『北方年代記』第七巻
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あらすじ
第一話 年代記 『北方年代記』第七巻、北暦三一二年の項。冬、南の峠の雪に閉ざされるを待ち、グラド王国軍およそ三千が国境を越える。将はガルディス。軍は灰原城を囲むも、攻めず。灰原城守将エルド、兵およそ二百八十。城下の民は前月のうちに南へ退いていた。包囲の初め、守将は南へ伝令を放つ。包囲は四十二日に及ぶ。城は落ちず。四十二日目、南方よりロステン伯の軍二千が雪の峠を越えて至り、グラド軍は退く。城内の死者九十余。多くは寒さと飢えによる。守将エルドはこの功により褒賞を受けるも辞退し、翌春、城を去る。その後の消息は記されず。
本文
第一話 年代記
『北方年代記』第七巻、北暦三一二年の項。
冬、南の峠の雪に閉ざされるを待ち、グラド王国軍およそ三千が国境を越える。将はガルディス。
軍は灰原城を囲むも、攻めず。
灰原城守将エルド、兵およそ二百八十。城下の民は前月のうちに南へ退いていた。
包囲の初め、守将は南へ伝令を放つ。
包囲は四十二日に及ぶ。城は落ちず。
四十二日目、南方よりロステン伯の軍二千が雪の峠を越えて至り、グラド軍は退く。
城内の死者九十余。多くは寒さと飢えによる。
守将エルドはこの功により褒賞を受けるも辞退し、翌春、城を去る。その後の消息は記されず。
――以上が、この戦いについて年代記が残したすべてである。
四十二日。二百八十人。九十余。
数字はいつも正確で、そして何も語らない。
城壁の上で何が起きていたのか。南へ走ったのは誰だったのか。閉ざされた峠を、援軍はなぜ越えたのか。
記録は答えない。記録者がそれを知らなかったのか、知っていて書かなかったのか、それもわからない。
これから語るのは、その空白に置かれていたかもしれないことである。
第二話 伝令
包囲の三日目の夜、三人の伝令が城の裏手の水門から出た。
トマはその二人目だった。十九歳。足が速い、というだけで選ばれた。
「一人でも届けばいい」
エルドはそう言って、三人に同じ書状を渡した。それが何を意味するか、三人ともわかっていた。
出発の前、エルドは一人ずつ名前を呼んだ。「トマ」と。それだけだった。
水門を出てすぐ、三人は別れた。雪原は月明かりで青白く、身を隠す場所はない。トマは森の縁を這うように進み、夜明け前に包囲の外へ抜けた。振り返ると、城壁の上に小さな灯がひとつ動いていた。
二日目に馬を失った。三日目に食糧が尽きた。四日目には、自分がまだ南へ向かっているのかもわからなくなった。雪は足跡を消し、方角を消し、やがて時間の感覚も消した。
ただ、懐の書状だけが重かった。
歩けなくなってからは、這った。考えていたのは城のことではなかった。水門の前で、名前を呼ばれたことだった。それだけのことが、なぜか手放せなかった。
六日目か、七日目か。木々の向こうに煙が見えた。村の煙なのか、敵の野営なのか、確かめる力はもう残っていなかった。
トマは書状を握ったまま、雪の上に横になった。
目を閉じる前に、もう一度だけ北を見た。灯は、もちろん見えなかった。
それでも、まだ誰かが歩いているはずだと思った。
第三話 城壁の灯
カイが城に来たのは、包囲の半月前だった。十五歳。村が焼かれ、行く先がなかった。
城でカイの名を知る者はいなかった。カイ自身、ここで誰かに覚えられるとは思っていなかった。
包囲の五日目の夜、城壁で見張りをしていると、灯が近づいてきた。守将のエルドだった。
エルドはカイの前で立ち止まり、少し考えてから言った。
「カイ、だったな。ノルデ村の」
返事ができなかった。エルドはカイの肩に手を置き、次の兵のところへ歩いていった。
それから毎晩、灯は来た。
粥が水になっても、隣の見張りが朝に冷たくなっていても、名前を呼び、肩に手を置き、去っていく。それだけは変わらなかった。
十五日目の夜、カイは思わず聞いた。
「援軍は、来るんですか」
エルドは答えなかった。ただ南の空を、しばらく見ていた。それから、いつものようにカイの肩に手を置いて去った。
その夜、カイは眠れなかった。
二十日を過ぎた頃、灯の来る時刻が、毎晩少しずつ遅れはじめた。それでも、来ない夜はなかった。
ある夜、カイはもう一度だけ聞いた。
「なぜ、毎晩歩くんですか」
エルドは少し黙ってから答えた。
「名前を呼ばれた者は、呼ばれたことを覚えている。それだけだ」
その夜からカイは、両隣の兵の名前を覚えるようにした。
三十日目、隣の老兵が倒れた。カイは老兵の名を呼び続けた。返事はなかったが、やめなかった。
灯が来たとき、エルドは老兵の傍らに膝をつき、長いあいだそうしていた。それから立ち上がり、カイの肩に手を置いた。
その手が前よりずっと軽くなっていることに、カイは気づいた。
第四話 副官の報告書
グラド軍副官ヴァルムは、包囲の初日から城壁の灯を数えていた。
灯はひとつだけだ。日没から二刻ほど後に東端に現れ、ゆっくり西へ移り、また東へ戻って消える。毎晩、それが繰り返された。
攻めればおそらく十日で落ちた。だが将軍ガルディスは攻めなかった。灰原城は春の南進の拠点になる。城壁を崩さず、兵も減らさずに手に入れる。そのために、峠が雪で閉ざされる冬を選んだのだ。待てば、城は自分から門を開く。
ヴァルムは二十年、城を囲む側にいた。落ちる城には順序がある。まず笑い声が消え、次に歌が消え、最後に灯が消える。灯の消えた城は、たいてい三日以内に門を開く。
灰原城は、十日目に笑い声が消えた。二十日目には歌も消えた。
灯だけが消えなかった。
「まだ歩いているな」
ヴァルムが言うと、ガルディスは地図から目を上げずに答えた。
「急ぐな。城は傷つけずに取る。峠が開くまで、誰も来ん」
その夜も、ヴァルムは灯を見ていた。灯は前の晩より遅く現れ、前の晩よりゆっくり動いた。途中で何度も止まった。止まるたびにヴァルムは息を詰め、そして灯はまた動き出した。
見栄なら、もっと速く歩く。
あれは、止まるたびに誰かの前に立っているのだ。
三十八日目、ヴァルムは本国への定時報告を書いた。兵糧の残り、病人の数、城の推定兵力。いつもの数字を並べたあと、少し迷って、一行だけ書き足した。
「城内の士気、衰えず。理由不明」
四日後、南の丘に旗が立った。
峠は閉ざされているはずだった。天幕の中で、ガルディスが初めて地図を床に落とした。
撤退する隊列の最後尾で、ヴァルムは一度だけ振り返った。昼の城壁に灯はない。それでも彼は、あの灯が歩いていたあたりを、しばらく見ていた。
第五話 書かれなかったこと
北暦三六〇年。王都の文書庫に、ひとりの老人が通うようになった。
カイは六十三歳になっていた。あの冬のことを人に話したことは、ほとんどない。話そうとすると、年代記の数字のようになってしまうからだった。
カイはまず『北方年代記』を開いた。四十二日。二百八十人。九十余。知っている数字だった。
次に、グラドから引き渡された軍の記録を探し、一通の報告書を見つけた。署名はヴァルム。
「城内の士気、衰えず。理由不明」
敵の中に、あの灯を見ていた者がいた。数字の言葉でしか書けずに、それでも書き残した者が。
最後に、ロステン伯の軍の行軍日誌を開いた。
一頁に、北から来た伝令の記述があった。凍傷甚だしく、二日後に死す。名をトマ。日誌は、彼が携えた書状を書き写していた。
「グラド軍三千、灰原を囲む。峠の閉ざされたるを知る。救援は求めず。
春まで、この城を渡さず。南は備えられよ」
カイは、その文面から目を離せなかった。
エルドは、援軍を待っていなかった。
城が落ちれば、春にグラドはそこから南へ下る。南には、逃がした城下の民がいる。だから冬のあいだ、城を渡さない。それだけのために、二百八十人で耐えたのだ。
あの夜、「援軍は来るんですか」と聞いたとき、エルドは答えなかった。答えられなかったのだ。来ないと知っていて、来るとは言えなかった。そして褒賞を辞退したのは、九十余人の死が、自分の選んだ結果だったからだ。
日誌は続いていた。
「伯、雪の峠を越えるを決す。諸将みな反対す。
伯曰く、敵もまた、峠は越えられぬと思うておる。ゆえに背は空いておる。
この者は越えてきた。ならば我らも越えられる」
峠では百余の兵が凍えて死んだと、日誌は記していた。
カイは長いあいだ、その頁を見ていた。
誰も越えられないと思っていた峠を、一人の伝令が越えた。救えとは書かれていない書状を、伯は救えという意味には読まなかった。越えられる、という証として読んだのだ。
エルドは誰にも約束しなかった。トマは届くと信じて走ったわけではなかった。伯は勝てると確かめてから動いたわけではなかった。
それぞれが、自分の持ち場で、途切れさせなかっただけだった。
カイは日誌を閉じ、自分の帳面を開いた。トマのこと、ヴァルムの一行のこと、毎晩城壁を歩いた灯のこと、そして書状の言葉を書いた。
最初の頁には、一行だけ記した。
「これは、記録されなかった者たちの名前の記録である」