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第5章 ― 水底の扉、すべてをほどく手4

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📅 公開日: 2026/10/27 📚 シリーズ: 凪の彼方、灯のほとりで 📝 15,797文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

世界を砕く規格外の魔力を持ち、「兵器」として孤立していた少女・橘朔夜。 彼女に命じられたのは、世界を蝕む異形や怪異の討伐だった。

本文

音が、なかった。

光だけが、あった。

朔夜は、白の中に浮かんでいた。

戦鎚の鎚頭が、銀色の球体の表面に触れた、その一点から、世界が、無音のまま白く塗り潰されている。

熱くはなかった。

痛くもなかった。

ただ、全身が、どこまでも柔らかな何かに包まれて、ゆっくりと、沈んでいくような感覚だけがあった。

(……あれ)

(わたし、いま)

(どこにいるんだろう)

足元に、地面はない。

頭上に、空もない。

右手には、確かに、戦鎚の柄の重みがある。

革の巻かれた握りが、掌にしっとりと吸いついている。

その感触だけが、朔夜を、ここに繋ぎとめていた。

白の向こうに、何かが、見え始めた。

細い、金色の線だった。

無数の線が、複雑に絡み合い、結ばれ、折り重なって、巨大な繭のような形を作っている。

その一本一本が、微かに脈打っていた。

どくん。

どくん。

朔夜は、その脈動を、知っていた。

これは、恐怖の鼓動だった。

誰かが、何かを恐れて、必死に、固く固く結んだ、祈りの糸だった。

(……ああ)

朔夜は、息を呑んだ。

この球体は、ただの兵器ではなかった。

この国の、闇に潜むものたちに怯えた無数の人々が、積み重ねてきた恐れの結晶だった。

もう二度と、あんな悲劇を繰り返さないために。

もう二度と、大切な誰かを奪われないために。

そう願って、閉じて、閉じて、閉じ続けて。

気がつけば、自分自身すら閉じ込めてしまった、頑なな結び目。

『……こわかったんだね』

朔夜は、囁いた。

声が、白の中に、柔らかく広がった。

『ずっと、こわかったんだね』

金色の糸が、ぴくりと震えた。

『でも、もう、大丈夫』

朔夜は、戦鎚を握った右手に、そっと、左手を添えた。

胸の奥の灯が、ふわりと明るく灯る。

『わたしが、ここにいるよ』

灯の声が、重なった。

『いっしょに、ほどこう』

『うん』

朔夜は、戦鎚の鎚頭を、金色の繭の、いちばん中心の結び目へ、ゆっくりと、押し当てた。

そこに、ひときわ太い、固く結ばれた糸の塊があった。

脈打つたびに、きしきしと軋んでいる。

朔夜は、その結び目に、掌を重ねるように、意識を沈めた。

ほどくのではなく。

壊すのでもなく。

ただ、そっと、撫でるように。

固く握りしめられた拳を、優しく開かせるように。

『だいじょうぶ』

『もう、まもらなくて、いいよ』

『ありがとう』

その言葉が、結び目に触れた瞬間。

ぱら、と。

小さな、小さな、音がした。

結び目の一本が、ほどけた。

そこから、細い光が、静かに溢れ出した。

次の一本。

また次の一本。

連なるように、結び目が、次々と解けていく。

金色の繭が、ゆるやかに、ほどけながら、広がっていく。

朔夜の身体が、その光の中に、ふわりと、包まれた。

温かい。

驚くほど、温かい。

さっきまでの冷たい緊張が、光の中に溶けて、消えていく。

『……ありがとう』

誰かの声が、聞こえた。

遠く、遠く、幾重にも重なった無数の声。

この結び目を結んだ、名もなき人々の声だった。

『もう、いいのか』

『もう、閉じなくて、いいのか』

『ああ、よかった』

『やっと』

朔夜は、頷いた。

涙が、頬を伝って、光の中に散った。

「うん」

声が、震えた。

「もう、いいんだよ」

その瞬間、白が、弾けた。

*

音が、戻ってきた。

風の音。

遠くの、水の音。

そして、無数の、柔らかな、囁き。

朔夜は、目を開けた。

空だった。

鉛色の雲が、ゆっくりと、渦を巻いている。

その中心に、ぽっかりと、穴が開いていた。

そして、その穴から。

数え切れないほどの、金色の光の粒が、はらはらと、降り注いでいた。

雪のように。

花びらのように。

銀色の球体は、もう、どこにもなかった。

ただ、その場所から、無数の光の粒が、ゆるやかに、四方へ広がっていく。

朔夜の頬に、光の粒が、一粒、触れた。

温かかった。

ほんのりと、陽だまりの匂いがした。

「……ほどけた」

声が、唇から、零れた。

「ほどけたよ」

空の上で。

朔夜は、戦鎚を握りしめたまま、微笑んだ。

そして、その微笑みのまま、全身から、すうっと、力が抜けていった。

視界が、ぐらりと傾く。

空が、遠ざかる。

落ちている。

そう思った。

けれど、恐怖は、なかった。

風が、髪を撫でて、通り過ぎていく。

光の粒が、周りを舞う。

その中を、ゆっくりと、ゆっくりと、落ちていく。

「……朔夜ちゃん!」

声が、聞こえた。

遠くから。

はっきりと。

「朔夜ちゃん!」

芹香の声だった。

朔夜は、顔を、声のほうへ向けた。

広場の端の、石柱の上から。

小さな、凛とした影が、空へ向かって、両手を伸ばしていた。

その肩が、血に染まっている。

けれど、構わずに、叫んでいる。

「朔夜ちゃん! 朔夜ちゃん!」

朔夜は、微笑んだ。

「……せんぱい」

唇が、動いただけで、声にはならなかった。

その瞬間、湖面が、ざあっと、立ち上がった。

水が、大きな、透き通った掌の形になって、朔夜の身体を、柔らかく受け止めた。

凪の水だった。

水の掌が、朔夜を、ゆっくりと、広場へと運んでいく。

その下で、芹香が、石柱から跳び降りて、駆けてきた。

銃を放り出して。

血の滲む肩を、庇いもせずに。

水の掌が、朔夜を、そっと、石畳の上に降ろした。

芹香の腕が、すかさず、その身体を、受け止めた。

細くて、しなやかで、決して緩まない腕。

「朔夜ちゃん……朔夜ちゃん……」

声が、震えていた。

朔夜は、その胸の中で、ゆっくりと、目を開けた。

灰茶色の瞳が、すぐそこにあった。

涙で、ぐしゃぐしゃに濡れていた。

長い睫毛から、大粒の雫が、ぽたぽたと、朔夜の頬に落ちてくる。

その涙が、温かかった。

「……ただいま」

朔夜は、掠れた声で、言った。

「ただいま、先輩」

「……おかえり」

芹香は、朔夜を、ぎゅうっと、抱きしめた。

痛いほどに。

息が詰まるほどに。

けれど、その痛みが、何よりも、愛おしかった。

「馬鹿」

芹香の声が、耳元で、震えた。

「本当に、馬鹿な子」

「えへへ」

「あんな無茶を」

「でも、できたよ」

「ええ」

「ほどけたよ」

「ええ。見ていたわ」

芹香は、朔夜の髪に、頬を押しつけた。

「ずっと、見ていたの」

その声が、嗚咽に、掠れていく。

朔夜は、芹香の背中に、そっと、腕を回した。

制服の布越しに、鼓動が、伝わってくる。

とく、とく、とく。

いつもの、凪いだリズムではなかった。

激しく、乱れて、速かった。

けれど、その乱れが、朔夜には、どんな音楽よりも、美しく聞こえた。

「……先輩の、音」

「ええ」

「やっぱり、好き」

芹香は、何も言わなかった。

ただ、さらに強く、朔夜を抱きしめた。

その二人の頭上で。

細い、澄んだ、歌声が、まだ、続いていた。

ほどけ、ほどけ、名のないものよ。

あまねと、凪の声だった。

最後の旋律が、扉の向こうの、広大な水面へ、静かに溶けていく。

*

「……十一時、五十九分」

芹香が、朔夜を抱いたまま、腕時計に目を落とした。

その声は、掠れて、ほとんど囁きだった。

「あと、数十秒よ」

「うん」

朔夜は、空を見上げた。

尾根の稜線の向こうに、赤い光が、点滅していた。

チカ、チカ、チカ。

閉鎖班の、最後の合図だ。

けれど、その点滅が、一つ、また一つと、消え始めていた。

「……あれ」

「ええ」

「消えていく」

芹香の耳の後ろの髪留めが、ざざ、と雑音を立てた。

そして、その向こうから、声が、流れ込んできた。

『……こちら、本部』

低く、掠れた、聞き覚えのある声。

『橘訓練生。一条訓練生。聞こえるか』

芹香が、震える指で、髪留めを押さえた。

「……聞こえています」

『見えている』

参事官の声は、いつもよりも、ずっと、人間の温度を帯びていた。

『上空からの、観測で』

「…………」

『母艦弾が』

声が、一度、詰まった。

『光になって、消えた』

「はい」

『君が、やったのか』

「……はい」

芹香が、朔夜の顔を、そっと見下ろしながら、答えた。

「彼女が、ほどきました」

通信の向こうで、長い沈黙が落ちた。

誰かの、息を呑む気配。

何人もの人々が、同じ画面を見つめて、言葉を失っているような、静けさ。

やがて、参事官の声が、重く、はっきりと、告げた。

『全閉鎖班に、通達する』

その声の向こうで、ざわめきが、一斉に静まった。

『閉鎖処置は、中止する』

朔夜は、息を止めた。

『繰り返す。処置は、中止だ』

『全隊、直ちに、発射態勢を解除せよ』

『責任は、私が、負う』

その声が、震えていた。

『橘訓練生』

「……はい」

朔夜は、掠れた声で、応えた。

『……ありがとう』

通信が、静かに、切れた。

朔夜の目から、涙が、また、溢れた。

芹香が、その涙を、指先で、そっと拭った。

「……聞こえた?」

「うん」

「止まったわ」

「うん」

「みんな、助かったのよ」

「うん……うん……」

朔夜は、芹香の胸に、顔を埋めた。

肩が、小刻みに、震えた。

遠くで、正午を告げる、鐘の音が、微かに聞こえた気がした。

けれど、それは、山の向こうの、どこかの寺の、普通の鐘だった。

穏やかな。

澄んだ。

日常の鐘だった。

*

扉が、完全に、開いた。

ごおおおおお、と、低く、荘厳な音が、窪地全体を満たした。

二枚の巨大な石の壁が、左右へ、ゆっくりと、退いていく。

その間から、光が、溢れ出した。

けれど、それは、さっきまでの、目を灼くような強い光ではなかった。

夜明け前の、空の端のような、柔らかな、淡い、金色の光だった。

その光の向こうに。

広大な、景色が、広がっていた。

水平線だった。

どこまでも続く、静かな、青い海。

その彼方から、朝日が、ゆっくりと昇ってくる。

空が、薔薇色から、淡い黄金色へと、移ろっていく。

波打ち際に、白い砂浜があった。

その砂浜に、無数の人々が、立っていた。

誰もが、顔を持っていた。

誰もが、名前を持っていた。

老人も。

若者も。

子供も。

母親と、赤ん坊も。

その全てが、扉のこちら側を見つめて、微笑んでいた。

朔夜は、芹香の腕の中から、ゆっくりと身を起こした。

身体が、ふらつく。

けれど、芹香が、肩を支えてくれた。

二人で、並んで、扉の前の石段まで、よろよろと歩いていく。

あまねと、凪が、扉の前に立っていた。

歌は、もう、終わっていた。

あまねの小さな背中が、光の中に、凛と立っている。

その白銀の髪が、朝日を受けて、きらきらと輝いていた。

「……あまねくん」

朔夜が、そっと呼んだ。

あまねが、振り返った。

その顔を見て、朔夜は、はっと息を呑んだ。

左の瞳が、変わっていた。

濁っていたはずの琥珀色が、澄み切って、柔らかな金色に輝いている。

「……見える」

あまねが、静かに言った。

「ひだりのめが」

「…………」

「みえるよ、おねえちゃん」

その瞳から、涙が、ぽろぽろと零れた。

「みんなの、かおが、みえる」

朔夜は、あまねの前に、膝をついた。

その小さな頬を、両手で包み込んだ。

「よかった」

「うん」

「ほんとうに、よかった」

「おねえちゃんの、おかげ」

「ううん。みんなのおかげ」

朔夜は、あまねの額に、自分の額を、こつんと押し当てた。

温かい。

驚くほど、温かい。

「……あまね」

澄んだ、柔らかな声が、扉の向こうから響いた。

朔夜は、顔を上げた。

白い砂浜の、波打ち際に。

一人の、若い女の人が、立っていた。

黒い髪を、きれいに結い上げて。

藍色の、柔らかな衣を纏って。

その顔が、あまねに、そっくりだった。

あの、縁側の夕暮れで、朝顔の鉢を運んでいた人。

鳥居の下で、あまねの両目に口づけた人。

「…………おかあさん」

あまねの声が、掠れた。

小さな身体が、びくりと、震えた。

「あまね」

女の人は、波打ち際を、ゆっくりと歩いてきた。

素足が、白い砂を踏む。

朝日が、その背中を、金色に縁取っている。

「大きくなったね」

その声が、涙に濡れて、揺れた。

「見つけられなくて、ごめんね」

「…………」

「でも、約束、守れたよ」

女の人は、あまねの手首を、そっと指差した。

そこに、色褪せた、赤い細い紐が、巻かれたままになっていた。

「この紐が、あなたを、導いてくれた」

「……おかあさん」

あまねは、ふらふらと、一歩、前へ出た。

その足が、扉の敷居の前で、止まった。

こちら側と、向こう側の、境目。

「……いってもいいの」

あまねの声が、震えていた。

「ぼく、おかあさんの、ところへ、いってもいいの」

女の人は、微笑んだ。

涙を流しながら。

「ええ」

「…………」

「でもね、あまね」

女の人は、そっと、両手を広げた。

「あなたの、好きな方を、選んでいいの」

「え」

「お母さんは、どちらでも、あなたを、愛している」

あまねの瞳が、揺れた。

琥珀色の左目。

銀青色の右目。

その両方が、涙で、きらきらと光っている。

朔夜は、息を詰めて、その横顔を見つめていた。

(……選んで)

(あまねくんが、決めて)

胸が、きゅうと、締めつけられる。

もし、あまねが、向こう側へ行くことを、選んだら。

それは、悲しいけれど。

きっと、正しいことだ。

四十年も、ひとりで、閉じ込められていたのだから。

「……おかあさん」

あまねが、一歩、扉の敷居を、越えた。

そして、駆け出した。

白い砂浜の上を。

素足で。

その小さな身体が、女の人の腕の中に、飛び込んだ。

「おかあさん!」

「あまね!」

二人は、強く、強く、抱きしめ合った。

女の人の肩が、激しく震えている。

あまねの小さな背中が、嗚咽に波打っている。

朔夜は、その光景を、涙で滲んだ視界の向こうに、見つめていた。

「……よかった」

声が、零れた。

「ほんとうに、よかった」

隣で、芹香が、静かに頷いた。

その頬を、涙が、とめどなく伝っていた。

しばらくの間、親子は、そのまま、動かなかった。

朝日が、二人の影を、白い砂の上に、長く伸ばしていた。

やがて、あまねが、そっと、顔を上げた。

女の人の顔を、じっと見つめる。

そして、小さく、言った。

「ねえ、おかあさん」

「なあに」

「あのね」

あまねは、自分の手首の赤い紐に、そっと触れた。

「ぼく、ここで、おかあさんと、くらしたい」

「…………」

「でもね」

あまねは、ゆっくりと、後ろを振り返った。

扉の敷居の向こう。

こちら側の、石の広場に。

朔夜と、芹香が、並んで立っている。

「ぼく、あっちにも、たいせつな、ひとが、できたの」

朔夜の呼吸が、止まった。

「おねえちゃんが、ぼくを、ひとりに、しないって、いってくれた」

あまねの声は、静かで、はっきりしていた。

「おいしいごはんも、あったかいおふとんも、くれた」

「…………」

「だから」

あまねは、母親を見上げた。

「ぼく、あっちの、せかいも、みてみたい」

女の人の瞳が、大きく見開かれた。

それから、ゆっくりと、潤んで、細められた。

「……そう」

「うん」

「あまねは、強い子ね」

「えへへ」

「いってらっしゃい」

女の人は、あまねの両頬を、そっと包んだ。

「でも、約束して」

「うん」

「たくさん、ご飯を食べて」

「うん」

「たくさん、笑って」

「うん」

「大きくなって」

「うん」

「そして、ときどき、お母さんに、会いに来て」

「……うん!」

あまねの目から、また涙が溢れた。

けれど、その顔は、満面の笑みだった。

女の人は、あまねの手首の古い赤い紐を、そっと外した。

代わりに、自分の髪から、新しい、鮮やかな赤い紐を解いて、あまねの手首に、結び直した。

きゅっと、小さな結び目。

「迷子にならないように」

「うん」

「どこにいても、お母さんが、見つけるから」

「うん……!」

あまねは、母親の首に、ぎゅっと抱きついた。

「だいすき」

「お母さんも、大好きよ」

朔夜は、その光景を、胸が張り裂けそうな思いで、見つめていた。

けれど、その痛みは、悲しみではなかった。

あまりにも、温かくて。

あまりにも、尊くて。

涙が、止まらなかった。

*

あまねが、扉の敷居を、再び越えて、こちら側へ戻ってきたとき。

その小さな手には、一枚の、淡い光る貝殻が、握られていた。

「おかあさんが、くれたの」

「貝殻」

「うん。みみに、あてると、むこうのおとが、きこえる」

あまねは、貝殻を、朔夜の耳へ、そっと当てた。

さらさらと、波の音がした。

遠く、微かに、誰かの笑い声と、歌声も。

朔夜は、目を閉じて、その音に、耳を澄ませた。

「……きれい」

「でしょ」

「ほんとに、いつでも、会えるんだね」

「うん」

あまねは、にっこりと笑った。

「とびらは、まどに、なったから」

朔夜は、顔を上げた。

巨大な石の扉が、いつの間にか、ゆっくりと、形を変え始めていた。

二枚の壁が、柔らかな光に溶けて、輪郭を失い、一つの、大きな円い窓のような、アーチになっていく。

その向こうに、あの青い海と、朝日と、白い砂浜が、静かに広がっている。

扉は、閉じなかった。

けれど、世界を飲み込む入口でもなくなった。

ただ、二つの世界を、そっと繋ぐ、窓になった。

「……よかった」

凪が、静かに、微笑んだ。

その白い衣が、少しずつ、朝日に透けていく。

長い髪が、光の糸になって、ほどけ始めていた。

「凪さん」

朔夜は、駆け寄った。

「行くんですか」

「ええ」

凪は、穏やかに頷いた。

「わたくしの役目は、終わりました」

「…………」

「やっと、眠れます」

その白い瞳が、あまねを、優しく見つめた。

「あまね」

「はい、おばあさま」

「強くなりましたね」

「…………」

「あなたは、もう、立派な、一人前の子です」

あまねは、涙ぐみながら、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

「いいえ」

凪は、あまねの額に、そっと、唇を触れた。

そして、朔夜に向き直った。

「橘朔夜」

「はい」

「あなたの中の、小さな、灯」

「…………」

「あの子を、大切に」

「はい」

朔夜は、胸に手を当てた。

温かい。

灯が、嬉しそうに、とく、とく、と脈打っていた。

「必ず」

「ええ」

凪は、満足げに、微笑んだ。

その姿が、ふわりと、光の粒になって、朝の空気に溶けていく。

白い髪が、風に舞って、金色の粉雪のように、湖面に降り注いだ。

その最後の一片が、朔夜の頬に触れて、消えた。

『ありがとう』

遠く、澄んだ声が、風に乗って、聞こえた。

『よい旅を』

朔夜は、涙を流しながら、深く、深く、頭を下げた。

*

空が、割れた。

鉛色の雲が、ゆっくりと、左右へ退いていく。

厚い、重たい雲の層が、薄紙のように、すうっとほどけて。

その隙間から、青が、覗いた。

澄み切った、深い、どこまでも深い、青空。

その中心から、太い、金色の光の柱が、まっすぐに降り注いだ。

湖面を、照らす。

湖が、一瞬で、鏡のように輝いた。

黒かった水が、透き通った青に変わっていく。

水底に沈んでいた石の顔たちが、ゆっくりと、微笑んで、溶けて、消えていった。

雨が、止んでいた。

いつから止んでいたのか、朔夜には、分からなかった。

ただ、肌に、あの重たい水の気配が、もう、なかった。

代わりに、穏やかな、柔らかな、陽だまりの温もりが、全身を包んでいる。

「……晴れた」

「ええ」

芹香が、空を見上げて、静かに呟いた。

「何年ぶりかしら」

「四十年ぶりだよ」

あまねが、嬉しそうに言った。

「あめが、やんだの」

その瞬間、窪地全体が、金色の光に満たされた。

村の跡が、見えた。

水面の下に沈んでいた、黒い瓦屋根の家々が、ゆっくりと、水位が下がるにつれて、姿を現す。

けれど、それは、朽ちた廃墟ではなかった。

屋根の苔が、柔らかな新緑に変わり。

壁の板が、温かな琥珀色に染まり。

庭先に、小さな朝顔が、紫の花を、ぽつぽつと咲かせている。

時間が、動き出したのだ。

四十年、止まっていた村の時間が。

ゆっくりと、静かに、再び、流れ始めた。

朔夜は、その光景に、息を呑んだ。

風が、吹き抜けた。

どこかで、風鈴が、ちりん、と鳴った。

あの、錆びた鉄の風鈴の、澄んだ音。

それが、青空の下で、まるで祝福の鐘のように、遠く、遠く、響いていった。

*

鳥居の石段を、降りたとき。

そこに、黒い車が、停まっていた。

あの、運転席の、疲れた顔の男が、車の外に立っていた。

彼は、ぼんやりと、空を見上げていた。

雨が止み、青空が広がり、光が降り注ぐ谷の景色を、呆然と見つめている。

朔夜たちの足音に気づいて、男は、はっと振り返った。

その顔が、くしゃりと歪んだ。

「…………」

声が、出ない。

唇が、ただ、震えている。

「ただいま戻りました」

芹香が、静かに言った。

その肩の血は、もう、乾いていた。

「約束通り、出てきました」

「…………」

「少し、遅くなってしまいましたが」

男は、何度も、頷いた。

頬を、涙が、次々と伝っていく。

「……ご、ご無事で」

「はい」

「ほ、本当に」

「はい」

男は、慌てて、後部座席の扉を、開けた。

その手が、がたがたと震えている。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

朔夜は、車に乗り込む前に、立ち止まって、深く頭を下げた。

「ずっと、待っててくれて、ありがとうございました」

「いえ」

男は、首を横に振った。

「……こちらこそ」

「え」

「あなたたちが、世界を、救ってくれた」

男の声が、掠れた。

「自分は、ただ、待っていただけです」

朔夜は、首を横に振って、笑った。

「待っててくれる人がいるから、帰ってこれたんです」

男の顔が、ぐしゃぐしゃに崩れた。

そのとき。

もう一台の、大きな、黒い公用車が、森の道の向こうから、ゆっくりと現れた。

車が、止まる。

扉が、開く。

灰色の髪の男が、降りてきた。

濃い藍色の制服。

胸の三つの金の徽章。

参事官だった。

その顔は、ひどく、疲れていた。

額に、汗が滲んでいる。

呼吸が、荒い。

走ってきたのだろう、と、朔夜は思った。

あの冷たい、窪んだ眼窩の男が。

「…………」

参事官は、朔夜の前で、足を止めた。

しばらくの間、何も言わなかった。

ただ、じっと、朔夜の顔を見つめていた。

その瞳の奥に、これまで朔夜が見たことのない、深い、深い、揺らぎがあった。

「……橘訓練生」

「はい」

「報告を、受けた」

「はい」

「全て、見ていた」

「はい」

参事官は、ゆっくりと、頭を下げた。

朔夜は、目を見開いた。

芹香も、息を呑んだ。

「……すまなかった」

低い声が、震えていた。

「君を、道具として、扱った」

「…………」

「十八年前から」

朔夜の呼吸が、止まった。

「あの夜、私は、病室にいた」

「…………」

「君の、母君から、君を、引き離した」

参事官は、顔を上げた。

その目に、涙の光が、ほのかに滲んでいた。

「私は、それが、正しいと、信じていた」

「…………」

「予備の鍵として、君を、守るのが、最善だと」

「…………」

「だが、間違っていた」

その声が、掠れて、途切れた。

「君は、鍵ではなかった」

朔夜は、唇を結んだ。

胸の奥で、何かが、静かに、揺れた。

怒りではなかった。

悲しみでもなかった。

ただ、長い長い間、固く結ばれていたものが、ほんの少し、緩む感覚。

「……あの」

朔夜は、そっと口を開いた。

「ひとつ、聞いてもいいですか」

「…………」

「わたしの、お母さんは」

参事官の目が、わずかに、見開かれた。

それから、ゆっくりと、頷いた。

「ご存命だ」

朔夜の心臓が、どくんと跳ねた。

「ご存命……」

「ここから、車で、四十五分の距離にある、療養施設に、おられる」

参事官の声が、静かに響いた。

「十八年間、君の名前を、呼び続けておられた」

「…………」

「私は、会わせなかった」

その言葉に、朔夜は、息を呑んだ。

「それが、私の罪だ」

参事官は、懐から、一通の古びた封筒を取り出した。

黄ばんで、角が擦り切れて、何度も、何度も、開かれたことが分かる封筒。

「これを」

差し出された封筒を、朔夜は、震える手で受け取った。

表に、細い、優しい、ほんの少し震えた字で、書かれていた。

『朔夜へ』

朔夜の目から、涙が、一気に溢れた。

「……いつ」

「十八年前。君が、連れ去られた翌日に、母君が、書かれた」

「…………」

「私が、預かったまま、渡せなかった」

参事官は、再び、深く頭を下げた。

「許してくれとは、言わない」

「…………」

「だが、会いに行ってほしい」

朔夜は、封筒を、胸に抱きしめた。

紙の匂いが、ほんのりと立ち昇った。

古い、懐かしい、遠い記憶の匂い。

「……会いたいです」

声が、震えた。

「会いたい」

「ああ」

「連れて行ってください」

「必ず」

参事官は、顔を上げた。

その唇が、ほんのわずかに、持ち上がった。

笑みに、似た何かだった。

けれど、これまでのような、冷たい、乾いた別のものではなかった。

確かに、人間の温かさを帯びた、不器用な、静かな笑みだった。

「……君は」

「はい」

「本当に、強い子だ」

「えへへ」

朔夜は、涙を拭って、笑った。

「みんなが、いてくれたから」

参事官は、静かに、頷いた。

その視線が、芹香へ、そして、あまねへ、移っていく。

「その子供は」

「あまねくんです」

朔夜が、あまねを、そっと前へ押し出した。

あまねは、少し緊張した顔で、参事官を見上げた。

「こんにちは」

「…………」

「ぼく、あまね」

参事官は、あまねの顔を、じっと見つめた。

それから、ゆっくりと、膝を折って、目線を、同じ高さに合わせた。

「あまね君」

「はい」

「君に、住む場所が、必要だ」

「…………」

「寮舎の、旧療養棟は、どうだろう」

あまねの瞳が、ぱっと輝いた。

「あそこ、すき」

「そうか」

「おばちゃんの、おかゆも、おいしかった」

参事官は、ふっと、息を漏らした。

「……それは、よかった」

「ねえ、おじちゃん」

「…………」

「おじちゃんも、いっしょに、ごはん、たべる?」

参事官の目が、大きく見開かれた。

芹香が、口元を押さえて、くすりと笑った。

朔夜が、堪えきれずに、吹き出した。

「……私は」

「うん」

「いや、その」

「たべよう」

あまねは、無邪気に、参事官の手を、ぎゅっと握った。

その瞬間、参事官の肩が、小さく震えた。

窪んだ眼窩から、一筋の涙が、静かに零れ落ちた。

「…………ああ」

声が、掠れた。

「……ご馳走に、なろう」

*

寮舎の正門を、くぐったとき。

夕暮れの光が、銀杏の並木を、黄金色に染めていた。

砂利を踏む音が、ざりざりと、静かに響く。

詰所の窓から、白髪の老人が、顔を覗かせた。

その顔が、くしゃりと崩れる。

「おお……おお……おかえり」

「ただいま戻りました」

朔夜は、笑って、手を振った。

その背後に、芹香と、あまねと、参事官が、並んで続いている。

玄関ホールの、ガラス扉が、勢いよく開いた。

「朔夜ちゃん!」

小さな影が、駆け出してきた。

おさげの髪を揺らして、息を切らして。

美月だった。

「朔夜ちゃん……!」

その身体が、朔夜の胸に、飛び込んできた。

細い腕が、ぎゅうっと、首に巻きつく。

「おかえり……おかえり……!」

「ただいま、美月ちゃん」

朔夜は、その背中を、ぽんぽんと撫でた。

「約束、守ったよ」

「うん……うん……!」

その背後から、ばたばたと、足音が近づいてきた。

「橘さん!」

佐伯と、中村と、高橋が、竹刀を抱えて、駆けてくる。

その後ろに、道場の仲間たちが、何人も、何人も、続いている。

彼女たちの顔は、涙と笑顔で、くしゃくしゃだった。

「橘さん、おかえりなさい!」

「素振り、ずっと、続けてました!」

「もう、百回じゃなくて、二百回です!」

「えっ、増えてる」

朔夜は、笑いながら、少女たちに囲まれた。

手を握られ、肩を叩かれ、抱きつかれ。

その温もりが、全身に、じんわりと染みていった。

玄関の奥から、厨房の方角から、ふわりと、味噌汁の匂いが、漂ってきた。

炊きたての米の匂い。

焼き鮭の脂の、香ばしい匂い。

朔夜の腹が、ぐう、と、鳴った。

「聞こえたわよ」

芹香が、くすくすと笑った。

「もう、いいよ、聞こえても」

朔夜も、笑った。

その二人の前に、濃紺の教官服の女が、静かに、歩み出た。

銀縁の眼鏡の奥の瞳が、赤く腫れている。

「……鬼塚教官」

「…………」

鬼塚は、何も言わなかった。

ただ、朔夜の顔を、じっと見つめた。

それから、ゆっくりと、手を伸ばした。

朔夜の頭の上に、そっと、掌を置く。

その手は、驚くほど、温かかった。

「……よく」

声が、掠れた。

「よく、帰った」

「はいっ」

「母の、台帳は」

「あ、持ってます」

朔夜は、背中の鞄から、油紙に包まれた台帳を、取り出した。

「大切に、お返しします」

「…………」

鬼塚は、台帳を受け取った。

その表紙を、指先で、そっと撫でる。

そして、微かに、笑った。

「……母の名は」

「はい」

「向こうの、あの浜辺に、立っていたか」

朔夜は、はっと、息を呑んだ。

あの、白い砂浜に集った、無数の人々。

その中に。

髪を結った、小さな、優しい顔の女性が、いた気がした。

遠くで、こちらに向かって、手を振っていた。

「……はい」

朔夜は、頷いた。

「いました」

「…………」

「笑って、手を振ってました」

鬼塚の肩が、小さく震えた。

眼鏡の奥から、涙が、一筋、静かに伝った。

「……そうか」

「はい」

「ありがとう」

その一言は、これまで聞いた、どの言葉よりも、深く、温かく、朔夜の胸に染みた。

*

食堂の長い木のテーブルには、湯気が立ち昇っていた。

窓の外は、夕闇が、静かに降り始めている。

天井の灯りが、温かな橙色の光を、テーブルの上に落としていた。

大きな盆の上に、焼き鮭が、ふっくらと、並んでいる。

卵焼き。

大根おろし。

ほうれん草の胡麻和え。

湯気の立つ味噌汁。

そして、大きな、白い、艶やかなおにぎりが、山のように積まれていた。

「さあさあ、たんとお食べ!」

割烹着姿の丸顔の調理員が、涙を拭いながら、次々と、皿を運んでくる。

その目は、真っ赤だった。

けれど、その顔は、満面の笑みだった。

「あたしゃ、ずっと、心配で、心配で」

「おばさん」

「でもね、あんたたちが、帰ってきてくれて」

調理員は、朔夜の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。

「あたしゃ、世界一の、幸せ者だよ」

「あはは、くすぐったい」

「ほら、あまねちゃんも、たんと食べな」

「はい!」

あまねは、大きな椅子の上に、ちょこんと座って、箸を握りしめていた。

その左右の異なる瞳が、きらきらと輝いている。

「いただきます、は」

「……いただきます!」

「よしよし。上手だね」

調理員が、あまねの頬を、そっとつついた。

朔夜の隣には、芹香。

向かいには、美月と、佐伯と、中村と、高橋。

そして、テーブルの端に、灰色の髪の男が、トレイを持って、ぽつんと立っていた。

どこに座ればいいのか分からない、という、困った顔で。

朔夜は、それに気づいて、にっと笑った。

「参事官、こっち、空いてますよ」

「…………」

「どうぞ」

参事官は、一瞬、固まった。

それから、おずおずと、朔夜の隣の空席に、腰を下ろした。

革の椅子ではない、木の椅子が、ぎい、と、小さく鳴った。

「…………」

「いただきます、ですよ」

あまねが、向かいから、教えた。

「……いただきます」

参事官は、手を合わせた。

ぎこちない、けれど、丁寧な仕草だった。

そして、箸を取って、焼き鮭の身を、一口、口へ運んだ。

ゆっくりと、咀嚼する。

その顔が、ふっと、固まった。

「…………」

「どうですか」

「…………」

「おいしいでしょ」

参事官は、箸を持った手を、止めたまま、しばらく、動かなかった。

やがて、静かに、頷いた。

「……味が、する」

「はい」

「ずっと、味が、しなかった」

その声が、微かに震えた。

「何十年も」

朔夜は、胸が熱くなって、ただ、頷いた。

「これから、いっぱい、味がしますよ」

「…………」

「毎日、ここで、食べましょう」

参事官は、顔を上げた。

その目に、涙が、ゆっくりと溜まって、一筋、頬を伝った。

けれど、その唇は、確かに、微笑んでいた。

「……ああ」

「はい」

「そうさせて、もらおう」

食堂の隅で、鬼塚が、眼鏡を外して、目頭を押さえていた。

その隣で、白髪の老人が、湯呑みを持って、にこにこと笑っている。

遠くの席の少女たちが、こちらを見て、手を振っていた。

朔夜は、手を振り返した。

笑い声が、あちこちから響いてきた。

食器の触れ合う音。

椅子の軋み。

窓の外の風の音。

その全てが、温かく、柔らかく、混じり合って、一つの、穏やかな、日常の音楽になっていた。

「……先輩」

「なあに」

「幸せだね」

「ええ」

芹香は、箸を置いて、朔夜を見つめた。

その灰茶色の瞳が、天井の灯りを映して、柔らかく揺れている。

「とても」

「うん」

「あなたのおかげよ」

「みんなのおかげ」

「ええ」

芹香は、そっと微笑んだ。

そのとき、食堂の入口に、灰色の制服の事務官が、姿を現した。

その手に、一通の、白い封筒を持っている。

「橘訓練生」

「はい」

「お手紙が、届いています」

朔夜は、目を瞬いた。

「手紙」

「はい。灯宵の」

事務官は、柔らかく、微笑んだ。

「後始末班から、預かりました」

差し出された封筒を、朔夜は、震える手で受け取った。

表に、丸い、小さな、可愛い字で、書かれていた。

『朔夜さんへ ひより』

朔夜は、封を、そっと切った。

中から、一枚の便箋が、滑り出た。

端に、小さな白い鷺の絵が、細い墨の線で描かれている。

白鷺堂の、あの便箋だった。

朔夜は、便箋を、広げた。

『朔夜さんへ

お手紙、ありがとうございました。

夏目さんが、帰ってきました。

ちゃんと、笑っていました。

お弁当を、一緒に食べました。

朔夜さんの言った通りでした。

机は、片づけなくて、よかったです。

窓は、もう、夜でも、開けられます。

朔夜さんが、いてくれたから、わたしも、少しだけ、強くなれた気がします。

いつか、また、会えますか。

ひより

追伸 あかねちゃんが、朔夜さんに、おにぎりをもう一回食べさせてほしいって言ってます』

朔夜の目から、涙が、ぽたぽたと、便箋の上に落ちた。

けれど、その顔は、満面の笑みだった。

「……よかった」

声が、零れた。

「みんな、ちゃんと、帰れたんだ」

「ええ」

芹香が、便箋を、横から覗き込んで、微笑んだ。

「素敵な、お手紙ね」

「うん」

「返事を、書かなくてはね」

「うん!」

朔夜は、便箋を、大切に、胸に抱きしめた。

*

五時四十分。

朔夜は、鐘より先に、目を覚ました。

天井の木目が、カーテンの隙間から差し込む薄青い光の中に、ゆっくりと浮かび上がってくる。

節が、ひとつ、渦を巻くように、黒ずんでいる。

目玉のような、あの節。

朔夜は、仰向けのまま、そっと、言った。

「おはよ」

目玉は、今朝も、何も言わなかった。

けれど、窓の隙間から差し込んだ最初の朝日が、その節の中心を、金色に、きらりと照らした。

朔夜には、その目玉が、ほんのりと、微笑んだように見えた。

吐く息は、白い。

けれど、その白さが、もう、冷たくなかった。

毛布を、跳ね上げる。

「ひゃっ」

冷気が、全身に噛みつく。

けれど、その声が、おかしくて、くすくすと笑ってしまった。

下段のベッドで、美月が、毛布の中から、もぞもぞと、顔を出した。

「……ん」

「あ、ごめん、起こしちゃった」

「ううん」

美月は、眠そうな目をこすりながら、にっこりと笑った。

「おはよう、朔夜ちゃん」

「おはよう、美月ちゃん」

「今日も、朝練?」

「うん」

「行ってらっしゃい」

「いってきます」

朔夜は、素足で、石の床に降りた。

ひやりと冷たい。

けれど、その冷たさが、もう、怖くなかった。

洗面所へ向かう廊下の壁に、額装された訓示が掛かっていた。

――『秩序は、美しさに先立つ』

朔夜は、その前で、ふと、足を止めた。

そして、小さく、笑った。

「……やっぱり、よく分かんないや」

でも。

秩序も、美しさも。

壊れやすくて、柔らかくて、あたたかいもの。

それを、そっと守ろうとする、誰かの手があって。

そのために、先に立ち上がる、誰かがいて。

そんなふうに、人は、世界を、繋いでいくのかもしれない。

そう思えるようになった。

洗面所の蛇口をひねる。

水が、管の奥で、ごぼりと鳴ってから、勢いよく流れ出した。

両手で受けて、顔に叩きつける。

「ぷはあっ!」

頬が、熱くなる。

顔を上げると、曇った鏡の中に、少女がいた。

黒髪のボブカットが、寝癖で右側だけ、跳ねている。

琥珀色の瞳が、朝の光の中で、柔らかく輝いている。

その奥の、いちばん深いところに。

小さな、温かい、灯が、静かに、揺れていた。

朔夜は、鏡に向かって、にっと笑った。

「今日もよろしく」

そして、胸に手を当てて、続けた。

「灯も、今日もよろしくね」

『うん!』

胸の奥から、嬉しそうな声が、響いた。

『よろしく、サクヤ!』

朔夜は、くすくすと笑った。

部屋に戻ると、扉の前に、芹香が立っていた。

紺の訓練服。

緩い三つ編み。

肩の傷は、もう、白い包帯の下で、癒え始めている。

「おはよう、朔夜ちゃん」

「おはよう、先輩!」

「寝癖が、跳ねているわ」

「えっ、直したのに」

「直っていないわ。じっとしていて」

芹香の手が、ふわりと、朔夜の頭を撫でた。

跳ねた毛先を、丁寧に押さえつける。

その仕草が、ずっと前から、変わらず優しかった。

「はい。これで大丈夫」

「ありがと」

「どういたしまして」

「ねえ、先輩」

「なあに」

「今日は、お母さんに、会いに行く日だよね」

「ええ。午後に、参事官が、迎えに来てくださるわ」

「どきどきする」

「大丈夫よ」

芹香は、朔夜の手を、そっと握った。

細くて長くて少し乾いて、温かい指。

「私も、隣にいるから」

「うん」

「だから、朝は、いつも通り、道場へ行きましょう」

「うん!」

二人は、並んで、廊下を歩き出した。

足音が、ことん、ことん、と、石の床に、軽やかに響く。

窓の外では、朝日が、山の稜線から、ゆっくりと昇っていた。

その光が、銀杏の並木を、黄金色に染めている。

遠くから、少女たちの、元気な声が、聞こえてきた。

「橘さーん!」

「朝練、はじめましょう!」

道場のほうから、佐伯たちが、手を振っていた。

その隣に、小さな白銀の髪の子供が、ちょこんと立っている。

あまねだった。

その手には、小さな、木の竹刀が、握られている。

「おねえちゃーん!」

「あまねくん!」

「ぼくも、れんしゅう、する!」

朔夜は、思わず、吹き出した。

隣で、芹香が、くすくすと笑った。

「走らないでね、廊下は」

「走らないってば!」

言った端から、朔夜の足は、半歩、前へ弾んでいた。

慌てて、踵に力を込めて、早歩きに切り替える。

その背後で、芹香が、堪えきれずに、声を立てて笑った。

その笑い声が、朝の光の中に、澄んで、響いた。

玄関のガラス扉を、押し開ける。

冷たい朝の空気が、頬を撫でた。

けれど、その空気には、もう、あの雨の匂いは、混じっていなかった。

代わりに、乾いた草の匂いと、遠くの味噌汁の匂いと、朝日の温もりが、柔らかく混じり合っていた。

朔夜は、空を見上げた。

どこまでも、青かった。

雲ひとつない、澄み切った、深い青空。

その高みを、一羽の白い鳥が、ゆっくりと、横切っていった。

鷺だった。

翼を大きく広げて、朝日の中を、悠々と渡っていく。

その白い姿が、まるで、誰かの、優しい挨拶のように見えた。

朔夜は、その鳥に、ひらひらと、手を振った。

そして、隣の芹香と、顔を見合わせて、にっと笑った。

「行こう、先輩!」

「ええ」

「今日も、いい一日になるよ!」

「ええ。きっと」

二人は、並んで、朝の光の中へ、歩き出した。

世界を砕くほどの力を持ち、それでも、壊すことより、ほどくことを選んだ少女。

その隣に、いつも、立ち続けた、一人の優しい射手。

二人の影が、石畳の道に、長く、重なって、伸びていく。

その先で、仲間たちが、手を振って待っている。

朔夜は、胸の奥の灯を、そっと抱きしめた。

小さくて、温かくて、決して消えない、明かり。

その光が、これから、どんな夜も、照らしてくれる。

そう、信じられた。

だから、朔夜は、笑った。

陽だまりのような、屈託のない、太陽のような笑顔で。

世界は、壊れやすい。

けれど、だからこそ、美しい。

そして、その壊れやすいものを、そっと、ほどきながら、守っていく。

それが、橘朔夜という少女の、生き方だった。

「いってきまーす!」

朝の空に、声が、高く、響いた。

その声は、どこまでも、澄んで、明るくて。

遠い、遠い、水底の向こうの、青い海の岸辺まで、きっと、届いている。

――第5章 了

――『凪の彼方、灯のほとりで』 完

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作者について

紫陽花工房

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家事や仕事の間にAIに物語を書いてもらってます。 好きな花は紫陽花。 座右の銘、チャンスをもたらしてくれるものは冒険である 夢うつつな時に閃くものがネタだったりします(笑)

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