33年後、初恋が僕を救った
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
五十二歳の佐伯直樹は、孫娘の笑い声で朝を迎える、ごく穏やかな男だった。 ある日、固定電話が鳴る。骨髄バンクからの、適合の知らせ。迷わず協力を決めた彼の手元に届いた封筒には、三十三年間、看板からも地図からも目を逸らし続けてきた、病院の名前があった。 十九歳の春。サッカーしか見えていなかった青年が、その待合室で出会った一人の少女。 「隣、いいですか?」 飴の数で待ち時間を割る癖。焦げた卵焼き。夕焼けの海。 あの日から止まったままの時間が、いま、静かに動きはじめる。 これは、ひとつの初恋の記憶と、その先に続いていく人生の物語。
本文
第1話 あの病院
三十三年、その名前を目で追わないようにしてきた。
看板も、地図も、テレビの隅に流れるテロップも。
だから封筒の差出欄の下にそれを見つけたとき、佐伯直樹は、文字を読むより先に息を止めていた。
*
その数日前の朝は、笑い声から始まった。
五月の終わりの風は、夏の下書きみたいにぬるかった。尾道の坂の途中にある佐伯家の庭は、狭いくせに日当たりだけはよく、物干し竿の向こうに、瓦屋根の連なりと、それを縫うように光る瀬戸内の海が見える。潮の匂いは、朝のうちだけ薄い。
直樹は紫陽花の根元にしゃがんで、雑草を抜いていた。五十二歳の膝は、しゃがむことは黙って許すが、立ち上がるときには必ず一言文句をつける。左足へ重心を逃がす癖は、もう何十年来の付き合いだった。
「じぃじー!」
声のほうが先に到着した。遅れて、二歳の陽菜が、体を声に追いつかせようとする前のめりの走り方で、庭に転がり出てくる。サンダルが片方、脱げかけている。その後ろから、一歳の空が、四つん這いと二足歩行の境目を行き来しながら、必死についてくる。
「おっと」
つまずきかけた陽菜を、脇の下から掬い上げた。軽い。信じられないほど軽いのに、腕の中で暴れる力だけは一人前だ。柔らかい髪から、日向で干した布団と、ミルクと、少し汗の混じった匂いがした。
「つかまえた」
陽菜はきゃあと笑って、直樹の無精髭を、確かめるように小さな掌で叩いた。足元では空が、ズボンの裾を掴んで立ち上がり、自分の成果に驚いた顔でこちらを見上げている。
幸せだ、と思う。
そう思える自分に、直樹はいつも、少しだけ安堵する。
「お父さん、また甘やかして。お昼寝しなくなるでしょ」
縁側から、娘の真由が呆れ顔で声を投げてきた。
「半日くらい、いいじゃないか」
「その半日が、毎週なんです」
「そうか?」
「そうです」
言い返す娘の目尻が笑っている。直樹も笑った。何の無理もなく、自然に。少なくとも、そう見えるように、ではなく、本当に。そのはずだった。
妻がいる。巣立った三人の子供がいる。孫が二人いる。従業員六人の小さな金属加工の会社は、大きな注文こそ来ないが、潰れもしない。食うに困らず、雨風をしのぐ屋根があり、庭には紫陽花が咲く。五十二歳の人生としては、十分すぎるほど恵まれている。
それでも、胸の奥には、電源を入れたまま誰も触れなくなった旋盤が一台ある。
あの冬から、その機械は何も削っていない。ただ空のまま回り続けている。刃は錆びず、油も切らさず、低い唸りだけが、毎朝、律儀に立ち上がる。直樹はその前を、三十三年、足早に通り過ぎてきた。スイッチに手をかける気がないことを、誰にも悟られないように。
*
昼前に娘たちを見送ると、家は、楽器の音が急に抜けたみたいに静かになった。静香は商店街へ買い物に出ている。居間では、つけっぱなしのテレビが、どこかの町の祭りを映していた。湯呑みの緑茶から、細い湯気が真っ直ぐ立つ。湿布を貼るべきか、と膝のことを考えはじめた、そのときだった。
固定電話が鳴った。
最近は、保険の勧誘か、年寄り相手の詐欺くらいしか鳴らさない電話だ。押入れの奥から引っ張り出された古い楽器のような音が、やけに大きく居間に響いた。
「はい、佐伯です」
「佐伯直樹様でいらっしゃいますか。日本骨髄バンクの、コーディネーターの者です」
穏やかで、丁寧で、少し緊張を含んだ女性の声だった。ドナー登録。患者さんとの適合。最終的なご意向の確認。聞き慣れない言葉が、順番に並べられていく。けれど、意味は不思議なほどすぐに腑に落ちた。
登録したのは、まだ髪が黒かった頃だ。献血ルームの帰りに、紙切れ一枚へ名前を書いた。理由を訊かれても、たぶん、うまくは答えられない。ただ、誰かの順番を待つ長い椅子というものを、あの頃の自分は、人よりほんの少しだけ知っていた。
まさか、本当に電話が来るとは思っていなかった。
「患者さんについてお伝えできることは、あまり多くないのですが」
「いえ」
直樹は受話器を持ち替えた。掌が、少し汗ばんでいる。顔も名前も知らない誰かが、どこかの病室で、自分の細胞を待っている。その事実が、胸の中で静かに重さを持った。
「協力させていただきます」
答えるまでに、さほど時間はかからなかった。誰かが助かるかもしれない。それだけで、十分な理由だった。
電話を切ると、湯呑みの緑茶はぬるくなっていた。口の中に、渋い茶の味だけが残っている。
その日から三日間、直樹は、誰にもその電話のことを話さなかった。話すほどのことではない気がしたし、話してしまえば、それが現実の重さを持つ気もした。
工場の昼休み。プレス機の止まった作業場には、切削油の匂いと、弁当を広げる音だけが残っていた。隅では、古い旋盤が一台、昼休みのあいだだけ静かにしている。入社三年目の太一が、唐揚げを口へ放り込みながら、こちらを覗き込んできた。
「社長、今日、味噌汁に醤油入れてましたよ」
「入れてない」
「入れてました。自分で、こう、ちょろっと」
「……入れたのか、俺は」
「入れてました」
太一が声を立てて笑い、つられて職人たちも笑った。直樹も苦笑して湯呑みを取る。油にまみれた太一の背中は、若い頃の自分に、どこか似ていた。「慣れる」と素っ気なく答えた、十九歳の自分の声が、ふいに耳の奥で鳴る。慌てて、それを茶で流し込んだ。
*
封筒が届いたのは、その三日後の夕方だった。
郵便受けには、広告に混じって、角の硬い白い封筒が一通。上質な紙で、手に持つと思ったより厚みがあった。差出人は日本骨髄バンク。中には、同意書や検査の案内、そして「採取を担当する医療機関」の一覧が入っているはずだった。
玄関の上がり框に腰を下ろして、封を切る。書類を引き出し、一枚目を目で追い――
そこで、止まった。
採取施設の欄。印字された、病院の名前。
読めている。読めているのに、体が動かない。指先から血の気が引いて、紙の端が小さく震えた。遠くで、買い物袋を提げた誰かが、通りを歩いていく音がする。三和土から、湿った土の匂いが立ちのぼる。それなのに、鼻の奥だけが、あの消毒液の匂いを勝手に思い出していた。
白い床。午後の斜めの光。壁際の長椅子。そして、笑い声。
忘れたことなど、一度もなかった。ただ、思い出さないための手順を、毎日、飽きもせず踏んできただけだ。看板が見えたら目を逸らす。地図に載っていたら閉じる。近くを通る道は避ける。テレビに映れば、チャンネルを変える。三十三年かけて組み上げた、小さくて頑丈な回避の体系。
その体系の真ん中に、いま、あの名前が、何の前触れもなく置かれていた。
「……あの病院か」
声が、誰もいない玄関に落ちた。
*
「ただいま。あら、どうしたの、そんなところで」
引き戸が開いて、静香が顔を覗かせた。買い物袋から、長ネギが一本、行儀悪く飛び出している。台所に立つとき、必ず音程が半歩ずれる鼻歌を歌う人で、今も、ずれたままの旋律を口の端に残していた。
「いや」
直樹は少し迷って、それから、封筒を差し出した。
「ドナーの話が来た。骨髄の」
「え、本当に?」
静香は目を丸くして、袋を置き、封筒を受け取った。目尻から先に笑う人だ。喜ぶとき、まず目尻が笑って、口が少し遅れてついてくる。
「すごいじゃない。登録してたのね」
「ずっと昔にな」
書類に目を落とした静香の視線が、一枚目の端で、ほんの一拍、止まったように見えた。気のせいだ、と直樹は思った。思ってから、そう思いたがっている自分に気づいた。
「受けるの?」
「ああ」
「あなたらしいわね」
静香は穏やかに微笑んで、台所へ向かった。直樹も笑い返した。けれど胸の奥では、別の声が、水面に落ちた石のように静かに響いていた。
――行くのか。あの場所へ。
この人は何も悪くない。三十年近く、同じ屋根の下で、同じ食卓を囲んできた。熱を出した日も、会社が傾きかけた冬も、黙って隣に座っていてくれた。感謝している。愛情も、ある。それは嘘ではない。
それなのに、静香の笑顔を見るたび、胸のどこかが小さく軋む。誰かと比べているわけではない。ただ、比べるための物差しが、自分の中にまだ捨てられずに残っている。そのことが、静香に申し訳なかった。
夕食は、鯖の味噌煮だった。静香が魚の骨を、頼みもしないのに手際よく抜いていく。窓の外では、日が落ちて、海の色が、鉄の錆に似た赤から群青へと沈んでいった。
*
その夜は、眠れなかった。
布団に入っても、目が冴えている。静香の寝息は規則正しく、壁の時計の秒針は、必要以上に大きな音で時間を切り刻んでいた。直樹は仰向けのまま、暗い天井を見つめた。
行くのか、と、もう一度、自分に訊く。
答えは、もう出ていた。行く。行くに決まっている。誰かの命がかかっている。足がすくむとか、胸が痛むとか、そんなことは、理由にならない。
それでも、目を閉じると、あの場所が、向こうから近づいてきた。
三十三年前。十九歳だった頃。サッカーしか見えていなかった頃。長く伸ばした髪を後ろで一つに束ね、日に焼けた首筋を、風に晒していた頃。
記憶の扉が、蝶番の音も立てずに開く。
春の午後だった。待合室の窓から斜めに射した光が、ワックスで磨かれた白い床に、四角い日だまりを作っていた。壁際の長椅子に座った十九歳の直樹は、順番を告げる声を待ちながら、読むでもない雑誌を膝に開いていた。消毒液の匂いと、遠くで鳴る呼び出しの音。紙をめくる、乾いた音。
そのとき、柔らかな声が、頭の上から降ってきた。
「隣、いいですか?」
顔を上げる。
思い出そうとするたび、彼女はいつも、顔より先に笑う。三十三年経った今も、それだけは、一度も崩れたことがない。
春の光を背負って、少女が立っていた。
その一言が、やがて自分の胸に、止まらない旋盤を一台据えることになるとは。十九歳の直樹は、まだ知らなかった。
(第2話へ続く)
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