砂の上の退却
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
第一章 草原の子 十四の春、私は初めて自分の馬をもらった。栗毛の小柄な牝馬で、脚は細いが、草原を渡る風のように軽く走った。「明日からバルザの隊に入れ」鞍を締めながら、父はそれだけ言った。バルザは千騎を束ねる老人だった。若いころは西の国境で幾度も戦い、部族で彼の名を知らない者はいない。どれほど猛々しい男かと思っていたが、初めて会ったバルザは、羊の群れを眺めながら乳酒をすする、ただの痩せた年寄りに見えた。「アルシャか。弓は引けるか」「引けます。十歩先の野兎にも当てます」「そうか。では、逃げながら当ててみろ」その日から、私の稽古は逃げることになった。年上の騎兵が木の棒を振り上げて追ってくる。私は馬を
本文
第一章 草原の子
十四の春、私は初めて自分の馬をもらった。栗毛の小柄な牝馬で、脚は細いが、草原を渡る風のように軽く走った。
「明日からバルザの隊に入れ」
鞍を締めながら、父はそれだけ言った。
バルザは千騎を束ねる老人だった。若いころは西の国境で幾度も戦い、部族で彼の名を知らない者はいない。どれほど猛々しい男かと思っていたが、初めて会ったバルザは、羊の群れを眺めながら乳酒をすする、ただの痩せた年寄りに見えた。
「アルシャか。弓は引けるか」
「引けます。十歩先の野兎にも当てます」
「そうか。では、逃げながら当ててみろ」
その日から、私の稽古は逃げることになった。
年上の騎兵が木の棒を振り上げて追ってくる。私は馬を走らせ、鞍の上で身をひねり、背後の的に矢を放つ。手綱は放す。脚だけで馬に行き先を伝える。最初の十日、矢はほとんど空に消え、私は三度落馬した。
「前を向いて射るほうが、ずっと当たります」
擦りむいた膝を抱えて私が言うと、バルザは笑った。
「当たる。だが前を向いて射る者は、敵に向かって走っている。こちらが近づけば、向こうの槍も届く」
「では、どうすれば」
「離れたまま射ればいい。離れたまま射るには、退きながら射るしかない」
ひと月が過ぎるころ、私の矢は少しずつ的に届くようになった。そうなると今度は、早く本物の敵を射たくてたまらなくなった。仲間の若者たちも同じだった。東の谷で他の部族と小競り合いがあったと聞けば、皆で顔を見合わせ、どうして呼ばれないのかと不平を言い合った。
ある晩、焚き火のそばでそれを口にすると、バルザは薪を一本、灰の奥へ押し込んだ。
「アルシャ。草原で一番長く生きる馬は、どんな馬だと思う」
「一番速い馬です」
「違う。一番速い馬は、真っ先に狼を追いかけて、真っ先に食われる」
老人は火の具合を見ながら続けた。
「長く生きるのは、走るべき時を知っている馬だ。急ぐな。急ぐのは、相手が崩れてからでいい」
その言葉の意味を、私はまだ分かっていなかった。分かったのは、ずっと後になってからだ。
その年の秋、西の空に見慣れない煙が上がった。
第二章 西からの軍勢
煙は、国境の交易の町が焼かれたしるしだった。
逃げてきた商人たちの話では、西の大国が三万を超える兵を送り出したという。兵の多くは歩兵で、青銅と鉄で身を包み、背丈ほどもある大盾を並べて進む。彼らの前では、町の城壁さえ半日ともたなかった。
部族の長たちは、冬営地の大天幕に集まった。私はバルザの馬の口取りとして、入り口に立つことを許された。
「数ではかなわぬ。だが、我らには一万の騎兵がある」
最初に声を上げたのは、若い族長のテムルだった。人も馬も鎧で固めた槍騎兵を率いる、勇猛な男だ。
「我が槍騎兵が、正面から突き崩す。歩兵など、馬の勢いの前では草も同然」
幾人もの長が頷いた。天幕の中が熱を帯びたとき、黙っていたバルザが口を開いた。
「テムル殿。あの盾の壁に、正面から突っ込んだことはおありか」
「ない。だが――」
「わしはある。三十年前に一度な」
天幕が静まった。
「盾の壁にぶつかった馬は、止まる。止まった騎兵は、ただの的だ。あの日、わしの隣にいた者は皆、帰らなかった」
「では、どう戦えと」
「戦わずに戦う」
バルザは、地面に指で線を引いた。
「彼らは歩いてくる。重い鎧を着て、重い盾を持って。こちらは馬だ。近づかず、離れず、ひたすら矢を浴びせる。追ってくれば退き、止まればまた寄る。休む暇を与えない」
「矢はいずれ尽きる」
「尽きさせなければいい」
老人は天幕の外を指さした。冬営のために集めた駱駝が、何百頭も繋がれていた。
「あれに矢を積む。射手は矢が尽きれば駱駝のもとへ戻り、補ってまた出ていく。そうすれば、日が暮れるまで雨は止まない」
長たちは顔を見合わせた。誰かが、臆病者の戦だとつぶやいた。テムルも唇を噛んでいた。
「槍騎兵の出番はないと申すか」
「ある。最後にある」
バルザはテムルを真っ直ぐに見た。
「盾の壁が崩れた、その一瞬だけだ。それまでは丘の陰で待っていてもらう。どれほど焦れても、決して出てはならぬ」
長い沈黙のあと、最年長の族長がゆっくりと頷いた。
その夜から、女たちも子どもも総出で矢を作った。葦を切り、羽根を貼り、鏃を差し込む。私も指を傷だらけにして、千本、二千本と束ねた。
束ねながら、私は思った。この矢の多くは、誰にも当たらずに砂に落ちるのだろう。それでも作るのだろうか、と。
答えを聞く前に、西の軍勢は川を越えた。
第三章 砂の上の退却
敵の歩兵は、亀のように盾を重ねて進んできた。
丘の上から見下ろすと、その方陣は一枚の鉄板に見えた。四方を盾で囲み、内側の者は頭上にも盾をかざしている。陽を受けて、鉄板はぎらぎらと光っていた。
「行くぞ」
バルザの合図で、私たちは丘を駆け下りた。
三百歩。二百歩。百五十歩まで寄ったところで、一斉に弓を引く。千の矢が空を黒く染め、方陣に降り注いだ。
乾いた音が響いた。ほとんどの矢は、盾に弾かれて砂に落ちた。
「隊長、刺さりません」
駆け戻りながら叫ぶと、バルザは鼻で笑った。
「刺さらなくていい。重いだろう、あの盾は」
私たちは一度も正面からぶつからなかった。
寄っては射て、射ては退く。方陣から兵が飛び出して追ってくれば、さらに退く。馬の背で身をひねり、追う者へ背後に矢を放つ。あの春から幾千回と繰り返した動きだ。今度は木の棒ではなく、本物の槍が追ってくる。それでも、手は震えなかった。
逃げているのではない。逃げる形で戦っているのだ。
追ってきた兵が方陣から離れすぎると、左右から別の隊が回り込んで矢を浴びせた。やがて敵は追うのをやめ、盾の陰に縮こまって耐えるだけになった。
矢が尽きると、私は後方の駱駝の列へ走った。矢束を鞍に括りつけ、水を一口だけ含んで、また戦場へ戻る。それを何度繰り返したか分からない。
昼を過ぎるころ、方陣の足が鈍くなった。陽は真上にあり、砂は焼け、盾を掲げ続ける腕は震えはじめていた。敵の中から、水を求める声が聞こえた。
「矢が尽きるのを待っているなら、あいつらは夕方まで待つことになる」
バルザは水袋を傾けながら言った。
丘の陰では、テムルの槍騎兵がじっと待っていた。馬が足踏みし、鎧が鳴る音が、ここまで聞こえてくるようだった。
やがて、方陣の一角が崩れた。
耐えきれずに盾を下げた者がいた。一人が下げれば、その隣も下げる。鉄板に、細い亀裂が走った。
その一瞬を、テムルは見逃さなかった。鎧に身を固めた人馬が、砂煙を上げて丘を駆け下りる。地鳴りのような蹄の音とともに、裂け目へ槍が突き入れられた。
鉄板は、そこから割れた。
崩れた方陣は、もう方陣ではなかった。散り散りになった兵たちは、川のほうへと逃げていった。
夕暮れ、私はバルザに尋ねた。
「最初から、あの騎兵を出せばよかったのでは」
「出せば、盾に止められて終わりだ」
老人は馬の首を撫でた。
「固いものは、まず疲れさせる。急ぐのは、相手が崩れてからでいい」
砂の上には、無数の矢が刺さっていた。
第四章 追う者
勝利の夜、冬営地は歌と乳酒であふれた。
若者たちは焚き火を囲み、昼間の手柄を語り合った。誰の矢がどこへ飛んだか、誰が敵の隊長の兜をかすめたか。私も何度も同じ話をした。体の奥がまだ熱く、眠れそうになかった。
「西の兵は川の向こうへ逃げた。今なら、追えば皆討てる」
そう言い出したのは、私と同い年のカシュだった。
「バルザ様は、追うなと言っておられた」
「それは崩れる前の話だろう。もう崩れたんだ。急ぐのは、相手が崩れてから。そう教わったじゃないか」
私は返す言葉を持たなかった。いや、返したくなかったのだ。あの老人の言葉が、今こそ自分たちの背中を押しているように思えた。
夜明け前、若者ばかりの騎兵およそ二百は、誰にも告げずに冬営地を出た。
川を渡ると、土地の様子が変わった。平らな砂地は終わり、岩の多い丘が折り重なっている。道は細くうねり、先が見通せない。それでも地面には、逃げた兵たちの足跡が続いていた。
「近いぞ」
カシュが弓を握り直した。
谷あいの道に入ったときだった。左右の岩陰から、一斉に盾が立ち上がった。
逃げた兵ではなかった。鎧の色が違う。彼らは逃げた兵ではなく、待っていた兵だった。
矢が飛んできた。今度は、私たちのほうへ。
「退け、退け!」
叫んだが、細い谷では馬を返すこともままならない。前の馬が倒れ、後ろの馬がつかえる。草原なら風のように走る私の栗毛も、岩だらけの坂では足を取られて立ち往生した。
草原では、私たちは決して止まらなかった。止まらないから勝てた。その草原から、私たちは自分の足で出てきてしまったのだ。
もう駄目だと思ったとき、谷の入り口で角笛が鳴った。
バルザだった。わずか五十騎ほどを率いて、老人は谷の外の高みに立っていた。彼らは谷には入らず、岩陰の敵へ上から矢を射込みはじめた。敵の注意がそちらへ逸れた隙に、私たちは馬を引き、転がるようにして谷を抜け出した。
最後に谷を出たのは、バルザだった。
川を渡り終えたとき、老人が脇腹を押さえているのに気づいた。鎧の継ぎ目に、折れた矢が刺さっていた。
「バルザ様」
「騒ぐな。これくらい、若いころは毎年もらっていた」
老人は笑ってみせたが、その声はいつもより少し細かった。
「アルシャ。崩れたのは、どちらだった」
私は答えられなかった。崩れていたのは敵ではなく、勝って浮かれた私たちのほうだった。
第五章 弓を置く日
バルザの傷は、冬のあいだにゆっくりと悪くなった。
はじめは馬にも乗っていた。やがて天幕の外に出る日が減り、雪が深くなるころには、寝床から起き上がることも少なくなった。私は毎日天幕に通い、水を運び、火を絶やさず、老人の話を聞いた。
バルザは、昔の戦の話をあまりしなかった。かわりに、馬の話や、羊の話や、草の話をした。どの季節に、どの谷の草が一番よく伸びるか。どの風が吹くと、狼が山から下りてくるか。
「戦の話を聞かせてください」
ある日そう頼むと、老人は笑った。
「今、しているだろう」
そのときも、私には分からなかった。
春の気配がしはじめたある朝、バルザは私を枕元に呼んだ。痩せた手で、壁に掛けた古い弓を指さした。
「あれを持っていけ。隊も、お前が預かれ」
「私は、あなたを死なせかけた者です」
「だから預ける」
老人の目は静かだった。
「一度崩れた者は、崩れる怖さを知っている。知っている者は、急がない」
その三日後、バルザは眠るように息を引き取った。雪解けの水が、天幕のそばを細く流れていく音がしていた。
それから、長い年月が過ぎた。
私は千騎長と呼ばれるようになり、髪には白いものが混じりはじめた。西の国とは、あれから幾度か刃を交えた。けれど、あの谷のような戦は二度としなかった。
今年の春、私の隊にも新しい若者が入ってきた。十四になったばかりの、目の鋭い少年だ。弓の腕はいい。そして、早く本物の敵を射たくて、うずうずしている。
昨日、その少年が私に尋ねた。
「隊長。昔の大戦では千の矢を射て、ほとんど当たらなかったと聞きました。無駄だったのではありませんか」
私は少年を連れて、冬営地の外れの丘に登った。あの日、方陣を見下ろした丘だ。砂はもう風にならされ、矢は一本も残っていない。
「当たらなかった矢は、敵に盾を上げさせた」
私は言った。
「盾を上げ続けた腕は、昼には震えた。震えた腕が盾を下げたとき、ようやく槍が届いた。当たった一本の後ろには、当たらなかった千本がある」
少年は黙って砂を見ていた。分かったような、分からないような顔だった。私もかつて、同じ顔をしていたのだろう。
それでいい、と思う。分かるのは、ずっと後でいい。
私はバルザの弓を少年に持たせてみてから、丘を下りた。
風が、草原の匂いを運んできた。