壊れた☓☓の修復方法
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「触んなって言ってんじゃん!」その日、香織が放った言葉は、狭いマンションのLDKに、まるでガラスの破片を撒き散らしたかのような鋭さで響き渡った。母親の恵美(えみ)は、差し出した手を空中で止めたまま、文字通りフリーズしていた。手に持っていたのは、洗濯し終えて綺麗に畳まれた高校の制服のスカートだ。香織の部屋のドアの前に置いておこうとしただけだった。しかし、タイミング悪く部屋から出てきた香織と鉢合わせ、その手が「自分の不可侵領域」に侵入しようとしたように見えたのだろう。
本文
「触んなって言ってんじゃん!」
その日、香織が放った言葉は、狭いマンションのLDKに、まるでガラスの破片を撒き散らしたかのような鋭さで響き渡った。
母親の恵美(えみ)は、差し出した手を空中で止めたまま、文字通りフリーズしていた。手に持っていたのは、洗濯し終えて綺麗に畳まれた高校の制服のスカートだ。香織の部屋のドアの前に置いておこうとしただけだった。しかし、タイミング悪く部屋から出てきた香織と鉢合わせ、その手が「自分の不可侵領域」に侵入しようとしたように見えたのだろう。
香織は、恵美の手からひったくるようにしてスカートを奪い取ると、そのまま自分の部屋へと引きこもった。バタン、という激しいドアの閉まる音が、築十五年のマンションの薄い壁を震わせる。
後に残された恵美は、深く、重い溜息をついた。
これで、何度目だろう。
高校一年生になった娘の香織が「それ」になったのは、春の終わり頃だった。
それまでは、どちらかと言えば「手のかからない良い子」だった。学校での出来事をよく話し、週末には一緒に買い物に出かけ、流行りのスイーツの店に並んだりもした。恵美は、自分と娘の関係は友達のように良好で、世間一般で言われる「反抗期」なんていう嵐は、うちには吹かないものだと高を括っていたのだ。
それが、ある日を境に、香織はすべてのシャッターを下ろした。
最初は小さな変化だった。話しかけても「別に」「普通」としか返さなくなった。一緒にテレビを見るのをやめ、夕食が終わるとすぐに自分の部屋にこもるようになった。
そして夏が過ぎる頃には、明確な「敵意」を向けてくるようになった。
恵美が部屋を掃除しようとすれば「プライバシーの侵害」。
体調を気遣って「ちゃんと食べてる?」と聞けば「うるさい、放っといて」。
進路のプリントについて尋ねれば「自分の人生なんだから口出ししないで」。
香織の部屋のドアには、いつからか、黒いマジックで書かれた小さな紙が貼られていた。
『関係者以外立入禁止』
関係者とは、もちろん恵美のことではない。香織自身、ただ一人を指している。
恵美は、リビングのソファに腰掛け、頭を抱えた。
夫は数年前に単身赴任で海外に赴任しており、基本的には恵美と香織の二人暮らしだ。相談できる相手は画面の向こうの夫しかいないが、夫に話しても「まぁ、そういう時期だから大目に見ろよ」と、遠い国からの気楽なアドバイスしか返ってこない。現場のこの、張り詰めた空気の冷たさを、彼は知らないのだ。
「どうして、あんなに攻撃的になれるのよ……」
恵美の心にあるのは、怒りよりも、圧倒的な「寂しさ」と、正体のわからない「恐怖」だった。自分が愛して育ててきた、あの小さくて可愛らしかった娘は、どこへ行ってしまったのだろう。今の香織は、まるでトゲだらけのハリネズミのようで、近づく者すべてを傷つけようとしているように見える。
一方、ドアの向こう側。
六畳の自室に閉じこもった香織は、ベッドに倒れ込み、天井を睨みつけていた。
胸の奥が、ずっと焼け付くように熱い。イライラする。そのイライラの正体が自分でもわからないから、余計に腹が立つ。
お母さんが嫌いなわけじゃない。それは、心のどこかで分かっている。分かっているけれど、お母さんの顔を見るだけで、その声を聞くだけで、体中の血が逆流するような衝動に駆られるのだ。
「何が『ちゃんと食べてる?』だよ。何が『勉強進んでる?』だよ。全部、私のことコントロールしたいだけでしょ」
香織はスマートフォンを掴み、SNSの裏アカウントを開いた。そこには、同じような苛立ちを抱えた同世代の言葉が溢れている。
『親の「あなたのためを思って」が一番うざい』
『過干渉すぎて息が詰まる。早く一人暮らししたい』
『私の部屋なのに、勝手に入ってこようとするの本当に無理』
それらの画面をスクロールしながら、香織は小さく呟いた。
「そう。みんな同じ。親なんて、子供を自分の所有物だと思ってるんだ」
香織にとって、恵美の言葉はすべて「侵略」だった。
私の領域に、私の心に、土足で踏み込んでこないでほしい。私は私という独立した人間なのに、どうしてお母さんはいつまでも「私の赤ちゃん」みたいに扱おうとするのか。その過剰なまでの愛情が、今の香織にとっては、首を絞められるロープのように苦しかった。
ベッドの脇にある鏡に、自分の顔が映る。
不機嫌そうに歪んだ口元、鋭くなった目つき。自分がどんどん「嫌な奴」になっていくのが分かった。でも、優しくする方法が、もう分からなくなってしまったのだ。一度引いてしまった境界線を、どうやって崩せばいいのか、香織自身にも分からなかった。
秋が深まるにつれ、二人の間の溝はさらに深まり、精巧な「冷戦構造」が完成しつつあった。
平日の朝、リビングには会話がない。
恵美は朝食を作り、テーブルに並べる。香織は、恵美がキッチンで背中を向けている隙を狙って部屋から出てきて、無言でトーストを口に運ぶ。
「いってらっしゃい」
恵美が声をかけても、香織は靴を履きながら、小さく「ん」とだけ言って、ドアを閉める。
恵美は、ネットで「反抗期 娘 接し方」と検索する日々を送っていた。
そこには様々なアドバイスが書かれていた。
『見守ることが大切です』
『過干渉は避け、子供からの発信を待ちましょう』
『子供のイライラは、成長の証。親への甘えです』
「甘え、ねぇ……」
恵美はため息をつく。あれが甘えだとしたら、あまりにも暴力的すぎる。
けれど、恵美も学習した。反論すれば火に油を注ぐだけだ。だから最近は、香織がどれだけ冷たい態度をとっても、必要最低限のこと以外は口を出さず、感情を無にしてやり過ごすことに決めていた。
それが、香織にとってはさらに気に入らなかった。
(何その、可哀想な母親ぶった顔)
学校へ向かう電車の中で、香織は窓の外を見ながら毒づいていた。
(私が怒ったら、お母さんはいつも『私は何も悪いことしてないのに』って顔をする。ずるい。被害者面しないでよ。私がこんなに苦しいのは、お母さんのせいなのに)
香織の苦しみは、学校での閉塞感にも起因していた。
高校に入学して半年。友人関係はそれなりに上手くいっているが、常に「周りに合わせる自分」に疲れていた。嫌われたくないから、友達の趣味に合わせ、笑いたくない時にも笑う。成績も、平均点を下回らないように必死でしがみついている。
外でそうやって、すり減るほど「いい子」の仮面を被っているからこそ、家の中ではその反動が爆発してしまうのだ。
安全に、100パーセントの感情をぶつけられる相手。それが、恵美だった。
どんなに酷い言葉を投げつけても、絶対に自分を捨てないと分かっている相手。
香織は、自分の甘えを自覚していながらも、その甘えの構造そのものに、また自己嫌悪を抱くという悪循環に陥っていた。
ある土曜日の午後、事件は起きた。
恵美がリビングでスマートフォンのカレンダーを確認していると、香織が珍しく、自分から部屋を出てきた。手には、学校から配られた進路希望調査のプリントを持っている。
「これ。サインして」
香織はプリントをテーブルに放り出した。
恵美はプリントを拾い上げ、内容を確認した。そこには、第一志望の欄に、地元から遠く離れた地方の公立大学の名前が書かれていた。新幹線を使っても数時間かかる場所だ。
恵美は思わず、声を大きくした。
「……ここ、東京から随分遠いじゃない。どうしてこの大学なの? 都内にも、同じ学部のある大学はたくさんあるでしょ?」
香織の目が、一瞬で冷たく据わった。
「別に。そこに行きたいから」
「そんな簡単な理由で決めないで。一人暮らしするとなると、お金だってかかるし、女の子が誰も知り合いのいない土地に行くなんて、お母さん心配だわ」
『お母さん心配だわ』
その言葉が、香織の逆鱗に触れた。
「ほら、またそうやって反対する!」
香織はテーブルを叩いた。
「心配心配って、結局は私を近くに置いておきたいだけでしょ? 私が自分の意志で何かを決めようとすると、いつもそうやって潰そうとする! 私を一生、自分の思い通りにコントロールしたいんだ!」
「コントロールなんてしてないわよ! 現実的な話をしてるの。あなた、一人で家事も何もできないじゃない!」
「できないんじゃなくて、お母さんがやらせないんでしょ! 私から自立の機会を奪ってるのはお母さんじゃん! 大嫌い、本当に顔も見たくない!」
香織はプリントをひったくると、自室へと駆け込んだ。
そして、これまでにないほどの勢いでドアを閉めた。ガチャン、という激しい音が響き、廊下に置かれていた小さな花瓶が床に落ちて割れた。
恵美は、割れた花瓶から流れた水と、散らばった花びらを見つめながら、その場にへたり込んだ。
涙が、ぽろぽろと溢れて止まらなかった。
「どうして……どうしてそんなに私を憎むの……?」
愛情を注いできたはずだった。不自由のないように、不快な思いをさせないように、先回りして全てを整えてあげてきた。それが、どうして「コントロール」なんて言葉で片付けられなければならないのか。
恵美の心の中で、何かが音を立てて崩れていった。
その日を境に、二人の関係は「冷戦」から「完全な断絶」へと移行した。
香織は、恵美が作った料理を一切食べなくなった。
学校の帰りにコンビニでパンや弁当を買い、それを自分の部屋で食べる。ゴミは部屋の中に溜め込み、恵美に触らせようとしない。
恵美が「ご飯、作ってあるから」と言っても、無視して通り過ぎる。
恵美もまた、限界を迎えていた。
何をしても拒絶される。話しかければ怒鳴られるか、無視される。そんな生活に疲れ果て、恵美は香織へのアプローチを一切やめた。
朝の「いってらっしゃい」も言わなくなった。夜、香織が帰ってきても、リビングから声をかけることもしない。
家の中は、不気味なほど静まり返っていた。
同じ屋根の下に暮らしているのに、二人はお互いを「存在しないもの」として扱うようになった。すれ違う時も、視線すら合わせない。まるで、同じ空間に存在する別々の幽霊のようだった。
香織は、自室のベッドの中で、強烈な孤立感に苛まれていた。
(お母さん、もう私のこと、どうでもよくなったんだ)
あれほど嫌がっていた過干渉がなくなってみると、そこに待っていたのは、底なしの虚無感だった。
朝起きても、テーブルの上には自分の分の朝食はない。冷蔵庫を開けても、自分のために買われたジュースはない。恵美は、自分自身の食事だけを用意し、淡々と生活している。
それが、香織には耐え難かった。
「放っといて」と言ったのは自分だ。自分の思い通りになったはずなのに、どうしてこんなに胸が苦しくて、寂しいのだろう。
結局のところ、自分は「怒っているお母さん」や「心配しているお母さん」の関心を引きたかっただけなのではないか。その歪んだ事実に気づきそうになり、香織は慌てて思考を打ち消した。
(違う。私は間違ってない。親から自立するために、これは必要なプロセスなんだ。みんな、こうやって親と離れていくんだ)
そう自分に言い聞かせるが、涙が勝手に目尻からこぼれ、枕を濡らした。
部屋の中に充満するコンビニ弁当のプラスチックの臭いが、自分の惨めさを際立たせているようだった。
ある日の夜、香織はひどい頭痛と寒気に襲われた。
熱を測ると、38.5度あった。
(どうしよう……)
いつもなら、すぐに恵美が気づいて、おでこに冷却シートを貼ってくれ、お粥を作ってくれた。しかし、今の二人の関係では、自分から「熱が出た」と言うのは、これまでの反抗がすべて嘘になるような、負けを認めるような気がしてできなかった。
香織は毛布にくるまり、ガタガタと震えながら耐えた。
壁の向こうからは、テレビの微かな音が聞こえてくる。お母さんは、普通に過ごしている。私がこんなに苦しんでいることも知らずに。
怒りと、悲しさと、身体の痛みが混ざり合い、香織は意識を失うように眠りについた。
翌朝。
恵美は、いつまで経っても香織が部屋から出てこないことを不審に思った。
時計はすでに午前8時を回っている。いつもなら、とっくに学校へ行く時間だ。
「……香織?」
数週間ぶりに、恵美は香織の部屋のドアをノックした。
返事はない。
「香織、入るわよ」
恵美がドアを開けると、部屋の中は異様な熱気に包まれていた。散らばったゴミの奥にあるベッドで、香織が真っ赤な顔をして、荒い息を吐いていた。
「香織!」
恵美はすぐに駆け寄り、香織の額に手を当てた。驚くほど熱い。
香織はうっすらと目を開け、恵美の顔を見ると、力なく目をそらした。
「……触ら、ないで……」
その期に及んでもまだ拒絶の言葉を吐く娘に、恵美の胸に、かつてない感情が湧き上がった。それは怒りではなく、深い、深い、母親としての「覚悟」のようなものだった。
「バカなこと言ってんじゃないの!」
恵美は、香織の反抗期が始まって以来、初めて強い口調で怒鳴った。
「触るなと言われても触るわよ! あなたがどんなに私のことを嫌いでも、大嫌いでも、私はあなたの母親なの! あなたが病気で苦しんでるのを、放っておけるわけないでしょ!」
香織は、恵美の怒声に目を見開いた。
恵美はすぐに洗面所へ向かい、冷たい水で絞ったタオルと、買い置きしてあったスポーツドリンク、そして解熱剤を持ってきた。
香織の身体を起こし、薬を飲ませる。香織は抵抗する力もなく、恵美に身を委ねるしかなかった。恵美は、香織の額の汗を優しく拭き、冷たいタオルを乗せた。
「……部屋、汚くてごめんね」
恵美は、散らばったコンビニのゴミを片付けながら、静かに言った。
「あなたが一人で頑張ろうとしてたの、分かってた。でもね、頼ることは悪いことじゃないのよ。お母さんは、あなたに頼られたかったの。置いていかれるのが、寂しかったのよ」
ゴミ袋を縛る恵美の背中を見つめながら、香織の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「お母さん……」
小さく、掠れた声で呼ぶと、恵美が振り返った。
「ごめんなさい……。私、お母さんが嫌いなわけじゃないの。でも、なんか、自分で自分がコントロールできなくて……。イライラして、酷いことばっかり言って……」
香織は、布団に顔を埋めて泣いた。半年間、胸の奥に溜め込んできた、どろどろとした感情が、涙と一緒にすべて流れ出ていくようだった。
恵美はベッドの脇に腰掛け、香織の背中を、優しく、何度もさすった。
「分かってる。分かってるよ、香織。あなたが大人になろうとしてるんだよね。お母さんも、いつまでも子供扱いして、意地を張って、ごめんね」
その日、部屋に差し込む秋の光は、とても柔らかかった。
熱が下がった後、二人の関係が元通りに「ベタベタした友達親子」に戻ったわけではない。
一度壊れた関係は、完全に同じ形には修復できない。しかし、それは決して悪いことではなかった。
香織は、相変わらず自分の部屋にこもることが多い。
進路についても、地方の大学に行きたいという意志は変わっていない。けれど、今度は恵美と「話し合い」をするようになった。
「お母さん、これ、地方で一人暮らしした場合の費用を計算してみたんだけど」
ある夜、香織はノートを差し出した。そこには、アルバイトでいくら稼ぐか、仕送りはいくら必要か、現実的な数字が不器用な字で並んでいた。
恵美はそれをじっくりと眺め、微笑んだ。
「随分、現実的な計算ができるようになったじゃない。……分かったわ。これなら、お父さんとも相談して、応援することを考える」
「……ありがとう」
香織は少し照れくさそうに、でも真っ直ぐに恵美の目を見て言った。
香織の部屋のドアから、『関係者以外立入禁止』の紙は剥がされている。
その代わりに、今は新しい、小さなルールができた。
「入る時は、ちゃんとノックしてよね」
「分かってるわよ。ノックは3回でしょ?」
二人の間には、適切な「距離」が生まれた。
それは、お互いを一人の独立した人間として尊重するための、新しくて、少し大人の境界線だ。
香織は今日も、自分の部屋で机に向かっている。
時折、胸の奥が少しだけイライラすることもあるけれど、もうあの頃のように、世界をすべて壊してしまいたいとは思わない。
リビングからは、恵美がテレビを見て笑う声が聞こえてくる。