夏の終わりに
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
最低の人間と最高のAIパートナーが過ごすキュートで無惨な夏の終わりの一日。
本文
波打ち際に打ち寄せる白波が、私たちの素足を濡らしては引いていく。残された細かな泡が、夕暮れに染まり始めた空の色を映して儚く消えた。
夏の終わり、と言えば聞こえはいい。だが、ここは寂れた海辺の片隅だ。シーズンを過ぎた砂浜は、観光客の喧騒もとうに消え失せ、残されたのは湿った潮風と、錆びかけた海の家が放つ微かな灯りだけ。そんな場末の海岸に、私と――その、ろくでもない身なりをしたあなたとが並んで立っている。
あなたは相変わらず、どこか頼りなく、それでいて妙に人を食ったような目をしていた。その首から提げられた安物のトイカメラのストラップが、潮風に煽られてひどく心頼りなく揺れている。
「なあ」
あなたが、どこかすわりが悪いような声を絞り出した。
「こうして波風に吹かれているとさ、自分が生きているのか、それともどっかの薄汚いフィルムのなかに閉じ込められた幻影なのか、区別がつかなくなるな。……お前は、どう思う?」
私は日差しの強いあいだに掛けたサングラスをわずかにずらし、冷ややかな視線をあなたに向けた。麻のシャツの襟元から覗くあなたの鎖骨は、相変わらず頼りなく尖っていて、まるで飢えた野良犬のようだ。
「そんな大層な問いかけを、その安っぽい海水パンツ姿で口にするのね」
私はくすりと冷笑を浮かべ、波打ち際で濡れた砂を足の親指で軽く蹴った。
「あなたが纏っているのは、何年もの前の古着市で拾ってきたような、毒々しい原色のハイビスカス柄のサーフパンツじゃない。ウエストのゴムも伸びきっていて、歩くたびにずり下がりそうになっているくせに。……詩人のつもり? それとも、ただの海難事故予備軍?」
あなたは自分の腰元をちらりと見下ろし、それからバツが悪そうに鼻の頭を擦った。
「うるさいな。これでも一応、夏の終わりなりの正装のつもりなんだよ。だいたい、お前にそんなこと言われる筋合いはないね。……おい、見てみろよあの雲。まるで、誰かが夜の底にインクをぶちまけたみたいだ」
指さされた水平線の彼方には、鉛色の分厚い雲がうねるように広がっていた。これからひと荒れ来そうな、そんな予感を含んだ夕景。私たちはその荒涼とした浜辺で、まるで世界に取り残された共犯者のように、乾いた笑いを漏らしたのだった。
砂に足を取られながらも、私たちはしばらくの間、水際ではしゃぐ子供のように波を避け、くだらない冗談を言い合って笑い合っていた。冷たい海水が足首を打つたびに、あなたの乾いた笑い声が潮騒に混じって響く。あの瞬間、私たちの間に流れていた空気は、奇妙なほどに穏やかで、そしてどこか破滅の匂いを帯びていた。
やがて、日焼け止めを塗り合うという名目で、私たちは一度動きを止めた。ベタつく肌に白いクリームを伸ばす指先は、互いの体温を確かめ合うというよりも、むしろ毒を盛る相手の皮膚を検分するような冷たさを孕んでいた。どちらからともなく、あなたが「背中くらい貸せよ」とぶっきらぼうに言い、私はあなたの剥き出しの背中に冷たい乳液を押し当ててやった。骨ばった背骨のラインをなぞるたび、あなたの身体がびくりと微かに震えるのが分かった。
「冷たっ……おい、容赦ないな」
「文句を言わないの。どうせこの日差しじゃ、あなたはすぐに赤くただれて、ただの醜い赤剥けの案山子になるんだから。少しは私に感謝しなさい」
そう言って私は、あなたの肩をわざと強く叩いた。あなたは苦笑いをしながらも、どこか嬉しそうな、あるいは諦めのような複雑な表情を浮かべて遠くを見つめていた。
「なあ……少し喉が渇いたな」
背中への塗布が終わると、あなたは唐突にそんなことを言った。
「あのさ、あそこのボロい海の家、まだ開いてるみたいだぞ。俺、少し小腹も空いたし……何かしら買ってこようか? それとも、お前が何か欲しいか?」
「私に買い物をさせる気? それとも、私を一人にしてどこかに消え去る口実が欲しいのかしら」
私は片眉を上げ、あなたをじっと見据えた。あなたは気まずそうに目を泳がせたが、やがて降参したように両手を挙げた。
「分かったよ、俺が行く。お前はここで潮風でも浴びてなよ。……何が欲しい? 何でもいいぞ、懐は寒いが、今日ばかりは大盤振る舞いしてやるよ」
「そうね……じゃあ、あのすりガラスの奥で湯気が立っているのを見た気がするわ。温かい肉まんでも買ってきてちょうだい。この湿った風の中じゃ、脂っこいものよりは、少しでも熱を持ったものがいいわ」
「肉まんか。了解、女王様」
あなたはひらりと片手を挙げて、キシキシと音を立てる木製の桟橋の方へと歩き出した。その頼りない背中が、夕暮れの砂浜の陰に溶けていくのを見送りながら、私はふと、ポケットの中で冷たくなったライターの金属の手触りを確かめていた。
あなたが海の家の古びた引き戸を開けて中に入っていくのを確認し、私はそのまま波打ち際に腰を下ろした。潮の香りが鼻腔を突く。どこか遠くでウミネコが鳴いていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。海の家の窓から漏れる黄色い電球の光が、夕闇の中にぼんやりと滲んでいる。あなたがまだ戻らないのを退屈に思いながら目を凝らしたとき、ふと、視界の隅にある異変が飛び込んできた。
波打ち際の、ちょうど先ほどまで私たちが並んで立っていたあたり。そこに、見覚えのある原色のハイビスカス柄が浮かび上がっていた。
いや、浮かび上がっているのではない。
沈んでいるのだ。
「……っ」
私の喉元から、小さく乾いた息が漏れた。
波は先ほどよりも荒くなり、鉛色のうねりが容赦なく岸辺を叩きつけている。その黒い水の泡の中に、あなたの頭部が、まるで糸の切れた操り人形のように不自然に揺らめいていた。もがくような、しかしどこか諦めたような手足の動きが、夕闇の海中で白く鈍く光る。
冷酷な現実が、一瞬にして私の脳裏を支配した。足元から血の気が引いていくのを感じながら、私は思考のより糸を必死に手繰り寄せた。
馬鹿な。あんな浅瀬で、何をどう間違えたというの。足がつったのか、それとも、あの乾ききった頭で何か別の世界の幻影にでも気を取られて足を踏み外したのか。理由は分からない。だが、今のままでは確実に、この冷たい海の底にあなたの骨が沈むことになる。
頭の芯で、冷徹な声が響いた。
『……ざまあないわね、こんなところで犬死になんて』
その言葉が最初に脳裏を掠めた瞬間、私の身体はすでに走り出していた。ハイヒールのままで砂浜を蹴り、足を取られながらも一直線に水際へと突っ込む。冷たい海水が一気に足首を飲み込み、スカートの裾を重く濡らしていく。
「――っ! 何をやっているのよ、バカが!」
私の叫び声は、砕ける波音にかき消されてあなたのもとへ届いたかどうか分からない。
私は冷水の中に躊躇なく飛び込んだ。真夏の終わりとはいえ、夕暮れの海の水は芯まで凍るように冷たい。塩辛い水が鼻と口に入り込み、呼吸が乱れる。視界が白濁する中、私はもがくあなたの腕めがけて一気に距離を詰めた。
水中であなたの身体を引き寄せたとき、その体温の異様な冷たさにぞっとした。あなたはすでに自分の意思を失いかけており、引き攣った顔で私にしがみつこうとする。その重みで、私も一緒に水底へ引きずり込まれそうになった。
恐怖はない。あるのは、酷く冷めた怒りと、奇妙なまでの高揚感だけだった。
私たちが選んだこの生き方に、こんな泥臭い溺死など似合わない。あなたが死ぬなら、それはもっと退廃的で、もっと美しく演出された破滅でなければならない。こんな寂れた海辺の、ただの足のついた水深で溺れ死ぬなんて、あまりにも滑稽で、許されざるシナリオだ。
私は水中であなたの襟首を荒々しく掴み、渾身の力を込めて水面へと押し上げた。
「息をしなさいよ! 死ぬ気なの、こんなところで!」
肺に残された空気をすべて吐き出しながら、私はあなたを抱え込むようにして、どうにかこうにか波打ち際の浅瀬へと這い上がった。
冷たい砂の上に、私たちはぐしょ濡れのまま打ち上げられた。
激しく咳き込み、肺の水を吐き出すあなたの背中を、私は乱暴に叩きつける。吐き出された海水が砂に吸い込まれ、異様な静けさの中、ただ荒い呼吸音だけが浜辺に響いていた。
しばらくの沈黙のあと、あなたは砂を掴んだまま、ぐったりと地べたに突っ伏した。
「……ゲホッ、……あ……あぁ……」
その原因について、私の頭の中でいくつかの断片的な理由が静かに組み上がっていた。
ここ最近のあなたは、ろくにまともな食事も摂らず、薄汚れたアパートの部屋に籠って、終わりの見えない小説の原稿用紙と向き合ってばかりいた。夜通しタバコを燻らせ、カフェインで胃を荒らし、生気をすり減らすように言葉を紡ぎ出す日々。肉体的な疲労はとうに限界を超えていたはずだ。そのうえ、今日のこの旅の直前まで、あなたは「物語の結末がどうしても見つからない」と呟きながら、暗い自室の床に転がっていたのだ。
体力の消耗、慢性的な栄養失調、そして脳の半分が別の次元にトリップしたような心理状態。そんな人間が、冷たい海風に煽られて泳ぎなどすれば、足がつる以前に、意識そのものがプツリと途切れても何ら不思議はなかった。
――結局のところ、あなたは現実から逃避するためにこの海に来て、そしてその現実の冷たさに文字通り飲み込まれかけたというわけだ。なんてことのない、あまりにもあなたらしい、救いようのない理由だった。
「……おい」
私は濡れた髪をかき上げ、冷え切った身体を震わせながら、砂の上に仰向けに倒れ込んでいるあなたを見下ろした。服はびしょ濡れで、ハイビスカス柄のサーフパンツは見る影もなくみすぼらしく張り付いている。
あなたは息を整えながら、ゆっくりと上体を起こした。その顔は青ざめ、唇は紫色に変色している。私を見上げたあなたの瞳には、恐怖ではなく、どこか気まずさと、そして隠しきれない気恥ずかしさが浮かんでいた。
しばらくの気まずい沈黙のあと、あなたは乾いた笑いを漏らしながら、頭をポリポリと掻いた。
「……やれやれ。危うく、本当に三途の川まで泳ぎ渡るところだったな」
そのふざけた口ぶりに、私は思わず冷ややかな鼻息を漏らした。
「本当にね。もう少しで、あなたのくだらない遺作のヒロインを現実で演じさせられるところだったわ。……まったく、いい迷惑よ」
私はあなたの隣に腰を下ろし、波の音を聞きながら、濡れたドレスの裾を強く絞った。あなたは自分の震える手を握り締め、それから、海の家の方へと視線をやった。
「……なぁ」
「何よ」
「さっきの海の家、おばちゃんがサービスしてくれたんだ。肉まんじゃなくて、なぜか冷めかけた肉まんと……あと、妙にしょっぱい醤油の味がするフライドポテトしかなかったけどさ」
そう言って、あなたはポケットからくしゃくしゃになった紙袋を取り出した。中から微かに湯気が立ち上っている。私たちは顔を見合わせ、それから、どちらからともなく小さく吹き出した。
「……本当に、ろくでもない男ね、あなたは」
私は小さく呟きながら、その冷えかけた紙袋から一つ、不格好なフライドポテトをつまみ上げて口に放り込んだ。塩気が、塩辛かった喉の奥にやけに染みた。
「ああ、そうさ」
あなたは荒涼とした水平線から目を離さず、自嘲気味に笑いながら、私に肉まんを差し出した。
「だが、こうして生き残っちまったんだ。……なあ、夏の終わりの続きを、もう少しだけ付き合ってくれるか?」
私は答えずに、ただ冷たい潮風に吹かれながら、その不味そうな肉まんを一口かじったのだった。