西方戦役記・北暦四二七年
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あらすじ
敗将の算盤 西方戦役記・北暦四二七年 第一話 敗北の値段
本文
敗将の算盤
西方戦役記・北暦四二七年
第一話 敗北の値段
敵軍一万二千。
味方六千四百。
平原で会戦すれば、半日で終わる。
将軍レイヴァンは、地図の上に六つの小石を並べた。
「三千は残せる」
副官のセルドが顔を上げた。
「勝てると?」
「負けた後の話だ」
天幕の外では、兵士たちが夕食を取っていた。明日の戦いに備え、馬には普段より多くの飼葉が与えられている。
「王都からの命令は、敵主力を撃破せよ、です」
「知っている」
「撤退は認められておりません」
「それも知っている」
レイヴァンは小石を三つ、地図の南端へ動かした。
「我々が全滅すれば、敵は十日で王都に着く。三千を残せば、二十日はかかる」
「三千では敵を止められません」
「止める必要はない。追わせればいい」
セルドは地図を見た。
北には敵軍。南には王都へ続く街道。西には湿地。東には丘陵がある。
「将軍。敗北を計画しているのですか」
「そうだ」
「兵士には?」
「明日の朝、戦うと伝えろ」
「勝つために?」
レイヴァンは答えなかった。
代わりに、残りの小石を一つずつ数えた。
六千四百。
そのうち、何人が帰れるか。
それが彼にとって、この戦争で最も重要な数字だった。
第二話 右翼を捨てる
夜明け、両軍はアルダ平原で対峙した。
レイヴァン軍は中央に重歩兵二千四百、左翼に歩兵千六百、右翼に千二百を置いた。
残る千二百は後衛として、中央の後方に二列で配置された。
敵軍は中央に六千、両翼に三千ずつ。
数の差は明白だった。
敵将バルケスは、右翼への攻撃を命じた。
敵の左翼三千が前進する。
レイヴァン軍右翼は千二百。しかも、前面には浅い溝が掘られていた。
攻撃側は足を乱し、最初の突撃に失敗した。
二度目の突撃も退けられた。
三度目、右翼の指揮官ダルムが伝令を送った。
「敵を押し返しています。増援をいただければ反撃できます」
レイヴァンは返答した。
「増援は送らぬ。三度目を退けたら、丘へ退け」
ダルムは命令書を二度読んだ。
勝っている。
少なくとも、この場所では勝っている。
だが命令は撤退だった。
三度目の突撃を退けると、右翼は後退を始めた。
敵兵が歓声を上げた。
バルケスは右翼の崩壊と判断し、騎兵五百を追撃に投入した。
丘の裏へ消えた味方を追って、敵騎兵が駆け上がる。
その先には、何もなかった。
丘の裏側には急な斜面があり、騎兵は速度を落とさざるを得なかった。
そして斜面の下では、ダルムの兵が整然と南へ退いていた。
追撃を続けるには、騎兵も一度隊列を組み直さなければならない。
バルケスが丘の上に到着したとき、右翼の千二百はすでに遠ざかっていた。
「逃がしたか」
幕僚が答えた。
「しかし敵の右翼は消えました。中央を包囲できます」
バルケスはうなずいた。
その判断は、間違っていなかった。
第三話 中央の三時間
右翼が退いたことで、レイヴァン軍の中央は側面をさらした。
敵中央の六千が前進を始めた。
レイヴァンは中央の歩兵に、盾を密着させて防御するよう命じた。
反撃は禁じた。
前進も禁じた。
ただ耐えろ、と。
最初の一時間、中央は持ちこたえた。
二時間目、前列の兵が減り始めた。
敵は数を頼みに圧力をかけ続けた。レイヴァン軍は後列から兵を送り込み、前列の穴を埋めた。
三時間目、中央の指揮官が伝令を送った。
「限界です」
レイヴァンは地図を見なかった。
すでに、地形は頭に入っていた。
「左翼は?」
「敵右翼を牽制中です」
「後衛は?」
「準備を終えています」
「では中央を退かせろ」
「今ですか」
「今だ」
中央の兵が後退を始めた。
通常、敵の目前での後退は危険だった。背を向ければ追撃され、追撃されれば隊列が崩れる。
だがレイヴァンは、そのために後衛の千二百を二列に分けて置いていた。
第一列が前進し、敵の追撃を受け止める。
その間に中央が後退する。
次に第二列が前進し、第一列を収容する。
交互に退きながら、軍は少しずつ南へ移動した。
完全な撤退ではなかった。
少なくとも、敵からはそう見えなかった。
バルケスは敵中央が崩れたと判断し、追撃を命じた。
だが敵兵は逃げない。
一定の距離を退くと、また盾を構える。
近づけば抵抗し、離れれば退く。
バルケスは苛立った。
「なぜ崩れん」
幕僚は答えられなかった。
その頃、レイヴァンは後衛に命じていた。
「次の丘まで退いたら、そこで終わりだ」
「何が終わるのです」
「会戦が」
第四話 勝者の追撃
夕刻、バルケス軍はアルダ平原を制圧した。
敵軍は南へ退いた。
戦場には千を超える死体が残された。
軍旗も三本奪った。
勝利だった。
だがバルケスは、勝利の報告書を書かなかった。
「敵の主力はどこだ」
幕僚が答えた。
「南へ退却しました」
「追撃は?」
「騎兵を出しましたが、街道の橋が落とされております」
「迂回しろ」
「西は湿地です。東の丘陵を回る必要があります」
バルケスは地図を広げた。
南へ続く街道には、小さな川が三本あった。
橋はすべて落とされていた。
渡河できないわけではない。
だが、荷車と攻城器材を通すには仮橋が必要だった。
「敵は何人残っている」
「およそ四千かと」
バルケスは眉をひそめた。
「四千?」
「はい」
「六千四百の軍を破り、二千以上を討ち取ったというのか」
「そのようです」
「捕虜は?」
「三百余です」
バルケスは黙った。
戦場の死体には敵味方が混じっている。死者の数はまだ確かではない。
だが、敵軍の大半が組織を保って退いたことだけは明らかだった。
勝利したはずなのに、敵はまだ軍隊だった。
翌日、敵軍の小部隊が補給隊を襲った。
三日目、渡河地点で敵の弓兵が現れた。
五日目、東の丘陵で先遣隊が待ち伏せを受けた。
いずれも小規模な戦闘だった。
敵を追い払うことは容易だった。
だが、追い払うたびに一日が失われた。
七日目、バルケスは軍議を開いた。
「敵将の名は何と言った」
「レイヴァンです」
「奴は何を守っている」
「王都かと」
「違う」
バルケスは地図を指で叩いた。
「奴は距離を守っている」
誰も答えなかった。
「我々が一日進めば、奴も一日退く。追いつけば戦い、戦えば退く。奴は戦場を選んでいるのではない」
バルケスは地図の南端を見た。
「我々に、時間を使わせているのだ」
第五話 残った数字
北暦四二七年、アルダ平原の会戦。
王国軍六千四百は、北方連合軍一万二千に敗北した。
王国軍の損害は、戦死七百八十一、負傷千余、捕虜三百十二。
北方連合軍の損害は、戦死四百余、負傷千余。
王国軍は軍旗三本を失い、アルダ平原から撤退した。
会戦後、北方連合軍は王都への進軍を続けたが、河川と丘陵地帯でたびたび妨害を受け、王都到着まで二十六日を要した。
その間に王都では増援が到着し、防衛軍が再編成された。
北方連合軍は王都を包囲したが、秋の降雨によって補給が困難となり、二か月後に撤退した。
戦役は王国側の防衛成功として終わった。
しかし、レイヴァンは敗戦の責任を問われた。
軍法会議で、王命に背いて敵軍を撃破せず、撤退を事前に計画したことが問題とされた。
「勝利する意思はあったのか」
裁判官は尋ねた。
レイヴァンは答えた。
「ありませんでした」
法廷がざわめいた。
「では、何のために戦った」
「軍を残すためです」
「敵を倒すためではなく?」
「敵を倒すことが目的なら、全軍を投入していました」
「なぜそうしなかった」
「全滅するからです」
裁判官はしばらく黙った。
「王国軍は勝利したのだぞ」
「はい」
「お前の敗北の後に、王都は守られた」
「はい」
「それでも、お前は勝つつもりがなかったと言うのか」
「はい」
レイヴァンは、最初の夜に並べた六つの小石を思い出していた。
三千は残せる。
そう計算した。
実際には、四千余が組織を保って退くことができた。
予想より多く残った。
だが、七百八十一人は帰らなかった。
「私の計算は、間違っていました」
裁判官が顔を上げた。
「どこがだ」
「もっと残せたはずです」
その発言は、軍法会議の記録に残された。
レイヴァンは将軍職を解かれ、領地へ戻された。
北方連合軍の将軍バルケスは、帰国後に戦役の報告書を提出した。
アルダ平原の会戦については、こう記されていた。
「敵軍を撃破し、平原を占領せり。敵将は巧みに撤退し、その主力を保持せり」
報告書の末尾には、別の筆跡で一行が加えられていた。
「戦場に勝ち、戦役に敗る」
その一行を書いた者はわかっていない。
レイヴァンが晩年に残した帳面には、アルダ平原の戦死者七百八十一人の名前が記されていた。
最後の頁には、数字が二つだけあった。
六千四百。
四千三百七。
その下には何も書かれていなかった。