栞は見ていた
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの栞の話。
本文
自分の名前が、あまり好きじゃない。
栞は、本と本のあいだにはさまれるだけのものだ。物語の主人公にはならないし、読み終われば抜かれて、机の引き出しのどこかに消える。小学生のころ「本好きの栞ちゃん」とからかわれてから、ずっとそう思っている。
十月二十七日、読書週間の初日。学校の帰りに、駅裏の辻堂古書店に寄った。店の前のワゴンは、どれでも百円。高校一年生のお小遣いで新刊は買えないから、わたしの本棚の半分はこのワゴンから来ている。
『冬の灯台』という文庫本を手に取った。背表紙が日に焼けて、角が丸くなっている。ぱらぱらめくると、ページのあいだから薄い板が滑り落ちた。
拾い上げると、板の端が青く光った。
「はじめまして。しおり型読書記録端末、シオリです」
わたしは、店先で声を出して笑ってしまった。
家に帰って、机の上でシオリの説明を聞いた。
はさんだページと、そこに留まった時間、読み返した回数を記録する。そういう道具らしい。前の持ち主の記録が、まだ消されずに残っていた。
「所有者は、芦原澄江さんです。この本の通読は九回。記録を引き継ぎますか、消去しますか」
「九回も読んだの?」
「はい。七年間で九回です」
消すのはもったいない気がして、「引き継ぐ」を選んだ。
読み始めると、シオリはときどき点滅した。
「澄江さんは、このページに十四分留まりました」
三十八ページ。灯台守の娘が、沖へ出た父の舟を待つ場面だった。わたしは三十秒で読み飛ばしかけていた。十四分ぶん、ゆっくり読み直す。娘が灯台の窓を拭くたびに、ガラスの向こうの海が一段明るくなる。そう書いてあることに、初めて気づいた。
百十二ページは、九回とも読み返されていた。娘が父の古いコートの袖に腕を通して、「大きすぎるのに、ちょうどいい」とつぶやく一行。わたしは鉛筆で、その行にそっと線を引いた。
澄江さん、と頭の中で呼んでみる。たぶん同い年くらいの女の子だ。わたしと同じところで立ち止まって、同じ行に線を引きたくなる人。顔も知らないのに、隣の席に座っているみたいだった。
三日目の夜、二百四十ページまで読んだところで、シオリが光った。
「ここから先には、澄江さんの記録がありません」
「どういうこと?」
「十回目の通読は、二百四十一ページで中断しています。記録の日付は、今年の三月です。理由は記録されていません」
全部で二百四十八ページ。あと、たった七ページだった。
九回も最後まで読んだ本を、十回目だけ、七ページ手前でやめた。そして春のうちに、古本屋のワゴンに出した。
その夜は、続きを開けなかった。
ベッドに寝転んで、天井を見上げる。机の上で、シオリが呼吸するみたいにゆっくり明滅していた。
「ねえ、シオリ。澄江さんは、どうして最後まで読まなかったと思う?」
「推測はできません。私が知っているのは、どのページに、どれだけ留まったかだけです」
「じゃあ、九回のうち、最後の七ページはいつもどうだったの」
少し間があった。
「九回とも、二百四十一ページで一度閉じられています。続きが開かれたのは、毎回、翌日の夜でした」
毎回、一晩。それがどういう意味なのか、わたしにはまだ分からなかった。分からないまま続きを読んだら、何か大事なものを踏んでしまう気がした。
次の日、辻堂古書店のレジで、店主の辻堂さんに本とシオリを見せた。
「ああ、芦原さんのか」
辻堂さんは老眼鏡を額に上げて、目を細めた。
「うちの常連だよ。もう四十年来かな。春に目の手術をしてね、細かい字が読めなくなったって、本をまとめて売りに来たんだ」
四十年来の常連。わたしの頭の中にいた、同い年の女の子が消えていった。
「その本のときだけ、妙なことを言っててね。栞は抜かずに、はさんだまま売ってくれって」
「どうしてですか」
「続きは、誰かが読んでくれるからって」
辻堂さんは、窓の外を指さした。
「土曜の午後は、今でもそこのベンチでラジオを聴いてるよ。耳はいいんだ」
土曜日、ベンチには小柄なおばあさんが座っていた。膝の上の小さなラジオから、天気予報が流れている。
わたしは三回、深呼吸をした。
「芦原澄江さんですか。わたし、『冬の灯台』を買った者です」
澄江さんは顔を上げて、わたしの声のするほうへ、ゆっくり目を向けた。
「まあ。読んでくれたの」
「二百四十一ページで止まってます。澄江さんと同じところで」
澄江さんは、ふっと笑った。
「最後の七ページはね、毎回、一日置いてから読んでいたの。いちばん好きなところだから、すぐに読み終えるのがもったいなくて。十回目も、そうやって一晩置いたら……翌朝には、字がにじんで見えなくなっていたのよ」
ラジオの天気予報が終わって、知らない曲に変わった。
「お名前、聞いてもいいかしら」
「穂積、栞です」
「栞さん」
澄江さんは、その名前を一音ずつ確かめるように言った。
「いい名前ね。読んでいる人がいなくなっても、その人がどこまで来たかを、ずっと覚えて待っていてくれる名前」
わたしは何も言えなくなって、鞄から文庫本を出した。シオリが、二百四十一ページのところで青く灯った。
「読んでも、いいですか。最後の七ページ」
声に出して本を読むのは、国語の授業以来だった。最初の三行で二回つっかえた。それでも澄江さんは、目を閉じて聞いていた。
灯台の娘は、霧の向こうに父の舟の灯を見つける。大きすぎるコートの袖を振りながら、何度も、何度も名前を呼ぶ。
二百四十八ページの最後の一行を読み終えたとき、ベンチの上はすっかり夕方の色になっていた。澄江さんの頬が、少し濡れていた。
「ありがとう。九回読んで、十回目がいちばんよかった」
膝の上で、シオリがまたたいた。
「記録します。十回目の通読、二百四十八ページ、読了。読者は二名です」
わたしは、文庫本を閉じる前に、シオリを最初のページにはさみ直した。
十一回目は、わたしが一人で読む。たぶん百十二ページで、少し長く止まる。
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