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誰が止めてもいい

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/5 📝 4,552文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

横浜、帷子川の河口近くの再開発現場。地上百メートルのタワークレーンで、運転士の仁科有希は、言われたとおりに正確に荷を動かす。三週間前、一緒に暮らしていた鳶の門倉莉子が部屋を出ていった日も、仁科は黙って段ボールを車まで運んだ。その莉子が、階段の据え付けのために一号機の合図者へ戻される。全員が聞いている無線で交わせるのは、合図と復唱だけ。午後、北西の風が強まっていく。運転室からしか見えない風と、二十四階から届く声のあいだで、仁科は一日の吊りを終えられるのか。

本文

八時二十二分、運転室の扉を閉めると、はしごを上ってきた息で窓が曇った。仁科は袖で一度だけ拭いて、風速計を見た。平均三・一。

帷子川の川面は、相鉄線の高架の下まで平らに光っている。西には富士山が出ていて、その手前、風上にある隣の現場では、足場を包んだメッシュシートが裾まで垂れたまま動かない。南東のベイブリッジの向こうで、みなとみらいの観覧車はまだ回っていなかった。

朝礼のラジオ体操で、莉子は列の反対の端にいた。危険予知の読み上げで、大貫が「午後、階段四台。合図はリコ」と言い、列の端で莉子の頭が一度だけ下がった。仁科はそのあいだ、ヘルメットのあご紐を締め直していた。

『地上、玉掛けよし。地切りお願いします』

宮地の声は、どの台詞も語尾が上がる。仁科は巻き上げを一段だけ入れた。百メートル下で鉄筋の束が地面を離れ、ワイヤーが張る。束は傾かずに、膝ほどの高さで止まった。

『地切りよし。巻き上げどうぞ。合図、二十四階に渡します』

「巻き上げ、了解」

この三週間、二十四階で合図を出していたのも宮地だった。宮地の合図は丁寧で、そのぶん一拍遅い。仁科はその一拍を、手のほうで待つのに慣れた。

『二十四階、合図もらいました。門倉です』

三週間ぶりに、その声が右耳に入った。低くて、数を数えるときだけ速くなる声だ。先月までは、朝の台所で炊飯器の残り時間を読んでいた。

『旋回、右。ゆっくりー』

「旋回、右、了解」

ジブの先が北へ回る。二十四階の床で、白と黄色のヘルメットがいくつか動いていた。束が階段室わきの柱の陰に入ると、そこから先は声だけになる。

『巻き下げー』

「巻き下げ、了解」

『あと三。二。一。はい、ストップ』

「ストップ、了解」

レバーを戻すと、荷重計の数字が束の重さの分だけ減っていく。

『着床』

交信はそこで切れた。前はこのあとに、もう一言付いた。

玉外しの合図でフックを上げ、地上へ戻す。午前のうちに、鉄筋をあと四回、型枠の材を三回揚げる。どの回も、交信は着床で切れた。

十時の一服で、魔法瓶のほうじ茶を蓋に注ぐ。湯気で、拭いた窓がまた曇る。

十一月一日の日曜、仁科はアパートの階段を何度も往復して、莉子の段ボール八箱を姉の車まで運んだ。箱の一つには、莉子の字で「冬物」と書いてあった。最後に布団を紐でくくったまま後ろの席へ押し込み、ドアを閉めた。車が角を曲がるまで、仁科は階段の下にいた。

◇

昼になって、握り飯を包んだ銀紙を膝の上で開く。

十月の半ば、夕飯のあとで、莉子が二人で部屋を借りようと言った。ここではなく、二人で探した部屋を、と。仁科は、莉子が決めればいいと答えた。莉子は湯のみを持ったまま少し黙り、それから流しに立った。

二つ目を食べ終えてから、一つ目に何を入れたか思い出せなかった。

午後一時、PC階段の一台目。二・六トンの灰色の段が、斜めの姿勢のまま荷取り場から上がってくる。平均は五・二まで来ていた。

『地切りよし。巻き上げどうぞ。合図、二十四階に渡します』

「巻き上げ、了解」

『二十四階、合図もらいました。門倉です』

『旋回、左。ゆっくりー』

「旋回、左、了解」

段の下の端が、階段室の壁の向こうへ沈んでいく。

『巻き下げー』

「巻き下げ、了解。荷、壁に入りました。ここから声でお願いします」

『はい。あと五。四。三。二。一。はい、ストップ』

数える声の間が、そのままレバーを戻す幅になる。仁科は「一」で手の力を抜き、「ストップ」で戻しきった。

「ストップ、了解」

『着床』

そこで切れた。

『あれ、門倉さん、今日は「上手」って言わないんですか? 一号機のときは毎回言ってて、みんなにいじられてたじゃないですか』

宮地の声は、そこでも語尾が上がった。

『ソウタ、お前は自分の地切りの心配してろ』

大貫が笑っている。

『玉外しよし。巻き上げどうぞー』

莉子の語尾は、さっきと同じだけ伸びていた。

「巻き上げ、了解」

二台目は壁に入る前に、段の端が南へ流れた。莉子の『待ってー』に「待って、了解」と返して旋回を止め、振れが収まってから入れる。そのあいだに、平均が六・四から七・一へ上がった。

『元請、瀬川です。風、予報より早く強くなってます。今日は三台で止めて、四台目は明日の朝に回す手もあります。打設は一日ずれますが』

『瀬川くん、今日のうちに四台いく。生コンもポンプも押さえてあんだろ』

少し間があった。窓の外で、隣の現場のシートの裾がときどき持ち上がっては落ちる。帷子川の川面は、まだ平らに光っていた。

『一号、どうだ』

「平均七・一。瞬間で十、出てます」

『で、どうだ』

「どちらでも。大貫さんの決めたほうで」

『おう。じゃ、いく』

大貫はそれだけ言って、四台目の玉掛けの段取りを宮地に言いつけはじめた。瀬川からは何もない。

三台目。平均八・〇、瞬間十二。

『あと三、二、一、ストップ』

莉子の数える声は、一台目より少し速かった。

◇

運転室の時計は十四時四十一分。四台目の段は北の手すりの外、階段室の縁から六メートルほど離れた空中で、旋回の合図を待っている。介錯ロープが荷の端から斜めに張って、階段室の縁の陰へ入っていた。その先を莉子が持っている。

上流の天王町の方で、帷子川の川面が暗くなった。暗い色は橋を一つずつくぐって下ってきて、相鉄線の高架を越える。風上の隣の現場で、メッシュシートが奥の列から順に、こちらへふくらんでいく。

風速計を見る。平均九・二、瞬間十三。

『一号、平均いくつだ』

「九・二。瞬間で十三、出てます」

『いけます。こっちはそんなに吹いてないです』

莉子の声は落ち着いていた。二十四階は運転室より二十六メートル低く、階段室のまわりにはまだ柱と鉄筋が立っている。

『リコがいけるって言ってんだ。一号、入れちまえ』

大貫の声のうしろで、誰かが型枠を叩いている。

『旋回、左。ゆっくりー』

仁科はレバーに手を置いたまま、倒さなかった。復唱もしない。

右耳のイヤホンの中で、誰も話さない時間が一秒ずつ伸びる。胸元のマイクを押した。

「一号機です。止めます。運転士判断です」

息を一つ吸う。

「平均九・四、瞬間十三。上流の川面が、天王町から暗くなって高架を越えてきました。隣の現場のシートが、風上から順にふくらんでます」

『……門倉。止め、了解』

語尾が伸びなかった。

それから、何も起きない。

段はジブの先で、まっすぐ下がっている。ワイヤーも鳴らない。平均九・七。次の数字に変わるまで、二十秒ほどかかった。九・八。そこで止まる。

『こっちは吹いてないです』

莉子だった。

『一号、いくつだ』

「九・八」

仁科は返事をそれだけにして、左手をレバーに置いたままにした。窓の下で、川面の暗い色が河口の方へ広がっていく。隣のシートは、ふくらんだまま戻らない。誰もマイクを押さなかった。宮地も、瀬川も、大貫も、二十四階の莉子も、同じチャンネルで黙っている。右手の指が、レバーの握りの上で動いた。

九・八。

運転室が、横から押された。

瞬間の数字が十三から十八へ跳ねる。ジブの先で、二・六トンの階段がゆっくり、それから速く回りはじめた。介錯ロープが階段室の縁の陰から引き出され、端まで出きって、宙で跳ねる。莉子が持っていた端だった。足元のガラスの下で、ロープは地上八十メートルの空を二度打ち、それから荷に巻きついて垂れた。

段が振れていたのは、北の手すりの外、階段室の縁から六メートル離れた何もない空中だった。

縁の陰は、運転室からは見えない。仁科は足元のガラスに顔を寄せたまま、右耳のイヤホンが鳴るのを待った。

『門倉。ロープ、離れました。けが、なし』

風が落ちた。平均は九・九まで上がって、十には届かない。

「一号機です。今日の吊りはここまでにします。運転士判断です」

少し間があって、瀬川の声が入った。

『元請、瀬川です。一号機、作業中止します』

また、間があった。

『打設、一日ずらします』

◇

段はまだジブの先で吊られたまま、風に押されて回っている。

『大貫だ。いまエレベーターで上がってる。荷は二十四階の床に据えて外す。リコは下がってろ。合図は俺が振る。一号、いいな』

声のうしろで、エレベーターの駆動音が唸っていた。仁科がマイクを押す前に、続けて入った。

『止めるんなら、昼に聞いたときに言え。結果は同じだろうが。お前はいつもそれだ。リコを二号に回すかって聞いたときも、どちらでも、だったろ』

無線は全員が聞いている。荷取り場の宮地の声も、事務所の瀬川の声も入らなかった。

『門倉、了解』

階段室の縁の陰から、蛍光オレンジのベストが出てきた。灰色の床の上を、手すりから離れる方へ歩いていく。

仁科はマイクを押した。

「一号機です。大貫さん、据え先はこっちで決めます。二十四階の床の、南の柱の手前。運転室から見えるところに置きます」

指を離さずに続ける。

「合図は門倉さんでお願いします」

エレベーターの唸りだけが聞こえた。

『……おう』

大貫はそれだけ言った。

オレンジのベストが手すりの手前で止まった。向きを変えて、来た方へ十歩ほど戻ってくる。白いヘルメットがこちらを向いた。

『門倉。右』

「右、了解」

『下げ』

「下げ、了解」

灰色の床に、蛍光オレンジが一つ立っている。片手を上げ、手袋の指をそろえて、手のひらを下に向けたまま振っている。少し離れた柱の陰に、首に手ぬぐいを巻いた大貫が着いて、そこで足を止める。今日はずっと声だけで受けてきた莉子の合図を、仁科は段と一緒に見下ろしながら、レバーを戻す幅を決めた。

『三。二。一。止め』

「止め、了解」

『着床』

交信は切れた。

見下ろしている先で、莉子の手が一度、肩のマイクへ上がった。何も言わずに、下りる。

玉掛けが外れるのを待ってフックを上げ、ジブを決まった角度に起こして旋回のブレーキを外してから、仁科は運転室を出た。

はしごの二つ目の踊り場で、手袋を二枚重ねた下の指が冷えきっていることに気づいた。握っても、鉄の段の冷たさがもう分からない。

二十四階に降りたときには、床に据えた段のまわりに人はいなかった。工事用エレベーターで下り、瀬川の事務所で風速の記録を写してから詰所へ上がると、窓の外はもう暗い。

電気ストーブの前に、鳶が三人と宮地がいた。仁科は長机で日報を広げ、停止理由の欄に書いた。平均九・四、瞬間十三で停止。帷子川の川面、天王町から暗くなる。隣の現場のシート、風上から順にふくらむ。指がまだ冷えていて、九の字の払いが短くなった。

窓際の棚では、莉子が各機の無線を充電器に差していた。作業着の上に着ているのは、防寒着ではなく、薄い紺の雨合羽だった。フードを背中に垂らしていて、袖口から作業着の青がのぞいている。ストーブの熱は窓際まで届かない。

缶コーヒーを両手で握っていた宮地が、そっちを見た。

「門倉さん、それ三週間ずっとじゃないですか。冬のやつ、まだ出してないんですか? 風邪ひきますよ」

鳶の一人が笑って、宮地のヘルメットのつばを指で弾いた。

莉子は答えず、次の無線を差した。充電器のランプが赤く点く。右手の親指の爪は、割れたままだった。また次のを差す。

最後の一台を差し終えると、莉子は棚を離れて、長机のうしろを通った。仁科の手元に影が落ちて、日報の字が少し暗くなる。

「上手」

莉子は手袋をはめ直して、詰所の階段を下りていった。

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百合......良いよね......

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