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第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手3

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 11,083文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

扉は、ゆっくりと、呼吸をするように開いていった。

ぎいい。

ぎいいいいい。

石と石が擦れ合う音が、湖の水面を震わせて、窪地の底全体に重たく反響している。

何千年、何万年と動かなかったものが、ようやく目を覚まして、錆びついた関節を、一つずつ伸ばしているような音だった。

朔夜は、参道の終わりの石段を、一段ずつ登りながら、その音を全身で聞いていた。

足の裏から、膝の骨へ、腰へ、背骨へ。

低い振動が、這い上がってくる。

胸の奥の灯が、その振動に合わせて、とく、とく、と脈打っていた。

神殿の広場は、思っていたよりもずっと広かった。

湖の中央に浮かぶ、円形の石の台地。

その縁に、苔むした太い石柱が、等間隔に立ち並んでいる。

柱の表面には、古い、古い、見たこともない文字が、びっしりと刻まれていた。

水に濡れて、艶やかに光っている。

その柱の列の向こうに、二枚の巨大な扉が、聳えていた。

間近で見ると、それは、もはや「扉」という言葉では足りなかった。

山だった。

空まで届くような、灰色の石の壁が、湖の底から、ぬっとそそり立っている。

その表面に、琥珀色と銀青色の二つの光が、ゆっくりと廻る円となって刻まれている。

そして、その二枚の壁の間に、細い、一本の亀裂が、縦に走っていた。

最初は、髪の毛一本ほどの細さだった。

それが、いまは、人の腕ほどの幅に、広がっている。

その隙間から、光が、溢れていた。

金色と、藍色と、白色が、渦を巻いた、柔らかな、深い光。

風が、吹いてきた。

扉の向こうから。

朔夜の頬を、そっと撫でる。

冷たかった。

けれど、その冷たさの中に、嗅いだことのない匂いが混じっていた。

潮の香りに似ている。

けれど、もっと澄んで、もっと古く、そして、どこか甘い。

名前のない花が、水底で咲いているような。

雨上がりの、まだ誰も踏んだことのない野原のような。

「……いい匂い」

朔夜は、思わず呟いた。

「ええ」

芹香が、隣で小さく息を吸った。

「不思議ね。懐かしい気がするわ」

「わたしも」

「向こう側の、匂い」

あまねが、静かに言った。

その右の銀青色の瞳が、扉の隙間の光を、まっすぐに映している。

「みんなの、ふるさとの、においだよ」

朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握った。

その小さな掌が、ほんのり汗ばんで、わずかに震えている。

「緊張してる?」

「うん」

「わたしも」

「でも」

あまねは、朔夜を見上げて、にっこりと笑った。

「うれしい」

「うん」

「ずっと、あけたかったの」

朔夜は、胸が熱くなって、ただ、頷いた。

広場の中央に、凪が、立っていた。

白い衣の裾が、風もないのに、ゆらゆらと波打っている。

長い白い髪が、水のように、肩から背へ、流れ落ちていた。

その白い瞳が、朔夜たちを、静かに見つめていた。

「ここから、先は」

凪の声が、水面を渡って、澄んで響いた。

「鍵の道です」

「はい」

「扉は、いま、半ば、開いています」

「はい」

「けれど、まだ、足りません」

凪は、ゆっくりと、扉の隙間のほうへ、顔を向けた。

「向こう側の魂たちは、名前を、失っています」

「はい」

「名前のないままでは、こちらの世界に、居場所を、見つけられない」

「…………」

「そして、居場所のない魂が、一度に、溢れ出せば」

凪は、一度、言葉を切った。

「世界は、その悲しみの重さに、耐えられないでしょう」

朔夜は、唇を結んだ。

あの霖ヶ谷の庭で見た、影たちの姿が、頭に浮かんだ。

顔のない、空っぽの、黒い曲面。

あの影の奥にあった、深い、深い、孤独。

あれが、数千。

数万。

いや、もっと。

扉の向こうの、広大な水底に。

「……だから」

朔夜は、顔を上げた。

「ほどくんですね」

「はい」

「ひとりずつ」

「ええ」

凪は、静かに頷いた。

「ひとりずつ、名前を、返して」

「…………」

「帰り道を、示す」

「どうやって」

朔夜の問いに、凪は、そっと、微笑んだ。

「唄です」

「唄」

「ええ」

凪は、白い手を、自分の胸に当てた。

「鍵が、代々、受け継いできた、帰りの唄」

「…………」

「わたくしが、教えましょう」

「はい」

「あなたと、あまねで、歌うのです」

朔夜は、あまねを見た。

あまねは、こくりと頷いた。

「ぼく、しってる」

「え」

「おかあさんが、うたってた」

「…………」

「あの、おまつりの、よるにも」

朔夜の胸が、じんと熱くなった。

あの縁側で、あまねの手首に赤い紐を結びながら、母親が、そっと口ずさんでいた旋律。

あれが、この唄だったのだ。

「じゃあ」

朔夜は、あまねの手を、両手で包み込んだ。

「教えて」

「うん」

あまねは、深く、息を吸った。

小さな胸が、ふくらんだ。

それから、ゆっくりと、唇を開いた。

声が、流れ出した。

細く、澄んだ、子供の声だった。

けれど、その声は、広い湖の水面を、まっすぐに渡っていった。

ほどけ、ほどけ、名のないものよ。

朔夜は、息を呑んだ。

あまりにも、美しい旋律だった。

ゆっくりとした三拍子。

けれど、あの白鷺堂の子守唄のような、人を眠りに引きずり込む重たさは、少しもなかった。

水面に落ちた雫が、波紋を広げていくような。

春の風が、花びらを運んでいくような。

柔らかく、温かく、そして、ほんのり切ない。

灯をたよりに、帰っておいで。

朔夜の胸の奥で、灯が、ぱあっと光った。

『……しってる』

小さな声が、囁いた。

『わたしも、しってる』

「灯」

『うたいたい』

「うん」

朔夜は、頷いた。

そして、あまねの歌声に、そっと、自分の声を重ねた。

雨の底から、空の下へ。

声が、震えた。

けれど、歌い続けた。

呼ぶ声のほうへ、おかえりなさい。

二つの声が、重なって、ひとつの旋律になった。

その瞬間、扉の隙間から溢れていた光が、ふわりと揺れた。

金色と、藍色が、渦を巻いて、ゆっくりと、広場へ流れ出してくる。

朔夜は、歌いながら、目を見開いた。

光の中に、無数の影が、立っていた。

扉の向こう側の、水底の岸辺に。

何千。

何万。

数え切れないほどの、顔のない、黒い人影が、静かに、静かに、こちらを見つめている。

その全てが、歌に耳を傾けていた。

じっと。

動かずに。

ただ、その黒い曲面の奥から、微かな、微かな、涙の気配が、立ち昇っている。

「……みんな」

歌の合間に、朔夜は、囁いた。

「聞こえてる」

「うん」

あまねも、歌いながら、頷いた。

「みんな、まってた」

「うん」

「うたを」

朔夜は、胸の灯に、そっと、問いかけた。

(……灯)

『なあに』

(あの人たちの、名前は、どこにあるの)

『あのね』

灯の声が、温かく響いた。

『うみの、そこに、ある』

(海の、底)

『うん。しずんだ、ときに、おちたの』

(落ちた)

『ひとりひとり、ひとつずつ』

朔夜は、扉の向こうの、広大な水面を見つめた。

その水面の奥、深い、深い、闇の底で。

小さな、小さな、光の粒が、無数に、きらめいているのが見えた。

星空を、逆さまにしたような。

その一つ一つが、名前だった。

誰かの、名前。

誰かが、誰かを呼んだ、声の欠片。

「……見える」

朔夜は、息を呑んだ。

「名前が」

「うん」

「あれを」

『よべばいい』

灯が、囁いた。

『サクヤの、こえで』

朔夜は、頷いた。

歌を、続けた。

唄の旋律に、そっと、祈りを乗せる。

(来て)

(あなたの名前が、ここにあるよ)

(帰っておいで)

その祈りが、声になって、光の波となって、扉の向こうへ、ふわりと流れていった。

水底の、光の粒たちが、ゆらりと揺れた。

そして、一つ。

また一つ。

ゆっくりと、水面を目指して、昇り始めた。

*

光の粒は、昇りながら、形を変えた。

ただの光の点が、ふわりと膨らんで、小さな、小さな、紙の灯籠のような形になっていく。

白い、柔らかな、淡い光の灯籠。

その表面に、墨のような、細い文字が、浮かび上がっていた。

名前だ。

一つ、一つの灯籠に、一つ、一つの名前が。

その灯籠が、水面に、ふわりと着いた。

そして、水面を、ゆっくりと、岸辺の影たちのほうへ、滑っていった。

朔夜は、歌い続けながら、その光景を、見守った。

灯籠が、一人の影の前に、そっと止まる。

影は、動かなかった。

じっと、灯籠を見つめている。

顔のない曲面に、灯籠の光が、柔らかく映っている。

やがて、影の細い腕が、そっと、持ち上がった。

灯籠を、両手で、抱き上げる。

その瞬間。

灯籠の中の文字が、影の胸に、すうっと、溶け込んでいった。

影の黒い輪郭が、ほろりと、解けた。

白い光が、全身を包む。

そして、そこに、一人の女の人が、立っていた。

髪の長い、柔らかな顔立ちの、若い女の人。

見慣れない、水色の衣を纏っている。

その瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと零れた。

「……わたし」

声が、水面を渡って、朔夜の耳に届いた。

「わたしの、名前」

その唇が、震えた。

「……リオ」

その名前を口にした瞬間、女の人の身体が、ふわりと光り輝いた。

そして、彼女は、深く、深く、朔夜たちのほうへ、頭を下げた。

その顔が、花のように、綻んだ。

「ありがとう」

声が、風に乗って届いた。

「やっと、帰れる」

朔夜は、涙を流しながら、歌い続けた。

灯籠が、一つ。

また一つ。

水面を滑って、影たちの前に、辿り着いていく。

そのたびに、一人、また一人と、影が、人の姿を取り戻していく。

老人。

少年。

母親と、赤ん坊。

腕を組んだ、逞しい男たち。

誰もが、自分の名前を、震える声で、確かめるように、呟いた。

「トウマ」

「サヤ」

「ハルト」

「ミナ」

見たことのない、聞いたことのない名前が、水の上に、ひとつ、またひとつと、灯っていく。

その声が、柔らかな、静かな、祝福の合唱のように、湖面を満たしていった。

「……すごい」

芹香が、囁いた。

その声が、わずかに潤んでいた。

「こんなに、たくさん」

「うん」

「みんな、笑っているわ」

朔夜は、頷いた。

涙で滲んだ視界の向こうで、無数の、名前を取り戻した人々が、互いに抱き合って、泣いて、笑っていた。

その光景が、あまりにも、美しかった。

あまりにも、尊かった。

これが、ほどくということ。

壊すのではなく。

閉じ込めるのでもなく。

ただ、結ばれたものを、そっと、ほどいて。

あるべき場所へ、帰していく。

朔夜は、胸が、いっぱいになった。

歌声が、広がっていく。

扉の隙間が、さらに、ゆっくりと広がっていく。

ぎいいいいい。

ぎいいいいいい。

もう、人が三人、並んで通れるほどの幅になっていた。

扉の向こうから、さらに、さらに、光が溢れてくる。

その光に、朔夜の頬が、温かく照らされた。

けれど、そのとき。

芹香が、はっと、顔を上げた。

「……朔夜ちゃん」

声が、低く、鋭くなっていた。

「何か、来るわ」

「え」

「空から」

朔夜は、歌を止めなかった。

けれど、視線を、空へ向けた。

鉛色の雲が、渦を巻いている。

その向こうの、尾根の稜線に。

小さな、赤い光が、いくつも、瞬いていた。

チカ、チカ、チカ。

規則正しい、点滅。

そして、その光の背後から。

低い、低い、地鳴りのような唸りが、響いてきた。

ごおおおおおお。

ぶおおおおおお。

角笛のような音が、再び、山々に轟いた。

けれど、今度のそれは、準備ではなかった。

開始だった。

芹香の耳の後ろの髪留めが、ざざざざと、激しく雑音を立てた。

そして、その雑音の向こうから、切れ切れの声が、聞こえた。

『……こちら……本部……』

「応答します」

芹香が、素早く答えた。

『橘訓練生……一条訓練生……聞こえるか……』

その声は、ひどく低く、そして、掠れていた。

朔夜は、聞き覚えがあった。

「……参事官」

『聞こえているのか』

「はい」

芹香の声が、静かに響いた。

「扉は、現在、半ば開放されています」

『……見えている』

「向こう側の魂たちが、名前を取り戻しつつ」

『分かっている』

参事官の声が、重く、遮った。

『いま、我々のセンサーが、扉の開放を、最大規模で検知した』

「…………」

『上が、判断した』

朔夜の背筋が、ぞくりと凍りついた。

『閉鎖処置が、前倒しとなった』

「前倒し」

『……私の権限では、止められなかった』

声が、苦しげに、途切れた。

『すまない』

その一言に、朔夜は、息を呑んだ。

あの参事官が。

あの冷たい、窪んだ眼窩の男が。

謝っていた。

『第一射は、あと、二分』

「二分」

芹香の声が、わずかに震えた。

『本来の正午を待たず、十一時五十分に、開始される』

「…………」

『それ以降の、停止は、不可能だ』

沈黙。

通信の向こうで、誰かが、何かを叫んでいる声が、微かに聞こえた。

『……生きて、帰ってきなさい』

参事官の声が、そう告げた。

『できるなら』

通信が、ぷつりと切れた。

朔夜は、唇を噛んだ。

胸の奥が、きゅうと縮んだ。

歌が、一瞬、途切れそうになった。

けれど、あまねの小さな手が、朔夜の指を、ぎゅっと握りしめた。

「だいじょうぶ」

あまねが、囁いた。

「うたを、とめないで」

「でも」

「ひとりずつ、かえしてる、とちゅうだから」

あまねの瞳が、静かに、強く、輝いていた。

「とめたら、みんな、おいてけぼり」

朔夜は、はっと息を呑んだ。

そうだ。

いま、扉の向こうには、まだ、何千もの影が、名前を待っている。

歌を止めれば、その全てが、また、闇の底に取り残される。

「……分かった」

朔夜は、頷いた。

「歌い続ける」

「うん」

「先輩」

「ええ」

芹香は、既に、動いていた。

背中の長い狙撃銃を、素早く肩から外して、広場の縁の太い石柱の上へ、跳び乗る。

そこから、尾根の方角を、鋭く見据えた。

灰茶色の瞳が、凍てついた湖面の光を映して、研ぎ澄まされた刃のように光っている。

「私が、守るわ」

声が、凛と響いた。

「あなたたちは、歌い続けて」

「先輩!」

「大丈夫」

芹香は、微笑んだ。

その横顔が、石柱の上で、揺るぎなく立っている。

「あなたの背中は、私が、守ると言ったでしょう」

朔夜は、涙を堪えて、頷いた。

「うん」

「お願い」

「任せて」

芹香は、ボルトを引いた。

かちゃり。

重く、確かな金属音。

そして、ベルトの脇の革のケースから、真鍮色の筒を、一本、取り出した。

位相干渉弾。

その一本を、薬室へ、ゆっくりと、送り込む。

かちり。

銃床を肩に当てる。

頬を、銃身に預ける。

スコープの向こうの、尾根の方角を、静かに覗き込んだ。

呼吸が、浅く、長く、整えられていく。

狙撃手の、凪の呼吸。

その背中が、朔夜の目に、どこまでも、頼もしく映った。

*

最初の一撃は、空から降ってきた。

ひゅううううう。

甲高い、悲鳴のような音。

朔夜は、反射的に空を見上げた。

鉛色の雲を割って、一筋の白い光の尾が、尾根の向こうから、まっすぐに、こちらへ伸びてきている。

その先端に、小さな、黒い点があった。

近づくにつれて、それは、細長い、銀色の筒の形を、取り始めた。

砲弾だった。

大きさは、人の背丈ほど。

その表面に、青白い紋様が、びっしりと刻まれている。

封印焼却弾。

あれが、谷を焼く、本部の最終手段。

「一発目」

芹香が、冷静に告げた。

「弾道、確認。着弾予想地点は」

「どこ」

「広場の、真上」

朔夜の血の気が、さっと引いた。

「あそこに落ちたら」

「扉が、焼かれるわ」

「…………」

「そして、扉の前の、あなたたちも」

芹香の声は、凪いでいた。

けれど、その指先が、引き金の上で、わずかに、白くなっていた。

「撃つわ」

「先輩」

「大丈夫」

「でも、位相干渉弾は、三発しか」

「ええ」

芹香は、静かに頷いた。

「だから、無駄にはしない」

銃声が、轟いた。

ぱん。

乾いた、小さな音。

けれど、その音は、世界のあらゆる雑音を切り裂いて、遠く、遠く、空へ吸い込まれていった。

白い光の糸が、真っ直ぐに、落下する砲弾へと、駆けた。

そして、触れた。

砲弾の、尖った先端に。

その瞬間。

銀色の筒に刻まれた青白い紋様が、ばらばらに、乱れた。

ぱちぱちぱち、と、細かな火花が散る。

砲弾の内部の同期が、ずれたのだ。

信管が、時を失う。

そして。

砲弾は、空中で、ただの鉄の塊に変わって、ゆっくりと、湖の外縁の山肌へ、墜ちていった。

どおおおん。

遠くで、鈍い衝撃が、地面を震わせた。

「……一発目、無力化」

芹香が、低く呟いた。

「残り、二発」

朔夜は、息を呑んだ。

あの、一瞬の、神業のような狙撃。

けれど、芹香は、すでに、次の弾道を、見ていた。

「二発目、三発目、同時」

「えっ」

「来るわ」

尾根の向こうから、さらに、二筋の白い光が、駆け上がってきた。

ひゅうううう。

ひゅうううううう。

二つの砲弾が、微妙に違う軌道を描いて、広場へ迫ってくる。

「一発しか、止められない」

芹香の声が、わずかに震えた。

「もう一発は」

「わたくしが、受けましょう」

凪の声が、凛と響いた。

白衣の女が、ゆっくりと、両手を空へ掲げた。

長い白い髪が、風もないのに、大きく広がる。

湖面が、轟音を立てて、盛り上がった。

水が、立ち上がる。

巨大な、透き通った、水の壁が、広場の上空に、そびえ立った。

その壁に、砲弾の一つが、真正面から、突っ込んだ。

どおおおん。

衝撃が、広場全体を、揺らした。

水の壁が、爆ぜる。

白い飛沫が、雨のように降り注いだ。

けれど、砲弾は、水の中で、勢いを失い、ゆっくりと、湖の底へ、沈んでいった。

「凪さん!」

「大丈夫です」

凪は、静かに、振り返って、微笑んだ。

その唇の端から、一筋の細い光が、零れていた。

血ではない。

水の記憶が、削られているのだ。

「わたくしの力は、この水に、宿るもの」

「…………」

「あまり、長くは、持ちませんが」

「無理を」

「いいえ」

凪は、白い瞳を、あまねへ向けた。

「あなたたちの、唄が、わたくしを、支えています」

朔夜は、頷いた。

歌を、続ける。

声が、喉の奥で、震えた。

けれど、決して、止めなかった。

そのとき、芹香が、二発目の砲弾に向けて、引き金を絞った。

ぱん。

白い糸が、駆ける。

砲弾の紋様が、乱れる。

けれど、完全には、止まらなかった。

軌道が、わずかに逸れて、広場の外縁の、石柱の一本に、突き刺さった。

どおおおおん。

石柱が、粉々に砕け散った。

衝撃波が、広場を、薙ぎ払った。

朔夜の身体が、風圧に押されて、後ろへ吹き飛びかけた。

けれど、あまねの手を、離さなかった。

足を踏ん張る。

戦鎚の柄を、石畳に突き立てて、身体を支えた。

石の破片が、頬を、掠めていく。

熱い痛みが、走った。

けれど、歌は、止まらなかった。

ほどけ、ほどけ、名のないものよ。

声が、掠れて、割れた。

けれど、その掠れた声が、かえって、祈りのように、切実に響いた。

「朔夜ちゃん!」

芹香の叫びが、飛んだ。

「無事!?」

「うん!」

「あまねくんは!」

「だいじょうぶ!」

「よかった」

芹香の声が、安堵に震えた。

けれど、すぐに、鋭く、研ぎ澄まされる。

「次が来る!」

尾根の向こうの、赤い光の点滅が、加速していた。

チカチカチカチカ。

そして、その向こうから、一斉に、無数の白い光の尾が、天へ向かって、噴き上がった。

十。

二十。

三十。

数えきれないほどの、封印焼却弾が、雲を切り裂いて、こちらへ向かってきている。

「…………」

芹香の唇が、わずかに動いた。

声にならない呟きだった。

けれど、朔夜には、その唇の形が、読み取れた。

――足りない。

位相干渉弾は、残り二発。

あの全てを、止める術は、ない。

凪の水の壁も、もう、長くは持たない。

朔夜の心臓が、どくんと、大きく鳴った。

(……どうしよう)

(どうしたら)

歌は、止められない。

けれど、このままでは、扉が、焼かれる。

名前を取り戻した人々が、焼かれる。

あまねが、焼かれる。

芹香が、焼かれる。

胸の奥の灯が、ぱあっと、激しく燃え上がった。

『サクヤ』

灯の声が、強く響いた。

『だいじょうぶ』

(灯)

『わたしが、いる』

(でも)

『サクヤは、うたいつづけて』

(でも、どうやって)

『かんがえて、みて』

灯の声が、柔らかく、微笑んだ。

『あのとき、サクヤは、なにを、したの』

(あのとき)

『しろいかみの、まちで』

朔夜は、はっと、目を見開いた。

折り畳まれた、あの灯宵銀座。

天蓋が崩れ落ちてきたとき。

あの折り目を。

ほどいた。

(……そうか)

(壊すんじゃ、ない)

(ほどく)

(あの弾も)

朔夜は、空を、見上げた。

迫り来る、無数の白い光の尾。

その一つ一つが、封印された焼却の力を、内に孕んでいる。

あれを、砕くのではなく。

あの「結び目」を、ほどけば。

「……あまねくん」

歌の合間に、朔夜は、囁いた。

「お願いが、あるの」

「うん」

「わたしの、ひだりてを、貸して」

「ひだり」

「うん」

朔夜は、戦鎚の柄を、右手に持ち替えた。

左手を、そっと、あまねの小さな掌に、重ねた。

「二人の、ひかりを、合わせよう」

あまねは、にっこりと、笑った。

「うん」

朔夜は、顔を上げた。

迫る砲弾の群れを、真正面から見据える。

そして、戦鎚を、空へ向けた。

鎚頭が、琥珀色と銀青色の光を、静かに、強く、放った。

その光に、胸の灯が、黄金色と藍色の輝きを、重ねた。

朔夜の全身が、光に包まれた。

髪が、風もないのに、ふわりと浮き上がる。

瞳の奥で、名前のない色が、渦を巻いて、燃え上がった。

けれど、怖くなかった。

その光は、朔夜の、仲間だった。

「……ほどけ」

朔夜は、囁いた。

そして、戦鎚を、天へ向かって、振り抜いた。

*

光が、空へ、駆け上がった。

戦鎚の鎚頭から迸った、黄金と藍色の光の筋が、一直線に、迫り来る砲弾の群れへと、突き刺さった。

最前列の砲弾の、尖った先端に、光が、触れた。

その瞬間。

砲弾の表面の、青白い紋様が、一斉に、ほどけた。

ぱらぱらぱら、と、細かな光の粒となって、はらはらと散っていく。

内部に封じられていた、焼却の力が、結び目を失って、静かに、解き放たれる。

けれど、それは、爆発ではなかった。

ただ、柔らかな、温かな、白い炎となって、ふわりと、空中に広がった。

その炎は、何も焼かなかった。

誰も、傷つけなかった。

ただ、淡い光の花びらのように、空を舞って、やがて、静かに、消えていった。

二発目。

三発目。

朔夜の光が、砲弾の群れを、次々と、貫いていく。

その度に、焼却の力が、ほどけて、優しい光の花になって、空を満たしていった。

見上げる広場の全てが、白い花びらの雨に、染まっていく。

「…………」

芹香が、息を呑んだ。

「……なんて」

「…………」

「綺麗」

朔夜は、戦鎚を、振り抜いた姿勢のまま、荒い息を吐いた。

全身から、力が抜けていく。

けれど、あまねの手を、離さなかった。

「……できた」

「うん」

あまねが、嬉しそうに、頷いた。

「おねえちゃん、すごい」

「あまねくんのおかげ」

「ううん」

あまねは、首を振った。

「おねえちゃんと、あかりのおかげ」

朔夜は、笑った。

涙が、頬を伝った。

けれど、その笑顔の向こうで。

芹香の表情が、ふいに、凍りついた。

「……朔夜ちゃん」

「え」

「あれを」

朔夜は、芹香の指差す方向を、見た。

尾根の向こうの、鉛色の雲の中心。

そこから、一際、大きな、白い光の尾が、ゆっくりと、昇ってきていた。

他の砲弾とは、桁違いだった。

直径、十メートルを超える、巨大な、銀色の球体。

その表面に、金色の複雑な紋様が、びっしりと、刻まれている。

球体の周囲の空気が、ぐにゃりと歪んでいた。

重力そのものが、その球体に向かって、引き寄せられている。

「……母艦弾」

芹香が、掠れた声で呟いた。

「閉鎖処置の、本命よ」

「…………」

「谷ごと、一度に、焼き尽くす」

朔夜の呼吸が、止まった。

あれは。

さっきまでの砲弾とは、まるで次元が違った。

あの封印焼却の力が、一点に凝縮されている。

ほどくには、あまりにも、大きすぎる。

「位相干渉弾で」

芹香が、スコープを覗き込んだ。

「あれの核を、ずらせば」

「できるの」

「分からないわ」

芹香の声が、震えた。

「でも、他に、手がない」

「…………」

「やるしかないの」

彼女は、残りの二本のうちの一本を、素早く薬室へ送り込んだ。

かちり。

銃床を、肩に押し当てる。

指が、引き金に、かかる。

その瞬間、朔夜は、見た。

芹香の肩が、ほんのわずかに、震えているのを。

右肩。

先ほどの衝撃波で、石の破片に打たれた箇所から、制服が裂けて、血が、滲んでいる。

それでも、芹香は、構えを崩さなかった。

灰茶色の瞳が、スコープの向こうの、巨大な銀色の球体を、静かに、見据えている。

呼吸が、浅く、長く。

引き金が、絞られる。

ぱん。

白い光の糸が、空を駆けた。

球体へ向かって。

まっすぐに。

そして、その表面に、触れた。

球体の紋様が、一瞬、乱れた。

金色の線が、ぶれて、ほどけかける。

けれど、その乱れは、すぐに、立て直された。

あまりにも、巨大すぎる。

一本の糸では、足りない。

球体は、ほんの少しだけ、速度を落として、それでも、止まらずに、迫ってきた。

「……効いていない」

芹香が、唇を噛んだ。

「あと、一発」

「先輩」

「分かっているわ」

彼女は、最後の筒を、薬室へ送り込んだ。

その指が、確かに、震えていた。

そのとき、朔夜の耳の奥で、芹香の腕時計の音が、聞こえた気がした。

カチ、カチ、カチ。

十一時、五十七分。

あと、三分。

けれど、あの球体は、その三分を待たずに、あと数十秒で、この広場に、到達する。

朔夜は、あまねの手を、ぎゅっと握りしめた。

歌声が、掠れていく。

扉の隙間は、まだ、完全には、開き切っていない。

名前を取り戻した人々の、半分も、まだ、こちら側へ渡っていない。

ここで歌を止めれば、全てが、失われる。

けれど、歌い続ければ、あの球体に、焼かれる。

(……どうしたら)

胸の奥の灯が、ふわりと、揺れた。

『サクヤ』

(うん)

『うたは、あまねと、なぎが、つづけてくれる』

(でも)

『サクヤは、いかなきゃ』

(行く)

『あの、おおきな、たまを、ほどけるのは』

灯の声が、静かに、強く響いた。

『サクヤだけ』

朔夜は、顔を上げた。

迫り来る、巨大な銀色の球体。

その向こうに、遠く、鉛色の空が、広がっている。

あまねが、朔夜の手を、そっと、握り返した。

「いって」

「あまねくん」

「うたは、ぼくが、まもる」

あまねの瞳は、静かに、強く、輝いていた。

「おねえちゃんが、もどってくる、まで」

「…………」

「ずっと、うたってる」

朔夜の目から、涙が、溢れた。

「……うん」

「やくそく」

「うん。約束」

朔夜は、あまねの手を、一度、強く握ってから、そっと、離した。

その小さな指が、名残惜しそうに、朔夜の指先を、掠めていく。

凪が、静かに、あまねの隣に歩み寄った。

白い手が、あまねの肩に、そっと置かれる。

「わたくしも、おります」

「はい」

「歌いましょう」

「うん」

二人の声が、重なった。

ほどけ、ほどけ、名のないものよ。

澄んだ、美しい旋律が、広場に流れ出した。

その背後で、朔夜は、戦鎚を、両手に握り直した。

「先輩」

「ええ」

芹香が、石柱の上から、朔夜を見下ろした。

灰茶色の瞳が、潤んでいる。

けれど、その唇は、微笑んでいた。

「行きなさい」

「うん」

「あなたの背中を」

芹香は、最後の位相干渉弾の筒を、銃身に込めて、静かに頷いた。

「私が、守るわ」

「先輩」

「必ず」

「うん」

朔夜は、一度、深く息を吸った。

肺の底まで、扉の向こうの、甘い、澄んだ空気を満たす。

胸の灯が、黄金と藍色に、激しく、燃え上がった。

『いこう』

灯の声が、響く。

『いっしょに』

「うん」

朔夜は、石畳を、蹴った。

身体が、軽い。

重力が、ほどけたように、ふわりと、宙へ舞い上がった。

湖面の風が、頬を撫でる。

雨合羽の裾が、ひらりとはためく。

足元に、広場の石の円が、小さくなっていく。

あまねと、凪と、芹香と、名前を取り戻した人々の、無数の光が、星空のように、眼下に広がっていった。

そして、目の前に。

巨大な、銀色の球体が、迫っていた。

金色の紋様が、ぎらぎらと光っている。

その表面から、熱が、波のように、押し寄せてくる。

朔夜は、戦鎚を、頭上に振りかぶった。

鎚頭が、琥珀と銀青と、黄金と藍色の、四つの光を纏って、白く、眩く、輝いた。

「……ほどけぇえええっ!」

叫びが、空に響き渡った。

その瞬間。

球体の表面の、金色の紋様が、鎚頭と、触れ合った。

世界が、白く、塗り潰された。

――第5章 Part 4/4 へ続く

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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