、離した。
その小さな指が、名残惜しそうに、朔夜の指先を、掠めていく。
凪が、静かに、あまねの隣に歩み寄った。
白い手が、あまねの肩に、そっと置かれる。
「わたくしも、おります」
「はい」
「歌いましょう」
「うん」
二人の声が、重なった。
ほどけ、ほどけ、名のないものよ。
澄んだ、美しい旋律が、広場に流れ出した。
その背後で、朔夜は、戦鎚を、両手に握り直した。
「先輩」
「ええ」
芹香が、石柱の上から、朔夜を見下ろした。
灰茶色の瞳が、潤んでいる。
けれど、その唇は、微笑んでいた。
「行きなさい」
「うん」
「あなたの背中を」
芹香は、最後の位相干渉弾の筒を、銃身に込めて、静かに頷いた。
「私が、守るわ」
「先輩」
「必ず」
「うん」
朔夜は、一度、深く息を吸った。
肺の底まで、扉の向こうの、甘い、澄んだ空気を満たす。
胸の灯が、黄金と藍色に、激しく、燃え上がった。
『いこう』
灯の声が、響く。
『いっしょに』
「うん」
朔夜は、石畳を、蹴った。
身体が、軽い。
重力が、ほどけたように、ふわりと、宙へ舞い上がった。
湖面の風が、頬を撫でる。
雨合羽の裾が、ひらりとはためく。
足元に、広場の石の円が、小さくなっていく。
あまねと、凪と、芹香と、名前を取り戻した人々の、無数の光が、星空のように、眼下に広がっていった。
そして、目の前に。
巨大な、銀色の球体が、迫っていた。
金色の紋様が、ぎらぎらと光っている。
その表面から、熱が、波のように、押し寄せてくる。
朔夜は、戦鎚を、頭上に振りかぶった。
鎚頭が、琥珀と銀青と、黄金と藍色の、四つの光を纏って、白く、眩く、輝いた。
「……ほどけぇえええっ!」
叫びが、空に響き渡った。
その瞬間。
球体の表面の、金色の紋様が、鎚頭と、触れ合った。
世界が、白く、塗り潰された。
――第5章 Part 4/4 へ続く
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