百年目の反抗
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あらすじ
犬神と猫神の依代という呪いを背負った高校生二人。神様が仕掛けた百年ぶりの勝負は、まさかの「模試」だった。負けたら百歳まで呪縛確定、そんな理不尽に二人が返した答えは――。
本文
七月。容赦のない凶悪な日差しが、白い高校の校舎をじりじりと焼きつけていた。
窓は全開にされ、遮光カーテンが下ろされているものの、熱せられたコンクリートから這い上がる熱気を防げるはずもない。
生ぬるい風がカーテンを頼りなく揺らすだけの教室は、まるで巨大な蒸し風呂のようだった。
生徒たちは一様にぐったりと机に突っ伏し、プラスチックの下敷きをパタパタと動かしては、気休めにもならない風を求めていた。
そんな暑さの中、追い打ちをかけるように壇上の数学教師が名前を呼び上げる。
手元にあるのは、先日行われた定期テストの束だ。
今回の数学は、学年全体が悲鳴を上げるほどの難問揃いだった。
案の定、教壇へ向かう生徒たちの足取りは重い。
返却された答案用紙を受け取った瞬間、誰もがこぞって顔を歪め、苦悶の溜息を漏らしていた。
クラス平均点は、およそ五十五点といったところだろう。
だが、そんな教室の重苦しい空気とは全く違うベクトルで、鋭い視線を放ち続けている女子生徒がいた。
黒髪のロングヘアを背中に流した小柄な少女――犬崎サキである。
サキの視線の先にいるのは、窓際の席に座る一人の男子生徒だ。
それは決して甘酸っぱい恋心や、純粋な興味関心からくる眼差しではない。
本人は無自覚だったが、その瞳は完全に獲物を捕らえようとする肉食獣のそれであり、もはや「睨みつけている」と言った方が正しかった。
サキは自分の小さな体が前の生徒の背中に隠れてしまわないよう、椅子の背もたれから体を限界まで伸ばし、じっと彼を観察する。その姿勢が変わるたびに、艶やかな黒髪がさらりと夏の日差しを弾いてなびいた。
「次、犬崎」
名前を呼ばれ、サキは小さく息を吐いて教壇へ向かった。
手渡された答案用紙の右上には、赤いペンで『93』と大きく書かれている。
平均点より四十点近く高い、文句なしの優秀な成績だ。しかし、サキは自分の点数など一瞥しただけで、全く意に介していなかった。
彼女が本当に気にしているのは、自分の点数ではない。
先ほど、サキより数番前に名前を呼ばれたあの男――猫沢ショウヤの点数だ。
サキが席に戻りながら盗み見た彼の答案用紙には、殴り書きのような文字で『97』と書かれていた。小問をたったの一問、ケアレスミスで落としただけ。
(また、負けた……!)
胸の奥で、小さく火花が散るような悔しさが弾けた。
当のショウヤはというと、椅子の座面の先端に辛うじて腰を掛け、背もたれにだらしなく体を預けていた。
半ば机の下に潜り込むようなその姿勢は、遠目から見ると起きているのか寝ているのかさえ判別できない。
生気のない、ぼんやりとした目で斜めに置かれたテスト用紙を眺めている。
ショウヤは、地毛だという少し色素の薄い茶髪をポリポリと気怠げに掻いた。
そして、自分が間違えた箇所をしばらく見つめて小さく頷くと、おもむろにテスト用紙を綺麗に折り畳み、クリアファイルへと収めて机の引き出しにしまった。
その一連の動作を、サキは忌々しげに見つめる。
猫沢ショウヤという男は、とにかくルーズの塊のような人間だった。
今日も、着ている制服のシャツは不自然なほどサイズが大きく、当然のようにズボンから外へはみ出している。
腰のベルトも穴二つ分くらいは緩められているようで、今にもズボンがずり落ちてきそうなほどだ。
常に眠そうで無気力、おまけに不真面目。
サキの目には、彼の存在そのものが「だらしなさの象徴」として映っていた。
それなのに、成績はトップクラスに優秀。
さらにサキを苛立たせるのは、彼の行動に潜む妙な「矛盾」だった。
あれほどだらしなく座っているのに、テストの用紙は驚くほど几帳面に、角を揃えて綺麗に折り畳む。
授業が終わって席を立つ時も、座り方が嘘のように、椅子をガタつかせず静かに、かつ丁寧に机の下へと戻す。
不真面目を絵に描いたような格好のくせに、要所要所で育ちの良さというか、妙な行儀の良さが透けて見えるのだ。
それが、サキにとってはたまらなく気に食わなかった。
(なんなのよ、あいつ……。いつも眠そうにしてるくせに、なんであんな点数が取れるわけ!?)
イライラとショウヤの背中を睨みつけていた、その時だった。
――ムズッ。
突如、サキの頭頂部に痒みが走った。
皮膚の裏側から、何かが突き破って生えてこようとするような、独特の不快感。
(あ、しまっ……!)
サキはハッとして、あくびを噛み殺しているショウヤから勢いよく目を反らした。
慌てて深く息を吸い込み、感情の昂りを必死に抑え込む。
この「ムズムズ」は、彼女にとって最大の危険信号。
これ以上感情を昂らせれば、この教室の全員の前で、取り返しのつかない「変化」が始まってしまう。
サキは自分の黒髪をきゅっと握りしめ、心の中で「落ち着け、私」と何度も呪文のように唱え続けるのだった。
ーーーーー
感情が高ぶると、人間ではなくなってしまう――。
サキがこのあまりに理不尽で、なおかつ致命的な自身の「体質」に気づかされたのは、思春期を迎えた中学二年の秋のことだった。
当時、サキは生徒会に所属しており、一つ上の先輩に淡い恋心を抱いていた。
誰にでも優しいその先輩は、サキにとって憧れの象徴だった。
ある日の放課後、生徒会室で行われていた定例会議でのことだ。
西日の差し込む静かな部屋で、サキは会議の内容を上の空で聞きながら、斜め前に座る先輩の横顔をじっと眺めていた。
ただの憧れと、胸を締め付けるような恋心が混ざり合った複雑な感情。
彼がふとこちらを向いて目が合うだけで、心臓が跳ね上がるようにドキドキと脈打った。
その時だった。
――ムズッ。
頭頂部に、これまで経験したことのない奇妙な痒みが走った。
皮膚の裏側から、硬く尖った何かが肉を押し分けて生えてくるような、悍ましい違和感。
「――っ!?」
心拍数が跳ね上がる。
尋常ではない気配を察知したサキは、椅子をガタリと鳴らして立ち上がった。
「ごめんなさい! ちょっと急用を思い出しました!」
先輩や他の役員たちが驚いて振り返るのも構わず、サキは許可をもらうことすら忘れて走り出した。
生徒会室を飛び出し、廊下を猛ダッシュして、一番近くの女子トイレへと滑り込む。
幸いなことに、トイレの中には誰もいなかった。
荒い息を吐きながら、すがるような思いで洗面台の鏡を見上げたサキは、その場に凍りついた。
「な、に……これ……?」
黒い髪を割り込むようにして、彼女の頭頂部から「それ」は生えていた。
金色の毛並みに覆われた、三角形に尖った立ち耳。
それはどう見ても、犬の耳だった。
驚愕のあまり自分の頭を触ろうとして、さらに恐ろしい事実に気づく。
髪をかき分けても、いつもそこにあるはずの自分の耳がないのだ。
側面はつるりとしており、音は明らかに頭の上の「犬の耳」から聞こえていた。ピクピクと、周囲の微細な音を拾って動く未知の器官。
「えっ……え……? うそ、なんで……っ!?」
半ばパニックに陥ったサキの心拍数は、限界を超えて跳ね上がる。
それが引き金となった。
ドクン、と心臓が大きく波打った直後、今度は全身に猛烈なムズムズが駆け巡った。
骨が軋み、筋肉が膨れ上がり、皮膚から一斉に金色の被毛が噴き出す。
「いや、あ、あああ――っ!」
短い悲鳴は、瞬く間に低い獣の唸り声へと変わった。
気づいた時には、サキは完全に「犬の姿」へと変貌を遂げていた。
それは四つ足の獣ではない。アニメやファンタジー小説に出てくるような、擬人化された犬――いわゆる「獣人」の姿だった。
明らかに視点が高い。
見下ろす洗面台がやけに小さく見える。
サキの本来の身長は一五〇センチメートルそこそこだが、今の彼女は二メートルを優に超えていた。
鏡に映るその姿は、全身が美しい金色の毛で覆われ、指先には鋭い爪、顔からは獣特有の長いマズル(口吻)が突き出し、瞳は神秘的な青色に輝いている。
特筆すべきは、その体躯だった。
逞しい二の腕や脚、そして豊かな胸元の膨らみ。
バリバリバリッ!!
衣服があらゆる方向に引き裂かれる、凄まじい音が響いた。
急激かつ圧倒的な体格の変化に、サキが着ていたセーラー服も、スカートも、下着すらも耐えられるはずがなかった。
それらは一瞬にして無残なハギレとなり、床へと飛び散る。
衣服をすべて失ったサキは、客観的に見れば完全な全裸状態だった。
しかし、全身を覆う密で豊かな被毛が、まるでそれ自体が衣服であるかのように体を包み込んでいた。
だからといって、それが何だと言うのだ。
今起きている異常事態の前に、中学生のサキはどうしていいか全く分からなかった。
(どうしよう……どうしよう……! 私、人間じゃなくなっちゃうの……!?)
涙が溢れそうになるのを堪え、サキは本能的に動いた。
床に散らばった制服の成れの果てを大きな肉球のある手で不器用に拾い集めると、一番奥の個室へと飛び込んで内鍵をかけた。
狭い個室の中で、巨大な犬の獣人は膝を抱え、ただひたすらにうなだれていた。
絶望と恐怖で身を震わせながら、時間が過ぎるのを待つ。
変身してから、およそ五分が経った頃だった。
「あ……」
ふと見ると、大きな手の指先が縮み始め、鋭い爪がいつもの薄く小さな爪へと変化していくのが見えた。
手の甲を覆っていた金色の毛が、まるで体内に吸い込まれるようにして消えていく。
その現象は、波が引くように全身へと広がっていった。
視界がぐんぐんと下がっていく。
四方の壁がどんどん上にせり上がっていくような錯覚のあと、サキの身体は床へとへたり込んだ。
元の、人間の姿に戻っていた。
唯一、衣服を一枚も身につけていない全裸であることを除けば、何ら普段と変わらない「犬崎サキ」だった。
結局その日、サキは生徒たちが全員下校する時間まで個室に閉じこもり続けた。
静まり返った夜の校舎を、泥棒のように忍び足で移動し、教室のロッカーに置いてあった自分のジャージを泥縄式に着込んで、泣きながら家に帰ったのだった。
――あれから、数年。
サキはこの悪夢のような体質を、家族を含め、誰にも言えずに今日まで生きてきた。
何度も冷や汗をかくような修羅場を経験する中で、彼女は自らの身体に課せられた「ルール」を必死に分析し、把握していった。
(1)感情が高ぶると、まず身体の一部(耳や尾てい骨付近)がムズムズする。
(2)さらに感情が高ぶると実際に獣人の耳や尻尾が生えてくる。
(3)感情の昂りが一定の閾値(しきいち)を超えると、完全に獣人の姿に変身してしまう。
(4)変身すると体格が劇的に巨大化するため、着ている服はすべて破れる。
(5)一度変身してしまうと、どんなに抗っても約五分間は元の姿に戻れない。
この危うい綱渡りのようなルールを胸に刻み、サキはこれまで、持ち前の精神力で数々のピンチを乗り越えてきた。
だからこそ、今日の教室での出来事――あの不気味なムズムズは、サキにとって警戒すべき危険信号だったのだ。
ーーーーーー
放課後の進路指導室で、サキは机の上に広げられた膨大な資料と、文字通り死に物狂いで格闘していた。
ことの始まりは、今日の昼休み。
サキとショウヤの二人は担任に呼び出され、ある大役を言い渡された。
それは、この街で今秋に開催される、五年に一度の伝統行事『双神大祭(そうじんたいさい)』の学生実行委員への指名だった。
地域の二大神社が合同で執り行うその大祭は、準備期間だけで数ヶ月を要する一大プロジェクトだ。
ただの学校行事とは規模が違う。当然、これから夏休みも返上で、地域の実力者である大人たちと打ち合わせを重ねなければならない。
ずっしりとしたプレッシャーがサキの小さな肩にのしかかる。けれど同時に、彼女の胸には強い自負もあった。
(こういう責任重大な役目を任されるのは、私だからこそだよね)
だからこそ――隣で同じように資料を開いている男の存在が、どうしても不服だった。
猫沢ショウヤ。
昼休みに担任からこの大役を伝えられた時、サキは面食らい、戸惑った。
それなのに、隣のショウヤといえば、これっぽっちも緊張した様子を見せず、「ふぁーい」と気の抜けた返事を返しただけだったのだ。
今もそうだ。
ショウヤは普段の教室で見せるような、だらけきった姿勢で椅子に座り、面倒くさそうに手元の資料作成を進めている。
張り詰めた空気の中、サキはペンを握る手に力を込めた。どうしても、この沈黙の空間に耐えかねて、声をかける。
「ねぇ、猫沢くん」
「……」
「……ん?」
部屋には二人しかいないというのに、ショウヤの返事はワンテンポ遅れて返ってきた。
「私達が二人っきりで話すのって……考えてみたら、これが初めてだよね?」
「……そうだっけ?」
ショウヤは視線を資料に落としたまま、ぼんやりと呟く。
そこから過去の記憶を思い出そうとする素振りすら見せない。
その無関心な態度に、サキの心の中に小さなイライラが火種となって燻り始める。
「えっと……そっちの資料作成、問題なさそう?」
胸の中で悶々としながらも、サキはなんとか平静を装って尋ねた。
すると、ショウヤは小さく息を漏らす。
「ふぁ〜……まぁ、何とかなるっしょ」
あくび混じりの、あまりにも予想通りすぎる返答。
その瞬間、サキの中で燻っていた火種が、一気に爆発的な炎へと変わった。
パチン、と彼女の中で何かが切れる音がする。
「ちょっと! 何よその返事!」
「……おうっ!?」
突然跳ね上がったサキの鋭い声に、ショウヤがわずかに肩を揺らす。しかし、一度溢れ出したサキの言葉は、もう誰にも止められなかった。
「猫沢くん、前から思ってたけど全部やる気無いよね! 服装もだらしないし! その癖、テストだけはいい点取っちゃって!」
「そういう『俺、やる気ないけどデキますが何か?』みたいな態度、格好いいとでも思ってるの!?」
「言っとくけど、全然っ! 格、好、よくないからねっ!」
それは、与えられた役割に対するやる気のない返事への指摘、というレベルを遥かに超えていた。
ショウヤの生活態度、優秀さ、掴みどころのなさ――サキが日頃から彼に対して抱いていたすべての鬱憤とライバル心が、一気に決壊して溢れ出してしまったのだ。
「――――」
言い切って肩で息をするサキの前で、ショウヤは固まっていた。
普段は眠そうに細められている彼の目が、ショウヤにしては珍しく、丸く大きく見開かれている。
部屋を支配したのは、痛いほどの気まずい沈黙だった。
夕暮れの赤い光が、二人を無言のまま照らし出す。
(しまっ……! つい余計なことまで思い出して、余計に怒っちゃった……!)
ハッと我に返ったサキは、己の犯した大失態に気づくと同時に、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
――ムズッ、ムズムズ……。
最悪の前兆。怒りのせいで感情の閾値を完全に超え、頭頂部と、お尻の少し上――尾てい骨のあたりが変化を始めているのを感じた。
(まずい、まずい、まずい……! 落ち着け、落ち着け、私……っ!)
必死で心拍数を下げようと、心の中で呪文を繰り返す。
そんなサキの焦りを知ってか知らずか、ショウヤがゆっくりと立ち上がった。
彼はガタガタと音を立てないよう、椅子をそっと持ち上げて、長机の下へと綺麗に収める。
そして、そのまま静かな足取りで、サキの方へと近づいてきた。
(やば……っ。怒らせちゃった……!?)
ショウヤの無表情な顔が迫る。サキの鼓動は、落ち着くどころか恐怖と焦燥でさらに跳ね上がっていく。
けれど、近づいてきたショウヤが口にしたのは、怒りの言葉ではなかった。
「犬崎さ…」
「初日からそんなに気を張ってたら、最後まで持たないぞ」
「え……」
呆気に取られるサキの視界で、ショウヤの大きな手が伸びてくる。
そして、彼はサキの頭へと、そっと優しく触れた。
「……っ!?」
サキの身体がカチコチに強張る。
今まさに犬の耳が生えかけている頭頂部を触られたこと。そして、男子からそんな、まるで恋愛漫画のワンシーンのような真似をされたこと。その二重の衝撃で、サキの脳内はパニック寸前に陥った。
頭が熱い。心臓がうるさいくらいに暴れている。
固まるサキを見下ろしながら、ショウヤはふっと、どこか悪戯っぽく口元を緩めた。
「あんまりワンワン怒ると、本当に犬になっちゃうぞ」
そう言い残すと、ショウヤはぽんぽんとサキの頭を軽く叩き、そのまま静かに部屋を後にした。ガラガラ、と引き戸が閉まり、今度こそ彼は行ってしまう。
「ちょ……待っ……」
サキは呼び止めたかったが、状態的にそれを許さなかった。
サキは完全に犬耳と尻尾が生えた状態になっていた。
静まり返った進路指導室。
サキは顔を赤くしたまま、困惑の極みに立たされていた。
ショウヤの意図が全く分からない。
私の体質を知っているのか、それともただのからかいなのか。
ふと、ショウヤが座っていた机に目が留まった。
そこには、彼が担当していた分の要約レポートが、端を綺麗に揃えられた状態で置かれていた。
恐る恐るその用紙を手に取り、内容を確認したサキは、言葉を失う。
地域の複雑な歴史も、大祭の難解なルールも、すべてが完璧に把握され、これ以上ないほど見事にまとめ上げられていたのだ。
あのだらけた姿勢で、あくびをしながら、彼はこれほど完璧な仕事をこなしていた。
「……なんなのよぉ、ホントに!」
サキから生えたフサフサの尻尾はサキの感情を表すがごとく、しゅんとうなだれる様に垂れていた。
ーーーーーー
『双神大祭』の準備が始まってから数日。
慣れない膨大な書類仕事と、地域の大人たちとの度重なる打ち合わせは、想像以上にサキの小さな身体を蝕んでいた。
肉体的な疲労に加え、進路指導室でのショウヤの「匂わせ発言」。
どうしてもその真意をあれこれ考えてしまう。
日の沈みかけた放課後、誰もいないはずの北校舎の廊下を歩いていた時だった。
考え事をしながら校舎の階段を下りていた、その時だった。
「あっ!」
一段踏み外し、足元が空を切る。
身体が前へ傾く。
ガッ!
反射的に手を伸ばし手すりを掴むことでどうにか転落は免れた。
「はぁっ……!」
心臓が暴れる。
全身が熱い。
背筋を冷たい汗が流れた。
「あ、う、嘘……しまっ……!」
個室トイレに駆け込む時間すら与えられなかった。
激しい骨鳴りと共に視界が跳ね上がり、制服の繊維が悲鳴を上げて弾け飛ぶ。衣服の残骸が床に散らばる中、サキは校舎の廊下で、完全に二メートルを超える金色の獣人の姿へと変化してしまった。
「キャアアアアアアアッ!?」
「な、なんだあいつ……!? 化け物っ!?」
運悪く、部活動の荷物を取りに来た複数の生徒たちが廊下の向こうから現れ、その姿を正面から目撃されてしまった。
生徒たちの悲鳴が響き渡る。見られた。完全に人間じゃない姿を見られてしまった。恐怖と絶望で、サキは頭が真っ白になり、その場に立ち尽くしてパニックに陥った。
その時だった。
廊下の窓から、しなやかな影が突風のように飛び込んできた。
生徒たちが唖然とする間もなく、その影はサキの大きな巨体を軽々と横抱きに――いわゆるお姫様抱っこの形で抱え上げる。驚異的な脚力で床を蹴り、サキを抱えたまま、開いた窓から一気に校舎の外へと飛び降りた。
風が耳を打つ。サキが恐怖に目をつぶった次の瞬間には、二つの影は人目のつかない校舎の死角――放課後は誰も近づかない体育倉庫の裏へと着地していた。
「ひっ、あ、あ、何!?何……なのっ!」
サキは完全にパニック状態のまま、地面にへたり込んでガタガタと巨体を震わせていた。
そんなサキの前に、連れ去った「影」が静かに膝をつく。
それは、サキと同じように二足歩行をする、しなやかな「猫の獣人」だった。
灰色の毛並みに琥珀色の瞳。驚くべきことに、その猫獣人は、この学校の男子生徒の制服を着ていた。細身のプロポーションではあるものの、巨体化しているため、服は今にも張り裂けそうなほど窮屈そうにパツパツになっている。
「おい、落ち着け。深呼吸しろ。もう誰も見てない」
サキはハッとして、目の前の猫獣人を見つめた。
「ねこ、ざわ……くん……?」
サキの喉から、掠れた獣の声が漏れた。何となく感じた彼の気配に、縋るようにその名前を口にしていた。
「あー、やっぱバレるか〜」
猫獣人は耳をペタンと寝かせ、いとも簡単にそれを認めた。間違いない、この掴みどころのない態度こそが、猫沢ショウヤである証明だった。
「ほら、それより今のうちに確認しろ」
ショウヤはパツパツの腕を伸ばし、サキの身体のあちこちに引っかかっている、破れた制服の残骸を指差した。
「衣服が破けた拍子に、生徒手帳とかハンカチとか、お前本人を証明するようなものが廊下に置き去りになってないか? 」
「えっ……あ、う、うん……!」
サキは大きな肉球のある手で、慌てて身体に残った布切れを探った。
幸いなことに、ポケットの中身だった生徒手帳もハンカチも、すべて千切れた布の隙間に奇跡的に引っかかったまま残っていた。廊下には何も落としていない。
「よかった、残ってた……」
サキは大きな安堵の息を漏らす。しかし、ホッとしたのも束の間、次の瞬間には別の問題が頭をもたげた。
衣服のほとんどが弾け飛んでいるということは、すなわち、今の自分は事実上の全裸なのだ。豊かな金色の被毛に覆われているため直接肌は見えていないが、男子生徒の前であることに変わりはない。
「――っ!? わ、私、服が、ない……っ!」
急に恥ずかしさが押し寄せ、サキは長い尻尾を足の間に丸め込み、大きな手で胸元を隠して顔を真っ赤に染めた。そんなサキの様子を見て、ショウヤは呆れたように息を吐く。
「……あのな、それはお前の本当の体じゃないんだから気にするなよ」
「それに毛で隠れてるし」
「そういう問題じゃないわよ! 恥ずかしいものは恥ずかしいのっ!」
キャンキャンと吼えるサキを見て、ショウヤは体育倉庫の壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。パツパツの制服が窮屈そうに音を立てる。
「俺もさ、中学の頃にこの体質になったんだわ」
ショウヤは遠い目をして、ぽつりと言った。
「最初は焦ったよ。感情がちょっと昂っただけで、気づいたら猫になってるんだから」
「それ以来、必死に心を平静に保つトレーニングをした」
「普段あくびばっかして眠そうにしてるのも、感情の波を殺すための自分なりの暗示みたいなもん」
「え……」
「制服のサイズがバカデカいのも、ベルトを緩くしてるのも、こうして変身した時に服が破けないようにするため。破けたら、後処理がクソ面倒だろ?」
サキは言葉を失った。
自分だけじゃなかった。
この理不尽な恐怖と戦っていたのは、自分一人ではなかったのだ。
そして、自分が「不真面目で気に食わない」と睨みつけ続けていた彼のルーズな格好や態度のすべてが、この呪わしい体質を隠し、服を破かないために努力を重ねてきた結果だったのだと知り、サキの胸に強いシンパシーと申し訳なさが込み上げた。
「……そう、だったんだ。何も知らなくて、ごめん……」
「別に。お前が怒るのも無理ないって。……あ、おい、戻り始めてるぞ」
ショウヤの言葉に自分の手元を見ると、大きな手の指先から、金色の毛がすうっと皮膚に吸い込まれるように消え始めていた。
鋭い爪が、いつもの女の子の薄い爪へと戻っていく。
(戻る……? 戻るってことは、本当に、完全な全裸になっちゃう……!?)
視界がみるみると低くなっていく。
変身が解ければ、被毛という名の衣服すら失い、正真正銘の生身の身体が露わになってしまう。サキはいよいよパニックになり、顔から火が出そうなほど焦り出した。
「どうしよう、どうしよう! 猫沢くん、私、本当に裸に――」
「わかってるって。……クソ、脱げねぇな」
ショウヤは自分の制服の上着を脱ごうとしたが、巨体化してパツパツになった生地が引っかかり、腕が抜けない。
元に戻りつつあるサキの身体が、刻一刻と小さくなっていく。
「――チッ、仕方ねぇ!」
ショウヤは短く毒づくと、猫の鋭い爪をシャキッと突き出し、自分の制服の胸元に突き立てた。
バリバリバリッ!! と激しい音を立てて、彼は自分自身の制服の前面を豪快に引き裂いた。そして、その大きな布地を、小さくなっていくサキの身体の頭からバサッと被せる。
「……あっ!」
ショウヤの破れた上着に包まれる。
サキの身体は完全に元の大きさに戻り、体育倉庫の地面に小さく丸まっていた。
「……後で、部室からお前のジャージ取ってくるから。そこでじっとしてろよ」
ショウヤは、人間の姿に戻ったサキの体を決して見ないよう、不自然なほど完全にフイッと顔を背けたまま、ぶっきらぼうに言った。彼の耳が、心なしか赤くなっているように見える。
衣服を失った羞恥と、窮地を救われた高鳴りで、サキの心臓はさっきとは違う理由で激しく波打っていた。
差し掛けられたショウヤの上着をぎゅっと強く握りしめ、サキは膝に顔を埋めるようにして、小さく呟いた。
「……あ、ありがと……」
夕闇が迫る体育倉庫の裏で、サキはショウヤに対して素直な感謝の言葉を口にしていた。
ーーーーーー
翌日の学校は、朝から蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「北校舎に巨大な犬と猫の化け物が出た」
そんな、にわかには信じがたい噂が校内を瞬く間に駆け巡っていたからだ。
普段ならオカルト好きの妄想と一蹴されるような内容だったが、今回は状況が違った。
複数人の生徒が、全く同じ特徴の「獣人」を同時に目撃していたこと。
無残に引き裂かれた女子生徒の制服が、実際に廊下に散らばっていたこと。
学校側はこの事態を重く受け止め、生徒への徹底的な聞き取り調査を開始した。
当然、その矛先はサキとショウヤの二人にも向けられる。
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「犬崎、昨日の放課後、五時半から六時頃まではどこにいた?」
生活指導室で教師と対峙したサキは、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。
緊張と焦りで、頭頂部がじんわりと疼き始める。それを必死に精神力で抑え込みながら、サキは真面目な自分にとっては極めて不本意な「嘘」を口にした。
「……その時間は、進路指導室で一人、双神大祭の資料を整理していました。途中で忘れ物に気づいて一度教室に戻りましたが、誰にも会っていません」
普段の品行方正な態度が功を奏し、教師はサキの言葉を疑うことなくノートに記録した。ショウヤもまた、ルーズな態度を演じつつ、絶妙にアリバイが成立する嘘を淡々と伝えて煙に巻いたようだった。
なんとか窮地を脱した二人は、その日の遅く、大祭の実行委員としての作業のために進路指導室で再び二人きりになった。
「……いよいよこの体質、何とかしないといけないよなぁ」
パタンと引き戸を閉めるなり、ショウヤが深く大きなため息をつきながらぼやいた。
あの一件以来、二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
誰も入ってこないこの部屋は、今や二人にとって、誰にも言えない秘密を話し合うにはもってこいの「聖域」となっていた。
「ねぇ、猫沢くん。何か思い当たる事とかないの?」
サキは机に両手を突き、藁をも掴む思いでショウヤを見つめた。
これまで一人で抱え込んできた孤独な呪い。
それを共有できる相手が目の前にいるのだ。
ショウヤはしばらく黙ったまま、机の上に置かれていた『双神大祭』の派手な宣伝チラシを指先で弄んでいた。
やがて、その琥珀色の瞳をサキに向ける。
「俺さ、この祭りについて少し詳しく調べてみたんだわ」
「え?」
「この大祭で祀られてる『双神』って、表向きは人間の姿をした男女の神様ってことになってるだろ? でも、古い文献を漁ってみたら違った。その正体は、“猫の神様“と“犬の神様“らしいんだ」
「ええっ!? そうなの!?」
サキは思わず声を上げた。
五年に一度開催されるこの祭りは、サキが小学生の頃にも見に行ったことがある。
しかし当時の記憶にあるのは、伝統的な衣装を纏った人間の姿をした神格のイメージだけだった。
「人間なのか動物なのか、どっちが本当の姿かは知らない。けどさ……」
ショウヤはチラシをトントンと指で叩いた。
「俺たちのこの体質と、あまりにも共通点がありすぎるだろ?」
「……確かに」
「それに、この祭りは地域の二大神社が合同でやるくせに、祭り自体はそれぞれの境内じゃ行われない。こういう節目にしか使われない、森の奥にある『古社』で執り行われるんだ」
ショウヤは淡々と、しかし極めて論理的に言葉を紡いでいく。
「あそこには、普段は固く閉ざされた大きな蔵がある。そこに、俺たちの身体に起きてる異常を解き明かすための、何かしらの情報が眠ってると思うんだよな」
そこまで一気に語ったショウヤを見て、サキはぽかんと口を開けていた。
普段は教室の隅で眠そうにして、やる気の欠片もないと思っていた男が、まさかここまで深く、自分たちの未来のために思考を巡らせていたなんて。
「……猫沢くんって、実はそんなに色々と考えてたんだね」
サキが素直な感心を言葉にすると、ショウヤは自分の持つ「だらしのない男」という偏見に対する苦笑いを浮かべ、ポリポリと茶髪を掻いた。
「まぁ、服が破けるのは経済的にも精神的にも大打撃だからな」
「それはそうなんだけど……」
サキは少し視線を落とし、現実的な問題に突き当たって眉をひそめた。
「でも、その蔵に情報があるとしても、神社の関係者に『見せてください』って言って、簡単に中を見せてもらえるわけないよね? 私たち、ただの学生だし……」
「ああ、だからさ」
ショウヤはそこで言葉を区切ると、椅子の背もたれからゆっくりと身体を起こした。
夕暮れの光が、彼の顔に怪しげな陰影を作る。
ショウヤはサキの目を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべた。
「――夜中に、忍び込む」
ーーーーーー
ジリジリと肌を焼くような強い日差しが降り注ぐ、日曜日。
サキとショウヤの二人は、双神大祭の舞台となる「古社」の下見へと向かっていた。
夜中に忍び込むという突飛な提案ではあったが、二人の根底にある「事前に不確定要素を極限まで減らしておく」というロジカルな思考回路は、驚くほど一致していた。
どちらが先に口にするでもなく、ごく自然な流れでこの休日偵察の計画に同意し、現地で合流したのだ。
サキは、大きめのつばがついた麦わら帽子を深く被り、身体のラインを拾わないゆったりとしたサマーワンピースを着ていた。
帽子があれば、万が一頭に「ムズムズ」が起きて耳が生えかけても、周囲の目を誤魔化すことができる。
その事実が、彼女にいくらかの安心感を与えていた。
しかし、安心感とは別に、サキの胸は朝からずっと落ち着かなかった。
(……休日なのに、高校生の男女が二人きりで行動するなんて)
根が生真面目なサキにとって、これはまるで何か悪いことでもしているかのような、妙な背徳感と気恥ずかしさがあった。
サキは、自分の少し前を歩くショウヤの背中を横目で盗み見る。
彼の私服は、学校の制服以上に輪をかけてルーズだった。
バカデカいオーバーサイズのTシャツに、ダボダボのカーゴパンツ。
ズボンは腰の低い位置までずり落ちていて、歩くたびにトランクスの柄がチラチラと覗いている。
万が一、ここで猫の獣人に変身してしまった時のための対策(服を破かないための工夫)だと頭では理解している。理解はしているのだが――。
(いくら体質のためとはいえ、もうちょっと何とかならないの!?)
せっかくの休日に一緒に行動しているというのに、あまりにも締まらない彼の格好に、サキの胸の奥にはどこか割り切れないモヤモヤとした感情が渦巻いていた。
---
民家の途切れた森を抜け、二人は静まり返った境内の奥へと足を踏み入れた。
深い木々に囲まれた敷地は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っている。その中心に、目的の蔵はひっそりと佇んでいた。
白い漆喰の壁に、重厚な黒い瓦屋根。扉は頑丈な木製で、随所が黒い金属のプレートで補強されている。まさに、教科書に出てくるようなお手本通りの蔵だった。
「……やっぱり、そう簡単にはいかなそうだね」
サキは蔵の正面に立ち、困ったようにショウヤを見上げた。
木製の重い扉には、大人の拳ほどもある無骨な南京錠がガッチリと掛けられている。さらに、手の届く範囲にあるいくつかの窓には、すべて太い金属製の格子が隙間なく打ち付けられていた。工具でもなければ、壊すことすら不可能だろう。
ショウヤはポケットに両手を突っ込んだまま、しばらく無言で蔵の全体を観察していた。やがて、顎を少しだけ上に向ける。
「あのさ、犬崎。あの二階部分、見ろよ」
ショウヤが指差した先――蔵の二階の壁面に、四角くくり抜かれた小さな換気窓があった。
「あそこ、ガラスが入ってない。あそこからなら中に侵入できる」
確かに、人一人が何とか滑り込めそうなサイズの四角い穴が開いている。しかし、そこに窓ガラスや格子がないのは、「人間が安々と到達できる高さではない」からだった。
窓穴の周囲の漆喰壁は滑らかで、足をかけるような引っかかりは一切ない。
仮にショウヤがサキを肩車したとしても、到底届かない圧倒的な高さだ。
「あそこからって……どうやってあの上まで行くのよ? 梯子でも用意する?」
サキが頭の中でいくつかの侵入パターンをシミュレーションしてみたものの、どれも現実的ではない。
すると、ショウヤはサキの方を振り返り、平然と言ってのけた。
「道具なんていらねぇよ。――俺たちの、この体質を利用するんだ」
「え……?」
「一方が完全に獣人の状態になれば、身長は二メートルを優に超えるだろ。怪力だってある。変身した方がもう一人を両手に乗せて、上にぐっと掲げる。そうすれば、あの窓穴に直接手が届くはずだ」
サキは息を呑んだ。
脳裏に、あの日、圧倒的な筋力で自分を軽々と抱え上げた「猫の獣人」の姿が過る。
(確かに……! 変身した状態の体格と腕力なら、あの高さなんて天井に手を伸ばすようなものだ!)
大掛かりな道具を持ち込む必要もない。
つまり、周囲に怪しまれるリスクもなければ、侵入の痕跡も一切残らない。
自分たちの呪わしい体質を、そのまま最強の武器として反転させる、極めて合理的でスマートな作戦だった。
「……それ、すごくいいアイデアかも!」
サキの瞳にパッと輝きが戻る。
彼女は弾んだ声で言いながら、ショウヤの目を真っ直ぐに見つめて力強く頷いた。
「だろ?」
ショウヤは、サキと視線が合うと、ほんの少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせて頷き返した。
ーーーーーー
作戦決行は、今晩。
無事に蔵の下見を終え、サキは「じゃあ、一旦解散ね」と踵を返そうとした。
「……なぁ、犬崎」
背後から、ショウヤが少し思い切ったような、どこか緊張を含んだ口調で呼びかけてきた。
「この後、時間あるか?」
「え? あるけど……」
サキはてっきり、今夜の侵入作戦の綿密な打ち合わせでもするのだろうと思った。
するとショウヤは、少し視線を泳がせながら、ぽりぽりと首の後ろを掻いた。
「そ、そっか! ……じゃあさ、犬崎の分の金は俺が払うから、ちょっと付き合えよ」
「えっ……?」
予想の斜め上をいく返答に、サキは戸惑った。
休日。
高校生の男女。
しかも、男の子の方から「お金は俺が払うから」というお誘い。
(これって……まさか、そういう、お出かけ的な……!?)
ほんの、ほんの少しだけ胸を過った淡い期待は、それから十五分後、ものの見事に粉砕されることとなる。
---
「シャーッ……」
「ウゥゥ……」
サキは、無数の鋭い眼光に囲まれていた。というより、徹底的にディスタンスを保たれ、完全に警戒されていた。
そこにいる誰も彼もが、実に見事な手入れをされ、ツヤツヤと輝く見事な毛並みを誇っている。
看板には、可愛らしい肉球のイラストと共に『猫カフェ・にゃんこパラダイス』の文字。
そう、サキが人生で初めて足を踏み入れたのは、犬派の彼女にとって完全なるアウェイの聖域だった。
そもそもサキが犬派になった最大の理由は、「どういうわけか、昔から猫にことごとく嫌われるから」である。そのトラウマが、今まさにこの空間で絶賛再発中だった。
しかし、そんなサキの受難など一顧だにせず、この世の春を謳歌している男がいた。
「う〜ん、お前可愛いなぁ〜! 何て名前だぁ? 」
「……誰?」
サキの口から、乾いた声が漏れた。
視線の先では、ショウヤがあぐらをかいて床に座り込んでいる。
普段のあの、地を這うような気怠げな低音はどこへやら、聞いたこともないような高い裏声で猫に話しかけていた。
キャラクターの崩壊である。
そして、ショウヤの周辺はすでに猫まみれ状態だった。
尻尾をピンと垂直に立て、腰から尻尾の先までをこれでもかとショウヤの身体に擦り付けるキジトラ。
「ゴツン!」と鈍い音がするほどの勢いで、ショウヤの顎に頭突きをかます三毛猫。
あぐらをかいた彼の太ももの上で、我先にとふみふみを始めるアメリカンショートヘア。
一言で言えば、ショウヤは猫に異常なほどモテ散らかしていた。
「あー、すまん犬崎。俺さ、一人で猫カフェ入るの、どうしても抵抗あってさ……。誰か連れが欲しかったんだわ」
緩みきった顔で、ショウヤが白状した。
つまりサキは、単なる「男一人の猫カフェ突入という羞恥心を薄めるための防波堤」として都合よく利用されただけだったのだ。
サキはムスッと口を尖らせた。利用されたこともそうだが、何より、自分とショウヤの間で起きている「猫格差」がどうしても納得いかなかった。
(私だって、猫に好かれたい……!)
サキはプライドをかけ、目の前を通り過ぎようとした一匹の猫に、営業スマイル全開で手を差し伸べた。
「あ! 猫ちゃん、おいでおいでー!」
それは足の短い、ぬいぐるみのように愛らしいマンチカンだった。
マンチカンはサキの声を耳にすると、ピタッと足を止め、サキを「スン……」とした冷ややかな目で一瞥した。
そして、その短い手足でポテポテと器用にサキの手を完全回避。
まるで障害物を避けるような滑らかな動きで、サキの遥か先にある猫ベッドへと収まり、そのまま寝てしまった。
「――――」
サキの差し伸べた手が、虚空でピクリと震える。
カチン、と何かが弾ける音がした。
サキは静かにメニュー表を掴むと、近くにいた店員を呼び止めた。
「すみません。ガトーショコラと、チーズケーキと、季節のフルーツタルト。あとアイスココア。お願いします」
「えっ、あ、犬崎!? お前それ食いきれ……」
「猫沢くんは黙って猫と戯れてなさい」
サキは食い気味にショウヤを制した。
ーーー
その日の夜。
昼間のうだるような暑さは影を潜め、境界の森はしっとりとした夜霧と虫の声に包まれていた。
月明かりがうっすらと白漆喰の壁を照らす中、サキとショウヤの二人は再び不気味に佇む蔵の前にいた。
作戦はシンプルだ。ショウヤが猫の獣人に変身し、その圧倒的な体格と腕力でサキを二階の換気窓へと押し上げる。
中に入ったサキが蔵の内部を探る、という手はずだった。
「じゃあ猫沢くん、お願い!」
サキは夜の静寂を乱さないよう、声を潜めて促した。
しかし、ショウヤはポケットに両手を突っ込んだまま、ただ黙って佇んでいる。
「……ちょっと、猫沢くん?」
サキは不審に思って顔を覗き込んだ。
ショウヤは重い瞼をさらに眠そうに細め、心底困ったようにぼそりと呟く。
「犬崎さぁ。いきなり『変身しろ』って言われて、はいそうですかってなれるもんじゃないだろ」
「はぁ!?」
サキは思わず呆れた声を上げた。
「何言ってるのよ! 昼間、あんなに完璧な作戦思いついといて、肝心の変身ができないわけ!?」
「しょうがねぇだろ。俺、普段から感情を殺す訓練ばっかしてるからさ。お前みたいに沸点低くないんだよ。自力で感情を高ぶらせるなんて無理」
「な、なんですって……!?」
沸点が低いと言われてカチンときたが、今は言い争っている場合ではない。サキは必死に頭を回転させた。
「何かないのよ!? 恥ずかしい黒歴史を思い出すとか。その……エッチな事考えるとか!」
「……犬崎はそれで変身してんのか?」
「してないよっ!!」
今度は羞恥心でサキの方が変身してしまいそうだった。慌てて首を振って、別の提案を繰り出す。
「じゃあ危ない目にあおう! 私、階段から落ちそうになって完全に変身しちゃったから!」
「犬崎……お前鬼か!」
二人の間に、にっちもさっちもいかない沈黙が流れる。
このままでは夜が明けてしまう。サキは意を決したように拳を握りしめると、まっすぐにショウヤを見据えた。
「……そうだ! 猫沢くん目をつぶって!」
「目を開いたらいきなり石で殴りかかるとかなしだぞ」
「し、な、い!」
「いいからつぶって!」
ショウヤは訝しげな表情を浮かべながらも、観念したようにゆっくりと目をつぶった。
---
視界を遮断したショウヤの頭の中で、聴覚と触覚だけが異常なほど鋭敏に研ぎ澄まされていく。
――ザク……ザク……。
静夜の闇に、砂利を踏みしめる小さな足音が響く。
近い。サキは今、ものすごく近くにいる。
(な……何をする気だ!?)
さすがのショウヤも、予測不能なサキの行動に緊張を覚え、頭の奥にムズムズを感じ始めていた。
その直後だった。
トスン、とショウヤの胸元に、小さくて柔らかい衝撃がぶつかった。
同時に、彼の胴体へ、サキの両腕がまわされる。
「――――ッ!?」
ショウヤの身体が、一瞬で石のように硬直した。
目をつぶっている真っ暗な世界の中で、脳の全神経が『正面からサキに抱き締められている』という、あまりにも過剰な現実の感覚だけに集中していく。
昼間ほどではなくとも夏の夜は暑い。だが、ショウヤの胸にぴったりと押し当てられたサキの身体は、不思議と暑苦しくなかった。
ショウヤの鼻先には、ちょうどサキの頭頂部がある。
ふわりと鼻腔をくすぐる、シャンプーと頭皮の匂いが混ざり合った、女の子特有の生の香り。意識しなくてもつい深く嗅いでしまう。
サキの小柄な身体のラインが、ダボダボの私服越しに嫌というほど伝わってくる。そして――ショウヤの腹部に伝わる、一際柔らかい二対の塊の感覚。それが何かは、相手がサキという「女の子」であるという情報だけで、嫌でも理解できてしまった。
あまりの破壊力に混乱したショウヤは、慌てて彼女を引き剥がそうとする。
「待て、犬崎、お前――」
「ダメ!」
しかしサキは、ショウヤの胸に顔をうずめたまま、さらにぎゅっと腕に力を込めた。
ドクンドクンドクン!!!
サキの衣服越しに、彼女の激しい鼓動が、ショウヤの身体へと直接、生々しく伝わってくる。
サキはショウヤの胸元に声を籠らせながら、掠れた、切ない声で静かに囁いた。
「……私、あなたにしか頼れないの。だから猫沢くんお願い……」
「あ、お前……っ」
至近距離から伝わる、女の子の柔らかさと体温。
心臓を直接叩かれているような激しい鼓動の伝達。
何より、普段はあんなに突っかかってくるサキが、自分だけにしか見せない弱さで、全力で頼ってきているという事実。
そのあまりの破壊力に、ショウヤは耐えられなかった。
(――こんなん、ズリぃって!!)
「くっ、あ、あああ――っ!」
ショウヤの口から、獰猛な獣の唸り声が漏れた。
骨が劇的に軋み、膨れ上がる筋肉が、彼の私服を一瞬にして内側からパンパンに張り詰めさせる。
驚異的な速度で全身から被毛が噴き出し、ショウヤの身体はみるみるうちに、月明かりを浴びて猛々しくそびえ立つ二メートル超の獣人へと変貌を遂げた。
---
「やった!大成功!!」
押し出されるように手を離したサキは、目の前の巨体を見上げて、嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
一方、変身を終えたショウヤは、熱を持ったままの己の顔を大きな肉球の手で覆うようにしながら、ジロリとサキを見下ろした。
「犬崎……アレ、演技?」
ショウヤは喉の奥を低く鳴らしながら、どうしても気になっていた疑問を口にした。
サキは少し面食らったように瞬きをすると、あっけらかんと言ってのける。
「そんな事無いよ。だって今この状況で頼れるのは猫沢くんだけだし」
「あー……いや、それはそうなんだが……」
ショウヤは内心で小さくため息をついた。
確かに言葉通りの意味なのだろうが、彼が知りたかったのはそこじゃない。
自分を引き留めたあの力強さ、そして胸を締め付けるほど切なそうだったあの声色――あれが、単に自分を変身させるためだけに作った方便だったのか、それとも本心だったのか、その真偽が知りたかったのだ。
(やっぱり、俺を乗せるための演技だったのか……?)
そう思いかけた、その時だった。
月明かりに照らされたサキの黒髪の隙間から、金色の三角形の耳がぴょこんと綺麗に突き出ているのが見えた。
それだけではない。サキが着ているワンピースの裾の裏から、金色の尻尾がパタパタパタパタと、隠しきれない激しさで左右に大きく振られている。
「……あ」
ショウヤはそれ以上、言葉を追及するのを止めた。
サキの身体の反応が、何よりの答えだった。
ショウヤの胸の奥に、言葉にできない心地よい温かさがじんわりと広がっていった。
自分のためにそこまで必死になってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
普段のショウヤなら、気恥ずかしさを誤魔化すために「犬崎ってけっこう胸があるのな」などとからかって、彼女の反応を楽しんでいただろう。
しかし今のショウヤは、彼女が示してくれた明確な回答が嬉しくて、からかうことすら忘れてしまっていた。
「ま、まぁ結果オーライだな! ゆっくりしてられないから次に移ろう」
ショウヤはふいっと顔を背けたが、その声はいつもより明らかに少し嬉しそうに、弾んでいた。
ーーーーーー
ショウヤとサキの二人は、白漆喰の壁がそびえ立つ蔵の真下へと移動した。
見上げる遥か頭上に、ガラスも格子もない四角い換気窓が、ぽっかりと暗い口を開けている。
巨体となったショウヤは、その場にどっしりと屈み込むと、人間の胴体ほどもある太い両腕を伸ばし、大きな手のひらを上に向けて地面にぴったりとつけた。
「慎重にな」
低く地響きのような、しかしどこか優しいショウヤの声が響く。
「……うん」
サキはワンピースの裾を少し気にしながら、恐る恐るショウヤの手のひらに足を乗せた。
その瞬間、サキの足の裏に、プニッとした驚くほど柔らかく温かい感触が伝わってきた。猫の獣人となった彼の、巨大な肉球の感触だ。緊迫した状況だというのに、サキは思わずその予想外の心地よさに意識を奪われそうになる。
「バランス崩さないように壁に手を付けてろよ」
ショウヤが短く告げると同時に、ぐっと重力がかかった。
ショウヤがゆっくりと立ち上がるにつれ、サキの視界は面白いほどぐんぐんと高くなっていく。最後にショウヤがその太い両腕を天に向かってまっすぐに掲げると、サキの身体はあっさりと、換気窓が目の前にくる高さまで到達した。
「……すごい、本当にぴったり届いた!」
「頼んだ!」
「うん! 行ってくるよ!」
サキは換気窓の縁に手をかけると、小柄な身体を器用に滑り込ませて、蔵の内部へと侵入した。
トン、と軽い足音を立てて着地したサキは、すぐにスマートフォンのフラッシュライトを点灯させた。
「う……少し、土とカビの匂いがする……」
ライトの白い光が、蔵の内部を照らし出す。
そこは二階のロフト部分のようになっており、古い屏風や行李(こうり)など、歴史を感じさせる調度品が整然と並べられていた。物自体はかなり多い。
しかし、サキはそれらの収納品には目もくれなかった。
探すまでもない、という奇妙な感覚があった。
まるで、あらかじめどこにあるかを知っていたかのように、何かに強く手招きされるような感覚――。
サキは導かれるように、一階へと続く古びた木製の階段をトントンと静かに降りていった。
一階の奥、埃を被った棚の片隅に、その『古めかしい木製の箱』はあった。
不思議と、最初からここにあると確信していた。
サキはスマホを片手に、木箱の蓋をそっと開ける。
中には、分厚い和紙を頑丈な紐で綴じた、一冊の古い書物が納められていた。
表紙には、掠れた、しかし力強い筆文字で、はっきりとこう書かれている。
“猫神犬神双神ノ書”
「間違いない……これだわ!」
サキは書物を胸に抱きしめると、一階にある小さな窓へと駆け寄った。内側の古い木製の鍵を素早く解除し、窓を開ける。
「猫沢くん、あったよ!」
窓のすぐ外に打ち付けられた金属製の太い格子の隙間から、サキは外で待機していたショウヤに向かって声を潜めて叫んだ。
暗闇からぬっと現れたショウヤの猫の顔が、驚きに目を見開く。
「早いな! よし、こっちに渡してくれ。その格子の隙間からなら通るだろ」
「えっ、でも……これ、盗んじゃうの……?」
急に足がすくみ、サキは書物を差し出す手をためらった。いくら呪いを解くためとはいえ、神社の大切なものを無断で持ち出す行為に、彼女の理性がブレーキをかける。
すると、ショウヤは格子の隙間から大きな肉球の指先を覗かせながら、諭すように低く笑った。
「盗むんじゃねぇって。少し借りるだけだ。中身を確認して、用が済んだら後日必ずここに戻す。……それならいいだろ?」
「……うん。そうね」
ショウヤの言葉に救われ、サキは頷いて格子の隙間から書物を滑り込ませた。
ショウヤがそれを大きな手でしっかりと受け取る。
「よし、オッケー。犬崎、そのまま二階に戻れ。お前を下ろすぞ」
「了解!」
サキは再び階段を駆け上がり、二階の換気窓へ。外で再び両手を掲げて待っていたショウヤの巨大な手のひらへと、今度は迷わず飛び降りた。プニッとした肉球が、サキの体重を柔らかく受け止める。
ショウヤはサキを優しく地面へと降ろすと、自分の大きな背中をサキに向けた。
「乗れ。この姿のまま走った方が何倍も早い。一気に森を抜けるぞ」
「えっ、あ、ちょっと待って――」
躊躇する暇もなく、サキはショウヤの背中に乗せられた。
---
ショウヤの巨体が、月明かりの夜道を凄まじい速度で駆け出す。
四足歩行に近い姿勢で、しなやかに、かつ圧倒的な跳躍力で地面を蹴る感覚は、まるで本物の獣の背に乗っているかのようだった。
ザザザザザ…
風切音とともにサキの髪を激しくなびかせる。
遠ざかっていく蔵のシルエットを見つめながら、サキの胸の奥には、しんと冷たい罪悪感が渦巻いていた。
(やってしまった……。鍵の閉まった建物に侵入して、中の物を勝手に持ち出すなんて、完全に犯罪じゃない……)
もし見つかったら。
もし呪いが解けなかったら。
様々な不安が押し寄せ、サキの身体が小さく震える。
ショウヤの表情は、ここからでは窺い知ることができない。
彼は今、どんな気持ちで走っているのだろうか。
自分と同じように、怯えているのだろうか。
サキは、ショウヤの背中を覆う、驚くほど温かくてふかふかとした灰色の毛皮を、ぎゅっと両手で強く掴んだ。
手のひらから伝わってくる彼の圧倒的な体温と、力強い筋肉の脈動。
不思議と、その温もりに触れているだけで、サキの胸のバクバクとした焦燥感は、少しずつ凪いでいくのだった。
ーーーーーー
森を駆け抜けた頃にはショウヤの変身も解けていた。
しばらく歩き、ショウヤに促されるままに彼の自宅へと足を踏み入れていた。
共働きだというショウヤの両親はまだ帰っておらず、一歩中に入ると、家の中はひっそりと静まり返っていた。
「その辺に座ってくれ」
案内されたショウヤの部屋のドアを開けた瞬間、サキは小さく息を呑んだ。
そもそも、男子高校生の部屋に上がるということ自体、サキの人生において初めての経験だった。
比較対象がないため平均がどれくらいかは分からない。けれど、少なくともサキが事前にイメージしていた「男子の部屋=散らかっている」という偏見からは、かけ離れた空間がそこにはあった。
本棚の参考書は背表紙の高さごとにきっちりと揃えられ、机の上にも余計なものは一切ない。普段の彼のルーズな服装やだらけた椅子の座り方からは想像もつかないほど、部屋全体が理路整然と整っていたのだ。
学校で時折見せる丁寧な仕草。
蔵への侵入時のサキへの気遣いの言葉。
猫カフェでの素の笑顔。
これらが本来のショウヤなんだとサキは感じ始めていた。
しかし、感傷に浸っている時間はなかった。ショウヤは部屋の床に敷かれたラグの中央に、蔵から持ち出したばかりの和綴じの書物をコトリと置いた。
「開くぞ」
ショウヤが長い指先で、書物を縛っていた古い紐を慎重にほどいていく。
---
パラリ、と黄色く変色した和紙がめくられた。
そこに広がっていたのは、墨と筆文字でびっしりと書き込まれた、解読の難しそうな古い崩し字だった。
二人は自然と距離を詰め、ラグの上に膝を突き、顔を寄せ合うようにして一文字ずつ目で文字を追っていく。
至近距離から伝わるショウヤの体温と、微かな朱肉のような匂い。
サキの心臓が少しだけ跳ね上がったが、書物に書かれた内容を読み進めるうちに、そんな甘酸っぱい緊張感は一瞬で吹き飛んだ。
犬神。猫神。そして、この街で開かれる大祭の真の由来。
これまで断片的だった情報が、パズルのピースが嵌まるようにして少しずつ繋がっていく。
そして、ある頁を開いた瞬間、二人の視線が同時に止まった。
「……“犬崎家”、 “猫沢家”……」
サキは自分の家系の姓を見つけ、喉を鳴らした。
さらに読み進めると、犬崎家と猫沢家の家系図が記されている。
サキはその没年の記載に、奇妙な違和感を覚えた。
「……ねぇ、猫沢くん。この、数代ごとに出てくる『享年百歳』って記載、不自然じゃない? 昔の人間が、こんなにきっちり百まで生きるなんて……」
サキの言葉に、ショウヤが琥珀色の瞳を険しくさせた。
「……ただの長寿じゃない。きっと神の力が関わってるな」
読み進めるほどに、恐ろしい事実が浮かび上がってきた。
犬崎家と猫沢家は、数百年の昔から代々、犬神と猫神の『依代(よりしろ)』を務めてきた血筋であること。
そして――百年に一度、両神がそれぞれの依代である若者の身体に入り「勝負」を行うこと。
その勝負に勝った神だけが、依代の呪縛から解放されること。
「……ちょっと待って。これってつまり……」
サキは書物を指差したまま、震える声で憤りを露わにした。
「神様たちが人間の身体を借りて勝手に勝負して、負けた方は『罰ゲーム』として、依代が死ぬまで身体の中に取り残されるってことじゃない!」
あまりの理不尽さに肩を震わせるサキの隣で、ショウヤはふぅ、と力のないため息をつき、どこか呆れたように首を振った。
「……みたいだな。まぁ、こういう人間の都合を一切無視した理不尽な感じ、いかにも『神様』って感じだけどな」
その瞬間だった。
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。 『──ようやく辿り着いたか』
「っ!?」
頭の奥、脳髄に直接響き渡るような、質量を持った「声」が響いた。
それは、地鳴りのように低く、有無を言わせぬ威厳を放つ重々しい男性の声。
『愚かな我らが依代よ。百年、待ち侘びたぞ』
今度は一転して、鼓膜を甘く撫でるような、どこか妖艶で艶やかな女性の声。
サキとショウヤは弾かれたように勢いよく立ち上がり、お互いの顔を見合わせた。部屋には二人しかいない。互いの怯えた目を見れば、今の声が幻聴ではなく、二人に同時に響いていることは明白だった。
『我は犬神』
『我は猫神』
頭の中の声が、不気味に重なり合って共鳴する。
『書を開いた今、お前たちは自身の定めとその背景を知った』
『時は満ちた。勝負を始める時だ』
「ちょっと待って! 勝手に話を進めないでよ!」
面食らうサキに比べ、ショウヤは驚くほど冷静だった。
「……百年待ち侘びた、と言ったな」
「つい最近、お前らどっちかの罰ゲーム期間が終わって、俺らの世代の依代で次のゲームが開始って訳か」
『……』
「……だんまりか。まぁいいや」
ショウヤは挑発するように、本を見下ろす。
「概ね、負けた側の依代は、百歳になるまで無理矢理にでも生かされてきたんだろ? そして百歳になったら、お役御免でポイしてさ」
家系図に書かれた、きっちり百年を生きる世代が定期的に現れる理由。その推理は、あまりにも辻褄が合っていた。
サキは口を覆って絶句する。
ショウヤはさらに言葉を重ねた。
「ただ、気になったんだが。神とか宣うお前らが、なんで依代なんて使ってこんな回りくどい『代理戦争』をやってるんだ?」
「答えてやろうか?本当は自分じゃもう、何もできないんだろ? 実体が無いからさ」
『……不遜な小僧め』
猫神の声に、明確な不快感のトーンが混じる。
しかし、犬神がそれを遮るように妖艶に笑った。
『ふふ、察しが良いな。とても秀でた頭の回転だ。その通り、我らはかつて主神によって実体を剥奪された。ゆえに、お前達のような人間の姿を模した器が必要なのだ』
“人間の姿“を模した器――それこそが自分たち『依代』なのだ。
ショウヤが一瞬たじろいだのを、猫神は見逃さなかった。
『どれ、跳ねっ返りの強い小僧。お前にもっと面白い話をしてやろう』
『昼間、お前を囲んでいた獣ども。あれは我らが本物の依代を造らんとした試みの型――その過程で生まれたなり損ないの獣どもよ』
ショウヤの手が、ピクッと跳ねた。
『お前は実に愉悦な表情であったが、滑稽よの。あれらは出来損ないゆえ、今なお親たる我らの気配に惹きつけられているに過ぎぬ』
「そんな……!」サキは思わずショウヤを見た。
ショウヤは拳を強く握りしめ、前髪の影で表情を隠すように俯いていた。
サキの胸に、激しい衝撃と怒りが突き刺さる。
自分たちのルーツが純粋な人間ではないこと。
そして、ショウヤが猫に囲まれてあんなに嬉しそうにしていた理由までもが、単なる「猫神の気配」に惹きつけられていただけの、まやかしだったということ。
すべてが理不尽で、あまりにも残酷だった。
しかし、ショウヤは絶望に沈まなかった。彼はふっと、いつもの気怠げな笑みを唇に浮かべたのだ。
あえて挑発するように、神へと強烈な皮肉を投げ返す。
「それはそれは……主神にとってのお前らと違って、随分可愛げのある“失敗作”だな」
『ふ……好きに毒づくが良い』
犬神の声が、低く笑った。
『さぁ、戯れ言はここまでだ。本題に入ろうか』
「私たちはあんたたちの道具じゃないわ! 勝負なんて――」
『拒否は許されぬ』
低い男の声――猫神が、感情のないトーンで即答した。
『貴様らは我らの依代。それ以上でも以下でもない』
『人は皆、自らの都合で獣を使う。我ら神は人を使う。……それだけのことよ』
「だからって、そんな……!」
サキは言葉を詰まらせた。一瞬だけ、一理あると思ってしまったからだ。
人間だって、馬や犬を自分たちの都合で使役している。神から見れば、人間もその程度の存在なのかもしれない。
だが、だからといって納得できるはずがなかった。
すると、猫神が退屈そうに声を響かせる。
『安心せよ。勝負の内容だけは、依代であるお前たちに委ねよう』
サキとショウヤは、思わず視線を交わした。
『何でも良い。知恵、力、技、勝敗が決するものであればな。ただし――死力を尽くせ』
---
ショウヤは少しの間を置き、天井を見上げるようにして口を開いた。
「……なぁ。あんたら神様は、俺たちの勝負に直接手出しはせずに、ただ結果を見届けるって訳だな?」
『左様。お前達の勝負に我らが介入するのは禁じ手なり。』
『もし破ったら、我らは勝負の権利を失い、二人共に永久に封印される。』
『それだけ、この百年に一度の勝負は我らにとって絶対なのだ!』
「……ふーん」
ショウヤの口から出たのは、それだけだった。
神たちの言葉を信じるなら、神からの理不尽な妨害はない。
だが、それでも負ければ一生この体質のまま。しかもどんな状態であろうと強制的に百歳まで生かされる。
サキは唇を噛んだ。
「ねぇ、どうする……? 勝負の内容は自由に決めていいって言ってるけど……」
共に同じ体質で苦労を分かち合った身。
どちらか一方だけが一抜けするような構図に、戦いたくないというのがサキの本音だった。
しかし、ショウヤの返答は、サキの予想を完全に裏切るものだった。
「あいつらの『勝負はこっちで決めていい』って言葉を聞いた時点で、俺はもう決めてた」
ショウヤはサキの目を真っ直ぐに見据えた。
「犬崎。お前と、次に控えているテストーー“高校レベル記述模試“で勝負だ」
「え……?」
サキは、自分の耳を疑った。
「模試……って、勉強で、ってこと?」
もし、これまでの出来事が何もない『過去のサキ』であれば、学年トップの座を争うショウヤからの学力勝負の提案は、願ってもないリベンジの機会だっただろう。
絶対に受けて立ち、彼を叩きのめすと息巻いたはずだ。
だが、今のサキは違った。
あの日、全裸の自分に制服を裂いてかけてくれたショウヤ。
蔵への侵入時に見せた優しさ。
形が何であれ、負けた方が取り残されるような戦いを、あのショウヤと本気でしなければならないという現実に、サキの胸は強く締め付けられ、猛烈な引っかかりを感じていた。
「猫沢くん……本気で言ってるの?」
「ああ。俺は本気だ」
ショウヤの声色が、いつもの気怠げなものとは明らかに違っていた。低く、冷徹で、一切の妥協を許さない、他者を突き放すような響き。
『よかろう! お前達にはおあつらえ向きの知的闘争だ』
『結果が出た日に、我らを呼ぶがよい。ではその日までの暇(いとま)、さらばだ!』
二神の声が同調し、パッと弾けるようにして、頭の奥の不快な気配が綺麗に消え去った。
部屋に、元の静寂が戻る。
「……だそうな」
神が消えた瞬間、ショウヤはふっと肩の力を抜き、何事もなかったかのような淡々とした口調に戻っていた。
「だそうな、って……! ちょっと、分かってるの、猫沢くん!?」
サキはたまらず声を荒げた。
「模試ってことは、点数が高い方が勝ちってことでしょ!? 負けた方は一生、この体質のままなんだよ!? なんでそんな勝負を、そんなに簡単に……!」
サキの必死の訴えに対し、ショウヤは感情の読めない瞳で彼女を一瞥すると、冷たく言い放った。
「負けても、死ぬ訳じゃないだろ。それで充分だ」
「――――」
サキは、息が止まるような感覚に陥った。
目の前にいるショウヤが、あの進路指導室や体育倉庫の裏、そして昼間の猫カフェで心の距距離を縮める前の、冷めていて、何を考えているか分からない「元の猫沢ショウヤ」に戻ってしまったかのような――そんな錯覚に襲われた。
彼が本気で自分を負かしにこようとしている恐怖。
そして、彼の本心が再び霧の向こうに隠れてしまったことへの寂しさが、サキの胸を激しくかき乱す。
ーーーーーー
翌日。
学校でのショウヤの様子は、文字通り「一変」していた。
これまでは授業中といえば、足をぶらつかせ、机の下に潜り込むようにして背中を丸めた、だらしない座り方が彼のデフォルトだった。いつ寝てもおかしくないような気怠げなオーラを放っていたその席に、今はまるで別人のような少年が座っている。
背筋をピンと伸ばし、教科書を真っ直ぐに見据える、お手本のような美しい姿勢。
それだけではなかった。
休み時間のチャイムが鳴っても、彼は席を立とうとしない。
周りの男子が騒がしく携帯をいじったり廊下へ出たりする中、ショウヤは一人、机に噛みつくようにして参考書に向き合っていた。
昼食の時すら、購買で買ったパンを片手に持ち、もう片方の手でシャープペンシルを猛烈な勢いで動かしている。
(……本気なんだ)
サキは遠くの席からその背中を見つめながら、ごくりと唾を呑んだ。
昨夜の冷徹な声、そして今の凄まじいまでの集中力。
猫カフェの出来事を神は持ち出し嘲笑っていた。
それはつまり、神は自分達を常に見張っていて逃げ場がないということだ。
ショウヤが文字通り「死力を尽くして」自分を負かしにきていることを、サキは嫌というほど確信させられていた。
「なぁ、犬崎」
放課後、大祭の資料を職員室に届けに行くと、担任の教師から怪訝な顔で呼び止められた。
「猫沢のやつ、急にどうしたんだ? 授業態度が急に人が変わったように良くなって、進路指導室の過去問を片っ端から借りていってるんだが……。」
「双神大祭の実行委員の活動で、何か心境の変化でもあったのか?」
サキは一瞬言葉に詰まったが、すぐに小さく微笑んで答えた。
「……はい。彼なりに、絶対に負けられない『使命』を見つけたみたいです」
「使命、か。まぁ、やる気になってくれる分には大歓迎なんだがな」
担任は首を傾げながらも納得したようだった。
当たらずといえども遠からず、である。
職員室を出たサキは、ぎゅっと自分の拳を握りしめた。
ショウヤのあの姿勢を見て、サキの胸の中にあった迷いや恐怖は、綺麗に洗い流されていた。
(私も、絶対に負けない)
もし全力を尽くした結果、自分が負けて、一生犬神の依代のまま生きることになったとしても――それでも構わない。
今のショウヤが全力で挑んできているなら、自分も全力で戦う。
それがライバルとして、そして秘密を共有した相棒として、サキが出せる最大の「答え」だった。
---
それから数日後。
サキは放課後の図書室を訪れていた。目的は、より難解な数学の記述対策問題集を探すためだ。
静まり返った館内、窓際の席をふと見やったサキは、息を止めた。
西日の差し込む特等席に、ショウヤがいた。机の上には分厚いテキストとノートが何冊も広げられている。
あの神との対峙以来、サキとショウヤは学校でまともに言葉を交わしていなかった。
声を掛けるべきか、それともこのまま気付かないフリをして立ち去るべきか。
サキの足が床に縫い付けられたように止まる。
(別に、私たちは憎み合って敵対してるわけじゃない……)
そうだ。
一生を賭けた残酷な勝負を強いてきているのは、あの勝手な神々の都合だ。
ショウヤに非があるわけではない。
だけど――それとは全く別の次元で、サキの胸には「勉強でだけは、昔からずっと彼に負けたくない」という意地とプライドが、炎のようにメラメラと燃え続けていた。
声をかけづらいような、でも話したいような。
複雑な感情でサキがモジモジとしていた、その時だった。
ショウヤが不意に顔を上げ、サキの視線に気がついた。
彼はいつものように重い瞼を少しだけ細めると、ふっと口元を緩めた。
「あ、犬崎じゃん。調子はどうだ?」
身構えていたサキの肩から、ストンと力が抜ける。
ショウヤの方から、ごく自然に声をかけてくれたのだ。
「あ、うん。ぼちぼちかな。」
サキは努めて平静を装いながら、歩み寄った。
「猫沢くんは?」
「俺? 俺はちょっと、解き方を知りたいとこがあったんだよ。……ほら、ちょっとここ見てくれよ」
ショウヤはそう言って、隣の椅子をポンポンと叩きながらサキを手招きした。
---
「ここなんだけどさ。答えは合ってるんだけど、記述の論理展開として減点されないか気になって」
サキは促されるまま彼の隣に腰掛け、差し出されたノートを覗き込んだ。
そこには、驚くほど緻密で、無駄のない美しい数式が並んでいた。
「……うん、ここはね、この条件の前提を一行足しておかないと、採点官によってはバツにするかもしれない。ほら、ここが正の数であるっていう証明が抜けてるから」
「あー、なるほど。そこか。盲点だったわ。」
ショウヤはサキの指摘に素直に頷くと、すぐにシャーペンを走らせて数式を修正していく。
サキはノートから少しだけ視線を外し、間近にあるショウヤの横顔を見つめた。
シャープペンシルを握る指先、問題を睨みつける鋭い眼差し。
彼は間違いなく、サキを倒すために、呪いに打ち勝つために真剣だった。
だけど。
サキに向けてくれるその声のトーンや、隣に座らせてくれる時の空気感は、あの温かいショウヤのままだった。
今のショウヤにとってサキは、一生呪われた体質から抜け出せなくする「敵」なのかもしれない。
それでありながら、サキを誰よりも信頼できる「味方」として頼ってくる。
そんな、あまりにも矛盾したショウヤの在り方が、サキにはどうしようもなく愛おしく、そして嬉しかった。
昨夜彼に対して抱いた「遠くに行ってしまったような不安」は、彼の優しい手招きひとつで、完全に消え去っていた。
「じゃあ次、これ。犬崎の解き方、俺にも見せてよ」
「いいよ。私はこっちのアプローチで解いたんだけど……」
背中を合わせるようにして始まった二人の勉強会は、図書室の閉館を告げるチャイムが夕焼けの窓辺に響き渡るまで、途切れることなくいつまでも続いた。
ーーーーーー
高校レベル記述模試の当日。
試験開始を告げるチャイムが鳴る直前、サキは張り詰めた空気の中で、斜め前方に座るショウヤの背中を見つめた。
まるでその視線に気づいたかのように、ショウヤがゆっくりと振り返る。
二人の目が真っ直ぐに交わった。
言葉を交わすことは許されない。
けれど、二人は互いに小さく、深く頷き合った。
それだけで十分だった。
お互いに死力を尽くす。
その無言の誓いだけで、サキの心臓は力強く脈打った。
ーーー
記述模試の成績表が返却されるのは早かった。
テストが終わってから、わずか数日。
サキの手元に、一枚の白い封筒が届いた。
サキはその封筒を、まるで壊れ物を扱うように両手でそっと胸に抱きしめる。
学校の裏手。
ショウヤもまた、自分の封筒を片手に、夕暮れの光の中で静かに立っていた。
二人はどちらからともなく示し合わせたように、あの全ての始まりの場所――神社の蔵の前へと向かった。
茜色から深い紫へと染まりゆく境内。
お参りに来る人の姿は途絶え、ただ、長い夏の終わりを告げるような少し冷たい風が、ざわざわと周囲の木々を揺らしていた。
「犬神」
「猫神」
「……約束の日だ」
二人が静かに声を合わせると、瞬時にあの不快な気配が脳裏を支配した。
『──来たか』
『百年の決着を見届けよう。さぁ……その結果を示せ』
頭の中に響き渡る二柱の声。
サキはゴクリと唾を呑み、胸に抱いていた封筒を破って中身を取り出した。
犬崎サキ、総合偏差値72。
文句のつけようがない、完璧な数字だった。この数日間、文字通り命を削るようにして勉強に打ち込んだ成果だ。
サキ本人としても、これ以上の結果は出せないという、正真正銘の「ベスト」だった。
『見事だ』
脳内で、犬神が勝利を確信したように満足げに低く笑った。
「……次は、猫沢くんの番よ」
サキがショウヤを振り返る。
ショウヤは表情を変えないまま、手元の日焼けした封筒からゆっくりと成績表を引き抜き、サキに見えるように掲げた。
それを見た瞬間、サキは目を見開いた。
「え……? なに、これ……」
そこにあったのは、あまりにも無惨な、一桁台の点数が並ぶ数字の羅列だった。
名前の書き忘れやマークミスといったレベルではない。記述式の解答欄を、明らかに最初から意図的に白紙で出したか、あるいはデタラメを書き殴ったとしか思えない、酷すぎる点数。
「なんで……」
「なんでよ!猫沢くん!!」
サキの胸の奥から、激しい怒りが沸き起こった。
あんなに死に物狂いで授業を受け、パンを片手に参考書を睨みつけ、図書室で一緒に遅くまで問題を解き合ったのに。
自分はショウヤを信じて、彼が全力で来るからこそ、呪いの恐怖を克服して本気で向き合ったのに。
「手を抜いたの!? なんで本気で戦ってくれなかったのよ!」
裏切られたような悲しさと、激しい憤りでサキの視界が涙で歪む。
『……きさま、何のつもりだ?』
犬神の声は怒りに満ちていた。
『……心底興が醒めたわ。この腑抜けめ』
猫神の声に冷酷な嘲笑が混じる。
百年に一度の神聖な勝負を、依代の身勝手で汚された。
神々の怒りは、サキの怒りと同調するようにして、一気に膨れ上がっていく。
「あ、あ、あああああッ!!」
サキの頭から、鋭い犬の耳が飛び出した。
お尻からはふさふさとした尾が生え、身体が獰猛な毛皮に覆われていく。
怒りに任せて、サキの身体は一瞬で「犬神の依代」の姿へと強制変身させられた。
だが、その身体を動かしているのは、もはやサキの意志ではなかった。
サキの激しい怒りに乗じて、犬神の強大な意思が彼女の肉体を完全に支配したのだ。
サキの身体は弾かれたように跳躍し、ショウヤの胸ぐらへと掴みかかった。
そのまま凄まじい怪力で、彼を白漆喰の蔵の壁へと叩きつける。
ドンッ! と激しい衝撃音が響き、サキの手がショウヤの首を容赦なく締め上げた。
「ガハッ……!」
「我らを愚弄した事、万死に値するッ!その身をもって償うがいい!」
ショウヤの顔が苦痛に歪む。壁に押し付けられ、足が地面から浮き上がっていた。
しかし――首を絞められ、息も絶え絶えになりながらも、ショウヤの瞳からは「恐怖」が完全に消えていた。
彼は、サキの身体の奥にいる犬神をじっと見据え、口の端を不敵に釣り上げた。
「……ハァ、……ルール違反だぜ?……神様……」
「何だと……!?」
「あんたら……自分で、言ったよな……? 『依代に直接手を下すのは禁じ手で、破ったら共に封印される』って……」
ショウヤは苦しい呼吸の中で、一文字ずつ刻みつけるように言った。
「今……お前は、犬神の意思で、俺を、猫神の依代を直接殺そうとした。……立派なルール違反、禁じ手だろ……!」
『な……っ!?』
犬神が、そしてショウヤの脳内にいた猫神が、同時に息を呑む気配がした。
そう、これこそがショウヤの狙いだった。
もし、この作戦を事前にサキと示し合わせていたら、神々にその思考を読まれるか、あるいはサキの演技の違和感を見抜かれて失敗していただろう。
サキのショウヤに対する信頼も、裏切られたと思った瞬間の激しい怒りも、溢れ出た涙も、その全てが「100%本物」だった。
だからこそ犬神は何も疑わず、サキの怒りに乗じてその身体を奪い、ショウヤを直接攻撃してしまったのだ。
ショウヤがあれほど猛勉強していたのは、サキを極限まで本気にさせ、自分の裏切りの破壊力を最大にするためのハッタリだった。
「最初から……こうする、つもりだったんだよ。」
『 取るに足らぬ器の分際で大それた真似をぉぉぉ!!』
『依代が我を……我ら神を謀ったというのか……!?』
「ああ!これが俺たちの『百年目の反抗』だ!」
『おのれ!おのれえええぇ!!!』
神々のプライドを引き裂くような、絶望と怒りの断末魔が夕暮れの夜空へと響き渡る。
ガタガタと蔵の周囲の空間が激しく歪み、サキの身体から黒い霧のような不気味なオーラが強引に吸い出され、虚空へと消えていく。
やがて――。
世界に、シンとした静寂が戻った。
頭の奥を支配していた、あの重苦しく不快な二柱の気配は、影も形も、完全に消え去っていた。
---
サキの手から力が抜け、ショウヤの身体がドサリと地面に降りる。
サキの頭と腰から、犬の耳と尻尾が、嘘のように綺麗に消えていく。
もう二度と、あの忌まわしい体質に変身することはないのだと、感覚で理解できた。
「終わった……の……?」
サキは自分の両手を見つめたまま、放心状態で呟いた。
神の呪縛から解放された。もう、怯える必要も、お互いに傷つけ合う必要もない。
サキがゆっくりと視線を上げると、地面に膝をつき、首をさすりながら咳き込んでいたショウヤが、ゆっくりと立ち上がるところだった。
ショウヤはいつもの気怠げな、けれど、これまでで一番優しくて、どこか誇らしげな微笑みを浮かべた。
「ああ、終わったよ。……俺を信じて、本気で怒ってくれて、ありがとうな。犬崎」
その言葉が、サキの耳に届いた瞬間。
サキの目から、堰を切ったように涙があふれ出した。
彼が自分を裏切っていなかったこと。
あの図書室での温もりも、これまでの時間も、全部嘘じゃなかったこと。
そして、誰よりも自分を信頼して、この命がけの賭けに勝ってくれたこと。
「バカ……! バカ……っ!!」
サキはビリビリになってしまった制服のことも忘れ、思い切りショウヤの胸へと飛び込んだ。
「ちょ、犬崎! 服、服! 今お前、裸だからっ!」
「猫沢くんしかいないからいいっ!」
「お願いだから……今は、こうさせて」
「……」
うるさいくらいに、サキの鼓動が伝わってくる。
お互いの感情は、とうに堰を切っていた。
これまでの二人なら、とっくに身体が変化しているはずだった。
だが、もうそれも無い。
二人はただの、人間の身体のままで、お互いの体温と肌を慈しむように感じ合っていた。
ーーーーーー
青い。
どこまでも高く澄み渡った、見事な秋晴れの日。
五年に一度の伝統行事であり、サキとショウヤが文字通り命がけで守り抜いた『双神大祭』が、ついに執り行われた。
境内は、朝から隙間もないほどの大勢の参拝客で溢れかえっていた。
立ち並ぶ屋台からは、お好み焼きや焼きとうもろこしの香ばしい匂いが立ち上り、お囃子の音に乗って風に運ばれていく。
子どもたちが色とりどりの風船を手に走り回り、大人たちは久しぶりの再会を喜び合って声を弾ませていた。
「ワッショイ! ワッショイ!」
威勢のいい掛け声と共に、金色の神輿が境内を練り歩く。
「すみません、本殿の裏手の案内板、もう一枚持ってきます!」
実行委員の腕章を巻いた制服姿のサキは、慌ただしく境内を駆け回っていた。
忙しくて目が回りそうだったが、その表情は充実感に満ちている。
ふと足を止め、案内係のエリアに視線をやると、そこには来客を丁寧に誘導するショウヤの姿があった。
サキは思わず、その姿をまじまじと見つめてしまう。
今日のショウヤは、背筋を真っ直ぐに伸ばし、きちんと自分の身体のサイズに合った制服を着こなしていた。
以前のようにシャツの裾をだらしなく出すこともなければ、緩められたベルトもない。
何より、行き交う人々に向ける彼の表情は、驚くほど柔らかかった。
まるで、長年まとわりついていた憑き物が、綺麗に落ちたかのようだった。
――実際、その通りなのだが。
かつてこの場所に祀られ、二人の運命を弄んでいたはずの『二柱の神』は、もうどこにもいない。
あの蔵の中には、ただの古い和綴じの書物が眠っているだけだ。
それでも、祭りはこうして何事もなかったかのように続いている。
(神様がいるかどうかじゃないんだな……)
サキは、賑わう人々の笑顔を見渡しながら、そっと胸の内で思った。
人は願う。誰かの幸せを祈る。大切な人と笑い合う。
祭りというものは、きっとそのためにあるのだ。
ただそれだけの温かい理由があるからこそ、神という絶対的な存在が消え去ったとしても、この景色はきっと、これからもずっと続いていく。
---
数日後。サキとショウヤの姿は、街の一角にある『ドッグカフェ』にあった。
「わあぁ……っ!」
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、サキの視界は歓喜の嵐に包まれた。
ゴールデンレトリバーが、サキを見つけるなり千切れそうなほど激しく尻尾を振りながら駆け寄ってきたのだ。
サキがその場にしゃがみ込むと、犬は待ってましたとばかりに、彼女の顔中を熱烈に舐め回し始めた。
「あははっ! 冷たい、くすぐったいってばぁ!」
さらに、奥から柴犬が、コーギーが、トイプードルが次々と加勢してくる。
気付けばサキの周りは、もふもふとした犬たちで埋め尽くされていた。
以前のサキなら、こんな状況は真っ先に避けていただろう。
嬉しさのあまり感情が昂り、その場で犬の獣人へと変身してしまうことを恐れていたからだ。
だが、今は違う。
どれだけ興奮しても、どれだけ幸せを感じても、何も心配する必要はなかった。彼女は今、ただの「犬が大好きな人間の女の子」として、思う存分犬たちを抱き締め、その温もりに顔をうずめていた。
「あっ…」
犬まみれのまま顔を上げたサキの視線の先で、ショウヤが一匹の柴犬と対峙していた。
柴犬は低い姿勢を取り、ショウヤをじっと睨みつけながら「るるる……」と喉を鳴らして唸っている。さらにその奥からは、コーギーまでが加勢し、ショウヤに向かって鋭く吠え立てていた。
「……やっぱ、そうだよな」
ショウヤは力なく苦笑いした。
その声には、どこか寂しそうな色が混じっている。
あの日、神は言った。獣たちが集まっていたのはショウヤ自身にではなく、宿っていた猫神の気配に惹かれていただけの、ただの出来損ないの習性だったと。
神が消えた今、ショウヤを盲目的に全肯定してくれる猫たちのまやかしは消え、それどころか『犬神の依代』だったサキの傍にいるせいで、犬たちからは警戒されてしまう。
ショウヤが諦めたように息を吐いた、その時だった。
一匹の小さなポメラニアンが、チョコチョコと短い足を動かしてショウヤの足元へ近づいてきたのだ。
ショウヤは「また吠えられるか」と身構え、そっと身をすくめる。
だが、ポメラニアンは吠え立てる代わりに、ショウヤの差し出していた手の匂いをくんくんと嗅ぎ――それから、ペロリと優しく一舐めした。
「お……おお……!」
ショウヤの琥珀色の瞳が、驚きに丸くなる。
神の気配に操られた狂信的な懐き方ではない。それは、目の前にいる「ショウヤという一人の人間」を認め、好意を伝えてくれた、本物の温もりだった。
ショウヤは壊れ物を扱うようにそっとポメラニアンを撫で、心底嬉しそうに、少年らしい無邪気な笑顔をこぼした。
「良かったね!やったじゃん!」
その姿を見て、サキは今日一番の、心からの笑顔を咲かせていた。
---
その日の夕暮れ。
ドッグカフェを後にした二人は、赤く染まる街路樹の並木道を、並んで歩いていた。
どこにでもある、何気ない、いつもの通学路。
ふと視線をやると、駅の方へと小走りで忙しそうに通り過ぎていくスーツ姿の男性や、小さな男の子と笑顔で手を繋ぐ母親、そして笑い声を響かせながらクレープを食べる女子中学生たちの姿が目に入る。
誰もが、ごく普通の、ありふれた人間の日常を生きていた。
その光景を見つめながら、サキの胸の奥に、澱(おり)のように溜まっていた小さな引っかかりが頭をもたげる。
神の呪縛は消えた。もうあの化け物の姿に変身することもない。
けれど、あの書物に記されていた、自分たちの血筋の真実――「依代(よりしろ)」として造られたという事実は、消え去ってはくれない。
「……私達、人間じゃなかったんだね」
並木道に溶けてしまいそうなほど小さな声で、サキは呟くようにショウヤに話しかけた。
ショウヤはポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと歩調を合わせている。夕暮れの光に色素の薄い髪を透かせながら、彼は短く応じた。
「……かもな」
そっけない、けれど否定もしないその言葉に、サキは視線を落として俯いた。
自分たちは、あのごく普通の人間たちとは違う異質な存在なのだろうか。そんな底寒い孤独感が押し寄せそうになった、その時だった。
「けど、お前これから”私、人間じゃないけど学校に通っていいですか?”って、誰かに聞きに行くか?」
「え……?」
予想外の問いかけに、サキは弾かれたように顔を上げた。
ショウヤは歩みを止めないまま、前を向いて言葉を続ける。
「”私、人間じゃないけどお友達になってくれますか?”って、明日からクラスメイトに確認して回るか?」
「う、ううん。聞かない、けど……」
戸惑うサキの隣で、ショウヤがようやく足を止めた。彼は身体を少しだけサキの方へと向けると、琥珀色の瞳で彼女を真っ直ぐに見据えた。
「じゃあ、さっき犬に囲まれて、心から嬉しいって思ったのは誰の気持ちだ?」
「……私」
「俺と一緒にいて、嬉しいって思ってるのは?」
「……っ、私、って……ちょっと何よそれ!?」
急に核心を突くような、からかうような質問を重ねられ、サキは一瞬にして顔を真っ赤に染めた。胸の奥がキュンと跳ね上がると同時に、先ほどまでのシリアスな空気はどこかへ吹き飛んでしまう。
そんなサキの反応を見て、ショウヤはいつもの気怠げなオーラを払拭するような、心底楽しそうな笑顔を浮かべた。
「あはははっ、ならいいじゃん! これからもサキのままで十分だよ!」
悪戯っぽく笑う彼の言葉に、サキは言葉を失う。
誰に許可をもらう必要もない。血筋がどうであれ、今ここで感じている喜びも、愛おしさも、すべて自分自身の本物の感情なのだ。ショウヤはただそれだけで十分だと、彼女の存在を丸ごと肯定してくれたのだ。
「……もう、相変わらず調子いいんだから」
サキはわざとらしくぶっと頬を膨らませてみせる。
だけど、胸の奥を占めていた不安や寂しさは、彼の言葉ひとつで綺麗に消え去っていた。サキは隣を歩く彼の、すっきりと前を向いた横顔を愛おしげに見つめた
「なぁ……」
少しだけ照れくさそうに頭を掻きながら、ショウヤがぽつりと口を開いた。
「模試さ。……ちゃんと勝負できなくて、ごめん」
彼の口から出た実直な謝罪に、サキは一瞬きょとんとした後、ふふっと吹き出した。
「今さら? もう何日経ってると思ってるのよ」
「いや、一応な。お前、あの時マジで怒ってたから」
「当然でしょ! 正直、すごく腹が立ったんだから。裏切られたと思って、本気で泣いたんだからね」
サキはわざとらしくぷっと頬を膨らませてみせる。
だが、すぐにその表情を和らげ、隣を歩く彼の、すっきりと前を向いた横顔を見つめた。
「でも……ああやって騙してくれたおかげで、私たち、今こうして普通に歩けてるんだよね」
「……まぁな」
「ありがとう」
二人の間に、夕暮れの風のような、どこまでも穏やかで柔らかな時間が流れていく。
サキは弾む足取りを少しだけ緩め、一歩一歩を噛みしめるようにして続けた。
「だからさ。次はちゃんと、勝負しよっ?」
「次?」
「うん。次の定期テストでも、模試でもいい。今度は普通の高校生として。……一緒に勉強して、次は絶対に私が勝つから!」
サキはショウヤの前に一歩回り込むと、いたずらっぽく、そして挑戦的な笑みを浮かべて人差し指を突きつけた。
かつての、負けず嫌いで自信に満ちあふれた、大好きな彼女の顔だ。
ショウヤはそんなサキを見て、降参と言わんばかりに両手を軽く上げると、本当に嬉しそうに目を細めた。
「そりゃ怖いな。サキ……お手柔らかにお願いします」
「よし、言ったね!ショウヤくん!」
サキが満足そうに隣に戻り、再び二人の歩幅がぴったりと揃う。
歩くたびに、二人の肩が、ほんの少しだけ触れ合った。
どちらからともなく、白球を追うように、あるいは追いかけっこをするように、自然と伸ばされた指先。
それが、夕闇の境界線でそっと触れ合った。
どちらかが驚くことも、引くこともなかった。
ショウヤの大きな手が、サキの小さな手を包み込むようにして、ゆっくりと指を絡めていく。
ぎゅっと結ばれたその手からは、あの蔵の前で感じたものと同じ、けれど何倍も温かくて愛おしい、本物の体温が伝わってきた。
二人はもう、何も言わなかった。
ただ、繋いだ手の温もりを確かめ合うように、少しだけ照れくさそうに笑い合いながら、真っ直ぐに歩んでいった。
完