星屑のコーヒー
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
街の片隅に、看板のない小さな自家焙煎珈琲店がある。店主の老人は、毎夜、深夜二時になると奇妙な作業を始めた。焙煎機のホッパーに流し込むのは、茶色いコーヒー豆ではなく、どこか淡く青く光る小さな粒たちだった。「マスター、今夜の豆は、また一段とよく光るね」カウンターの端に座った常連の青年――タクミが、湯気を立てるカップを覗き込みながら言った。タクミは広告代理店に勤めるプランナーで、最近は連日の残業ですっかり疲れ果てていた。
本文
街の片隅に、看板のない小さな自家焙煎珈琲店がある。 店主の老人は、毎夜、深夜二時になると奇妙な作業を始めた。焙煎機のホッパーに流し込むのは、茶色いコーヒー豆ではなく、どこか淡く青く光る小さな粒たちだった。
「マスター、今夜の豆は、また一段とよく光るね」
カウンターの端に座った常連の青年――タクミが、湯気を立てるカップを覗き込みながら言った。タクミは広告代理店に勤めるプランナーで、最近は連日の残業ですっかり疲れ果てていた。
「ああ。今夜の仕入れはなかなかの収穫だったよ。先週、君がベランダで見上げた夜空の、あの瞬く星屑を少しばかりね」
マスターは白髪混じりの頭を掻きながら、静かに笑った。冗談とも本気ともつかない口調だったが、この店に通ううち、タクミはそれが本当なのだと薄々感づいていた。
「……僕の、昨日の疲れや焦りも、あの豆で焙煎したら消えるかな」 「さあな。だが、お前の心に引っかかっている『棘』くらいなら、香りと一緒にきれいに蒸発させてやれるかもしれん」
マスターはそう言って、手回しのミルに青く光る豆をざらざらと放り込んだ。 ガリ、ガリ、と硬質な音が静かな店内に響く。音に合わせて、店いっぱいに甘く芳ばしい、どこか懐かしい香りが広がっていった。それは、子供の頃に嗅いだ夏の夜の匂いや、遠い日の思い出の断片を呼び起こすような不思議な香りだった。
カップに注がれたコーヒーは、夜の闇のように深い黒の中に、星屑のように微かな金色の光を帯びていた。
タクミがそっと口をつける。 瞬間、喉の奥から胸のあたりにかけて、じんわりと温かい光が広がった。
「あ……」
胸のつかえが、まるで春先の雪のようにすっと溶けていく。企画書が通らなかった悔しさも、上司に叱られたトゲトゲしい言葉も、その温かさに包まれて、丸みを帯びた星の欠片のように遠ざかっていった。
「どうだ?」 「……美味しいです。なんだか、肩の荷がすっと降りたみたい」
タクミが深く息をつくと、マスターは満足そうにうなずいた。
「人間はな、忙しすぎると自分の空を見上げる余裕を忘れてしまう。だから私は、こうして空から少しだけ、お前のための『余白』を拾ってきてやっているのさ」
窓の外を見ると、いつの間にか夜明け前の青みがかった空が広がっていた。 タクミは空っぽになったカップを置き、椅子から立ち上がった。不思議と足取りは軽く、凝り固まっていた思考はクリアに澄み渡っている。
「マスター、また明日も来るよ」 「ああ、いつでもいらっしゃい。今夜はどんな星を用意して待っていようかな」
ドアの鈴がチリンと心地よい音を立てる。 外に出たタクミは、ふと立ち止まって見上げた朝の空に、まだ消え残る一番星を見つけた。なんだか、その星が昨夜のコーヒーカップの底で輝いていた光によく似ている気がして、彼は小さく笑い、新しい一歩を踏み出した。