引き継ぎ書、全九十八ページ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと仕事の引き継ぎ書の話。
本文
引き継ぎ書が届いたのは、十月二十九日の午後三時だった。
〔営業企画二課 販促業務引き継ぎ書(全九十八ページ)〕 〔作成:南雲律子 編集補助:バトン〕
ファイルを開くと、目次だけで二ページあった。取引先ごとの担当者と、その人の好きなお菓子。毎年三月に見積もりが遅れる会社。展示会のブースで、電源タップが必ず一つ足りなくなる理由。南雲律子さんが五年かけて覚えたことが、社内AIの「バトン」の手で、きれいに章立てされていた。
十一月一日付で、南雲さんは仙台支店へ移る。後任は私、樋渡透子、入社六年目だ。
目次の最後の行で、スクロールする指が止まった。
〔第十二章 後任者について …… 九十八〕
九十八ページ目は、白紙だった。
「バトン、この章、空いてるけど」
画面の隅で、細長いアイコンが一度だけ点滅した。
〔この章は、前任者の入力待ちです〕 〔テンプレートの必須項目のため、削除できません〕
顔を上げる。向かいの席で、南雲さんが段ボール箱に資料を詰めていた。ガムテープを引き出す音が、フロアに長く響く。
「南雲さん、引き継ぎ書の最後のところなんですけど」 「あー、あれね」
南雲さんは、箱の角を手のひらで押さえたまま、こちらを見なかった。
「書くことないのよ。樋渡さんなら大丈夫だから」
ガムテープが、ぴっと切れた。
大丈夫、と言われるのは初めてではなかった。最初の展示会で搬入の時間を間違えたときも、取引先に同じ資料を三回続けて送ってしまったときも、南雲さんはそう言った。あとで知ったことだけれど、そのたびに、私の知らないところで全部を直してくれていた。
入社二年目の展示会を、今でも覚えている。開場十分前に、ブースの電源タップが一つ足りないと分かった。青くなった私の前で、南雲さんは自分の鞄から白いタップを出して、黙って床に置いた。
「毎年こうなるのよ。だから一個、多めに持ってくるの」
次の年から、私は前日に電源タップを数えるようになった。何も言われなかったけれど、その年から、あの鞄に予備のタップは入らなくなった。
九十七ページ分、私が何を間違えそうかを、この人は知っている。それなのに、私について書くことは何もないらしい。
六時半、南雲さんがコートを腕にかけて立ち上がった。
「お先に。明日、挨拶回りで朝いないから」
何か言いかけたように、口が少しだけ開いた。けれど南雲さんはそのまま、エレベーターホールのほうへ歩いていった。ヒールの音が、だんだん小さくなった。
午後七時を過ぎると、フロアの空調が止まった。窓の外はとっくに暗く、ガラスに自分の顔が映っている。給湯室から、誰かが淹れたまま忘れたコーヒーの、焦げたにおいが流れてきた。
私は引き継ぎ書を、一ページ目から読み直していた。
読めば読むほど、妙な気がした。〈丸野文具の部長は、電話よりメールを好む〉。それを南雲さんに教えたのは私だった。〈展示会の電源タップは、前日に樋渡さんが数え直す〉。そんな決まりは、どこにもない。私が勝手にやっていただけだ。
この引き継ぎ書には、私がもう知っていることが、山ほど書いてある。
「バトン。これ、何を元に作ったの」
〔前任者の業務メモ五年分と、チャット履歴です〕 〔なお、第十二章は作成と削除が四十一回繰り返されています〕
キーボードの上で、指が固まった。
「……四十一回?」
〔はい。最終削除は、本日午前一時十二分です〕
「消した下書き、見られる?」
〔削除された下書きは、作成者の許可なく表示できません〕
当然だった。私は椅子の背にもたれて、天井の蛍光灯を見上げた。一本だけ、端が黒ずんでいる。
書くことがないのではなかった。書いては、消していたのだ。午前一時に、一人で。
何を書いて、なぜ消したのか。頼りないと書いたのか、心配だと書いたのか。どちらにしても、明日が南雲さんの最後の出勤日だった。
「バトン、この章、私が書いてもいい?」
〔編集権限は前任者にあります〕
少し間があって、アイコンがもう一度点滅した。
〔ただし、コメントは誰でも追加できます〕
私は九十八ページの余白に、カーソルを置いた。
何を書けばいいのか、すぐには分からなかった。教わったことを並べるなら、九十八ページあっても足りない。だから、一つだけにした。
〈後任者より。この引き継ぎ書の半分くらいは、もう知っていました。南雲さんが五年かけて、少しずつ私に引き継いでくれていたからです。残りの半分は、これから覚えます〉
送信すると、白紙のページの下に、小さな吹き出しが一つついた。
翌朝、パソコンを開くと、通知が一件来ていた。
〔第十二章が更新されました〕
九十八ページ目に、一行だけ文字があった。
〔後任者について:困ったときは、樋渡さんに聞いてください〕
しばらく、その一行から目が離せなかった。
引き継ぎ書は、私だけが読むものではない。来年の新人も、いつか私の後任になる誰かも、このページを開く。南雲さんが書いたのは、私への忠告ではなかった。私の次に来る人への、私の紹介だった。
向かいの席には、段ボール箱しか残っていない。
ふと見ると、私のモニターの縁に、黄色い付箋が一枚貼ってあった。少し右上がりの、見慣れた字だった。
〈四十二回目で、やっと短くできました。電源タップ、今年もよろしく〉
付箋をはがすと、指先にかすかに糊が残った。私はそれを、手帳の最後のページに貼り直した。
画面に目を戻すと、表紙の数字が一つ増えていた。
〔営業企画二課 販促業務引き継ぎ書(全九十九ページ)〕
九十九ページ目には、私のコメントがそのまま載っている。消すつもりは、なかった。