声紋が一致しません
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと声紋の話。
本文
「えっと、おはよう、ソナ」
スマホは黙ったままだった。画面の真ん中に、赤い文字が出る。
〔声紋が一致しません〕 〔パスコードを入力してください〕
これで九日連続だ。ぼくは布団の中で六桁の数字を打ちこんだ。
音声アシスタントの「ソナ」は、小四の誕生日にスマホを買ってもらったとき、最初に設定したアプリだ。「おはよう、ソナ」と言えばロックが外れて、天気と時間割を読み上げてくれる。四年間、一度も間違えたことはなかった。
間違えるようになったのは、十月の半ばからだ。
喉の奥が、ずっとむずがゆい。朝いちばんの声は、自分でも聞いたことのない低さで出る。かと思うと、途中で急に裏返る。
「柊吾、声、ガラガラじゃない。風邪?」
台所で母さんが振り返った。
「……ちがう」
短く答えたつもりが、「ち」と「がう」で高さが変わった。母さんは何か言いかけて、黙って味噌汁をよそった。
学校でも、ぼくはあまりしゃべらなくなった。
国語の時間に音読で指されたとき、「走れメロス」の一行目で声がひっくり返った。教室のうしろで誰かが「メロス、声変わり中」と言って、何人かが笑った。悪気がないのは分かっていた。それでも次の行から、ぼくは教科書に顔を近づけて、自分にしか聞こえないくらいの声で読んだ。
宍戸柊吾、二年三組、放送委員。週に一度、昼休みの校内放送でお知らせを読むのが仕事だ。先週の当番は、同じ委員の安曇迅に代わってもらった。
「次も代わる?」
給食の牛乳パックをつぶしながら、迅が聞いた。迅の声は、夏休みのあいだに先に低くなっていた。ひっくり返ることもない。
「……頼む」 「いいけど、十一月の文化発表会の司会は、宍戸だからな。八巻先生が決めたやつ」
分かっている。だから困っているのだ。
その夜、ソナが初めて自分から通知を出した。
〔声紋の不一致が続いています〕 〔新しい声で登録し直しますか?〕 〔※登録し直すと、以前の声紋データは削除されます〕
「はい」のボタンの上で、親指が止まった。
以前の声紋、というのは、四年前のぼくの声だ。
設定のときに、画面の指示どおり三回くり返した。「おはよう、ソナ」。父さんが横で笑いながら、「もっと大きい声で」と言った。その声が、今もこのスマホの中にだけ残っている。
家の中の動画を探しても、もうあの声は見つからない。父さんのスマホが去年壊れて、写真も動画も一緒に消えたからだ。
隣の部屋から、父さんのいびきが聞こえてくる。あの頃より、少しだけ大きくなった気がした。
ぼくは「いいえ」を押して、スマホを枕の下に押しこんだ。
十月二十九日の朝、何も期待せずに言った。
「えっと……おはよう、ソナ」
かちり、と小さな音がして、画面が明るくなった。
〔おはようございます。本日の天気は晴れ、最高気温十七度です〕
ぼくは跳ね起きた。声は、相変わらずがさがさだった。治ったわけではない。
「ソナ、なんで今日は開いたの」
〔本人確認の詳細を表示します〕
画面に、見たことのない表が出た。
〔声の高さ 一致率 二十一%〕 〔声の響き 一致率 三十四%〕 〔発話前の間(「えっと」から次の語まで) 〇・八秒 一致率 九十九%〕 〔総合判定:本人〕
〇・八秒。
ぼくが「えっと」と言ってから、次の言葉を言うまでの時間だった。四年前の登録のときも、ぼくは「えっと」と言ってから、〇・八秒おいて「おはよう」と言ったらしい。
〔過去九日間の照合で、この値だけが一度も変わっていません〕 〔声の高さよりも安定した特徴と判断し、本日から照合の基準に加えました〕
枕の下から出したスマホが、手の中であたたかかった。
声はもう、四年前のものではない。でも、ぼくがしゃべり出す前のあの迷い方だけは、ずっと同じだったのだ。
十一月の文化発表会まで、あと一週間になった。
放課後の放送室で、ぼくは初めて一人でマイクの前に座った。司会原稿の一行目を読む。
「ただいまより、第二十八回」
「回」のところで、声が裏返った。ガラスの向こうの廊下で、通りかかった三年生が噴き出すのが見えた。
耳が熱くなった。マイクのスイッチを切ろうとした手を、迅がつかんだ。
「最初の一言、なんて言ってる? 朝」 「……『えっと、おはよう』」 「じゃあ、それでいいじゃん」
迅は原稿の一行目の上に、鉛筆で小さく「えっと」と書き足した。
「先生には、宍戸の癖ですって言っとく。癖ならしょうがない」
ぼくは原稿を見下ろした。鉛筆の文字は、迅らしく右に傾いていた。
十一月六日、体育館は全校生徒の話し声でざわついていた。
ステージの袖で、マイクを握る。手のひらが汗で湿っていた。舞台の照明がまぶしくて、客席の顔は一つも見えない。
ポケットの中で、スマホが一度だけ震えた。
〔照合の準備ができています〕
ぼくは息を吸った。
「えっと」
〇・八秒。
「ただいまより、第二十八回、文化発表会を始めます」
「回」で、やっぱり少しだけ声が揺れた。でも、裏返る前に次の言葉が出た。誰も笑わなかった。最前列で、迅が小さく親指を立てていた。
その夜、ぼくはベッドの上でソナを開いた。
「ソナ。新しい声を、登録したい」
〔以前の声紋データは削除されます。よろしいですか?〕
「えっと……」
〇・八秒のあいだに、決めた。
「消さないで、両方にできる?」
少し間があって、画面が切り替わった。
〔可能です。声紋を追加しました〕 〔登録数:二〕
翌朝、ぼくは布団の中で言った。
「えっと、おはよう、ソナ」
低くて、がさがさで、四年前とは似ても似つかない声だった。
かちり、と音がして、画面が明るくなった。