本人と認識できません
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと指紋認証の話。
本文
十一月最初の月曜日、スマホにそう言われた。
もう一度、右手の人差し指をセンサーに押しつける。画面が小さく震えて、同じ文字が出た。
〔本人と認識できません。指の表面が乾燥している可能性があります〕
「いや、本人だけど」
思わず声に出すと、隣を歩いていた早瀬茉由が吹き出した。
「透子、スマホにまで存在消されてんの?」 「消されてない。指が乾いてるだけ」
越智透子、中学二年、美術部。わたしは六桁のパスコードを打ちこんで、ロックを開けた。指先が白く粉を吹いたようになっているのには、気づいていた。部活で筆を洗う水が、十月の終わりから急に冷たくなったのだ。
スマホの認証アシスタント「ミトメ」は、それきり何も言わなかった。代わりに、通知が一件だけ残っていた。
〔保湿をおすすめします〕
わたしはそれを、指で横に払って消した。
十二月に入ると、笑い話ではなくなった。
指先の皮がめくれて、関節のしわに沿って細く赤い線が入った。あかぎれ、というのだと母に教わった。手を洗うと水がしみて、そのたびに肩がすくむ。
困るのはスマホだけではなかった。学校のタブレットも、指紋でログインする。期末テスト前の課題を出す朝、わたしだけが三回続けてはじかれた。
〔本人と認識できません〕
担任の先生が教卓から歩いてきて、管理者用のカードをかざした。クラスの何人かがこっちを見た。べつに、誰も笑ってはいなかった。それがかえって、耳の奥を熱くした。
その夜から、対策を始めた。
手を洗ったら、すぐにタオルで指の間まで拭く。お湯は熱くしすぎない。洗面所に置きっぱなしだった母のハンドクリームを、一日に何度も塗る。寝る前にはたっぷり塗って、百円ショップで買った綿の手袋をはめる。朝起きると、手袋の内側はほんのり温かくて、少しべたついていた。
ミトメは、認証に失敗するたびに数字を出すようになった。
〔登録データとの一致率:四十二パーセント〕
次の日は四十五。その次は四十一。わたしはその数字を、手の回復度のように毎朝確かめた。
ときどき、画面の下に一行が足された。
〔現在の指を、新しく登録しますか?〕
わたしは毎回「いいえ」を押した。治れば元に戻るのだ。こんな指を、わたしだと覚えてほしくなかった。
学校では、セーターの袖を指の先まで引っぱって過ごすようになった。美術室で筆を持つときだけ、手を外に出す。それもなるべく、机の陰で。
「透子、最近ずっと萌え袖じゃん」
放課後、水道の前で茉由に言われた。わたしは筆を洗う手を、とっさに背中に回した。
「寒いだけ」 「ふうん」
茉由はそれ以上聞かずに、自分のパレットを洗い始めた。冷たい水の音が、二人分になった。しばらくして、茉由がぽつりと言った。
「わたしもさ、かかと割れてるよ。靴下に引っかかって、毎朝ちょっと泣きそう」
わたしは少し笑って、背中に回した手を戻した。茉由はわたしの指を見て、「うわ、痛そ」とだけ言った。それで終わりだった。それだけのことで、袖を少しだけ短くできた。
一月、寒波が来た。
美術部では卒業する三年生に贈る色紙を描いていて、毎日のように筆を洗った。どれだけ塗っても追いつかない。人差し指の先がぱっくり割れて、絆創膏を巻いた。
〔登録データとの一致率:九パーセント〕
朝の洗面所で、その数字を見たまま動けなくなった。せっかく袖から出せるようになった手が、また遠くなった気がした。鏡に映った手は、自分の手ではないみたいだった。ガサガサで、赤くて、ところどころ白い。
「なに、また認識されなかったの」
後ろから母がのぞきこんだ。わたしがうなずくと、母は自分のスマホを出して、指を当てた。
〔本人と認識できません〕
母は慣れた手つきでパスコードを打った。
「お母さんなんか、もう何年も認識されてないよ」
笑いながら、母は流しにたまった朝ごはんの皿を洗い始めた。湯気の中で動くその手を、わたしは初めてちゃんと見た気がした。指の関節が、わたしのよりずっと深く割れていた。
洗面所のハンドクリームは、もともと母のものだった。この冬、わたしはそれを母より多く使っていた。
皿洗いが終わるのを待って、わたしはチューブを母の手に押しつけた。
「塗って。わたしのぶんは、新しいの買うから」 「なに、急に」
母は目を丸くしたけれど、言われたとおりに塗った。台所に、甘い匂いがかすかに広がった。
その夜、手袋をはめる前に、わたしはミトメの設定画面を開いた。
〔現在の指を、新しく登録しますか?〕
初めて「はい」を押した。割れた指を、そっとセンサーに当てる。何度か角度を変えるように言われて、最後に短い音が鳴った。
〔登録しました。本人と認識します〕
その文字を、しばらく眺めていた。ガサガサで、赤くて、ところどころ白い指。それでも、これはわたしの指だった。
三月の終わりには、手はすっかり治っていた。
春休みの朝、わたしは駅のホームでスマホを取り出し、人差し指を当てた。
〔本人と認識できません〕
今度は、声を出して吹き出してしまった。指先はつるつるで、割れ目はどこにもない。冬のあいだのわたしと今のわたしは、もう別人らしい。
パスコードを打ちこむと、通知が一件届いていた。
〔冬のあなたも、あなたでした〕 〔今のあなたを、覚え直しますか?〕
わたしは指で払わずに、「はい」を押した。
コートのポケットの中で、自分で買ったハンドクリームのチューブが指に触れた。次の冬は、十一月から塗ることにしよう。