来年の手帳、一日だけ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの手帳アプリ、サブスクの話。
本文
十一月一日の朝、スマホの通知は一件だけだった。
〔年間プランは、本日自動更新されます〕 〔更新料金:四千八百円〕
布団から腕だけ出して、わたしはその数字を見た。四千八百円あれば、ひと月の食費の三分の一がまかなえる。
日比野衣織、経済学部の四年。生協の書店では先週から、来年の手帳が平積みになっている。布張りのもの、透明なカバーのもの。わたしは三年前から、紙の手帳を買っていない。手帳アプリ「メクリ」の年間プランに入っているからだ。予定を打ちこめばAIが勝手に整理してくれて、夜になると「今日のよかったこと」を一行だけ書く欄が開く。
その欄を、わたしは六月から一度も開いていない。
解約しよう、と思った。使っていないものにお金を払えるほど、四年生の財布に余裕はない。
解約ボタンは、設定画面のいちばん奥にあった。押すと、メクリの吹き出しが出た。
〔解約の前に、二〇二七年の予定を書き出しますか? ほかのカレンダーアプリに移せます〕
親切なことだ。わたしは「はい」を押した。来年の予定なんて、どうせほとんどない。
読みこみの輪がしばらく回って、一覧が出た。
〔二〇二七年の予定:一件〕 〔四月一日(木) わたしへ (ロック中)〕
四月一日は、入社式の日だ。九月にようやくもらった、第三志望の会社の。けれど、こんな予定を入れた覚えはなかった。タップしても、中身は開かない。
〔この予定は、開封日まで閲覧・編集・削除ができない設定です〕 〔作成日時:二〇二三年十一月一日 午前零時四分〕
三年前の、今日だった。
「消して」
声に出して言うと、メクリが音声で答えた。
〔できません。この予定には、作成時に次の指示が付けられています〕 〔「わたしが消そうとしても、消さないで」〕
「その『わたし』が、今のわたしなんだけど」
〔はい。作成者も、現在の利用者も、日比野衣織さんです。どちらの衣織さんの指示を優先するかは、判断できません〕
AIに困られたのは初めてだった。
〔なお、解約した場合、この予定は開封日を待たずに失効します〕 〔これまで二回の更新のたびに、この予定を次の年の手帳へ引き継いできました〕
つまり、四千八百円を払わなければ、三年前のわたしの何かは、読まれないまま消える。ほとんど脅しだと思った。
「中身、少しだけでも分からないの」
〔内容は暗号化されています。作成者以外は読めません。作成者も、四月一日までは読めません〕
わたしは解約画面を閉じた。閉じただけで、押さないと決めたわけではなかった。
代わりに、日記の欄をさかのぼった。三年分の「今日のよかったこと」が、一日一行ずつ並んでいる。
〔学食の唐揚げが一個多かった〕 〔ゼミの発表で、声が震えなかった〕 〔銀杏のにおいで、秋だと分かった〕
くだらない一行ばかりだ。それでも毎日、何かひとつは見つけていた。
行は、六月十八日で止まっている。第一志望の最終面接の日だった。帰りの電車で不採用のメールを受け取って、その夜、欄を開いて、何も書けずに閉じた。次の日も閉じた。そのうち、開かなくなった。
九月に内定が出た日も、何も書かなかった。よかったことのはずなのに、一行にできなかった。喜んでいいのか、自分でも分からなかったからだ。電話で報告すると、母は「よかったねえ」と三回言った。わたしは「うん」と二回だけ答えて、早めに電話を切った。
スクロールする指が止まる。六月十八日から今日まで、百三十六日分の空欄が、白く続いていた。
三年前の十一月一日の夜のことを、少しずつ思い出した。
一年生の秋だった。初めてのアルバイト代が振りこまれた日で、わたしは何に使うか決められずに、布団の中でスマホを眺めていた。服でも本でもない、何か「続くもの」がほしかった。それで、手帳アプリの年間プランに入った。四千八百円。日付が変わってすぐに、最初の予定を入れた。
その日のアルバイトは、駅前のパン屋の閉店作業だった。売れ残りのクロワッサンを二つもらって、冷たい夜道を、袋を抱えて帰った。バターのにおいが、マフラーの中までしみていた。布団に入ってからも、そのにおいがしていた。たしか、一行目の「よかったこと」はそれだった。
何を書いたのかは、思い出せない。けれどあの夜のわたしは、四年後の自分も毎日よかったことを一行書いているはずだと、疑いもせずに信じていた気がする。
〔衣織さん。ひとつだけ、表示できる情報があります〕
メクリの吹き出しが、ひとりでに開いた。
〔予定のタイトルの下に、作成者が通知用に残した一行です。開封日の朝に表示される予定でしたが、解約されると表示されなくなるため、いまお見せします〕
〔「四月一日のわたしへ。今日のよかったこと、書けてる?」〕
わたしは、しばらく画面を見ていた。暖房をつけていない部屋で、スマホを持つ指先だけが冷たかった。
書けていない、と答えるのは簡単だった。けれど、まだ四月一日ではない。
解約ボタンは押さなかった。設定画面に戻って、その上にある「今すぐ更新する」を押した。四千八百円が、三年前と同じように引き落とされた。
それから、六月から閉じたままだった欄を開いた。カーソルが点滅している。百三十六日ぶりの一行を、何にしようか迷った。
窓の外では、通りの銀杏が黄色くなりかけていた。冷えた空気の奥に、去年と同じにおいがした。
〔今日のよかったこと:来年の手帳を買った〕
買った、というのは少し違う。払ったのは更新料で、増えたのは紙ではない。それでも、わたしにはそれがいちばん近い言葉だった。
保存すると、メクリが来年の一覧を出した。
〔二〇二七年の予定:一件〕 〔それ以外の日は、すべて空いています〕
空いている日がこんなに多い年は、初めてだった。四月一日までに、一行ずつ埋めていけばいい。