先約は、私
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
斎藤カミラの家では、宿題を早く済ませると新しい問題集が出てくる。カミラが放課後にしたいのは、駅ビルの古い台で、転校生の朝比奈ロアラにもう一度勝負を挑むことだ。木曜、勉強相手を歓迎する母の前で、ロアラは玄関に二人の靴を揃えた。ようやく手に入れた三十分。次の対戦を自分で書いてと手帳を渡されたカミラは、木曜の欄に名前を入れてから、ほかに誰の字があるのかも見てしまう。
本文
借りた上着の脇から、白いシャツが見えていた。
黒板の前で台詞を読んでいた男子が腕を上げると、上着の裂け目が広がった。男子は腕を下ろす。誰かが笑いかけて、やめた。
「脱いで。そこ、もう引っ張らないで」
斎藤カミラが言うと、男子は両肩をすぼめた。背中から外した上着は、持ってみれば薄い。小道具の剣を差すベルトに、内側の布が引っかかっている。
「これ、筒井さんが借りたんだよね」
窓際にいた筒井千帆がうなずいた。
「隣のクラスの子の。お兄さんが前に着てたって」
「縫えばわかんなくなる?」
「先に言わないと」
カミラは上着を裏返さず、裂けたところが見えるように持った。直せるかどうかは持ち主が決めることだ。千帆は机の間を来たが、上着を受け取る前に足を止めた。貸してと言ったときの返事でも思い出しているように、袖口を見ている。
放課後の教室にはまだ半分ほど人が残っていた。剣を持った子がベルトを外す。黒板の端では、劇の係が明日の集合時刻を書き直していた。誰も隣の教室へは向かわない。
「あたしも一緒に謝る。上着、持てる?」
朝比奈ロアラが、カミラの腕に掛かった裾を持ち上げた。
月曜に転校してきたばかりなのに、千帆の机も、衣装を置く場所も、もう間違えない。耳の出た短い黒髪の下で、襟の校章がまだ新しい。
「持てるけど。朝比奈さん、借りたときいなかったでしょ」
「だから、誰に声かけるかは千帆にお願いする」
ロアラはそう言って、扉を引いた。千帆が鞄をつかむより先に、「今、上着だけでいいよ」と声をかける。カミラは裾をたたんでついていった。
隣の教室の入り口で、千帆は一度だけ喉を鳴らした。
「ごめん。借りた上着、裂いちゃった」
呼ばれた女子が、机から顔を上げた。こちらへ来るまでの間に、千帆はいつ裂けたかを全部言ってしまった。カミラの手から上着を取り上げようとして、裂けたほうの脇をつかみかける。
「こっち、肩のところ」
ロアラが肩のほうを指さした。千帆が両手で差し出した上着を、持ち主は窓の明かりへ向けた。
「あ、縫い目のところか。ちょっと待って。お兄ちゃんに聞く」
許してもらえたわけではないので、三人はそのまま立っていた。廊下から、台詞のやり直しをする声が聞こえる。カミラは鞄を教室に置いたままだった。机の上には、家でやるように言われた数学の問題集も出しっぱなしだ。
ロアラは、上着から外れた長い糸を指に掛けていた。机にあった菓子箱の切れ端を一枚もらい、糸を巻きつけていく。赤い箱の裏が、細い灰色の糸で隠れた。
「繕っていいって。劇もそのまま着て。洗う前に言ってくれたら、洗濯の表示の写真送る」
「ありがとう。ごめんね、ほんとに」
「本番のあと、すぐいる?」
ロアラが聞くと、持ち主は首を振った。
「ううん。二週あとの金曜でいい。それまで部室に物がいっぱいだから、その日に持ってきてもらうほうが助かる」
「じゃあ、その日。私、持ってくるね」
千帆が言い、ロアラのほうを見た。
「また一緒に来てくれる?」
「うん。日にち書いて」
ロアラは手帳のゴムバンドを外した。何枚かめくり、机の上で千帆のほうへ回す。胸ポケットの短い鉛筆を、その横へ置いた。
千帆は金曜の欄に、上着を返す、と書いた。下に待ち合わせる場所も足す。ロアラはその間、厚紙に余った糸を収めていた。
「斎藤さんも、ありがとう。持ってきてくれて」
「私、持ってただけ」
戻る廊下で言うと、千帆は「でも」と言って笑った。ロアラが上着を受け取り、裂けた脇を内へ入れて腕に掛ける。カミラはその子が千帆の隣を歩くところを、後ろから見た。
教室には椅子を机へ戻す音が響いていた。これから繕う場所を探す二人の横で、カミラは自分の席に戻った。数学の問題集を鞄へ押し込むと、別の薄い冊子が引っかかる。
「それ、今日配られたやつ?」
ロアラが机の脇に立っていた。
「学校のはこっち。厚いほうは、家の」
「両方同じ単元だね」
「見なくてもわかるの?」
「開いてるところ、見えた。よかったら、重なってるか見ようか」
断るつもりで閉じた冊子を、カミラはもう一度開いた。二冊を並べるだけなら、家のことまでは話さなくていい。
「これ。今日やる範囲」
◇
ロアラが画面を伏せたとき、カミラの前に残った付箋は一枚だった。
学校の課題は、さっき全部解いた。家の自習と同じ形の問題が、思ったよりたくさんあった。ロアラは教材の該当箇所だけをAIで見比べ、重なっているページを示したあと、カミラの答案を見て一枚だけ付箋を残した。
「こっちは式を変えるところまで、自分でやってみて」
「答え、出てるんじゃないの」
「出してもらってないよ。斎藤さんの答えを見たいから」
「先生みたい」
「先生だったら、上着縫ってる間にテストする」
隣の机では、ロアラが上着の脇を縫っていた。千帆は借りてきた裁縫箱を開き、はさみを手の届くところへ置いている。カミラは二人に背を向けすぎないよう、椅子を斜めにした。
解けない問題ではなかった。ただ、途中で一度符号を変えたくなる。そのまま進めると見覚えのある答えになるのが、かえって怪しい。
「ここ、引くのを先にする?」
「何から引く?」
聞き返され、カミラは自分の式へ戻った。答えの数字を消して、ひとつ前の行を直す。書き終えると、ロアラは上着を膝に置いて答案を受け取った。
「うん。そこが書けてたら、こっちのページは同じことやってる」
「全部やらなくていいってこと?」
「自習ならね。学校に出す分は、今のでおしまい」
薄い冊子を閉じた。机には、鞄の底から落ちた消しゴムのかすしか残っていない。いつもならそこへ家の問題集を開く。今日は二冊とも閉じてある。
ロアラが上着を広げると、千帆は縫い目の両側を引っ張ろうとして手を止めた。
「もう、大丈夫。やさしくね」
「今日、私が持って帰る。衣装の袋も取ってくる」
千帆が教室の後ろへ走っていった。カミラは壁の時計を見た。普段なら、まだこの教室で問題を解いている時刻だった。
「朝比奈さん、駅のほう?」
「うん。今日は晩ごはん買って帰る」
「じゃあ、校門まで」
鞄を持ってから、そんな言い方をする必要はなかったと思った。二人とも同じ駅へ向かう。ロアラは「いいよ」と答えて、椅子をきちんと机の下へ入れた。
帰り道で、買って帰る夕飯の話を聞いた。ロアラの母はかぼちゃの煮物が好きで、コロッケもその皿に載せて煮汁をつける。ロアラは衣が濡れるのが嫌なのだと言う。
「それなら、お母さんの分だけそうすればいいじゃない」
「あたしのコロッケまで同じお皿に置かれるんだよ」
駅ビルの入り口で別れても、少し笑いが残っていた。家の門の前で携帯を見た。家で決められた時刻まで、まだ余裕がある。
◇
母は、食堂に来たカミラを見て時計を確かめた。
「早かったのね。お茶、今いれるから」
食卓には、カミラの好きな栗の菓子が皿に一つ載っていた。その隣で、見覚えのない問題集の表紙が光っている。
「今日はもう終わりました」
椅子に座る前に、学校の課題と自習のノートを出した。母はお湯を止め、眼鏡をかける。
「このページも?」
「同じ問題がこっちにあったので。数字が違うだけです。こっちは、私が解きました」
最後に解いた一問を指した。母は式を追ってから、問題集の次のページをめくった。
「今日はずいぶん進んだわね」
カミラは鞄の持ち手を握り直した。食堂を出たら、二階で何をしよう。音を消して見ていた動画を、最初から見られるかもしれない。
「それなら、こちらも見ておきましょう」
母が新しい別冊を開いた。最初の問題の下に左の親指を寝かせ、本をカミラの前へ滑らせる。
「そこも、今日のと同じです」
「同じなら、そう時間はかからないでしょう」
「終わったんです。今日やる分は」
「前も、そう言っていたから」
母の横にある書類ばさみから、折り目のついた答案が出てきた。表には赤い丸が並んでいる。カミラは、その紙が裏返される前に椅子を引いた。
裏の最後の問題を、間違えたまま見せなかった。春の土曜、同じクラスの子たちが駅で待っていた日の答案だ。解き直しまでしたら待ち合わせに遅れると思ったのに、残っていた別の宿題をするうちに時刻が過ぎた。出かけられなかったうえに、次の試験でも同じ間違いをした。
母は、その答案をまだ持っている。
「早くできたのは、よかったと思ってるのよ」
「はい」
「今、時間があるうちに進めておきましょう」
お茶が置かれた。皿の菓子は、いつでも食べられる距離にある。カミラは鞄から筆箱を出した。
ロアラの夕飯の買い物は、もう終わっただろうか。母と自分のコロッケを、別々に置けただろうか。新しい問題の途中にそんなことが浮かび、数字をひとつ書き損じた。
消しゴムを使うと、母が隣から式をのぞいた。
「どこがわからない?」
「書き間違いです」
カミラは消しかすを集めた。母が見ているうちに、正しい数字を書いた。
その夜、学校用の鞄へ別冊を入れた。厚い背表紙が、裁縫をしていたロアラの机に載っていたらと思う。勉強を手伝ってもらった翌日に、また問題集を持っていくのは気が重い。けれど家へ置けば、明日も帰ったところからこれが始まる。
鞄の口を閉じ、二つの持ち手を揃えた。
◇
水曜の放課後、ロアラは別冊を見て「増えた」と言った。
「見ればわかるでしょ」
「うん。これは見ないとわからなかった」
責めるように聞こえたかもしれない。カミラは机に置いた手をどけた。ロアラは昨日の付箋の位置を確かめ、別冊の同じ単元を開く。
「ここまでなら、帰る前にできそう」
「今日の課題もある」
「あたしもあるよ。そっちは一緒にやろ」
ロアラは自分の冊子を持ってきた。カミラの隣に座り、片肘をつくこともなく問題を解き始める。余った時間の使い方の話にはならなかった。
昨日見比べた箇所は、もう迷わず片付く。家の別冊も、始めてみれば同じ式を何度も書くばかりだった。母が指定したところまで終え、カミラは閉じた表紙を手のひらで押さえた。
「終わり?」
「ここまでは」
ロアラが自分の冊子を鞄へ入れた。校門を出たところで、カミラは携帯の時刻を見た。駅ビルへ寄っても、いつもの時刻に家へ着く。
「今日も買い物?」
「今日は家にある。どうして?」
「三階に、台があるでしょ。赤いのを打つやつ」
「エアホッケー?」
「それ。やったことある?」
ロアラはカミラの顔を見てから、駅ビルの上のほうを見た。
「ある。斎藤さんは?」
「ない。一回なら、間に合う」
信号が青になった。ロアラが渡り始める横へ、カミラも並んだ。車道の真ん中で鞄がぶつかり、少し間隔を空ける。歩く速さはそのままだった。
三階のゲームコーナーは、下から聞くよりずっと音が大きい。音楽に混じって硬貨が落ち、機械の声が繰り返し景品の取り方を教えていた。エアホッケーの台は奥に一台あり、今は誰も立っていない。縁の塗装は手を置くあたりで薄くなり、青い盤面には細かい傷がついていた。
「百円で、二人?」
「そう。七点取ったら勝ち」
「二百円じゃなくて?」
「そんなに払いたいの」
カミラは財布から一枚だけ取り出した。投入口へ入れると、台の下で送風機が回り始める。ロアラが赤いパックを出し、こちらの手元へ滑らせた。
丸い持ち手を握る。底を盤面へつけると、手首だけで軽く動いた。身をかがめると肩へ落ちてきた銀髪を、結び目ごと背中へ払う。向こう側でロアラが鞄を足もとに置き、制服の袖を折り返している。
「これ、どうやって打つの」
「まず、あたしのほうに来るように」
「それはわかる」
「じゃあ来い」
いきなり言い方が変わって、カミラは笑いそうになった。真ん中を狙った一打は、あっさり返ってくる。ゴールの前へ持ち手を置くと、今度は端を抜かれた。
台が得点の音を鳴らした。
「説明してる途中じゃなかった?」
「今の、練習にする?」
「しない」
ロアラが口を閉じて笑った。その顔を見てから、カミラは取り出し口へ手を入れた。相手の側に点いた一の数字が、思ったより大きい。
端を使えばいい。ロアラはそうやって入れた。カミラも斜めに打ち、返ったパックをもう一度叩く。二打目は持ち手の丸い端に当たって、自分のすぐ横を通った。
手を引くのが遅れた。
得点の音が、また鳴る。
「そっち、自分のゴールだよ」
「知ってる!」
今、入ったところを見ていたのだ。知っているに決まっている。ロアラは片手を口へ持っていき、そこでも隠しきれずに笑った。台の向こうで肩が揺れる。
「そこまで笑わなくても」
「だって、すごい速さで戻ってったから」
「取れなかったでしょ」
「うん。あたしのところ、来なかったもん」
カミラも持ち手を置いてしまった。言い返そうとして息を吸うと、かえって笑いが出る。ロアラが次に打とうとしたとき、持ち手はパックの手前を空振りした。
「朝比奈さんだって」
「待って。今、打てない」
「待たない。早くして」
ロアラがやっと打ってきたパックを、カミラは端へ返した。ロアラが届く前にパックが沈み、こちらにも一点がつく。
「今のは練習?」
「違う。ちゃんと一点」
「なら、あと六点取る」
ロアラが袖をもう一段折った。待つ間、カミラは台の表示へ目をやる。相手の二点のうち、一点は自分が入れたのだ。それを差し引いてもらいたい気持ちと、二点のまま勝ちたい気持ちがあった。
次は、ロアラの持ち手が右へ動くところを見た。空いた左へ打つ。間に合って戻されたが、カミラもそこで手を止めなかった。三度、台の端で乾いた音がしたあと、パックがロアラの横へ抜けた。
「追いついた」
「今の速い」
「自分のほうに入れたのも速かった」
「あれは今日いちばん」
ロアラが、顔を上げて笑った。教室で上着を持っていたときより、ずっと口を大きく開ける。カミラはその隙に持ち手を構えた。
終わってみれば、五対七だった。
送風機が止まると、最後のパックが台の途中で滑らなくなった。あと二点。ゴールの幅はわかったし、ロアラが構えるときに、いつも同じほうへ手首を曲げることも見た。
財布には百円玉が残っていた。取り出しかけて、携帯の画面へ目を落とす。
「もう一回、だめ?」
ロアラが聞いた。
カミラは財布を閉じた。
「帰る。今日は」
「じゃあ次。今の五点、忘れないでね」
「どうして私が負けた点を覚えておくの」
「次、それより取れたら悔しいから」
二人が離れると、待っていた小学生が台へ走った。さっきまで自分の持っていた道具を、小さな手が握る。カミラはエスカレーターへ向かいながら、ゲームコーナーを振り返った。ロアラはまだ隣にいて、次は端を狙わせないと言っている。
一階に着くと、パン屋から焼けたバターの匂いがした。帰る方向が分かれるところで、カミラは鞄を開けた。
「これ。家へ帰ると、また出るの」
別冊を取り出し、家で足されたページを開く。ロアラは笑うのをやめた。
「今日のも、終わってるのに?」
「昨日も終わってた。早く終わったら、そのぶんできるでしょって」
「どこまでやるか、先に決まってない?」
「決まってる。終わるまでは」
ロアラが表紙に触れた。受け取ろうとした手だったので、カミラは渡した。今日書き込んだ答えを、相手が確かめている。
「昨日、言わなくてごめん」
「ううん。家で足されるところまでは、見てなかった」
「見せてないから」
家には、まだ前の答案がある。あの裏だけは、ロアラにも見られたくなかった。今日の試合で自分のゴールに入れた一点のことなら、いくら言われてもよかった。それ以外のものを見せるのは、やはり嫌だ。
ロアラが閉じた別冊を、カミラは受け取った。
「明日、買い物ある?」
「ないよ。またやる?」
ロアラが手帳を出し、今週のページを開いた。
木曜日。母は家にいる。家庭教師は来ない。夕方に人を呼ぶなら、必ず食堂を通される日だった。
カミラは別冊を鞄へ戻した。ロアラは手帳を開いて待っている。再戦、と書く場所が、木曜の欄にはまだ空いていた。
「明日、うちに来て。お母さんがいるから」
食卓の向かいにも、筆記具を入れた小皿が置かれていた。
カミラがいつも使うものと同じ、白い縁の皿だった。椅子が一脚引かれ、その前に参考書がある。母は二人分の菓子を持ってきて、ロアラの席にも小さなフォークを添えた。
「お母様から伺いました。勉強を見てくださったんですってね」
昨日、友達を呼びたいと伝えたとき、母は名前と家の電話番号を聞いた。夜にはロアラの母に挨拶も済ませていたらしい。そこまで進んだところで、カミラは遊びたいのだと言い出せなくなった。
「いえ、一緒の問題をやっただけです」
ロアラは勧められた椅子へ座った。脱いだ上着を背もたれに掛ける前に、カミラのほうを見る。ここへ掛けていいのか、と聞かれたのだと思って、うなずいた。
「朝比奈さんも、こちらを使ってみて。途中の説明が詳しいから」
母が参考書を寄せる。昨日のロアラなら、こんな厚いものを受け取らずに鞄を持って外へ出ていた。今は礼を言い、表紙を開いている。
母には、気に入られたのだと思う。
これからなら、ロアラを呼ぶときに理由はいらなくなるかもしれない。向かいの席が空いていれば、ここへ来てもらえる。カミラは鞄から課題を出した。今日、学校で終えた分だ。二人で同じ問題を見ていれば、母が台所へ行ったあいだくらいは別の話もできる。
「それ、今日のは終わってるよね」
ロアラに言われて、開いたばかりの冊子を閉じた。
「うん。こっちを見てもらいたくて」
家の自習用の問題集と、火曜に増えた別冊を並べる。ロアラは一度だけページを探し、似た図が載った二冊を母のほうへ向けた。
「この二つ、同じところを使って解けます。学校の分でも、今日はここまでやりました」
「学校ではもう、そこまで?」
母がカミラの冊子を開いた。ロアラは先へ説明を重ねず、フォークで栗の菓子を切る。皿の上で食べやすい大きさにしてから、その一つを口へ運んだ。
カミラの皿の菓子はまだ包装の中にあった。この前食べそびれたものを、母が皿ごともう一度出してくれた。
「数字が違う問題も解かないと。形だけ覚えてしまうから」
「はい。斎藤さん、どこが一番引っかかる?」
ロアラは母の言葉にうなずいてから、カミラに聞いた。
一番。聞かれるなら、母が席を外したときがよかった。カミラは冊子の後ろをめくり、何も書かれていない余白に指を止める。
「昨日の最後の一問も、解いた」
「うん。あれは途中まで書いてあった。最初からだと?」
母が椅子を引いた。書類ばさみを取りに行くのが見えたので、カミラは先に言った。
「前の答案、私にください」
母の手から古い紙を受け取った。ロアラの前へ出すまでの間、表の丸が二つ、折り目で途切れているのを見た。これを机の端へ寄せて、今日の新しい問題に取りかかってもいい。母はそちらでも困らないだろう。
けれどロアラの前にも、母の出した参考書が開いている。ロアラがその席にいるのは、カミラが家へ呼んだからだ。
カミラは紙を裏返した。
「ここ。これを間違えた」
大きな赤い斜線が、途中の式に引かれている。数字の横には自分で書いた小さな点があった。わからない問題につけておいて、あとで聞くつもりだった点だ。
「あ、ここの図なんだね」
ロアラは答えの横へ何も書かなかった。自分の前の参考書を閉じずに脇へ寄せ、カミラが白紙を置ける場所を作る。
「これだけ、最初からやってみる?」
「見ないで」
言ってから、カミラはロアラを見た。
「途中で。できてからにして」
「わかった。お菓子、先にいただく」
ロアラが自分の皿を引き寄せた。母も立ち上がり、湯の入ったポットを持ってくる。二人に視線を外してもらって、やっと紙の上に図を描けた。
何の長さを求めているのか、最初に書く。学校では省いたところだった。見えている数字をすぐ式に入れると、また前と同じ答えになる。カミラは図の一本の線をなぞり、その両端の記号を紙へ写した。
食堂の椅子は教室のものより背が高く、書いていると肩が前へ出る。向かいのロアラの足が椅子の横から見えていた。靴下のつま先が、床の模様ひとつぶん引っ込む。
カミラは紙を自分へ寄せた。
答えを確かめると、古い答案とは違う数字になった。式を一行ずつ見直し、最後に単位を添える。それから母へ差し出した。
「お母さん、裏も見て。こっちは今日、自分で解いた」
母が古い答案と新しい紙を隣に置いた。ロアラは皿の脇に残った菓子の包み紙を細く畳んでいる。金色の印刷が一折りずつ内側へ入り、指のあいだに白い裏面だけが残った。
「最初の式、今度は飛ばしていないわね」
母の赤いペンが、まだ紙には下りない。
「どこの長さを出すか、先に書いたから」
「このところを、前は聞いても答えられなかったでしょう」
「今は言えます」
説明を聞かれるのだと思って、カミラは図を指した。母はそこを見てから、脇へ寄せてある別冊に手を伸ばした。
「それなら、こちらも一つやってみましょうか。朝比奈さんも同じところでいい?」
ロアラの指から、畳まれた包み紙が皿へ落ちた。
カミラは椅子に座り直す。もう一つなら、すぐ済む。次の問題が先に見えるように、別冊の端へ手を置いた。ロアラの分の参考書は、こちらからは逆さで読みにくかった。
ぱたん、と表紙が閉じた。
ロアラが、自分に出された参考書の上へ白い小皿を戻していた。鉛筆は使われていない。代わりに鞄から出したのは、ゴムバンドの付いた手帳だった。
木曜の欄が、食卓の真ん中に開かれる。再戦。五対七。細い字で、それだけ書いてあった。
「これ、昨日の?」
思わず聞くと、ロアラは数字のほうを指した。
「忘れないように。消さないでね」
「消さないよ」
母のペン先が、手帳の上を通った。
「どこかへ行くお約束だったの?」
カミラは、そこでまた勉強の話に戻すこともできた。駅ビルには書店もある。参考書を見に行くと言えば、母は財布からお金を出すかもしれない。
手帳を開いたまま、ロアラが椅子を引いた。
「ごちそうさまでした」
菓子の皿とカップを揃えてから上着を取る。食堂の入り口に立ったとき、ロアラはこちらを振り向いた。返事の代わりに、カミラは母のほうを見た。
「駅ビルで、エアホッケーがしたいんです」
母が手元の紙から顔を上げる。
「ゲームのところ?」
「はい。昨日、帰りに一回だけしました」
「昨日?」
「帰る時刻は守りました」
そこだけはすぐ言えた。ロアラが廊下へ出る。カミラは後を追わず、机の上の解き直した紙を押さえていた。
玄関のほうで扉の開く音がして、肩が動いた。外の扉ではなかった。食堂から見える廊下の先で、ロアラが靴の棚を開けている。
「白いの、斎藤さんの?」
ロアラが持っていたのは、かかとの内側が少し擦れたスニーカーだった。買ってもらったのは去年で、靴紐だけ先月替えた。
「それ」
ロアラは棚を閉め、しゃがんで二足を置いた。自分の黒い靴の隣へ、カミラの白い靴を外向きに揃える。まだ靴を履かず、廊下側へ上がったまま鞄を持っていた。
一人で帰るなら、外の扉まであと一歩だった。
「カミラ」
母に呼ばれて食卓へ向き直った。ロアラが廊下にいるので、母は声を落としていた。
「今日は一緒に勉強すると思っていたのだけれど」
「勉強も、見てもらいました」
「朝比奈さんの速さに合わせて、わからないところまで終わりにしないでね」
カミラは解き直した紙を母の側へ押した。
「これを見てください。答えを聞いたわけじゃないです」
母のペンは式の途中に戻った。ロアラは玄関で黙っている。あの子が食堂に戻れば、もう一問と、その次の参考書がある。母はまだ友達の椅子を片付けていなかった。
「朝比奈さんも、お家のご都合があるのよ」
「だから、待たせたくない」
声が少し大きくなった。廊下へ届いたと思う。カミラはそのまま続きを言った。
「今日の分が終わったら、遊びに行かせてください。別冊も、これと同じところなら、今日はここで終わりにしたいです」
開いてあった別冊を持ち上げ、新しい紙の隣へ置いた。ロアラが初めに開いたページからめくり、母がやらせようとした問題を一つ見せる。
古い答案はその向こうにある。カミラは赤い斜線のところまで隠れないよう、紙の端を引いた。
「こっち、間違えたままにしてました。前に見せたときも、知ってました」
母はカミラの顔を見た。
「わかっていたのなら、どうして聞かなかったの」
「その日、出かけたかったから」
言ったあとは、紙の上を見るしかなかった。母には今日、解けた式を何度も見せている。ロアラには、母が課題を増やすことばかり話した。答案を隠したことは知らせずに、家へ呼んだ。
「今日は聞かずに解けました。終わったことに、してほしいです」
母が解き直した紙へペンを下ろした。丸が一つ、答えを囲む。次に途中の式を確かめ、小さな丸をもう一つつけた。
「ここが、できるようになったのね」
カミラはうなずいた。
母は別冊を閉じた。食堂の棚に戻し、その背をほかの本と揃える。カミラの前には、今日解いた紙だけが残った。
「三十分で帰っていらっしゃい。行き帰りも入れてよ」
カミラは立ちかけて、机に片手をついた。
「帰ってから、これは?」
棚の別冊を指す。
「今日はおしまい。できたところは、もう見ました」
カミラは椅子を戻しかけた。許された三十分がなくなる気がして、続きは声にならない。椅子の背から手を離さずに、聞いた。
「来週も、終わったら行っていいですか」
母は新しい紙を古い答案へ重ねかけ、二枚を並べ直した。
「わからないところが残ったら、今度は隠さずに見せること。出かけたい日もよ」
「はい。間違ってても、見せます」
母が壁のカレンダーへ目を向けた。
「木曜なら、来週も。まず二回。今日みたいに見せて、それからにしましょう」
「同じ三十分ですか」
「ええ。帰る時刻は自分で書いて」
カミラは壁の前へ行った。家族の予定が大きな字で並び、今日の木曜の下には、何も書く場所がないように見えた。よく見れば、母の通院の字は午前の欄に収まっている。午後は空いていた。
五時帰宅、と書く。字の下にもう一つ、朝比奈さん、と小さく添えた。時計は四時半を指している。
「来週の時刻は、その日に決めていいですか」
「勉強の済む時刻によるでしょうね」
母の返事を聞きながら、カミラは手帳を閉じた。ロアラが食卓に置いたままだったものだ。丸のついた紙の横から取り上げ、廊下を走った。
靴はまだ二足とも、きちんと並んでいた。
「忘れてる」
手帳を差し出すと、ロアラが受け取り、鞄へ入れた。
「五時まで」
「うん。間に合う」
カミラがスニーカーに足を入れるまで、ロアラは隣で待った。昨日結んだままの紐は少しきつい。かかとをつぶすのが嫌でしゃがむと、ロアラもそこで自分の靴を履いた。
◇
駅ビルの三階へ上がったとき、カミラはもう息を切らしていなかった。
家の前で走り出しかけたら、ロアラが「まだ大丈夫」と言ったので、歩いて来た。エスカレーターの手すりへ肘をつきそうになり、置くのをやめる。後ろに立つロアラに、さっき何を聞いていたか尋ねることもできた。廊下からは母の声も聞こえたはずだ。
振り返ると、相手は三階の床が近づくのを待っていた。
「昨日、右に曲げてた」
「何を?」
「手首。打つ前に」
ロアラが右手を持ち上げた。何も持っていないのに、丸い持ち手を握る形になる。
「え、言っちゃっていいの。気をつけるよ」
「わかってても止められなかったら、私の勝ちでしょ」
「言ったね」
台の前で、ロアラは上着の袖を折った。カミラも鞄を床へ置き、昨日使ったほうの持ち手を取る。家へ招いたのだから、最初は自分が百円を入れるつもりだった。財布を出す前に、送風機が鳴り始めた。
「今日はあたしから」
ロアラが投入口から手を離す。
「じゃあ、そっちが先に打って」
「斎藤さんに初球あげようと思ったのに」
「いらない」
ロアラが赤いパックを置いた。手首が動く。右へ引くところまで昨日と同じで、打つ直前に向きを変えた。
カミラは台の端を守ったままにした。パックは持ち手に当たって跳ね、ロアラの側へ戻る。
ロアラがそれを手もとで止め、もう一度同じ動きをする。曲げるほうへ目をやりかけて、持ち手の前だけを見た。二度目は自分の正面へ飛んできた。
押し出すように返すと、ロアラの手が追いつかなかった。
「入った」
こちらに一点がついていた。
「癖、見てないじゃん」
「見てたよ。そっちが直そうとしたところを」
ロアラが取り出し口からパックを拾った。唇を少し開け、カミラの守っている場所を見る。さっき母に示した二冊の前にいたときと、同じ顔ではなかった。
「じゃあ、次は普通に打つ」
「どれが普通なの」
返事の代わりに、パックが台の左端へ当たった。カミラが追っているあいだに、その次の角度でゴールへ滑り込む。
「ほら、これ」
「今のなし」
「普通の一点だってば」
二人の声が機械の音に混じった。カミラはゴールからパックを取り出し、すぐ盤面へ戻す。相手が構える前に打ってしまいそうになって、持ち手を止めた。
ロアラが、来い、と口だけで言った。
強く打つのをやめる。真ん中で小さく触って、相手が身を乗り出すのを待つ。ロアラの持ち手が届くぎりぎりのところで、パックは向きを変えて滑った。
「ロアラ、そっち!」
自分で打ったのに、行く先を教えてしまった。
ロアラが笑いながら追い、持ち手の端で打ち返す。カミラは守るのに間に合わず、点を取られた。
「教えたぶん、引いて」
「いや。カミラが勝手に言った」
名前が返ってきた。
取り出し口へ入れた手を、カミラは一度止めた。顔を上げると、ロアラは次の一打に備えている。何も変わっていない顔で、さっきから立っていた場所にいる。
カミラもパックを持ち上げた。
「次は言わない」
「うん。言わなくていい」
そのあと何点取られたか、途中で一度わからなくなった。表示を見たときには、どちらも六だった。昨日より一点多い。この一点を自分で取りたい。
ロアラが正面へ打つ。カミラは返し、相手の次の一打を端で待った。ロアラは端を狙わず、持ち手を短く引いたまま、正面へ押し込んできた。
七の数字は向こうに点いた。
「もう一回」
二人ともそう言い、カミラは携帯を見た。帰り道のぶんを残しても、まだできる。
百円玉を出すと、ロアラの手も投入口へ伸びてきた。硬貨の縁どうしが、かちんと当たる。
「私の番」
「あ、そっか」
「来週もするなら、そのとき入れて」
ロアラは百円玉を財布へ戻した。カミラの硬貨が台へ落ち、また風が出る。何も言われなくても、二人とも持ち手を取っていた。
二試合目もカミラは負けた。ただ、最後までゴールを見ていられた。パックが引っかかって止まると、ロアラが台の横を回って取りに来る。カミラのそばまで来た顔は、まだ笑っていた。
「次、勝つから」
「あたしも勝つよ」
二人で鞄を拾った。下りのエスカレーターでも、カミラが先に乗った。上の段のロアラが近すぎて、振り向いて話すのは下に着いてからにしようと思った。
◇
門の前でロアラと別れ、カミラは家へ入った。
「ただいま」
食堂の時計は五時を指す少し手前だった。母は台所から顔を出し、カミラを見て時計を見た。
「おかえり。手を洗ってね」
「はい」
鞄を置く場所へ向かいかけて、食卓に何が載っているか確かめた。さっき解いた紙は書類ばさみに入り、参考書は二人分とも棚へ戻っている。空いた皿を、母が重ねて運んだ。
「お菓子、残してあるわよ」
カミラの分だけ、包み紙の中に残っていた。
「あとで食べます」
廊下へ出る。鞄はまだ手に持っていた。上へ持っていけば、今日はそれで済む。
玄関に、白い靴が斜めに脱いであった。先に左を脱いだので、右だけ廊下から遠い。隣にあった黒い靴はもうない。
カミラは鞄を置いてしゃがんだ。緩んだ紐を踏まないよう靴の中へ入れ、二足あったときの間隔を思い出す。白い二つのつま先を、扉のほうへ揃えた。
カミラがノートを閉じても、母は棚へ行かなかった。
解き直した二問の横に赤い丸がある。最初の間違いは消さず、その下に正しい式を書いた。母がページを戻して見比べたので、カミラはもう一度説明するつもりで鉛筆を持ったが、聞かれたのは帰る時刻だった。
「今日も五時です」
「朝比奈さんには伝えてある?」
「はい。門の前で待ってます」
「それなら、行ってらっしゃい」
椅子を引き、鞄を持つ。ロアラが先に立ってくれなくても、今日は食堂から出られた。
廊下で一度、足を緩める。母はカップを片付けていた。来週の木曜については、まだ何も言わない。二回試してみる、その二回目が今日だった。
今聞けば、帰ってきてから決めましょうと言われる。カミラは靴紐を結び直した。先週の木曜に緩めたままの紐ではなかった。水曜のうちに、履いて走っても脱げない長さにしてある。
玄関を出ると、ロアラが門のそばに立っていた。携帯をしまい、カミラが門を閉めるのを待つ。午後の光を受けた黒髪の先が、耳から少し浮いている。
「終わった?」
「終わった。今日も三十分」
「じゃ、行こ」
ロアラはすぐ歩き始めた。カミラは並び、相手の空いている手を見た。今日は手帳も参考書も出していない。
「待った?」
「今来たとこ。学校で衣装の糸を切ってた」
「まだ直してるの?」
「裾を縫ったあとのやつ。千帆の上着じゃないよ」
その名前を聞くと、隣の教室まで三人で歩いた日のことが浮かんだ。もう一週間以上たつ。本番は明後日の土曜で、教室の後ろにあった衣装箱が舞台袖へ運ばれ始めていた。
カミラは歩く速さを上げた。門から駅ビルまでの七分は、先週もかかった。紐を締め直しても、近くはならない。
「走らないってば」
「走ってない」
「あたしの足も見て」
ロアラは少し大きな歩幅でついてきていた。カミラが足を緩めると、相手もいつもの歩き方に戻る。
商店街へ出る角で、後ろから名前を呼ばれた。
振り向いたロアラの肩越しに、千帆が手を振っている。制服のスカートに、あの借り物の上着を着ていた。鞄とは別に持った布袋から、自分の制服の袖がのぞいていた。
「ロアラ、これ見て。こっちだけ落ちてくる」
千帆は左腕を前へ出した。折ってあった袖が伸びて、指の付け根まで隠れている。
「衣装合わせで、腕上げたら戻っちゃった」
「折る位置が浅いんじゃない? 帰りまで着てるの」
「脱ぐと袋の中でくしゃくしゃになるから。今日は吊っとく」
千帆はロアラの右側へ並んだ。カミラはそれまで二人で歩いていた幅のまま、左に残った。三人になって、店先ののぼりをよけるために一度後ろへ下がる。
ロアラは歩く速度を落とし、千帆の袖を折った。手首を返して布をひと巻きし、縫い目を外側へ出さないように整えている。千帆は腕を預けたまま、明後日の出番の話を続けた。
「ここで手を上げるんだけど、剣持つの右じゃん。左だけ長いと、すごい変なんだよね」
「両方同じにしよう。右も出して」
カミラには、ロアラの後ろ頭しか見えなくなった。空いていた左側へ回り、半歩前へ出る。向こう側で千帆が右の袖を見せるとき、ロアラの鞄がカミラの鞄に当たった。
「ごめん」
「平気」
カミラは鞄を左手へ持ち替えた。ロアラのすぐ横が空く。千帆は折ってもらった袖を上げて、店の窓に映していた。
「これで舞台出たら、またほどけるかな」
「本番は衣装係に留めてもらおう。今はこれで歩ける」
「ありがと。斎藤さん、そっちから見て同じ?」
カミラは二本の袖を比べた。右が少し長く見えるのは、千帆がそちらの腕を下げているからだった。
「腕、同じ高さにして」
千帆が両手を前へ伸ばした。
「それなら同じ。手もちゃんと見える」
「よかった。二人、今日もあの台?」
「うん」
ロアラが答えた。千帆は二人の顔を順番に見て、カミラにも笑いかけた。
「いいな。私、今日これ持って帰らないと。引き分けってあるの?」
「どっちか七点取るまでだから、ない」
「じゃ、どっちが強い?」
「あたし」
ロアラの返事が早すぎた。
「今日の分はまだ入ってない」
カミラが言うと、千帆が声を上げて笑った。ロアラも「今日もあたし」と言う。三人の歩く速さが揃い、駅ビルの入り口が近づいてきた。
千帆は駅の改札のほうへ曲がる前に、借りた上着の脇を見せた。
「ここ、全然わかんない。お兄さんにもそう言っといてもらった」
繕ったところは、布をよく見ないと探せなかった。カミラは裂け目から見えていた白いシャツを覚えている。ロアラが直した上着を、千帆は土曜にも着られる。
「ちゃんとお礼したいんだけど」
「返すとき一緒に言おうよ」
「ロアラにだよ」
千帆の言い方に、ロアラが口を開けて笑った。二人のあいだで、話が一つ通じたようだった。
「じゃあ、また明日」
千帆は手を振り、腕の出た袖をそのままにして改札へ向かった。
カミラはロアラを見た。折った袖を確かめていた指が、今は鞄の持ち手に戻っている。
「今日は私が入れる」
「百円? 先週、あたしの番って言ったじゃん」
「そうだった」
「忘れないでよ。ちゃんと取っといたんだから」
ロアラが制服のポケットから財布を出してみせる。カミラはそれを見て、駅ビルの扉を押した。
◇
三階の台は空いていた。カミラは鞄を床へ置き、ロアラが百円玉を入れる間に髪を結び直した。
この一週間、教室では会っていた。授業の合間に話すこともある。それでも、持ち手を握って向かいに立ったロアラを見ると、前の対戦からずいぶん日がたったと思う。
「髪、邪魔?」
「打つと前へ来る」
「もうちょっと高く結んだら」
カミラは結び目を探った。そこへロアラが回って来ようとしたので、先に手を下ろす。
「いい。もう入れたでしょ」
送風機は回っていた。ロアラは引き返し、向こうのゴールの前に立った。
「じゃあ、今日はそっちが先」
カミラはパックを真ん中へ置いた。手首の癖は、もう使えない。ロアラはこちらが何を見ているかわかっていて、ときどきわざと大きく曲げる。
狙いを決める前に、相手が口を開いた。
「何点取るつもり?」
「七点」
「その前にあたしが七点取ったら?」
「聞く意味ある?」
ロアラが笑った。その顔が正面にあるうちに、カミラはパックを打った。
二点続けて取ったあと、三点取られた。初めの二点は速く打てたからだと思ったのに、同じ勢いで打っても、ロアラは縁に当てて返してくる。
「さっきの、もう一回やって」
「どれ」
「こっち来たら、途中で曲がるやつ」
「途中で曲がってないよ。端に当たったの」
「だから、それ」
頼んだのに、実際にやられると取れなかった。カミラが持ち手を伸ばした先をパックが通り過ぎる。
「頼まれても一点だからね」
「わかってる」
表示は二対四になった。カミラは肩に入れすぎた力を抜こうとした。
一歩、後ろへ下がった。
ロアラが台へ体を寄せ、真ん中まで持ち手を伸ばしてきた。カミラのゆるい一打が、その持ち手で叩き返される。
「あ」
五点目が向こうへ入った。
「下がるから」
「近づきすぎじゃない?」
「こっちの線、越えてないよ」
ロアラは台の中央の線を指した。その指が戻るのを見てから、カミラはパックを取り出した。
打つ直前に、また片足を引く。ロアラが寄ってくる。カミラは腕の横を抜くつもりで、端へ強く打った。
パックはロアラの持ち手に当たり、横へ跳ねてゴールへ入った。
「取った」
「今の、狙った?」
「狙った」
「当たったあとも?」
カミラはうなずいた。本当は、どこへ当たるかまでは考えていなかった。ただ、下がればロアラが前へ出てくる。もう一度確かめるために、次も同じ足を引いた。
ロアラはその場にとどまった。
「もう行かない」
「来なくていいよ」
行かないと言われると、来てほしくなった。カミラは盤面の真ん中近くでパックを止め、打つ場所を探すふりをした。
ロアラの手が出る。
「来た」
「そっちが止めるから」
「もう行かないって言ったのに」
言い合っている間に、パックがカミラの端へ戻ってきた。持ち手を合わせるのが遅れ、六点目を取られる。カミラは点の表示を見る前にロアラを見た。相手は台の縁を握り、声を立てずに笑っていた。
最後の一点は、カミラが取り返そうと急いだところを抜かれた。
三対七。先週より少ない。
「点、減ってる」
「ロアラが余計なこと言うから」
「カミラも言ってた」
カミラは財布を開き、百円玉を一枚取った。ロアラに教わった打ち方で返しても、相手は驚かない。カミラが一歩下がったときには、ロアラが顔を上げた。パックを見ているときには、こちらと目が合わない。
二試合目には、言葉で誘わなかった。カミラが下がるときに、ロアラが動く。動かないなら、向こうが待っている側とは違う端へ打つ。入るときも、防がれるときもあった。
一度、返ってきたパックを二人とも見失った。台からは落ちていない。カミラが持ち手を上げると、その下に隠れていた。
「私が持ってた」
「返して。まだあたしの四点目になる予定だった」
「これから私の五点目になる」
カミラが打った。ロアラは正面で防いで、すぐ返す。カミラは台へ体を寄せたまま、次の一打を待った。
六対五で、ロアラが正面に構えた。カミラは端を見て、パックをそこへ当てた。跳ね返った赤い円が、伸びてきた持ち手の横を抜ける。
最後に点いた七は、カミラの側だった。
表示を見たまま手を置いていると、ロアラが向こうから呼んだ。
「やったじゃん」
「今、何点?」
「そっち七。こっち五」
「じゃあ、私の勝ち?」
「聞かなくていいって」
ロアラは笑っていた。カミラも笑おうとして、その前にもう一度表示を見た。自分の側に点いた七から、まだ目を離したくなかった。
けれど携帯を見て、持ち手を戻した。今日はもう、三試合目まではできない。手帳の五対七は、これで消せるだろうか。
「記録、変えといて」
「何の?」
「先週の水曜。私が五で負けたやつ」
「あれはあれ。今日は一勝ずつね」
ロアラが鞄から手帳を出した。カミラは台のそばの荷物を持ち、通路をふさがない位置へ寄る。ロアラはそこで今日の欄に一行書いた。
カミラ一勝。
上から見えた文字を、カミラは読んだ。あたし一勝、と下に添えるのかと思ったら、そこで鉛筆が離れた。
「自分のは?」
「覚えてるからいい」
「私も忘れないけど」
「じゃあ、忘れたら見せてあげる」
ロアラは一枚めくって、来週のページを開いた。
「木曜、また?」
「今日でお試し終わり。帰ってから、お母さんに聞く」
「そっか」
相手の指がページを閉じかけたので、カミラは続けた。
「私は行きたい」
「あたしも。じゃあ、だめだったら教えて」
「だめにしない」
「うん。ここ書いといて。木曜のとこ」
短い鉛筆が、カミラのほうへ差し出された。
借り物の上着を返す日を、千帆が書いていた鉛筆だった。ロアラの胸ポケットにいつも入っていて、今日は軸の塗装が少し削れている。カミラが受け取ると、ロアラは手帳も向きを変えて渡した。
人の手帳は、開いてみると自分のものより薄い紙だった。前のページの字が少し透けている。昼休みや夕方の用が、小さな文字で幾つも入っていた。
来週の木曜の放課後は空いている。
「時刻も?」
「そこはあとで教えて。今日と同じなら合わせられるよ」
「場所は三階」
「わかるって。毎回あそこじゃん」
カミラは再戦、と書いた。その横にカミラ、と名前を添える。学校の提出物と違って、斎藤とは書かなかった。呼び返されたのと同じ三文字が、ロアラの予定のあいだに入った。
「これでいい?」
手帳を少し相手へ傾けると、ロアラが上からのぞいた。
「うん。来週はあたし二勝する」
「それは自分の頭に書いといて」
ロアラが鉛筆を受け取ろうと手を出した。カミラは渡したが、手帳はまだ返さなかった。
紙の右端に指を掛ける。一枚前へ戻すと、今日の一勝がある。その右の土曜の欄には、公演とあった。
カミラはその字の下を見た。終演後の午後には、何も書かれていない。
「カミラ?」
呼ばれて顔を上げる。ロアラの手が、今度は手帳を受け取る形でこちらへ向いていた。
「もう書けた」
開いていたページを閉じ、渡した。ゴムバンドを掛けるのはロアラだった。
「じゃ、帰ろ。来週の連絡、待ってる」
カミラは鞄を肩へ掛けた。
◇
母は食堂の時計を見るより先に、カミラの靴音に顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま。五時より前です」
「わかってるわよ」
カミラは携帯をしまった。見せるつもりで画面をつけていたのに、母は手元の郵便物へ目を戻している。
鞄を椅子に置いて、壁のカレンダーの前に立った。今週の木曜には、先週と同じ帰宅時刻がカミラの字で書いてある。来週の木曜は、午後のところだけまだ白い。
「お母さん。来週も約束しました」
言ってしまってから母を見る。
「まだ決まっていないでしょう」
「私が行けなかったら連絡するって、話してあります。でも、行きたいです」
母は封筒を机へ置いた。カミラの鞄には、今日見せたノートが入っている。出すならすぐ出せるように、留め具を外した。
「今日の解き直しは、見ました」
母はノートを求めなかった。
「同じように終わらせて、約束の時刻に帰るなら。木曜は続けていいです」
カミラは鞄の留め具を戻した。
「書いていいんですか」
「自分でした約束でしょう。朝比奈さんにも予定があるんだから、行くならちゃんと伝えて」
カレンダーの横に差してあるペンを取った。来週の木曜の午後へ、駅ビル、と書く。帰宅は五時。まだ食堂の椅子に座っている母が見えるくらい、体を斜めにしたまま書いた。
「朝比奈さんと、ですよ」
「ほかの方とは聞いていませんよ」
母が笑い、封筒を開けた。カミラは友達の名を書き足さず、ペンに蓋をする。ロアラの手帳には、自分の名前が入っている。そこに何と書いたかまで、母に話す必要はなかった。
カミラは鞄を持ち、食堂を出た。
階段を上がりながら、来週も行ける、と打った。四時半に家を出るから今日と同じ、と続ける。送り終えてからも携帯を持っていたら、途中で一段踏み外しかけた。
自分の部屋の扉を開けたとき、返事が来た。
『了解。次の百円はあたし』
カミラは椅子に座り、財布を開いた。百円玉はまだある。次も一回ずつ払えばいい。返信にそう書いて、最後に、二試合する、と足した。
◇
翌朝、千帆はカミラの机に百円玉を一枚置き、隣のロアラの机にも一枚置いた。最後の一枚を自分の席へ持っていく前に、爪の先で軽く鳴らす。カミラは鞄を下ろさずに硬貨を見ていた。三つの机に、一枚ずつ銀色の丸が載っていた。
千帆は、剣を右手に持ったまま左腕を上げられずにいた。
舞台袖の暗がりで、借り物の上着の袖が指先まで下りている。足もとに銀色の留め具が落ちていた。カミラが拾って差し出すと、千帆は受け取ろうとして、先に上着の脇を押さえた。
「また裂けた?」
「違う。まだ、大丈夫。でもこれ、引っ張ったら」
舞台では、千帆の前の役が長い台詞を言っている。稽古で何度も聞いたので、どこまで進んだかわかった。あの台詞が終わったら、向こうから歩いてきた役と千帆が向き合う。
留め具の片側が曲がっていた。カミラは衣装係の子に渡した。その子が袖を折り直そうとするたび、千帆は肘を体へつける。
「腕上げないと留められないって」
「わかってる。ちょっと待って」
カミラは客席へ通じる扉を見た。
「ロアラ、呼んでくる」
「針とか使う時間、ないよ」
千帆の返事を背中で聞いた。カミラは舞台袖を出て、客席の後ろの通路へ走った。床板のきしむ場所だけ避け、扉のそばで足を止める。
ロアラは後方の席にいた。膝の上にパンフレットを開いている。カミラが手を振ると、すぐに顔を上げた。
「来て。筒井さんの袖、留めて」
声を落としたので、それしか言えなかった。ロアラはパンフレットを席へ置き、隣の人の足に当たらないよう横を向いて出てきた。
カミラはその腕をつかんだ。案内しなくても舞台袖はわかるはずなのに、扉を抜けるまで離さなかった。
「あと、どれくらい?」
「次の次の台詞。左の袖だけ」
ロアラはカミラの手が外れると、先に千帆のほうへかがみ込んだ。
「剣、いったん置こ」
千帆から剣を受け取り、カミラへ渡す。衣装係から曲がった留め具を受け取って見たあと、ロアラは予備を一つもらった。
「脇のところ、触らなくて平気。こっち持って」
千帆の左手を袖の先へ移した。押さえていた脇が見える。先週繕った縫い目は、そのままつながっていた。
「そこ、また開いたらと思って」
「今は開いてないよ。ほら、腕上げてみて」
ロアラは袖を留め終え、折り返しの下から千帆の手を出した。千帆が肘を曲げる。上着の脇は引きつらず、左手は顔の横まで上がった。
「いける?」
「うん」
舞台から合図の台詞が聞こえた。
カミラは剣を千帆の右手に戻した。千帆は一歩踏み出してから振り返り、二人を見た。ロアラが自分の左手を上げてみせる。
「そこまで上がる。行って」
千帆が明るい舞台へ出た。
カミラは袖の幕を握らずに見送った。客席からは見えない繕い目も、ここからなら脇に一本見えている。千帆はそこを隠さず、剣を持たない左腕を上げた。台詞が客席の後ろまで届く。
「間に合った」
カミラが言うと、ロアラは曲がった留め具を衣装係へ返した。
「呼んでくれてよかった。あたし、全然見えなかったから」
衣装係も礼を言った。その横で、カミラはまだ千帆の声を聞いていた。自分が呼びに行った。ロアラが来て、あの子が舞台へ出た。
客席へ戻り、ロアラの隣の空席に座る。千帆が場面の最後に剣を掲げると、カミラは膝に置いていた手を打ち合わせた。隣のロアラがこちらを見るくらい、大きな音が出た。
拍手をやめずに顔を向けると、ロアラも舞台を見て手を叩いている。千帆の左の袖は、幕が閉じるまで落ちなかった。
◇
終演後の教室で、カミラは衣装につけた札を外していた。
自分の係はもう終わりだったが、セロハンテープが机に残っているのが気になる。爪で端を起こしたところで、廊下側の机からロアラの笑い声がした。
千帆が指で弾いた百円玉が、机の上を走っている。
昨日の朝に配られた三枚だった。千帆が机の上で遊ぶから貸してと言うので、カミラも財布から出して預けていた。配ったとき、千帆は手伝いのお礼だと言った。カミラが机の上の百円玉を押し戻しても、受け取らなかった。
今日の千帆は上着を脱ぎ、制服に戻っている。椅子の背には、左袖を短く留めたままの借り物が掛かっていた。
「指、机から離しちゃだめだって」
「離してない。今のは滑っただけ」
ロアラが千帆の手をのぞき込み、次の硬貨を机に置いた。机の端に二本の指を開いて立て、そのあいだをゴールにしているらしい。取り囲んだ同級生が順番を数える。
カミラは札をまとめ、空の箱へ入れた。そばまで行くと、千帆の弾いた硬貨がロアラの指に当たって跳ね返った。
「自分のほう行ってる!」
誰かが言った。
千帆は戻ってきた硬貨を止めようとして、もう一枚にぶつけた。二枚が机の端から落ちかけ、ロアラが片手で受ける。笑いすぎて取り損ねた一枚が、床へ落ちた。
「今のどっちの点?」
「お金落としたから、両方負け」
「そんなの聞いてない」
ロアラが顔を上げて笑った。口へ持っていった手でも隠せず、肩が揺れる。
カミラは人垣の外に立っていた。
自分のゴールに入れてしまった日も、そう笑った。木曜の対戦では、声を出さずに笑うところまで見た。目の前で相手が変わっても、笑い方は同じだった。
「斎藤さん、次こっち!」
千帆がカミラを見つけ、机の角を空けた。ロアラも床から拾った百円玉を、こちらへ滑らせてくる。
「これ、カミラの分。千帆が今、すごいのやった」
「見てた」
「じゃあ、カミラもやってみて。自分のとこに戻ってくるんだよ」
カミラは硬貨をつまんだ。薄い縁が指に食い込む。二人とも、初めからカミラの番があるつもりで待っていた。
机の空いた角へ立ち、硬貨を置く。
「どうなったら勝ち?」
「指のあいだ通したら一点。机から落としたら負け」
「自分のほうに戻ったら?」
「カミラ、好きだね、それ」
ロアラの返事に、周りが笑った。
カミラはロアラの指のあいだへ硬貨を弾いた。勢いが足りず、爪の手前で止まる。千帆が横からもう一枚を当てると、カミラの硬貨が押されてゴールを越えた。
「今の私の点?」
「私のじゃない? 動かしたの私だもん」
「二人で半分でいいよ」
ロアラが言った。カミラは硬貨を引き寄せた。
「半分は数えにくい」
「じゃあもう一回、二人とも入れよう」
千帆が机に両肘をつきかけ、ロアラに手首を持ち上げられた。
「ずれるから、こっちの机押さえないで」
「はいはい」
二人が顔を見合わせた。千帆はロアラに持たれた手をすぐ戻し、百円玉を爪で回す。カミラも弾く位置を直した。ロアラの指はこちらへもゴールを作っていた。
もう一度やると、今度は真ん中を通った。
「入った」
「ほら、カミラ一点」
ロアラが数える。カミラは笑ってみせた。千帆も同じ机にいて、次の硬貨を構えている。
片付けを呼びかける声がして、人垣が崩れた。机を戻す人に頼まれ、ロアラは三枚を手のひらへ集める。カミラと千帆に一枚ずつ渡し、自分の分をポケットへ入れた。カミラも財布を出さず、渡された一枚をポケットへ落とした。
「この上着、衣装袋に入れてくるね。洗い方、聞いたんでしょ」
「うん。写真も送ってもらった。袋、後ろの箱にある」
千帆が指すと、ロアラは椅子の背から上着を外した。折り返していた袖を伸ばし、ハンガーごと持ち上げる。
「昇降口で待ってて。すぐ行く」
◇
校門の手前には、立て看板を片付ける生徒が残っていた。
千帆と昇降口を出ると、風が冷たかった。ロアラを待つあいだ通る人の邪魔にならないよう、カミラは植え込みの縁へ寄った。千帆も隣へ来る。
「斎藤さん、今日は何時まで大丈夫?」
「片付けのぶんまで、お母さんには言ってある」
カミラは携帯を見た。今出れば、駅ビルで三試合して帰るくらいの時間はある。五時の帰宅まで、ずっと勉強に使わなくてもいい土曜だった。
「このあと三人で駅ビル行かない? 三試合できるね。私、二人に一回ずつ教えてもらってから、最後のは見る」
千帆は百円玉を見せた。昨日配ったばかりの金を、取り返しに来たわけではない。自分の分の一枚だけを、指に挟んでいる。
カミラのポケットにも一枚ある。ロアラのところにはもう一枚。それだけあれば、三人とも二回ずつ台の前へ立てる。
「ロアラ、すぐ来るよね」
千帆が昇降口をのぞいた。
カミラはそこを見なかった。木曜に開いた手帳の、土曜の欄を覚えていた。公演と書かれた下には、何もなかった。まだ先の木曜へ書いた自分の名前を、あそこへ移したわけでもない。
「今日は、ロアラと先に約束してる」
千帆がこちらを向いた。
「このあと?」
「うん。二人で行くところがあるから」
言い終えてから、カミラは百円玉を握った。聞かれたら行き先も答えなければならない。まだどこも決めていなかった。
「そっか。先に言ってよ」
「ごめん」
千帆は昇降口へ戻ろうとはしなかった。携帯を出し、画面を一度確かめる。
「じゃあ私、隣のクラスの子たちと行く。まだ駅のとこにいるって」
「その百円」
カミラが言いかけると、千帆は自分の硬貨をポケットへ入れた。
「私のは使うよ。二人の分、持ってて。今日も助けてもらったし」
カミラの返事を待たずに笑い、千帆は鞄を持ち直した。
「ロアラに、上着ありがとって言っといて。また月曜ね」
「うん」
千帆が校門を出た。
まだ、呼べた。
手前の横断歩道は赤で、千帆はそこに立っていた。さっき三試合できると言ったのは千帆で、自分も台の前へ立つつもりで数えていた。ロアラに確かめたら、三人で行こうと返ってくるだろう。今日は空いている。
カミラは携帯の画面をつけた。連絡先を開けば、千帆に今からでも送れる。約束は木曜のことだった、と言えば済む。
ガラス戸が開く音を聞き、携帯を伏せた。
ロアラが昇降口から出てきた。片手は鞄を持ち、もう片方は空いている。カミラはその空いた手を見てから、顔を上げた。
「千帆は?」
「ほかの子と行くって」
「そっか。上着、袋に入れたよ」
「ありがとうって言ってた」
ロアラは時計を見た。千帆の立っていた横断歩道から、渡り始める靴音が聞こえた。
カミラは呼ばなかった。
◇
ロアラが鞄を肩へ掛ける。
カミラは駅ビルへ向くつもりで、一歩先へ出た。
「あ、ちょっと待って」
呼び止められたので振り返ると、ロアラは校舎の裏へ顔を向けていた。下級生が二人、透明な衣装箱を運び出している。片方の持ち手が下がり、底が地面へつきかけた。
ロアラは鞄を植え込みの縁に置き、二人のところへ行った。
「どこまで持ってくの?」
「倉庫です。体育館の横の」
「手、挟んでない?」
下級生が首を振った。ロアラは低くなった側の持ち手を受け取り、地面から箱を上げる。もう一人にも一度置くよう言ってから、カミラを見た。
「こっち、お願いしていい?」
空いた側へ呼ばれた。
カミラは鞄をロアラの鞄の隣へ置き、箱の向こう側へ回った。下級生が手を離した持ち手は、思ったより厚い。中には衣装が詰まり、上に載せた靴の底が透明な壁へ当たっている。
「せーのでいい?」
ロアラが聞いた。
カミラはうなずき、同時に箱を持ち上げる。体の真ん中あたりに重さが来た。ロアラの側を先に上げすぎないよう、二人で歩き出す。
下級生たちが倉庫の鍵を借りに走っていった。片付けの終わった校庭には、立て看板の裏が並んでいる。通る幅が狭くなったところで、ロアラが先に体を横へ向けた。
「そっち、当たる?」
「大丈夫。もうちょっとゆっくり」
「うん」
歩幅が小さくなった。木曜の商店街では、千帆の袖を折るために落とした歩幅だった。今はカミラが持つ箱が揺れないように、こちらを見て歩いている。
「重いね」
「まだ平気」
「あたしも。あそこまででいいから」
ロアラの指に力が入っていた。カミラはそこを見ると、もう少し持っていられると思った。自分のほうの箱をわずかに上げ、相手の高さへ合わせる。
歩くたびに箱の中の靴が鳴る。
千帆がいれば、三人で持てただろうか。違う側へ手を掛けられても、この箱は持ちにくい。今は二人でちょうどよかった。
倉庫の前で止まると、ロアラが顎で地面を示した。
「下ろすよ」
二人で箱を置いた。カミラが手を離すより先に、ロアラは通ってきたほうを見た。校舎の裏に、まだ小さな箱が二つある。
「あれもここのかな」
「ロアラ」
名前を呼ぶと、相手はカミラの手を見た。
「痛くなった?」
「なってない。あとのは私が持つ」
「二つあるよ」
「小さい。中、ハンガーでしょ」
透明な側面から、針金の曲がった形が見えていた。重い衣装の箱とは違う。カミラは手を振って痛くないと示した。
鍵が届くのを待つ間に、校庭の立て看板が最後の一枚まで運び去られた。下級生が戻ると、カミラは残りもこの倉庫か聞いた。
下級生とロアラが大箱を中へ入れた。カミラは小箱を抱え、ロアラが押さえる戸を二度通った。下級生が中を整え、もう運ぶ物はなくなった。
「助かりました。ありがとうございます」
下級生が戸を閉めた。ロアラは鍵を返す場所を教え、カミラの隣へ戻ってきた。
鞄を取りに戻ると、校舎の時計は思ったより進んでいた。カミラは百円玉をポケットの上から押さえる。二人で台へ立つぶんの時間は、もうなかった。
「帰らないとね」
ロアラが鞄を渡してくれた。
「さっき、頼んじゃってごめん。二人がかりでも落としそうだったから」
「持てたから、いい」
ロアラはカミラの肩に寄っていた鞄の紐を直した。ねじれていたところがほどけ、肩に平らに収まる。カミラはその手を、紐ごと押さえそうになった。
「木曜の約束、月曜にして」
鞄の紐から手が離れた。
「明後日?」
「そう。日曜の次、学校来る日」
「あたしはいいけど、お母さんは?」
「一回、替えてもらう。木曜のぶんは行かない」
自分で手帳に書いた再戦だった。まだ一度しか勝っていない。ロアラが二勝すると言ったのを、そのままにしておくのも嫌だ。
けれどカミラは言い直さなかった。
「月曜は、台じゃなくて時計の下で待ってて」
「鳥が出るやつ?」
「うん」
「何する?」
カミラは鞄を肩へ上げ直した。誰かの上着を直すのでも、箱を運ぶのでもない頼みごとを考えた。
「まだ決めてない。そこで会ってから」
「じゃ、帰ったら連絡して。お母さん、大丈夫だったか」
ロアラは手帳を開き、自分の鉛筆で木曜の再戦を月曜へ移した。カミラが書いた名前も一緒に写す。消しゴムを使った木曜の欄に、薄い字の跡が残った。
校門を出ると、ロアラは駅へ、カミラは家へ向いた。カミラは月曜の待ち合わせの場所だけを、母に送る文の最初に打った。
ロアラが画面を閉じると、カミラは鞄を持ち上げた。
木曜の再戦を今日の駅への寄り道に替えることは、母にも許してもらってある。公演の終わった月曜の教室には、まだ紙の鎖が下がっていた。
「終わり?」
「うん。ここの二つ、同じ聞き方だったから」
ロアラは課題の裏を見せた。AIの説明と見比べて選んだ問題に、自分で解いた式が並んでいる。カミラが指した一行を読んでから、ロアラはノートを重ねた。
「そっちの追加は?」
「朝、お母さんに見せた。今日はこれで終わり」
「よかった。じゃ、これ片付けてくる」
机の端に残ったプリントを、ロアラが教卓へ運ぶ。そこまでは鞄を持って待った。すぐ戻ってくると思っていた。
窓際で、同級生が二人、壁に貼った公演の題字を外そうとしていた。椅子へ上がった子が持ち上げた端が折れ、劇の題の最初の一文字が見えなくなった。
「破っていいんだっけ」
「写真撮ってからって。まだ撮れてない」
二人が言い合うところへ、ロアラが手を出した。
「こっち押さえるよ。そっちのテープから取って」
紙がまっすぐになった。カミラは鞄を机に戻し、ロアラの隣へ行った。
「私、こっち?」
「届く?」
「そんなに変わらないよ」
「じゃあ、そこ持って。折れてるとこ」
ロアラの指が離れた場所を、カミラが押さえた。紙と壁のあいだに腕一本ぶんの隙間ができる。テープが外れるたびに題字は下がり、最後は二人の胸の高さで横に広がった。
下にいた子が携帯を構えた。
「二人、そのままでいい?」
「字だけじゃないの?」
「手も入ったほうが、大きさわかるから」
カミラは紙の端を持ち直した。ロアラが反対側を上げると、折れていた文字も伸びた。画面の向こうでその子が笑い、もう一枚と言った。
二枚撮り終えるまで、ロアラはこちらと同じ紙を持っていた。
題字を丸めて渡すと、椅子の子が自分の席へ運んでいく。壁には白いテープの跡が四角く残った。ロアラがそこへ指を伸ばしかけたので、カミラは机から二人の鞄を取った。
「それ、明日の掃除で取るって」
写真を撮った子が振り向いて言った。
「ありがとう。もう大丈夫」
ロアラの手が下りた。カミラは相手の鞄を差し出す。
「行こう」
「うん。待たせた?」
「持ってたから」
同じ紙の反対側を持っていた。それを待つとは言いたくなかった。
◇
学校を出ると、ロアラはさっきの題字の写真を見せてくれた。撮った子から送られたばかりで、二人の顔は紙の上に半分だけ出ている。
「カミラ、目だけだ」
「そっちは顔、全部写りすぎ」
「これでも背伸びした?」
「してない。紙を下げたの、そっちでしょ」
題字が斜めになっている。ロアラは自分の側を見て、ほんとだと言った。
「次撮るとき、同じ高さにしよ」
カミラは写真を自分にも送ってもらった。画面を閉じてから、今日はもう何も持っていないロアラの手を見る。
駅ビルの入口で、ロアラが上りのエスカレーターへ向きかけた。
「三階、行かないよ」
「わかってる。時計、あっちか」
吹き抜けの壁には、丸い時計が掛かっていた。下の小さな扉は閉じている。その正面のベンチが空いていたので、カミラは端へ座り、隣の座面を手で叩いた。
「鳥、出るまで見ていこう」
ロアラは時計を見上げた。
「まだちょっとあるよ」
「だから、座るの」
「飲み物、買う?」
「今はいらない。そっちは?」
「あたしも別に」
ロアラが隣へ座った。鞄を足のあいだに置き、口のファスナーを閉める。カミラも携帯をしまった。座ったまま写真を見せ続けることもできたが、それではロアラの手に画面が残る。
カミラは浅く腰掛け、時計を見上げた。ロアラの靴の爪先も、こちらと並んでいる。
「あの鳥って、毎回同じ?」
「たぶん。カミラ、見たことあるんでしょ」
「通ったことならある。でも途中で行っちゃうから」
「じゃ、今日は最後まで」
ロアラが鞄の持ち手から手を離した。
吹き抜けの上を、買い物袋が行き来する。エスカレーターのそばで小さな子が立ち止まり、大人に手を引かれていった。ロアラはその先まで顔を動かしてから、時計へ戻した。
誰もこちらに声をかけない。
土曜に運んだ衣装箱は倉庫にあり、さっきの題字も丸めて渡した。カミラの課題も、ロアラの課題も終わっている。カミラはスカートの上に両手を重ねた。
ロアラの片足が、前へ出た。
「落ちてる」
通路にレシートがあった。ロアラは立って拾い、柱のそばのごみ箱へ入れた。戻ってくる足がベンチの前で止まる。座るのかと思って膝を寄せると、その体がまた向きを変えた。
隣のベンチで、年配の女性が買い物袋をまとめていた。一本の紐が別の袋の持ち手に通っている。
「それ、こっちから抜けます」
ロアラはかがみ、女性に持ち手を緩めてもらった。袋が一つずつに分かれると、相手は笑って礼を言う。中身を座面に広げずに済んで、そのまま腰を上げた。
「持ちますか、そこまで」
「ロアラ」
名前が、思っていたより大きく出た。
ロアラと女性がこちらを見た。カミラは背を起こした。
「ここ、座って」
女性は袋を持ち上げ、もう大丈夫だと言った。手伝ってもらって助かったとも言って、ロアラへ頭を下げる。ロアラは見送り、ベンチへ戻ってきた。
「ごめん。さっきの紐、引っ張ると破れそうだったから」
「見てた」
「もうすぐ出る?」
ロアラが時計を見上げた。カミラは首を振る。
「まだ」
ロアラは座面に手をついた。こちらを見たあと、鞄を置いている足もとを見る。ファスナーはさっき閉めたままだった。取っ手を起こし、また倒す。
カミラは時計から目を離せなかった。
二人で待とうと言った。ロアラも、最後まで見ようと答えた。なのに、こちらへ戻ってくるたび、手と目は先にどこかへ行こうとしている。
「つまらない?」
聞くと、ロアラはすぐこちらを向いた。
「そんなことないよ」
「ずっと座ってるだけだし」
「鳥、見たいんでしょ」
「ロアラと」
ロアラは一度まばたきし、鞄の持ち手を倒した手を膝へ戻した。
「うん。見よ」
隣で待っている。さっきより、カミラのほうへ肩も向いていた。
カミラは右手を首の後ろへ回し、髪のゴムを外した。低く結んでいた銀髪が制服の背へ広がる。風の通らない屋内でも、ほどいた髪が頬に触れるとくすぐったい。
ロアラの目が、そのゴムに止まった。
「切れた?」
「切れてない。編んで」
「三つ編み?」
「できる?」
「うん。どっちに流す?」
ロアラは左右を指した。カミラは少し考えてから、背中へ手をやる。
「後ろ」
「じゃあ、向こう向いて。鞄、下で平気?」
「汚れない?」
「あたしの上に載せとく」
ロアラは二人の鞄を重ね、足もとへ寄せた。カミラはベンチに横向きになり、両足を床へ下ろしたまま膝を揃える。ロアラの膝が背中のすぐ後ろに来た。
首筋に手が触れた。
「ちょっと引くよ」
「先に言うの?」
「言わないと、びっくりするでしょ」
髪が三つに分かれた。指が肩に当たるのは最初だけで、編む手はすぐ背中のほうへ下りていく。
ロアラが一束を取ると、反対側のこめかみが少し引かれた。カミラは顔を動かさず、吹き抜けを渡る人の影を見た。
「痛くない?」
「平気」
「すごいね。これだけ長いと、乾かすの大変じゃない?」
「そうでもない。そっちが短すぎるんだよ」
「あたしは早いよ。すぐ終わる」
「知ってる。何でもすぐ終わる」
「髪は、あたしが頑張ってるわけじゃないけど」
後ろで笑う声がした。こちらからは顔が見えない。カミラは首をひねりかけ、こめかみが引かれて元へ戻した。
「動いたら、曲がっちゃう」
「曲がるの?」
「カミラが動くぶんだけ」
「じゃあ、動いたほうに合わせて」
「それは後ろであたしも動くことになる」
ロアラが膝をずらした。座面が小さく鳴り、背中の後ろから気配が外れる。カミラが前を向くと、また近くなった。
「そこにいて」
「はいはい」
返事と一緒に髪が引かれた。軽い力だった。カミラは肩を下げる。
写真を撮るあいだには、紙の反対側へ立っていた。箱を持てば向こうの持ち手、台を挟めばゴールの前へ行く。今は顔が見えないけれど、髪のどこに手があるかがわかった。
ロアラは編み目を緩め、落ちてきた細い髪を拾った。
「家でも自分で編む?」
「結ぶだけ。後ろ、見えないから」
「見えなくても慣れるよ。今度教えようか」
「今日は編んで」
「やってるって」
カミラは膝の上に置いたゴムを渡した。
最後の束が引かれ、小さな音を立ててゴムが巻かれる。背中に一本の三つ編みが載った。ロアラは携帯を出し、頼む前に後ろ姿を撮ってくれた。
画面の中では、銀色の編み目が襟の中央からまっすぐ下りている。途中から少し細くなり、黒いゴムの下に短い髪が揃っていた。
「これでいい?」
「うん。すごくきれい」
「よかった」
ロアラが携帯をしまった。
カミラは手を背中へ回し、できたばかりの三つ編みに触れた。編み目の一つに爪を入れないよう、表面だけを指でなぞる。そのあいだに、後ろの膝が離れた。
「あ、あそこの紙」
ベンチの斜め向こうに、案内の立て札があった。下の端がめくれている。ロアラは座面へ手をつき、片足を引いた。
カミラはゴムを抜いた。
結び目の跡が残る髪を、下から指でほどく。二つ目の編み目まで崩したところで、ロアラがこちらを見た。
「どうしたの?」
「もう一回」
カミラは背中の髪を手前へ持ってきた。きれいに揃っていた線を、指で分けていく。さっき画面に写った形は、途中からなくなった。
「どこか痛かった?」
「痛くない」
「じゃ、緩かった?」
ロアラの片膝はまだ前へ出ている。カミラは最後の編み目もほどき、ゴムを差し出した。
「今度は、もう少しゆっくり」
「ゆっくり編んでも、同じのになるよ」
「同じのでいい」
ロアラはゴムを受け取り、出していた足を戻した。
「はい。じゃ、前向いて」
カミラは向き直った。背中のすぐ後ろに膝が来る。ほどいた髪をすくう手は、さっきと同じ場所から入った。
立て札の紙はめくれたままだった。
ロアラはカミラの髪を三つに分け、今度は一束を動かすたび、指を置き直した。最初の編み目ができるまで長くかかる。急がせる人はいない。
「これくらい?」
「うん」
「遅いでしょ」
「そのくらいでいい」
頭の後ろで、ロアラが小さく笑った。
「カミラ、これだと帰るまでに終わらないよ」
「そこまでは遅くしないで」
「難しいな」
笑い声が近い。髪を引かれるたびに背筋を伸ばしていたカミラも、首の力を抜いた。目の前には、相変わらず閉じた時計の扉がある。ロアラはまだそこにいる。
髪を引く力を感じながら、カミラは教室で課題を閉じた手が、すぐ題字へ伸びたのを思い出した。
カミラは片手を上げた。頬へ落ちた細い髪を、編んでいるほうへ渡してやろうとして、止めた。
ロアラが気づいて、耳のそばからすくった。
「ここも入れる?」
「入れて」
「引っ張られるよ」
「少しなら」
カミラは上げた手を膝へ戻した。まだ長さはある。自分が触らなくても、ロアラが先まで編んでくれる。
時計の下で、扉が左右に開いた。
「出た」
カミラが言うと、ロアラの指が一度止まった。丸い鳥がせり出し、くちばしを開く。吹き抜けに鳴き声が響いた。
「見える?」
「見える。カミラの頭、ちょっとだけ邪魔」
カミラは横へ倒れかけた。
「動かないでってば」
ロアラが笑った。カミラも笑い、まっすぐに座り直す。鳥が首を動かすたび、二人の後ろを歩いていた人が足を緩めた。
編み手の膝は、カミラのすぐ後ろにある。頭を動かさずに鳥を見たまま、最後の髪までその手に渡した。
◇
駅ビルを出ると、三つ編みの先が鞄の紐に当たった。
二度目の編み目もまっすぐだった。ロアラが撮って送ってくれた写真は二枚になっている。カミラはどちらも残し、携帯をしまった。
「一回目と、同じだったね」
「言ったじゃん」
「でも、二枚目のほうがいい」
「そっちは明るいから。時計、光ってたし」
写真の明るさの話になったので、カミラはそれ以上言わなかった。編んだ髪を肩の前へ持ってきて、二人のあいだを歩かせるように揺らす。
改札へ下りる階段の前で、ロアラが止まった。カミラは家へ帰る道を見てから、鞄を持ち直す。
「明日、空いてる?」
「放課後?」
「そこだけじゃなくて。学校にいるときも」
ロアラは手帳を出した。留めてあるゴムを外し、今日の待ち合わせが書かれた週を開く。月曜に移されたカミラの名前の隣には、火曜の細い欄があった。
「お昼は何もないね。放課後も、課題終わったら。カミラは?」
「学校のあとは、いつもどおり」
「じゃ、お昼に何かする?」
「私が考えていい?」
「いいよ。何?」
カミラは火曜の欄を見た。昼休みのところに、まだ字はない。百円玉なら鞄にあった。二人が座る場所も、今日ほど遠くなくていい。
けれど、ここで一つ決めて終わりにしたくなかった。
「帰ってから考える。借りてもいい? 明日まで」
「手帳?」
「うん。ほかの約束と重ならないように」
ロアラは一枚先を開きかけて、今週へ戻した。
「明日なら、これ。朝、返してくれれば大丈夫」
開いたままの手帳が、カミラのほうへ差し出された。以前はロアラの手の届くところで、一件だけ書いた。今日は鞄のファスナーを開けてから受け取った。
紙の端が、指に触れる。
「書き込んでもいい?」
「うん。鉛筆がいいな。あとで替えるかもしれないし」
ロアラは胸のポケットから短い鉛筆を出した。カミラが受け取ろうとすると、先を逆へ向け、削っていない側を持たせてくれる。
「これも一緒に返して。使いやすいから」
「知ってる」
「木曜、書いたもんね」
カミラはうなずき、鉛筆を手帳にはさんだ。閉じてゴムを掛けると、いつもロアラが持っているときより薄く感じた。鞄へ入れても、上からまだ表紙が見える。
ロアラの手は空いた。
「明日、楽しみにしてて」
カミラが言うと、ロアラはその手で自分の鞄の紐をつかんだ。
「じゃあ、明日の分、お願い」
百円玉は、食堂の卓でもよく滑った。
ロアラが開いた二本の指のあいだへ、カミラは硬貨を弾く。爪の脇をかすめたところで止まり、ロアラの指があとから閉じた。
「今、動かした」
「当たったから」
「当たってない。爪の横、通った」
「じゃあ、入ってない」
ロアラは硬貨を押し戻した。カミラは自分の側へ指を立て、今度は動かすところを見ていると伝えた。相手の指より、笑いかける顔のほうを見てしまう。
弁当は食べ終わっていた。混雑の引いた食堂で、端の卓だけを使っている。カミラが昨夜、火曜の欄に書いたのは、昼食のあとここへ来ることだった。
朝に手帳を返すと、ロアラは食堂の二文字を見て、まだ席を取るには早いよ、と笑った。昼休みになれば、先に弁当を持って廊下に立っていた。
「五点で終わりね」
カミラが言うと、ロアラは人差し指を曲げた。
「今、いくつ?」
「私が四点」
「あたしも四点」
「そっちは三点。さっきの数えてるでしょ」
「入ったもん」
「入ってないって言ったの、そっちじゃない」
ロアラが笑い、曲げた指を伸ばした。弾かれた百円玉が途中で跳ね、カミラの指に乗り上げる。二人とも硬貨を見た。
「これ、何点?」
「取っていいよ、百円」
「もともと私のだよ」
「じゃあ、増えてないね」
ロアラはとうとう額を卓へ伏せた。カミラも声を抑えようとして、余計におかしくなった。硬貨が載った指を動かすと、そのままロアラのほうへ転がっていく。
指のないゴールを越えた。
「五点」
顔を上げたロアラが、硬貨とカミラを交互に見た。
「今のはずるい」
「動いていいって言った?」
「言ってないけど」
「じゃあ、私の勝ち」
ロアラは卓の縁へ手をやり、落ちかけた百円玉をつかんだ。笑ったまま差し出す手を、カミラは硬貨ごと握りそうになり、掌を下へ重ねて受け取った。
千帆にもらった一枚が、ようやく二人のあいだを往復した。ゲームの台には入れずに、また財布へ戻る。
「お金減らないの、いいね」
ロアラが言った。
「負けても、もう一回できる」
「今、負けたのそっちだからね」
「うん。明日は勝つ」
カミラは弁当袋の口を結んだ。今日は一つ決めてきただけで、明日のことはまだ考えていない。ロアラが自分の鞄から手帳を出すのを見て、手を止めた。
「次も頼んでいい?」
「何を?」
「空いてるとこ。今日の、楽しかったから」
弁当袋の上へ手帳が載った。朝、返したときと同じ表紙に、短い鉛筆がはさまっている。
「また借りていいの?」
ロアラは手帳を、弁当袋の上からカミラのほうへ押した。
「ほかの人と約束したら?」
「そのとき言うよ」
「返すのは、いつ?」
「予定、足すたび渡すのも大変じゃない? しばらく預かってて」
「聞きたいとき、私がいなかったら?」
「電話する。書いてあるとこ、写真でもいいし」
カミラは弁当袋を持つ手を緩めた。
「じゃあ、変わったら教えて」
「うん。あ、朝の支度のとこは空いてないよ。いつもぎりぎりだから」
「そこまで書かない」
「よかった。ご飯食べながら百円玉は無理だし」
ロアラは火曜のページを開いた。食堂と書いた下へ、一度だけ鉛筆を当てる。
「カミラ一勝」
声に出しながら書いた字は、以前のエアホッケーの記録より小さかった。
「それ、別に数えるの?」
「台と卓は別」
「合わせたら私、二勝なのに」
「合わせても、あたしのほうが勝ってるよ」
カミラは開いたままの手帳を取り上げた。ロアラが笑って鉛筆も渡す。
カミラは鉛筆をはさみ、弁当袋とは分けて自分の鞄へしまった。明日だけで返せとは、言われなかった。
◇
翌日の昼前、千帆がロアラの机へ来た。
「今日さ、中庭で食べない? 晴れてるし」
カミラはノートを閉じるところだった。鞄に入れた手帳の、水曜の欄を思い出す。昨夜は課題が長くかかり、次を決める前に眠った。昼休みには何も書いていない。
ロアラがカミラを見た。
「ごめん。先約あるんだ」
「今日も?」
「うん。あっちに入ってる」
ロアラの指が、カミラの鞄を示した。
千帆はこちらを向いた。カミラはノートを開き直そうとして、閉じたまま机へ置いた。まだ何も決めていない、と今なら言えた。
「そっか。じゃあ、また今度ね」
千帆は教室の反対側へ歩き、弁当を出した子の椅子に手を掛けた。その子が窓の外を見て、いいよ、と答える。
カミラは鞄から手帳を出した。
昼休みの空いたところへ、購買のパン、と書く。そのあとに自分の名を足した。目の前のロアラは、文字ができるまで待っている。
「今日はパン?」
「一緒に買いに行こう」
「あたし、お弁当あるよ」
「私もある。半分でいい」
「じゃあ、小さいの選ぼ」
ロアラは立ち上がり、カミラの机の横で待った。
千帆が弁当を持って出ていく。誘った相手と何か言い合い、廊下で笑った。ロアラもその声のほうへ顔を向けたが、カミラが手帳を閉じると、購買へ行くほうの扉を開けた。
週が明け、千帆がまた昼食へ誘いに来たときは、まずカミラの席へ来た。
「今日、二人は何するの?」
すぐ横にロアラがいても、返事を待つ顔はこちらへ向いていた。
「図書室。返す本があるから」
「借りるのも?」
「うん」
「そっか。またね」
千帆が離れると、ロアラがカミラの机に肘をついた。
「本、何にした?」
「昨日言ってたやつ。声に出しても読めそうなの」
「会話多いと、声変えないとね」
「変えなくていい」
「二人とも同じで?」
「同じがいい」
ロアラは手元の本を開き、最初の二行をわざと同じ調子で読んだ。カミラが笑うと、続きを探してページを押さえる。予鈴が鳴るまで、そこにいた。
家の勉強がある日は、会いに行く約束にはしなかった。寝る時間と授業も、手帳の上では前のままだった。
カミラは自分の机に教材を広げ、イヤホンを片方だけつけた。電話の向こうで本のページがめくられる。
「ここ、読んでいい?」
「うん。今、計算じゃないから」
「眠くならない?」
「なったら言う」
「昨日のところ、覚えてる?」
「窓から入ろうとして、犬に見つかった」
「そこ。逃げればいいのに」
「続き、言わないで」
「まだ読んでないって。あたしも今から」
「なら、今一緒に読んで」
「はい。犬の声もやる?」
「それはやって」
ロアラは読み始めた。話している人物が変わるところで、声が少し高くなる。変えなくていいと言ったのに、聞き分けられるのがおかしかった。
カミラは教科書の行を追い、大事なところを読まれると鉛筆を止めて聞いた。続きを翌日に残して通話を切る前に、ロアラは、今読んでいる本のページに鉛筆で小さな印をつけたと言った。
今度の休日には、その印の先を読む約束を入れた。
「午前は買い物行くんだった?」
カミラが学校で手帳を開くと、ロアラは土曜の字を指した。
「お母さんと。前に言ってたの」
「ここはこのままね。帰ったら?」
「まだ決めてない」
カミラは買い物の字をそのままにして、その下の空いたところに本の題を書いた。読み終わったあとに、次の本を二人で選ぶ約束も入れる。
「日曜も?」
「いいよ。カミラ、家にいるの?」
「いる。勉強終わったら電話する」
「じゃ、それまでに候補見ておく」
ロアラの指が本の題をたどった。帰宅後に選ぶ本も、話す相手も決まった。カミラは次の空欄へ鉛筆を移す。
『図書係の手伝い、今日いらなくなった』
ロアラからその文が届いたとき、カミラは教室で課題を終えるところだった。消しゴムを持ち、図書係の字があったところへ、駅まで一緒に帰る、と書く。
『待ってて。終わったら行く』
送ると、すぐに返事が来た。
『うん。そっちで待ってる』
ほどなく隣の椅子が引かれた。ロアラは鞄を膝へ載せて座り、カミラが最後の式を書き終えるのを見ていた。
「急がなくていいよ」
カミラは解き直した答えを、もう一度確かめた。
昼休みから帰り道へ、そのあとの家での時間へと、カミラの字が続いている。電話がつながる前には、聞かせる本を選ぶ欄がある。休みの日も同じだった。夕食や寝る支度のところは、ロアラの丸い字のまま残した。
別の字が一つ、次の金曜にあった。
上着を返す。千帆が書いた待ち合わせ場所も、その下に残っている。カミラはそこへ鉛筆を置かず、週末のページを閉じた。
「これ、筒井さんのだね」
「うん。一緒に返しに行くやつ」
「終わったら、教えて」
ロアラがうなずく。カミラは手帳を自分の鞄へしまった。
◇
ロアラの指は、鞄の内ポケットの底をなぞった。
金曜の放課後、昇降口には靴を履き替える生徒が残っていた。上着を返す約束の日だった。いつも手帳を入れていたところに、今日は折れたレシートしかない。
指を抜き、下駄箱の上を見た。靴袋を置き忘れた子はいない。玄関の扉も、誰かが押さえなくても開いている。
「ここ、ちゃんと見てくれる?」
千帆が借り物の上着を広げた。
持ち主の子は鞄を床へ置き、脇の繕い目へ顔を寄せる。千帆は自分で裏を返した。ロアラが手を出す前に、縫い目が表に出ていた。
「洗っても、ここ全然平気だった。お兄さんにも、ありがとうって言って」
「うん。こっちこそ、こんなきれいにしてもらって」
「直してくれたのはロアラだけど」
千帆が振り向いた。ロアラは一歩寄りかけ、持ち主がうなずいたので足を止めた。
「ありがとう。本番、ちゃんと見たよ」
「袖、落ちなかった?」
「全然。剣上げたとこ、かっこよかった」
千帆が笑った。上着を畳み、用意してきた袋へ入れる。持ち主が受け取るまで、ロアラには何も回ってこなかった。
「じゃ、私あっち行くね」
千帆の友達が、外の石段から呼んでいた。千帆は空になった両手を見せ、ロアラに片方を振る。
「付き添い、もう大丈夫。ありがと」
「うん。よかったね」
千帆は靴を履き、友達のところへ走っていった。持ち主の子も別の扉へ向かう。
予定していた二十分が、ほとんど残った。
ロアラは鞄の口を閉じた。自分の手帳は、すぐ横でカミラが持っている。
「早く終わったね」
カミラは靴を履き替える腰掛けに座り、手帳を開いた。いつもの鉛筆が紙に触れた。ロアラが何も答えないうちに、空いたところへ文字が並ぶ。
カミラ、髪。
その三文字と用事の下に、短い線が引かれた。ロアラはカミラの頭を見た。銀髪は低いところで一つに結ばれ、今日は編まれていない。
「あたし、まだ」
カミラが顔を上げた。
「何?」
「何するか、決めてなかった」
「うん。だから」
「髪は、あとでもできるよ」
「今、空いたでしょ」
「空いたけど」
ロアラは下駄箱の端を見た。帰る人たちが、横を通っていく。
「まだ約束してないよね、ここ」
「これからするの。嫌?」
「そうじゃなくて」
手帳がこちらへ傾けられる。字は鉛筆のままで、黒く塗りつぶされてもいない。ロアラは表紙の端を持った。
「ちょっと貸して」
カミラは手を離した。
戻ってきた手帳を自分の膝で開くために、ロアラも腰掛けへ座った。間には鞄一つ置けるくらいの空きがあった。カミラはそちらへ寄らず、鉛筆を渡してくる。
ロアラは消しゴムのついた尻を紙へ当てた。
書いたばかりの名前は、一往復で薄くなった。髪の一文字と下の線も消す。紙を傷めないよう手加減するところまで、以前と同じだった。
カミラは何も言わない。
消し屑をまとめると、誰とも約束していない欄ができた。ロアラはそこへ鉛筆の先を向ける。書くものはなかった。自分で消したのだから、何かに替える必要もないはずだった。
外から、千帆たちの笑い声が届く。追いかけて、これから何をするのかと聞けば、千帆は教えてくれるだろう。千帆たちは、もう校門のほうへ歩いている。
ロアラは隣の欄へ目を移した。
土曜の買い物のあとは、カミラに読む本を選ぶことになっていた。電話、続き、カミラ。日曜も、同じ字が欄の下まで続く。人と会う予定がないところにも、声を聞かせる相手がいた。
次の見開きへ指を入れると、昼休みは全部埋まっていた。木曜には駅ビルと書かれている。そのほかの放課後には、家へ帰るカミラと電話をつなぐ用と、その前にしておくことがある。
ロアラは一枚戻した。
いつからこれだけ書かれていたのか、わからない。今日どうするかを聞けば、カミラは答えた。終わったと伝えれば次を教えてくれた。二人で百円玉を弾いた日も、声を変えて本を読んだ日も、笑っていたのは自分だった。
空いた金曜が膝の上へ戻ってきた。
「そこ、何か書く?」
カミラが聞いた。
ロアラは鉛筆を持ち替えた。
「まだ、いい」
「うん」
短い返事のあと、カミラは髪のゴムを外した。銀色の髪が制服の背へ落ちる。毛先を指でほどき、腰掛けの端で、ロアラへ背を向けた。
鞄の内ポケットは空いている。手帳を閉じれば、そこへ入る。明日の分も、来週の分も、自分の手元で消せる。
ロアラは鞄の口を開け直し、手帳の表紙を閉じかけた。
カミラの髪が、腰掛けの縁に触れていた。長いところが折れ、鞄の金具に一本引っかかりそうになっている。直してやるには、鉛筆をどこかへ置けばいい。
鉛筆を握ったまま、ロアラは自分の膝を見た。
どちらの足から立てばいいのか、決めるだけだった。靴も履いている。なのに、手帳を入れようと開けた鞄の口を、いつまで押さえていればいいのかわからなくなった。
ここで座っているのは、自分で空けた時間だ。
時計を見ようとして、やめた。見ても針は少ししか進んでいない。誰も呼んでいない。上着は返し終わり、落ちた物もなく、千帆は友達と歩いている。
カミラだけが、ここで髪をほどいて待っている。
もっと遊べるようにと、カミラの母の前で靴を出したことがあった。今、空いた時間のどこへ手を伸ばしても、その靴の持ち主が待っている。
一つも余らせるつもりがない。
ロアラは下を向いた。消した欄の輪郭を、鉛筆の先でたどる。字を書かなくても、手を動かしていれば紙の上を見ていられる。
「カミラ」
呼ぶと、相手は肩越しに振り向いた。
「終わった?」
ロアラはうなずいてしまった。
今、何が終わったのかは言えない。用は作らなかった。予定を消しただけだった。
カミラが手を出した。
ロアラは消したところを開いたまま、手帳をその掌へ載せた。鉛筆も、書くほうをカミラへ向けて差し出す。離したあとで、自分の指が空いているのを見た。
カミラは空欄の下に左の親指を寝かせた。消し跡の上に、三文字が戻ってくる。
書き終えた鉛筆は、手帳の間へはさまれた。ゴムが表紙を閉じる。ロアラの指は、それを取るためには動かなかった。取り戻せば、今度も自分で返す。白くした欄の前へ座らされるのを、もう一度待つことになる。
カミラは手帳を鞄へ入れ、髪を背中に揃えた。
ロアラは空いた両手で、その髪を三つに分けた。