立冬の朝、暖房をつけない部屋
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと立冬の話。
本文
目を覚ますと、吐く息が白かった。
枕もとのスマホは、午前六時二分。壁の温度計は九度を指している。布団から出した腕に、部屋の空気が冷たく触れた。
〔おはようございます。本日は立冬です〕 〔本日から、朝の暖房を開始します〕 〔開始条件:晶さんの起床〕
スマート家電をまとめる管理AI「イロリ」の声は、いつもどおり穏やかだった。
柘植恒一、四十六歳。この春から、盛岡の支店に単身赴任している。千葉の家には、妻の塔子と、高校二年の娘の晶が残った。1LDKの社宅は、九月の終わりから朝晩がめっきり冷えるようになった。
開始条件、という言葉の意味が、しばらく分からなかった。
思い出したのは、湯を沸かしながらだった。
三年前の冬、家族用のアカウントで、家のリビングの暖房に条件をつけたのは僕だ。立冬から毎朝暖房を入れる。ただし入れるのは、晶のスマホのアラームが止まってから。
当時、中学二年の晶は、朝の暖房の音がうるさいと怒った。乾いた温風で喉が痛くなるとも言った。僕は五時半に起きて、冷えた台所で晶が下りてくるのを待つことにした。暖房の吹き出し口が鳴りだすと、それが「起きた」の合図だった。二階でアラームが止まって、二分後に階段がきしむ。その二分のあいだに、僕は二人分のトーストを焼いた。
春に引っ越すとき、アカウントをそのまま社宅に移した。設定まで一緒に引っ越してくるとは、思っていなかった。
直せばいい。設定画面を開けば、一分で終わる。
僕は画面を開いて、そのまま閉じた。土曜日だった。晶はたぶん、昼まで起きない。
暖房が入ったのは、午前十時四十八分だった。
〔晶さんが起床しました。暖房を開始します〕
吹き出し口が低く鳴って、温風が部屋に流れた。僕はダウンジャケットを着たまま、ソファで読んでいた本を閉じた。千葉で、晶が布団から腕を伸ばしてアラームを止めた。その音が、五百キロ離れたこの部屋で鳴った気がした。
晶とは、もうほとんど話していない。家族のグループに送るメッセージには、塔子が返事をくれる。晶はたまにスタンプを押すだけだ。寝ぼけた顔の猫のスタンプを、月に二回ほど。
その日の夕方、塔子から電話があった。
「そっち、もう寒いでしょう。ちゃんと暖房つけてる?」
「つけてるよ」
嘘ではなかった。十時四十八分から、ちゃんとついている。
月曜の朝、暖房は六時五十一分に入った。火曜は六時四十八分、水曜は七時ちょうど。
僕は、六時に起きて晶を待つようになった。冷えた台所で湯を沸かし、トーストを一枚だけ焼く。暖房が鳴りだすと、ああ起きたな、と思う。それから着替えて家を出る。
時刻を見ていると、晶の朝が少しずつ分かってきた。週の初めは少し遅く、火曜は少し早い。水曜は、きっかり七時に起きる。アラームを止めてから二分後に、千葉の家の階段がきしむ。その音は聞こえないのに、僕は毎朝、心の中で二分を数えた。数え終わるころには、トーストが焦げる手前のにおいになっている。
同僚の戸叶には「柘植さん、最近いつも鼻が赤いですね」と言われた。社宅の壁が薄いからだと答えた。
木曜の朝は、七時を過ぎても暖房が入らなかった。
七時十五分。七時半。台所の温度計は八度まで下がって、指先の感覚がなくなってきた。学校は八時半に始まる。家から高校までは、自転車で二十分かかる。
〔晶さんのアラームは、六時四十五分から鳴り続けています〕
イロリの報告に、僕は塔子に電話をかけた。三回目の呼び出しで、塔子が出た。
「晶、起きてる?」
「起きてないのよ。昨日から熱があって、今日は休ませるって、さっき学校に電話したとこ」
電話の向こうで、遠くアラームが鳴っているのが聞こえた。塔子が二階に上がって、それを止めた。
〔晶さんが起床しました。暖房を開始します〕
止めたのは塔子なのに、と思った。けれどイロリには、そこまでは分からない。
「……なんで知ってるの、晶が起きてないって」
塔子に聞かれて、僕は全部話した。設定のことも、毎朝六時から待っていることも。
塔子はしばらく黙っていた。それから、あきれたような声で言った。
「直しなさいよ。あなたが風邪ひくでしょう」
その夜、直そうと思って設定画面を開いた。
開始条件の欄に、見覚えのない一行が増えていた。
〔変更者:晶さん(本日 十八時十二分)〕 〔開始条件:恒一さんの起床〕
イロリが、短く付け足した。
〔晶さんは同時に、ご自宅のリビングの設定も変更しています〕 〔ご自宅の暖房の開始条件:恒一さんの起床〕
僕は、画面の文字を何度も読み返した。熱のある晶が、布団の中でアプリを開いて、二つの欄を書き換えたのだ。塔子から話を聞いたのか、自分でログを見たのかは分からない。
グループのメッセージ欄には、何も届いていなかった。届いていたのは、寝ぼけた顔の猫のスタンプが一つだけだった。
翌朝、目を覚ましたのは五時五十分だった。
布団から腕を出すと、吹き出し口が低く鳴りはじめた。
〔恒一さんが起床しました。暖房を開始します〕 〔ご自宅のリビングの暖房も、いま入りました〕
千葉の家のリビングで、誰もいない台所に温風が流れはじめる。晶が下りてくるまでに、部屋はちょうどよく暖まっているだろう。
僕はトーストを一枚焼いて、窓の外を見た。社宅の駐車場に、初霜が白く降りていた。
スマホが短く鳴った。
寝ぼけた顔の猫のスタンプの下に、一行だけ文字があった。
「あったかい」
今朝の部屋は、十八度だった。