誰が止めてもいい
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
横浜、帷子川の河口近くの再開発現場。地上百メートルのタワークレーンで、運転士の仁科有希は、言われたとおりに正確に荷を動かす。三週間前、一緒に暮らしていた鳶の門倉莉子が部屋を出ていった日も、仁科は黙って段ボールを車まで運んだ。その莉子が、階段の据え付けのために一号機の合図者へ戻される。全員が聞いている無線で交わせるのは、合図と復唱だけ。午後、北西の風が強まっていく。運転室からしか見えない風と、二十四階から届く声のあいだで、仁科は一日の吊りを終えられるのか。
本文
八時二十二分、運転室の扉を閉めると、はしごを上ってきた息で窓が曇った。仁科は袖で一度だけ拭いて、風速計を見た。平均三・一。
帷子川の川面は、相鉄線の高架の下まで平らに光っている。西には富士山が出ていて、その手前、風上にある隣の現場では、足場を包んだメッシュシートが裾まで垂れたまま動かない。南東のベイブリッジの向こうで、みなとみらいの観覧車はまだ回っていなかった。
朝礼のラジオ体操で、莉子は列の反対の端にいた。危険予知の読み上げで、大貫が「午後、階段四台。合図はリコ」と言い、列の端で莉子の頭が一度だけ下がった。仁科はそのあいだ、ヘルメットのあご紐を締め直していた。
『地上、玉掛けよし。地切りお願いします』
宮地の声は、どの台詞も語尾が上がる。仁科は巻き上げを一段だけ入れた。百メートル下で鉄筋の束が地面を離れ、ワイヤーが張る。束は傾かずに、膝ほどの高さで止まった。
『地切りよし。巻き上げどうぞ。合図、二十四階に渡します』
「巻き上げ、了解」
この三週間、二十四階で合図を出していたのも宮地だった。宮地の合図は丁寧で、そのぶん一拍遅い。仁科はその一拍を、手のほうで待つのに慣れた。
『二十四階、合図もらいました。門倉です』
三週間ぶりに、その声が右耳に入った。低くて、数を数えるときだけ速くなる声だ。先月までは、朝の台所で炊飯器の残り時間を読んでいた。
『旋回、右。ゆっくりー』
「旋回、右、了解」
ジブの先が北へ回る。二十四階の床で、白と黄色のヘルメットがいくつか動いていた。束が階段室わきの柱の陰に入ると、そこから先は声だけになる。
『巻き下げー』
「巻き下げ、了解」
『あと三。二。一。はい、ストップ』
「ストップ、了解」
レバーを戻すと、荷重計の数字が束の重さの分だけ減っていく。
『着床』
交信はそこで切れた。前はこのあとに、もう一言付いた。
玉外しの合図でフックを上げ、地上へ戻す。午前のうちに、鉄筋をあと四回、型枠の材を三回揚げる。どの回も、交信は着床で切れた。
十時の一服で、魔法瓶のほうじ茶を蓋に注ぐ。湯気で、拭いた窓がまた曇る。
十一月一日の日曜、仁科はアパートの階段を何度も往復して、莉子の段ボール八箱を姉の車まで運んだ。箱の一つには、莉子の字で「冬物」と書いてあった。最後に布団を紐でくくったまま後ろの席へ押し込み、ドアを閉めた。車が角を曲がるまで、仁科は階段の下にいた。
◇
昼になって、握り飯を包んだ銀紙を膝の上で開く。
十月の半ば、夕飯のあとで、莉子が二人で部屋を借りようと言った。ここではなく、二人で探した部屋を、と。仁科は、莉子が決めればいいと答えた。莉子は湯のみを持ったまま少し黙り、それから流しに立った。
二つ目を食べ終えてから、一つ目に何を入れたか思い出せなかった。
午後一時、PC階段の一台目。二・六トンの灰色の段が、斜めの姿勢のまま荷取り場から上がってくる。平均は五・二まで来ていた。
『地切りよし。巻き上げどうぞ。合図、二十四階に渡します』
「巻き上げ、了解」
『二十四階、合図もらいました。門倉です』
『旋回、左。ゆっくりー』
「旋回、左、了解」
段の下の端が、階段室の壁の向こうへ沈んでいく。
『巻き下げー』
「巻き下げ、了解。荷、壁に入りました。ここから声でお願いします」
『はい。あと五。四。三。二。一。はい、ストップ』
数える声の間が、そのままレバーを戻す幅になる。仁科は「一」で手の力を抜き、「ストップ」で戻しきった。
「ストップ、了解」
『着床』
そこで切れた。
『あれ、門倉さん、今日は「上手」って言わないんですか? 一号機のときは毎回言ってて、みんなにいじられてたじゃないですか』
宮地の声は、そこでも語尾が上がった。
『ソウタ、お前は自分の地切りの心配してろ』
大貫が笑っている。
『玉外しよし。巻き上げどうぞー』
莉子の語尾は、さっきと同じだけ伸びていた。
「巻き上げ、了解」
二台目は壁に入る前に、段の端が南へ流れた。莉子の『待ってー』に「待って、了解」と返して旋回を止め、振れが収まってから入れる。そのあいだに、平均が六・四から七・一へ上がった。
『元請、瀬川です。風、予報より早く強くなってます。今日は三台で止めて、四台目は明日の朝に回す手もあります。打設は一日ずれますが』
『瀬川くん、今日のうちに四台いく。生コンもポンプも押さえてあんだろ』
少し間があった。窓の外で、隣の現場のシートの裾がときどき持ち上がっては落ちる。帷子川の川面は、まだ平らに光っていた。
『一号、どうだ』
「平均七・一。瞬間で十、出てます」
『で、どうだ』
「どちらでも。大貫さんの決めたほうで」
『おう。じゃ、いく』
大貫はそれだけ言って、四台目の玉掛けの段取りを宮地に言いつけはじめた。瀬川からは何もない。
三台目。平均八・〇、瞬間十二。
『あと三、二、一、ストップ』
莉子の数える声は、一台目より少し速かった。
◇
運転室の時計は十四時四十一分。四台目の段は北の手すりの外、階段室の縁から六メートルほど離れた空中で、旋回の合図を待っている。介錯ロープが荷の端から斜めに張って、階段室の縁の陰へ入っていた。その先を莉子が持っている。
上流の天王町の方で、帷子川の川面が暗くなった。暗い色は橋を一つずつくぐって下ってきて、相鉄線の高架を越える。風上の隣の現場で、メッシュシートが奥の列から順に、こちらへふくらんでいく。
風速計を見る。平均九・二、瞬間十三。
『一号、平均いくつだ』
「九・二。瞬間で十三、出てます」
『いけます。こっちはそんなに吹いてないです』
莉子の声は落ち着いていた。二十四階は運転室より二十六メートル低く、階段室のまわりにはまだ柱と鉄筋が立っている。
『リコがいけるって言ってんだ。一号、入れちまえ』
大貫の声のうしろで、誰かが型枠を叩いている。
『旋回、左。ゆっくりー』
仁科はレバーに手を置いたまま、倒さなかった。復唱もしない。
右耳のイヤホンの中で、誰も話さない時間が一秒ずつ伸びる。胸元のマイクを押した。
「一号機です。止めます。運転士判断です」
息を一つ吸う。
「平均九・四、瞬間十三。上流の川面が、天王町から暗くなって高架を越えてきました。隣の現場のシートが、風上から順にふくらんでます」
『……門倉。止め、了解』
語尾が伸びなかった。
それから、何も起きない。
段はジブの先で、まっすぐ下がっている。ワイヤーも鳴らない。平均九・七。次の数字に変わるまで、二十秒ほどかかった。九・八。そこで止まる。
『こっちは吹いてないです』
莉子だった。
『一号、いくつだ』
「九・八」
仁科は返事をそれだけにして、左手をレバーに置いたままにした。窓の下で、川面の暗い色が河口の方へ広がっていく。隣のシートは、ふくらんだまま戻らない。誰もマイクを押さなかった。宮地も、瀬川も、大貫も、二十四階の莉子も、同じチャンネルで黙っている。右手の指が、レバーの握りの上で動いた。
九・八。
運転室が、横から押された。
瞬間の数字が十三から十八へ跳ねる。ジブの先で、二・六トンの階段がゆっくり、それから速く回りはじめた。介錯ロープが階段室の縁の陰から引き出され、端まで出きって、宙で跳ねる。莉子が持っていた端だった。足元のガラスの下で、ロープは地上八十メートルの空を二度打ち、それから荷に巻きついて垂れた。
段が振れていたのは、北の手すりの外、階段室の縁から六メートル離れた何もない空中だった。
縁の陰は、運転室からは見えない。仁科は足元のガラスに顔を寄せたまま、右耳のイヤホンが鳴るのを待った。
『門倉。ロープ、離れました。けが、なし』
風が落ちた。平均は九・九まで上がって、十には届かない。
「一号機です。今日の吊りはここまでにします。運転士判断です」
少し間があって、瀬川の声が入った。
『元請、瀬川です。一号機、作業中止します』
また、間があった。
『打設、一日ずらします』
◇
段はまだジブの先で吊られたまま、風に押されて回っている。
『大貫だ。いまエレベーターで上がってる。荷は二十四階の床に据えて外す。リコは下がってろ。合図は俺が振る。一号、いいな』
声のうしろで、エレベーターの駆動音が唸っていた。仁科がマイクを押す前に、続けて入った。
『止めるんなら、昼に聞いたときに言え。結果は同じだろうが。お前はいつもそれだ。リコを二号に回すかって聞いたときも、どちらでも、だったろ』
無線は全員が聞いている。荷取り場の宮地の声も、事務所の瀬川の声も入らなかった。
『門倉、了解』
階段室の縁の陰から、蛍光オレンジのベストが出てきた。灰色の床の上を、手すりから離れる方へ歩いていく。
仁科はマイクを押した。
「一号機です。大貫さん、据え先はこっちで決めます。二十四階の床の、南の柱の手前。運転室から見えるところに置きます」
指を離さずに続ける。
「合図は門倉さんでお願いします」
エレベーターの唸りだけが聞こえた。
『……おう』
大貫はそれだけ言った。
オレンジのベストが手すりの手前で止まった。向きを変えて、来た方へ十歩ほど戻ってくる。白いヘルメットがこちらを向いた。
『門倉。右』
「右、了解」
『下げ』
「下げ、了解」
灰色の床に、蛍光オレンジが一つ立っている。片手を上げ、手袋の指をそろえて、手のひらを下に向けたまま振っている。少し離れた柱の陰に、首に手ぬぐいを巻いた大貫が着いて、そこで足を止める。今日はずっと声だけで受けてきた莉子の合図を、仁科は段と一緒に見下ろしながら、レバーを戻す幅を決めた。
『三。二。一。止め』
「止め、了解」
『着床』
交信は切れた。
見下ろしている先で、莉子の手が一度、肩のマイクへ上がった。何も言わずに、下りる。
玉掛けが外れるのを待ってフックを上げ、ジブを決まった角度に起こして旋回のブレーキを外してから、仁科は運転室を出た。
はしごの二つ目の踊り場で、手袋を二枚重ねた下の指が冷えきっていることに気づいた。握っても、鉄の段の冷たさがもう分からない。
二十四階に降りたときには、床に据えた段のまわりに人はいなかった。工事用エレベーターで下り、瀬川の事務所で風速の記録を写してから詰所へ上がると、窓の外はもう暗い。
電気ストーブの前に、鳶が三人と宮地がいた。仁科は長机で日報を広げ、停止理由の欄に書いた。平均九・四、瞬間十三で停止。帷子川の川面、天王町から暗くなる。隣の現場のシート、風上から順にふくらむ。指がまだ冷えていて、九の字の払いが短くなった。
窓際の棚では、莉子が各機の無線を充電器に差していた。作業着の上に着ているのは、防寒着ではなく、薄い紺の雨合羽だった。フードを背中に垂らしていて、袖口から作業着の青がのぞいている。ストーブの熱は窓際まで届かない。
缶コーヒーを両手で握っていた宮地が、そっちを見た。
「門倉さん、それ三週間ずっとじゃないですか。冬のやつ、まだ出してないんですか? 風邪ひきますよ」
鳶の一人が笑って、宮地のヘルメットのつばを指で弾いた。
莉子は答えず、次の無線を差した。充電器のランプが赤く点く。右手の親指の爪は、割れたままだった。また次のを差す。
最後の一台を差し終えると、莉子は棚を離れて、長机のうしろを通った。仁科の手元に影が落ちて、日報の字が少し暗くなる。
「上手」
莉子は手袋をはめ直して、詰所の階段を下りていった。