『逃げ出した跡取り息子と、僕の初恋を守るパティシエ』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
創業九十年を誇る下町の老舗和菓子屋『もち月』。 職人である父親の圧倒的な才能に打ちのめされ、跡取りの道を諦めた主人公・茂(しげる)は、逃げるように大学で経済学を学ぶ日々を送っていた。 そんな茂の前に現れたのは、隣に住む幼馴染の愛(あい)。パティシエを目指して洋菓子専門学校に通う彼女は、なぜか『もち月』に通い詰め、和菓子の基礎や伝統の餡づくりを熱心に学んでいた。 経営難に直面する店を救うため、そして幼い頃に交わした「大切な約束」を守るため、愛が差し出したのは、和と洋の技術を結集させた至高の新作和菓子『重ね恋』。 「逃げてたのは、俺の方だった――」 幼馴染のまっすぐな情熱に心を動かされた茂は、大学で培ったマーケティングと経営の知識を武器に、店の起死回生をかけた挑戦へと立ち上がる。 ひとつの試作品から始まる、伝統と革新、そして甘く切ない恋の物語。
本文
茜色の夕陽が下町の商店街を染め上げる頃、路地裏に漂う香ばしい焙煎の匂いに混じって、わずかに糖分を含んだ冷たい風が吹き抜けていた。 創業から九十年を数える老舗和菓子屋『もち月』の奥座敷。その畳の上で、俺――茂は大学の講義ノートを広げたまま、乾いたため息を吐き出していた。
『現代マーケティングと消費者心理の分析。リテールにおける顧客導線の最適化について』
白亜の表紙に並ぶ小難しい活字の列は、職人である親父の圧倒的な背中から逃げ出した俺にとって、都合のいい防壁にすぎなかった。才能がないという現実から目を背け、安全な「経営の理屈」という砦に立てこもっている。そんな自分の臆病さが、ノートのインクよりも黒く澱んで見える気がした。
「茂くん、また難しそうな顔して」
乾いた木の引き戸が軽やかに滑り、聞き慣れた声が空間の空気を一変させた。 隣の家に住む幼馴染の愛だった。洋菓子の専門学校に通う彼女は、制服のブレザーの裾を翻しながら、足早に部屋へと入ってくる。手には、ずっしりと重そうなパティシエ用の紙袋が提げられていた。
「愛か。洋菓子の学校に行ってんのに、なんで毎日うちの店に入り浸って親父から餡の炊き方なんか習ってんだよ」 「いいでしょ別に。私の自由だもん。……ほら、これ食べてみて」
愛は少し勝ち誇ったような、それでいてどこか照れくさそうな笑みを浮かべ、白い陶器の小皿をちゃぶ台の上に置いた。 皿の上には、純白の求肥に包まれた、手のひらサイズの丸いお菓子がちょこんと鎮座している。どこか不器用でありながら、職人の手つきとは違う洗練された丸みがあった。
箸を伸ばし、そっと持ち上げる。驚くほど柔らかく、絹糸の布を触っているかのようなしっとりとした弾力が指先に伝わってきた。 一口かじると、まず鼻腔をくすぐったのは、下町の和菓子屋ではまずお目にかからない濃厚で香ばしい発酵バターの芳醇な香りだった。直後、薄い求肥がプツリと裂け、中から現れた自家製粒餡の上品な甘みが舌の上にとろけるように広がる。そして、餡の重みを引き締めるかのように、フランボワーズ特有の鮮烈な酸味が弾けた。 和菓子の持つしっとりとした奥深さと、洋菓子の華やかなアロマが、口の中で見事に手を取り合っている。
「……うまい。なんだ、これ」 言葉が自然と漏れた。 「『重ね恋(かさねこい)』って名前にしようと思ってるの。和菓子の餡と求肥に、洋菓子の発酵バターと果実の酸味を合わせたの」
愛は両手を膝の上で軽く握りしめ、じっと俺の反応を窺っていた。その額にはうっすらと汗が滲み、鼻の頭には白い小麦粉がちょこんと付いている。その小さな汚れさえ愛おしく思えるほど、目の前のお菓子には確かな才能の結晶が詰まっていた。
「『もち月』、最近お客さん減ってるでしょ。商店街のアーケードもシャッターが閉まるところが増えたし……このまだと店、たたむかもしれないって、おじさんが一人でラジオを聴きながら寂しそうにしてたの。私、そんなの嫌だもん」 「愛……」 「茂くんは昔、『僕がこの店を継いで、世界一のお菓子屋にする』って言ってくれたじゃない。私はね、あの時茂くんが作ってくれた、ちょっと焦げ臭くて不格好なみたらし団子の味を、今でもはっきり覚えているの。だから……この店を、茂くんの帰ってくる場所を、どうしても守りたかったの」
胸の奥の柔らかい場所を、冷たい氷で急に押されたような痛みが走った。 俺は親父の凄まじい技術の前に打ちのめされ、自分の限界を勝手に決めて逃げ出していただけだ。大学の講義という安全地帯に隠れ、家業の衰退を時代のせいにしていた。 なのに愛は、俺が遠い昔に交わした子供の約束をずっと胸にしまい込み、俺の代わりに汗を流し、この店を救うための武器をたった一人で探し求めてくれていたのだ。
「……逃げてたのは、俺の方だったな」
俺は目の前の経済学のノートを、バタンと音を立てて閉じた。 技術ではまだ親父や愛に敵わない。だが、俺には大学で這いずるようにして学んできた「経済学」と「マーケティング」という、別の角度からこの店を支えるための知恵がある。
「愛、そのお菓子、俺に預けろ。この店は絶対潰させない」
それからの俺の動きは、自分でも驚くほど素早かった。 朝は大学の講義で消費者行動論と財務管理の基礎を叩き込み、午後は実家に戻って愛の試作するお菓子の原価計算とパッケージの構想を練り上げる。二人の共同作業は、まるでパズルのピースが音を立てて噛み合うように熱を帯びていった。
俺は『重ね恋』という商品のターゲットを、これまで和菓子店に足を運ぶことのなかった若い世代や、街を訪れるカップルに絞り込んだ。そして、情報発信の主戦場として、店専用のSNSアカウントを新たに立ち上げた。
ただ商品を並べるだけの古い宣伝はしない。 スマホの画面いっぱいに広がるのは、純白の求肥にナイフが入り、中から艶やかなルビー色のフランボワーズ餡とバターがとろりと溶け出す瞬間の、わずか五秒の短尺動画だった。動画のバックには、下町の夕暮れを思わせるアコースティックギターの静かな旋律と、二人がこの味にたどり着くまでの試行錯誤のストーリーを綴ったテキストを添えた。
経済学の講義で習った「情報の非対称性の解消」と「体験型消費の設計」を、実家の和菓子屋という小さな舞台で限界まで実践する。 限定パッケージのデザインは愛が担当し、包装紙には和紙の風合いを残しつつ、洋菓子の箱を思わせるスタイリッシュな箔押しを施した。さらに、廃棄ロスをゼロにするための完全予約制システムを導入し、仕入れの無駄を徹底的に排除した。
「茂くん、これ……昨日の夜の投稿、インプレッションが五万を超えてるよ!」
ある日の深夜、愛が血相を変えて俺の部屋に駆け込んできた。スマホの画面には、見知らぬユーザーからの絶賛のコメントが滝のように流れていた。
『断面の美しさが犯罪的すぎる』 『和菓子なのに、まるで代官山のパティシエールが作ったみたいな洗練された味』 『老舗の跡取り息子と幼馴染のパティシエって設定がエモすぎて泣ける』
ネットの波は、静まり返っていた下町の商店街に予想外のうねりをもたらした。 週末の朝、シャッターを開けた『もち月』の店頭には、これまで見たこともないような若い客層の長蛇の列ができていた。歴史ある石畳の上にスニーカーの足音が響き、ガラス戸の向こうからは「可愛い!」「買えるかな?」という弾んだ声が聞こえてくる。
「おい、茂……これはいったい、どういうことだ……」
白衣に身を包んだ親父が、目の前の光景に信じられないという顔をして店の奥から出てきた。その手には、焼き上がったばかりの『重ね恋』の木型が握られている。 俺は父の前に立ち、まっすぐとその目を見据えた。
「俺が考えた客層分析と、愛が作った味の合わせ技だよ。親父、俺たちにこの店を任せてくれ」
親父はしばらく絶句していたが、やがてゴツゴツとした大きな手で俺の肩をガツンと叩いた。その目尻には、隠しきれない熱いものが光っていた。
喧騒の週末が過ぎ去り、街に再び静けさが戻った月曜日の夜。 店じまいを終え、片付けを済ませた俺と愛は、並んで近くの神社の境内へと足を運んだ。境内の古い木のベンチに腰を下ろすと、冷えた夜風が火照った頬を心地よく撫でていく。
俺は買ってきたばかりの缶チューハイのプルタブを開け、愛にはコンビニで買った温かいミルクティーを差し出した。 「お疲れ、愛。今日で今週分の予約も完売だ」 「うん……夢みたい。あんなにお客さんが並んでくれるなんて、おじさんもずっと嬉しそうに餡を練ってたよ」
愛はミルクティーの缶を両手で包み込み、湯気をぼんやりと見つめている。 夜空には秋の澄んだ星が瞬き、遠くの踏切の音がカチャン、と乾いた金属音を立てて消えていった。
「ねえ、茂くん」 「ん?」 「『重ね恋』の味、どうだった? 自分で言うのもなんだけど、私、今回の試作品が一番うまくできたと思ってて」 「ああ、すごく美味しかった。和と洋が喧嘩しないで、お互いの良さを引き立て合ってたよ」 「ふふ、でしょ? ……あのね、あの味、私たちのことなんだよ」
愛がふっと顔を上げ、じっと俺の目を見つめてきた。街灯のオレンジ色の光を映したその瞳は、夕日よりも赤く染まっているように見えた。
「和菓子の茂くんと、洋菓子の私。臆病になって逃げ出しそうになる茂くんを、私が洋菓子の華やかさで引っ張って、逆に一人で突っ走りがちな私を、茂くんの優しい和の心が包み込んでくれる。……私にとっての初恋は、ずっと茂くんだよ。小さかったあの頃から、一度も変わってない」
ドクン、と胸の奥で心臓が大きく跳ねた。 ずっと隣にいて、当たり前のように同じ景色を見てきた存在。自分の不甲なさから目を背け、勝手に挫折していた俺の心を救い、朽ちかけていた店を救ってくれたのは、いつだって愛のまっすぐな情熱だった。
「俺も……ずっと愛のことが好きだった」
気づけば、俺は愛の冷えた手を自分の大きな手で包み込んでいた。
「親父の技術の高さに圧倒されて、怖くなって逃げ出してた。でも、もう逃げない。大学で経営の仕組みをしっかり学んで、親父から和菓子の職人技も全部盗んでやる。愛の作る最高のお菓子と、俺の作る経営の仕組みで……この店を、世界一の和菓子屋にする。だから、俺の隣にいてくれないか」
愛の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙が街灯の光を浴びて、まるで小さな宝石のようにきらめいていた。
「……うん! 喜んで!」
愛は満面の笑みを浮かべ、俺の手をぎゅっと握り返した。
秋の夜空の下、鼻腔をくすぐる微かな甘い香りと共に、二人の新しい物語の幕が静かに、そして力強く上がっていく。ほろ苦い挫折の記憶を乗り越えた先で味わうその瞬間は、人生でどんな高級な菓子よりも、甘く愛おしい味がした。