遥か永遠に
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
目を合わせた瞬間、その人の寿命が見える。知りたくなかった未来を抱えたまま、それでも誰かを好きになれるのか。
本文
どこにでもある住宅街だった。
夜も更け、窓という窓が暗く沈み始めた頃。
二階建てのありふれた一軒家の、その二階の一室だけに明かりが灯っている。
レースカーテン越しに漏れる橙色の光は、外から見れば受験勉強でもしているように見えるだろう。
だが部屋の主は参考書ではなく、一枚の原稿用紙に向かっていた。
大学生のハルカは机に肘をつきながら、万年筆を走らせる。
学習机は小学生の頃から使っているものだった。
引き出しの角は擦り減り、天板にはコンパスで付けた傷が残っている。
今どき珍しいほど古臭い机だった。
ベッドの上にはスマートフォン。
棚の上にはノートパソコン。
どちらも問題なく使える。
レポートも普段はパソコンで書く。
それでも小説だけは手書きだった。
インクが紙に染み込む感覚。
文字を書くたびに腕へ伝わる抵抗。
ページが少しずつ埋まっていく感触。
自分の人生を切り取るのなら、それくらい不便な方がいいと思っていた。
原稿用紙にはこう記されている。
『主人公は、人の寿命が見える』
ハルカはそこで一度筆を止めた。
苦笑する。
小説というより、自伝だった。
主人公の名前こそ違うが、書かれている出来事はほとんど自分の経験そのものだった。
高校生の頃。
突然、世界がおかしくなった。
ある日を境に、人の頭上へ数字が見えるようになったのだ。
最初は幻覚だと思った。
教師にも。
友達にも。
コンビニの店員にも。
通学途中の老人にも。
全員の頭の上に数字が浮かんでいる。
「83」
「67」
「91」
意味は分からない。
だが目を合わせた瞬間に勝手に表示される。
消そうとしても消えない。
病院にも行った。
睡眠不足を疑った。
眼科も受診した。
異常なし。
当然だった。
異常なのは目ではなく、世界の方だったのだから。
そしてある日。
クラスメイトの一人が交通事故で亡くなった。
享年16。
その瞬間、ハルカは凍りついた。
彼の頭上に浮かんでいた数字も――16だったからだ。
偶然だと思いたかった。
だが偶然は続く。
テレビで見た有名俳優。
頭上には「58」。
数ヶ月後、その俳優は心臓発作で急逝した。
享年58。
背筋を冷たいものが這い上がった。
理解してしまったのだ。
あの数字は寿命だと。
その人が死ぬ年齢だと。
それから世界は地獄になった。
教室へ行けば見えてしまう。
教師。
クラスメイト。
先輩。
後輩。
誰も知らない未来を、自分だけが知っている。
90代まで生きる者もいた。
100歳を超える者もいた。
だが中には35という数字もある。
40。
32。
28。
若くして終わる人生が、何気ない笑顔の向こうに隠れている。
それを知るたび、胸の奥が鈍く痛んだ。
ある日。
街で母親に手を引かれた幼児を見た。
幼児はぴょんぴょん跳ねていた。
母親はそれを微笑んで眺めていた。
幼児と目が合った。
頭上には「4」。
頭を殴られた感覚を受けた。
その子は4歳で死ぬ。
そう理解した瞬間、ハルカは人気のない路地裏へ駆け込み、吐いた。
息ができなかった。
世界が残酷すぎた。
なぜ自分だけがこんなものを見なければならないのか。
答えはどこにもない。
幸いだったこともある。
父も母も平均寿命を超えていた。
それを見た時は安堵した。
だが同時に悲しくなった。
数字が高いから安心できるわけではない。
いつか死ぬことが確定していると知ってしまうからだ。
母が料理を作る後ろ姿。
父が休日にテレビを見て笑う姿。
その何気ない光景の一つひとつに終わりの日付が刻まれている気がした。
知らなければよかった。
何度もそう思った。
自分の寿命だけは見えなかった。
鏡を見ても。
写真を見ても。
録画した映像を見ても。
何も表示されない。
まるで能力そのものが拒絶しているかのように。
だから余計に分からない。
自分はいつまで生きるのか。
長いのか。
短いのか。
それすら知らされない。
高校を卒業する頃には、人と目を合わせることが苦手になっていた。
寿命を知りたくない。
親しくなりたくない。
好きになりたくない。
誰かの未来を知ってしまうのが怖かった。
特に短い寿命を見るのが。
思い出す“4 ”という数字
どれだけ仲良くなっても。
どれだけ大切に思っても。
その人はいなくなる。
そして自分には何もできない。
それが分かってしまう。
無力感だけが残る。
幼い頃に飼っていたハムスターを思い出すことがあった。
毎日世話をした。
たくさん名前を呼んだ。
掌に乗せて可愛がった。
家族のように愛した。
それでも数年で死んだ。
小さな箱に入れられたその亡骸を見て、子供だった自分は泣き続けた。
最初から寿命が短いと分かっていたのに。
それでも失うのは苦しかった。
人も同じだ。
親しくなればなるほど。
別れは痛くなる。
だから距離を取る。
だから深入りしない。
悲しみたくないから。
これ以上心を摩耗させたくないから。
そして何より――。
こんな理由で他人を避ける、自分自身のことを嫌いになりたくなかったからだ。
ハルカはそこまで書くと、静かにペンを置いた。
ーーーー
大学二年の春。
ハルカは町外れにある小さな書店でアルバイトをしていた。
店主が趣味で集めたような本が並び、新刊の隣に何十年も前の本が平然と置かれている。
客も多くはない。
静かな店だった。
だからハルカには都合が良かった。
必要以上に人と関わらずに済む。
それに本に囲まれている空間が好きだった。
ハルカにとって本は、人に直接会う事は無くても、思考や意思を感じられる媒体だった。
そこで同じ大学に通う女子学生と出会った。
トワという名前だった。
初対面からよく喋る人だった。
明るくて、人懐っこい。
沈黙を恐れないどころか、沈黙があると自分から埋めに行く。
そんな性格だった。
対するハルカは相変わらずだった。
目を合わせない。
必要以上に話さない。
愛想が悪いわけではない。
ただ壁がある。
それも本人が意識して積み上げた壁だった。
最初の頃、トワは少し戸惑っていた。
自分が嫌われているのだろうかと思ったこともある。
話しかけても視線は逸らされる。
表情の変化も少ない。
だがしばらくすると違うことに気付いた。
ハルカはちゃんと話を聞いている。
何日も前にした雑談を覚えている。
返事をするべきところでは返事をする。
困っていれば手伝う。
体調が悪そうなら気付く。
人に興味がないのではない。
むしろよく見ている。
ただ距離の取り方が不器用なだけだった。
接客も同じだった。
客の顔をほとんど見ない。
だが商品の扱いは丁寧だった。
言葉遣いも柔らかい。
レジの打ち間違いも少ない。
クレームもない。
店主からの評価も悪くなかった。
不思議な人。
それがトワの抱いた印象だった。
まるで望遠鏡を逆から覗き込んだような、近くにいるのに遠い人。
だからこそ気になった。
トワはその影の正体を知りたかった。
知ろうとしていたわけではない。
ただ自然と話しかけ続けていた。
ハルカが返事をしなくても。
短くしか返さなくても。
気にせず隣で喋っていた。
ある日の午後。
二人は新しく入荷した本を棚へ並べていた。
カウンターから少し離れた児童書コーナー。
静かな店内に紙の擦れる音だけが響く。
その時だった。
「あ、これ懐かしい~!」
トワの声が少しだけ高くなった。
ハルカは振り返る。
彼女が手にしていたのは古い絵本だった。
表紙には動物たちと少年の絵が描かれている。
「知ってるの?」
「うん。小さい頃すごく好きだった」
そう言ってトワはページをめくった。
懐かしい友人に再会したような笑顔だった。
「どんな話?」
ハルカは珍しく自分から尋ねた。
トワは嬉しそうに説明する。
「男の子がね、生き物の寿命について考える話」
その言葉に、ハルカの手が止まった。
トワは気付かず続ける。
「動物園でいろんな動物を見るんだけど、人間より短い寿命の動物が多いことを知るの」
彼女は棚へ本を並べながら話す。
「それで可哀想だなって思うんだけど、今度は家で飼ってる犬とか猫のことを考えるのね」
ハルカは黙って聞いていた。
「それから、おじいちゃんとおばあちゃんのことも。長生きしてるけど、そのぶん残りの時間は少ないんだなって」
動物園の動物。
ペット。
祖父母。
遠い存在から近い存在へ。
少しずつ死が自分の生活へ近付いてくる。
そんな話らしかった。
「最後は?」
「お父さんとお母さんが抱きしめてくれるの」
トワは少し照れたように笑った。
「生き物はみんな決められた時間を一生懸命生きてるから悲しくないよ、って」
ハルカは何も言わなかった。
もっと詳しく聞きたかった。
どんな言葉で。
どんな結末で。
その男の子は何を思ったのか。
だが心の奥で何かが彼を引き留めた。
これ以上踏み込むな。
親しくなるな。
知ろうとするな。
いつもの声だった。
「そう」
結局それだけ答えて作業へ戻った。
トワは少し物足りなそうだったが、それ以上は聞かなかった。
数日後。
ハルカは大学帰りにその絵本を買った。
誰にも言わず。
トワにも言わず。
自室でひとりページをめくった。
物語は彼女の話した通りだった。
動物園の象。
ライオン。
ペンギン。
彼らが自分より短く生きることを知る少年。
家に帰り、犬や猫を見る。
やがて祖父母の老いに気付く。
死というものを少しずつ理解していく。
優しい物語だった。
読後感も温かい。
子供に命の大切さを教えるには良い本だろう。
だが。
読み終えたハルカの胸に残ったのは温かさではなかった。
空虚さだった。
決められた寿命。
その言葉が引っ掛かる。
もし本当に寿命いっぱいまで生きられるのなら。
確かに悲しくないのかもしれない。
それが自然な終わりなら。
与えられた時間を使い切った結果なら。
けれど。
ハルカの脳裏にはいくつもの顔が浮かんだ。
30。
高校時代に見たクラスメイト。
4。
街角で見た幼児。
彼らは寿命だったのだろうか。
本来もっと長く生きられたはずではないのか。
事故も。
病気も。
災害も。
理不尽な暴力も。
そのすべてによって人生を断ち切られる。
それを寿命という一言で片付けていいのだろうか。
ハルカは考える。
自分はずっとあの数字を寿命だと思ってきた。
そう呼ぶしかなかった。
だが本当にそうなのか。
もっと別の名前があるのではないか。
運命。
終着点。
死期。
あるいは――。
何と呼ぼうと。
結局答えは変わらない。
数字が示しているのは、その人の命が尽きる年齢だ。
理由は関係ない。
老衰でも。
事故でも。
病でも。
その年齢で、その人は死ぬ。
それだけは覆らない。
ハルカは閉じた絵本の表紙を見つめた。
優しい結論だった。
きっと多くの人は救われる。
けれど自分は救われなかった。
なぜなら彼は知っているからだ。
人の命が尽きる数字を。
そして何より――。
その数字を知っても、何一つ変えられなかった自分自身を。
ーーーーーーー
その日も、きっかけはトワだった。
「ねえハルカくん、今度の休み暇?」
バイト終わり。
レジ締めをしながら聞かれたその言葉に、ハルカは嫌な予感を覚えた。
「たぶん」
「じゃあ付き合って」
「何に」
「買い物」
断ろうと思えば断れた。
だがトワはすでに決定事項のような顔をしている。
「一人だとつまらないし」
「友達は?」
「みんな予定ある」
「俺じゃなくても」
「ハルカくんがいい」
さらりと言われ、ハルカは一瞬言葉に詰まった。
しかしトワは深い意味などなさそうだった。
本当に話し相手が欲しいだけなのだろう。
結局押し切られる形で了承した。
休日。
二人は駅前で待ち合わせた。
人混みの中でもトワはすぐ見つかった。
相変わらず明るい。
会った瞬間から喋っている。
「見て見て、このバッグどう?」
「普通」
「普通って何!」
「バッグだなって」
「感想になってない!」
そんなやり取りをしながら店を回る。
雑貨屋。
服屋。
アクセサリーショップ。
トワは目につくものすべてに反応した。
「これかわいい!」
「そうだな」
「この服どう思う?」
「似合うんじゃないか」
「もっとこう、あるでしょ?」
「……似合う」
「語彙力!」
楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
ハルカは歩きながら考えていた。
もしかすると。
ほんの少しだけ。
自分に好意があるのだろうか、と。
だが半日も一緒にいれば違うと分かる。
トワは誰かと共有したい人間なのだ。
綺麗な景色も。
面白い話も。
好きな服も。
美味しい食べ物も。
一人で抱えるより、誰かと分け合いたい。
そういう性格だった。
安心した。
そして少しだけ残念だと思った自分に気付き、ハルカは眉をひそめた。
夕方。
買い物袋を抱えたトワが疲れたと言い出し、二人は駅前のカフェへ入った。
窓際の席。
コーヒーとケーキ。
人々が行き交う街並み。
穏やかな時間だった。
「そういえばさ」
ストローをくるくる回しながらトワが言う。
「私、保育士になりたいんだよね」
ハルカは顔を上げた。
「保育士」
「うん」
彼女は頷く。
「子供好きだし」
少し照れたように笑った。
「なんかね、小さい子見てると元気になるんだよ」
未来の話をするトワは楽しそうだった。
「卒業したら保育園で働いて、そのうち担任持ってさ」
こんなことしたい。
あんなことしたい。
夢が次々と口からこぼれる。
ハルカには眩しかった。
この力がなければトワみたいに夢を語れたのだろうか。
その時だった。
トワの目と合った。
無意識だった。
本当に。
ただの不注意だった。
明るい瞳。
笑う目元。
その上に浮かぶ数字。
――22。
時間が止まった。
「あ」
トワがぱっと表情を明るくした。
「ひょっとして初めて目が合った!」
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
けれどハルカには何も聞こえなかった。
22。
22。
22。
頭の中で数字だけが反響する。
今は何歳だ。
「トワ」
「ん?」
「今いくつ」
「え?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
「二十一だけど」
世界が傾いた。
視界がぐらりと揺れる。
床と天井の位置が分からなくなる。
耳鳴り。
心臓の鼓動。
吐き気。
冷や汗。
血の気が引く感覚。
残り一年。
その言葉だけが頭の中に浮かんだ。
「ハルカ?」
トワの声が遠い。
「大丈夫?」
答えられない。
喉が動かない。
椅子を引く音だけがやけに大きく響いた。
ハルカは立ち上がる。
「え?」
「……」
「ハルカ?」
そのまま足元もおぼつかないまま店の奥へ向かった。
トイレ。
個室。
鍵を閉める。
そして便座へ腰を落とした。
両手で顔を覆う。
指先が震えていた。
後悔。
ただそれだけだった。
だから目を合わせなかったのに。
だから人を避けていたのに。
だから親しくなりたくなかったのに。
こうなることが怖かった。
知ってしまうことが怖かった。
なのに。
知ってしまった。
トワは死ぬ。
来年。
たった一年後。
保育士になりたいと言ったばかりなのに。
子供たちと遊びたいと言ったばかりなのに。
未来の話をしていたばかりなのに。
胃の奥がきりきりと痛んだ。
吐くほどではない。
けれどずっとまとわりつく鈍い吐き気。
冷たい手。
浅い呼吸。
どうしようもない無力感。
しばらくして。
何とか平静を装い席へ戻った。
トワは心配そうな顔をしていた。
「大丈夫?」
「……ちょっと、腹が痛かった」
「本当に?」
「うん」
嘘ではなかった。
今も胃は痛い。
それが精神的なものだとしても。
「無理しないでよ」
トワはそれ以上追及しなかった。
だが明らかに気にしていた。
本当なら。
この後も買い物を続ける予定だった。
雑貨屋をもう一軒。
夕飯も食べるつもりだった。
けれどトワは予定を切り上げた。
「今日は帰ろっか」
その一言にハルカは救われる。
同時に胸が痛んだ。
優しい人だった。
駅へ向かう帰り道。
会話は少なかった。
ほとんどトワが気を遣っていた。
改札前。
別れの時間。
「ちゃんと休みなよ?」
トワが言う。
「うん」
「病院は?」
「たぶん大丈夫」
「全然大丈夫そうに見えないけど」
苦笑する彼女。
その表情が妙に愛おしかった。
そして。
ハルカはもう一度だけ顔を上げた。
目が合う。
今度は意識して。
逃げずに。
トワの瞳は心配そうだった。
少しだけ寂しそうでもあった。
せっかくの休日だったのに。
もっと一緒にいたかったのに。
そんな感情が透けて見える気がした。
そしてその上には。
変わらず数字が浮かんでいる。
22。
ーーーーーーー
それからしばらくの間。
ハルカはトワを避けた。
露骨ではない。
だが確実だった。
シフトが重なっても最低限しか話さない。
休憩時間をずらす。
LINEの返信も遅くする。
大学内で見かけても声を掛けない。
トワに会ったらよそよそしい態度をとってしまいそうだった。
これは彼女の為だと自分に言い聞かせた。
残り一年。
その事実が頭から離れない。
だから距離を取った。
いつものように。
今までそうしてきたように。
だが。
トワはそんな曖昧な距離感を受け入れる人間ではなかった。
*
ある日の閉店後だった。
店のシャッターを下ろし、帰ろうとしたハルカの背後から声が飛ぶ。
「待って」
振り返る。
トワだった。
表情が硬い。
いつもの笑顔がない。
「話あるんだけど」
ハルカは嫌な予感がした。
逃げたかった。
けれど逃げられなかった。
書店の裏口。
街灯の明かりだけが二人を照らしている。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのはトワだった。
「私、何かした?」
胸が痛んだ。
「してない」
「じゃあ何で避けるの」
真っ直ぐな言葉だった。
逃げ道がない。
「別に避けてない」
「避けてる」
即答だった。
「私だって分かるよ」
少し震えた声。
「最近ずっとじゃん」
ハルカは何も言えない。
「何か嫌なこと言った?」
「違う」
「怒らせた?」
「違う」
「じゃあ何?」
答えられない。
答えられるはずがない。
あなたが来年死ぬから。
そんなこと。
言えるわけがない。
沈黙。
長い沈黙。
やがてトワの声が小さくなった。
「私、結構ショックだったんだよ」
ハルカは顔を上げる。
トワの目に涙が滲んでいた。
「仲良くなれたと思ってたから」
その一言が胸に刺さった。
「なのに急に距離置かれて」
ぽろりと涙がこぼれる。
「理由も分かんなくて」
彼女は慌てて目元を拭った。
「ごめん。こんなの困るよね」
違う。
困っているのは自分だ。
傷付けているのも自分だ。
ハルカはようやく理解した。
自分は傷付くことを恐れるあまり、目の前の人を傷付けている。
彼女のためだと思っていた。
違う。
全部自分のためだった。
悲しみたくない。
失いたくない。
傷付きたくない。
そのために距離を取った。
ただそれだけだ。
「……ごめん」
気付けば口から言葉が漏れていた。
「本当に、ごめん」
トワが目を見開く。
「理由は言えない」
言えない。
けれど。
「でも悪いのは俺だ」
それだけははっきりしていた。
「ごめん」
何度も繰り返した。
トワはしばらく黙っていた。
そして鼻をすすりながら言った。
「意味分かんない」
「うん」
「ほんと意味分かんない」
「うん」
「でも」
少しだけ笑う。
「謝ってくれたから許す」
その笑顔を見た瞬間。
ハルカは思った。
もう無理だ、と。
この人から離れることはできない。
できるはずがない。
初めて会った時から感じていた不思議な引力。
太陽のような人。
周囲を巻き込みながら進む人。
一度その軌道に入ってしまえば、もう離れられない。
そして自分はもう十分に引き寄せられてしまっていた。
*
それからハルカは変わった。
いや。
変わろうとした。
「おはよう」
自分から声を掛ける。
「ん?」
トワが驚く。
「今日の講義どうだった」
「珍しい!」
そんな反応をされるくらいには変わった。
以前なら聞き流していた話も聞くようになった。
相槌も増えた。
質問も増えた。
「それで?」
「その後どうなった?」
「楽しそうだな」
トワは最初戸惑っていた。
だがすぐに元通りになった。
いや。
以前より楽しそうだった。
話すのが好きな人間にとって、話を聞いてくれる相手は貴重なのだ。
そしてハルカは気付いていた。
自分が変わった理由を。
最初は同情だった。
残り一年しかない。
だからせめて。
そう思った。
次は使命感だった。
彼女がどんな人生を望んでいるのか知りたい。
どんな未来を夢見ているのか覚えておきたい。
そう思った。
*
「保育士になったら何したい?」
「またその話?」
「いいから」
「うーん……」
トワは指を折る。
「まず運動会かな」
「他は」
「発表会」
「他は」
「卒園式」
「他は」
「聞きすぎ!」
呆れられた。
それでも聞いた。
保育園で働くならどんなクラスがいいのか。
子供たちに何を教えたいのか。
どんな家に住みたいのか。
結婚願望はあるのか。
犬派か猫派か。
老後はどう過ごしたいのか。
未来の話を。
届かない未来の話を。
何度も。
何度も。
何度も聞いた。
そしてその話を忘れないようにした。
*
夜。
ハルカは机に向かう。
万年筆を手に取る。
原稿用紙を広げる。
小説の中に新しい登場人物が現れ始めた。
よく喋る女性。
人懐っこい女性。
周囲を明るくする女性。
名前も容姿も違う。
けれどその本質はトワだった。
彼女の言葉。
笑い方。
夢。
好きなもの。
未来の話。
全部書き留めた。
まるで記録するように。
まるで失う前に残そうとするように。
ページが増えるたびに、彼女も増えていく。
紙の上で生き続ける。
そう願うように。
*
ある夜。
ハルカはふと考えた。
もし。
最初から寿命が分かっていたら。
人は好きになる相手を選ぶのだろうか。
長生きする人を。
別れの遠い人を。
選ぶのだろうか。
少なくとも。
自分は違った。
違ってしまった。
知ったあとで好きになったのだから。
残り一年しかないと知ったあとで。
どうしようもなく惹かれてしまったのだから。
そして不思議なことに。
好きになった瞬間から。
これまで意味がないと切り捨てていたものが、少しずつ意味を持ち始めていた。
どうせ死ぬ。
だから何だ。
どうせ終わる。
だから何だ。
その間に笑うことは無意味なのか。
夢を語ることは無意味なのか。
誰かを好きになることは無意味なのか。
違う。
そう思う事が出来た。
ーーーーーー
昼下がりの書店は静かだった。
平日の午後。
客足も落ち着き、店内には空調の音とページをめくる音だけが流れている。
ハルカはレジカウンターの内側で返本作業をしていた。
すると。
「ハルカくん、小説書いてるんだって?」
不意に頭上から声が降ってきた。
顔を上げる。
案の定、トワだった。
興味津々といった様子で身を乗り出している。
ハルカの手が止まった。
「……誰から聞いたの」
「店長」
即答だった。
「面接の時に言ってたって」
言われて思い出す。
確かにそんな話をした。
趣味や特技を聞かれた際、昔から文章を書くのが好きだと答えた記憶がある。
「ああ……」
ハルカは小さく息を吐く。
「昔から文章を書くのが好きなんだ」
「へぇ~」
トワの声が少し弾む。
「どんな内容なの?」
予想していた質問だった。
だからこそ返答に困る。
もともとは自伝だった。
自分自身のことを書くためのものだった。
人の寿命が見える少年。
誰にも言えない秘密。
他人を避ける理由。
孤独。
恐怖。
それらを整理するために書いていた。
だが今は違う。
今の原稿には、あの女性がいる。
よく喋り。
よく笑い。
未来の話をする女性。
名前は違う。
容姿も違う。
それでも本質は隠しようがなかった。
あまりにもトワだった。
「んーと……」
ハルカは慎重に言葉を選ぶ。
「恋愛もの」
「おお」
「現実寄りの話」
「おおー!」
「少しだけ非現実的な要素はあるけど」
それ以上は言わない。
いや、言えない。
主人公は寿命が見える。
好きになった女性の余命を知る。
そんな説明をした瞬間に終わる。
「いいじゃん!」
トワは目を輝かせた。
「私そういうの好きかも」
その反応は予想外だった。
「そう?」
「うん」
彼女は頷く。
「完成したら読ませてほしいな」
あまりにも自然な言葉だった。
だが。
ハルカの胸は痛んだ。
これまで何度も経験してきた。
人はよく言う。
今度。
また今度。
いつか。
そのうち。
未来を前提にした言葉。
けれど自分だけは知っている。
その"いつか"が来ない人もいることを。
トワにも。
来ない。
来年は。
ない。
だから。
ここで曖昧に笑うことができなかった。
『いつか完成したらね』
そう言うのは簡単だった。
実際、その方が自然だった。
だが。
それは裏切りだと思った。
彼女の知らない未来を知っている自分が。
その事実を利用して時間を先送りするのは。
ひどく卑怯なことに思えた。
トワは何も知らない。
ただ純粋に興味を持ってくれているだけだ。
ならば。
応えたいと思った。
彼女の望みなら。
できる限り。
「近いうちに完成させるよ」
気付けばそう言っていた。
トワがぱちりと目を瞬かせる。
「ほんと?」
「うん」
ハルカは頷く。
「読んでほしいから」
一瞬。
トワが少しだけ照れたように笑った。
「楽しみにしてる」
その言葉を聞きながら。
ハルカは心の奥で静かに決意する。
完成させよう、と。
まだ書き終えていない。
終わりも決まっていない。
けれど書こうと思った。
彼女が未来を語ってくれたように。
自分も書き残そうと思った。
いつかのためではなく。
今、ここにいる彼女のために。
原稿用紙の上でだけでも。
彼女の未来を、最後まで生かしてやりたかった。
ーーーーーー
閉店後の書店は静かだった。
最後の客を見送り、シャッターを下ろした店内には、まだ紙の匂いが残っている。
休憩室にはハルカとトワの二人だけだった。
壁掛け時計の秒針が小さく音を立てている。
ハルカは椅子に腰掛けたまま、しばらく膝の上のカバンを見つめていた。
そして意を決したようにファスナーを開ける。
中から取り出したのは、クリアファイルに綴じられた厚みのある原稿だった。
「ほら」
ハルカはそれを差し出す。
「前に約束した小説……」
「あ!」
トワの顔がぱっと明るくなった。
「本当に読ませてくれるんだ〜!」
声が弾んでいる。
予想以上に喜ばれて、ハルカの胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
トワが原稿を受け取ろうと手を伸ばす。
しかしその直前。
ハルカの手が止まった。
「……ちょっと内容について前置きしてもいい?」
「ん?」
トワは差し出した手をそのままに首を傾げる。
ハルカは言葉を探した。
どう説明すればいいのか分からなかった。
この小説はフィクションだ。
だが完全なフィクションではない。
主人公は自分だ。
そしてヒロインは――。
「主人公がね、人の寿命みたいなものが見えるんだ」
「へぇ」
「それで、ある女性と出会う」
「うん」
「その女性が長く生きられないことを知るんだけど……その人がどんな未来を望んでいるのか、どんな人生を送りたいのかを聞いて、覚えていく話」
トワは黙って聞いている。
ハルカは続けた。
「あと、その……」
喉が少し渇く。
「トワのことを参考にさせてもらった」
「私?」
「参考にしただけだから」
「うん」
「フィクションだから」
「うん」
「本当に参考にしただけだから」
「うんうん」
トワは笑っていた。
ハルカは念押しする。
「だから、そのままじゃないから」
「分かった分かった」
まるで子供を宥めるような口調だった。
普段と変わらない声色。
それを聞いてようやくハルカは原稿を手放した。
トワは受け取るとすぐに読み始める。
休憩室が静かになる。
ページをめくる音だけが響く。
ハルカは落ち着かなかった。
トワの顔を見ていた。
原稿を読む様子を。
表情の変化を。
少しでも嫌そうな顔をしないか。
少しでも不快そうな顔をしないか。
気になって仕方がなかった。
トワは真剣だった。
途中で笑うこともなければ、茶化すこともない。
ただ黙々と読み進めていく。
時折ページをめくる指が止まる。
何か考えているようだった。
そしてある瞬間。
わずかに瞳が潤んだように見えた。
気のせいかもしれない。
だがハルカにはそう見えた。
やがて。
最後のページがめくられる。
トワはしばらくそこを見つめていた。
そして静かに原稿を閉じる。
机の上へ置いた。
「どうだった?」
ハルカは思わず尋ねる。
トワは少し微笑んだ。
「とても温かい内容だね」
その言葉だけで、張り詰めていたものが少し緩む。
「境遇は悲しいけど」
「温かい」
ハルカは小さく息を吐いた。
よかった。
まず最初にそう思った。
だが。
トワはその後すぐに感想を続けなかった。
少し天井を見上げる。
何かを考えているようだった。
そして。
「そっかぁ」
しみじみとした声だった。
「私は長く生きられないんだ」
ハルカの肩が跳ねた。
一瞬。
意味が理解できなかった。
次に浮かんだのは焦りだった。
ストーリー上で女性が亡くなることへの皮肉。
あるいは当てつけ。
そう受け取った。
「違うよ!」
思わず声が大きくなる。
「確かにトワを参考にはしたけど、これは――」
「ハルカくん」
遮られる。
トワは穏やかな表情だった。
「これ、ハルカくんの半生の話だよね」
ハルカは反射的に答えていた。
「そうだけど――」
そこで止まる。
理解が追いつかない。
寿命が見える。
そんな荒唐無稽な設定を。
なぜ疑問もなく受け入れているのか。
「え……?」
トワは小さく笑った。
「見えてるんでしょ?」
「何……が……?」
「数字」
その瞬間。
ハルカは凍りついた。
空気が止まる。
時計の音さえ消えた気がした。
自分だけではない。
時間そのものが凍結したようだった。
トワはどこか納得したように頷く。
「やっぱりね」
静かな声。
「そうじゃないかと思ってたんだ」
ハルカは何も言えない。
トワは続ける。
「実はね」
そして。
まるで今日の天気を話すように言った。
「私も見えるんだ」
呼吸が止まる。
「目が合うと」
トワは自分の目元を指差した。
「頭の上に数字が出る」
「……」
「その人が何歳で亡くなるか分かる」
長い沈黙。
誰にも話せなかった秘密だった。
世界で自分だけの呪いだと思っていた。
その秘密を。
目の前の女性は共有していた。
「だからね」
トワは少し困ったように笑う。
「ハルカくんが全然目を合わせない理由も、なんとなく分かってた」
「……」
「それにこの小説の主人公」
原稿へ視線を落とす。
「私と同じ力だもん」
そう言われてしまえば否定できなかった。
「それで確信したの」
トワは言う。
「ハルカくんも見えてるんだなって」
そして。
さらに静かに続ける。
「それとね」
「……」
「最近やたら私の未来の話聞くし」
苦笑する。
「将来どうしたいとか」
「どんな家に住みたいとか」
「子供は何人欲しいとか」
ハルカは目を逸らした。
「この小説でも」
トワは原稿に触れる。
「私をモデルにした女の人が長く生きられない」
静かな声だった。
責めるような響きはなかった。
ただ事実を並べているだけだった。
「だから分かった」
そして。
トワはハルカを見た。
「私、あとどれくらい?」
ハルカは答えられなかった。
喉が閉じる。
言葉が出てこない。
けれど。
ここで嘘をつくのは違うと思った。
トワは知る権利がある。
そして何より。
彼女はもう答えに辿り着いている。
「……一年」
ようやく絞り出す。
「今21だから」
声が震えた。
「22」
沈黙。
「あと一年」
トワは黙って聞いていた。
ハルカは身構える。
泣くかもしれない。
怒るかもしれない。
取り乱すかもしれない。
自分ならそうなる。
耐えられない。
だが。
トワは穏やかだった。
本当に穏やかだった。
少しだけ寂しそうで。
それでも優しい笑顔。
「そっか」
「短いね」
そして言う。
「心配しないで」
ハルカは眉を寄せる。
「え?」
「ハルカくんは充分生きられるから」
その言葉の意味を理解できなかった。
トワはそれ以上説明しない。
ただ柔らかく笑っている。
「さてと」
トワは原稿を丁寧に整えた。
折れないように。
曲がらないように。
そっとクリアファイルへ戻す。
そしてハルカへ差し出した。
「読ませてくれてありがとう」
ハルカは受け取る。
何か言おうとした。
けれど言葉にならない。
トワは立ち上がった。
荷物をまとめる。
肩にバッグを掛ける。
いつもの仕草。
いつもの笑顔。
まるで何事もなかったかのようだった。
休憩室の扉を開く。
そして振り返る。
「おつかれ!」
明るい声。
「また明日ね」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
やがて聞こえなくなる。
ハルカは一人残された。
手元には原稿。
胸の中には答えのない疑問。
トワは何を思ったのか。
なぜあんなに穏やかだったのか。
ハルカは椅子にもたれた。
静まり返った休憩室の天井を見上げる。
そこに答えはない。
ーーーーーー
その夜。
ハルカは自室のベッドに寝転んでいた。
照明は消している。
窓の外から街灯の明かりが薄く差し込み、天井へぼんやりと四角い光を映していた。
眠れる気がしなかった。
スマートフォンも触る気になれない。
ただ仰向けになり、暗い天井を見つめている。
頭の中では今日の出来事が何度も繰り返されていた。
トワも見えていた。
自分と同じものが。
人の頭上に浮かぶ数字が。
その人が亡くなる年齢が。
世界でたった一人だと思っていた。
少なくとも、自分以外に知る者はいないと思っていた。
なのに。
トワはずっと同じ景色を見ていた。
ハルカは目を閉じる。
これまでの出来事が脳裏を流れていく。
最初に思い出したのは、自分が人と目を合わせないことだった。
トワは人懐っこい。
誰とでも距離を縮める。
そんな彼女からすれば、自分は単なる人見知りに見えただろう。
けれど。
本当にそうだっただろうか。
今になって思う。
もしかすると最初から少し疑われていたのかもしれない。
目を合わせない理由が別にあるのではないかと。
そして。
あの日のカフェ。
あれは決定的だった。
保育士になりたいと語るトワ。
将来の夢を楽しそうに話すトワ。
初めてまともに目を合わせた瞬間。
自分は取り乱した。
顔色を変えた。
まともに会話もできなくなった。
トイレへ逃げ込んだ。
今思えばあまりにも分かりやすい。
あの瞬間。
トワは確信したのかもしれない。
自分にも数字が見えていると。
そして。
自分が見た数字が、良いものではなかったと。
駅で別れた時のことも思い出す。
心配そうな顔。
少しだけ寂しそうな目。
あの時は、自分の体調を気遣っているのだと思っていた。
もちろんそれもあっただろう。
けれど。
もしあの時すでに察していたのなら。
あの表情には別の意味もあったのかもしれない。
自分は長く生きられない。
その可能性を。
初めて現実として意識した瞬間だったのかもしれない。
そして今日。
小説。
あれは答え合わせだった。
主人公は寿命が見える。
ヒロインは長く生きられない。
主人公は彼女の未来を聞き続ける。
記憶に残そうとする。
どれだけ名前を変えようと。
どれだけ設定を変えようと。
トワには分かってしまう。
あの女性が自分をモデルにしていることも。
主人公がハルカであることも。
そして。
自分が長く生きられないことも。
原稿を読んでいた時。
少しだけ目が潤んだように見えた。
あれも。
気のせいではなかったのだろう。
ハルカは寝返りを打った。
布団がかすかに音を立てる。
不思議だった。
同じ力を持っているのに。
生き方がまるで違う。
自分は人を避けた。
目を合わせなかった。
知らなくていいものを見てしまうから。
傷付きたくないから。
失うことが怖かったから。
なのにトワは違う。
誰とでも目を合わせる。
笑う。
話す。
人の輪の中へ飛び込んでいく。
客にも。
店長にも。
大学の友人にも。
自分にも。
あんな風に。
自然に。
明るく。
愛想よく。
接することができた。
そのたびに数字が見えていたはずだ。
幼い子供も。
老人も。
友人も。
家族も。
自分と同じように。
様々な数字を見ていたはずだ。
それでも。
トワは動揺しているようには見えなかった。
ショックを受けているようにも見えなかった。
もちろん本当は傷付いていたのかもしれない。
見せていなかっただけかもしれない。
それでも。
少なくともハルカのようには生きていなかった。
彼女は。
人それぞれに与えられた時間を。
そういうものとして受け入れていたのだろうか。
ふと今日の会話を思い出す。
あと一年。
そう伝えた時のことを。
トワは取り乱さなかった。
泣かなかった。
怒らなかった。
取り繕う様子もなかった。
まるで。
以前から知っていた事実を確認しただけのようだった。
この力では。
自分自身の数字だけは見えない。
だからこそ。
トワも今日初めて知ったはずなのだ。
自分の人生の終わりを。
それもあまりにも残酷な形で。
それなのに。
どうしてあんな顔ができたのだろう。
どうして笑えたのだろう。
どうして。
「ハルカくんは充分生きられるから」
そんな言葉を言えたのだろう。
分からない。
本当に分からない。
ハルカにとって。
「自分なら」
という前提が。
トワにはことごとく当てはまらなかった。
自分なら耐えられない。
自分なら泣く。
自分なら絶望する。
自分なら未来なんて語れなくなる。
でも。
トワは違う。
違い続ける。
だから分からない。
分からないのに。
もっと知りたいと思った。
その理由を。
その強さを。
その優しさを。
そして。
トワという人間を。
もっと。
今よりずっと。
知りたいと思った。
暗い天井を見つめながら。
ハルカは静かに目を閉じる。
その胸の奥にある感情の名前を。
もう誤魔化すことはできなかった。
ーーーーーー
「あ! ハルカくん、お疲れ様!」
入口の自動ドアが開く音と共に、聞き慣れた声が店内へ響いた。
レジカウンターで返品処理をしていたハルカが顔を上げる。
大学の講義帰りらしいトワが、肩にバッグを掛けたままこちらへ手を振っていた。
「お疲れ様です」
反射的に返事をする。
トワはそのままバックヤードへ向かい、エプロンを着けて戻ってきた。
昨日の出来事などなかったかのように。
いつも通りの笑顔だった。
いつも通りの足取りだった。
いつも通りのトワだった。
ハルカは思わずその背中を目で追ってしまう。
昨日。
自分は彼女に告げたのだ。
あと一年だと。
彼女自身の人生の終わりを。
それなのに。
トワは変わらない。
まるで何もなかったかのように振る舞っている。
それが演技なのか。
本心なのか。
ハルカには分からなかった。
店内は今日も静かだった。
平日の夕方。
客の姿はまばらで、レジの呼び出し音もしばらく鳴っていない。
天井のスピーカーからは、今流行りの曲が小さく流れている。
トワは雑誌コーナーへ向かうと、新しく届いた雑誌を棚へ並べ始めた。
時折。
音楽に合わせるように歌詞を口ずさむ。
鼻歌に近いくらいの小さな声。
それでも楽しそうだった。
まるで休日に家事をしている人のような自然さだった。
ハルカはその様子を見つめる。
本当に分からない。
昨日のあの会話の後で。
どうしてそんな風に笑えるのだろう。
どうしてそんな風に歌えるのだろう。
気付けば足が動いていた。
雑誌コーナーへ向かう。
トワは平積みの雑誌を整えていた。
何度も見慣れた光景だった。
「トワさん」
声を掛ける。
少しだけ緊張していた。
「ん〜?」
トワは手を止めない。
雑誌の角を揃えながら返事をする。
「なぁに?」
いつもの調子だった。
だからこそ余計に言い出しづらい。
ハルカは一瞬だけ言葉に詰まる。
それでも。
昨夜から胸の中に居座り続けている感情を無視できなかった。
「今日」
口を開く。
「俺の家か、トワさんの家に行ってもいいかな」
その瞬間。
トワの手が止まった。
雑誌を持つ指先だけがわずかに静止する。
数秒。
沈黙。
流行歌だけが店内に流れていた。
「……急だねぇ」
トワは振り返る。
驚いたような顔だった。
「何かあった?」
ハルカは思わず苦笑しそうになった。
何かあった。
もちろんあった。
昨日、自分達は人生を変えるような会話をした。
互いの秘密を知った。
トワは自分の余命を知った。
それなのに。
目の前の彼女は。
本当に何事もなかったかのように尋ねてくる。
まるで昨日のトワと今日のトワは別人なのではないかと思うほどだった。
「その……」
調子が狂う。
何から話せばいいのか分からなくなる。
「二人きりで」
言葉を探す。
「いろいろ聞きたいことがあって」
昨日のこと。
力のこと。
今までのこと。
トワ自身のこと。
聞きたいことはいくらでもあった。
むしろあり過ぎた。
トワはしばらくハルカを見ていた。
その表情を探るように。
何を考えているのか推し量るように。
そして。
「いいよ」
あっさりと言った。
拍子抜けするほど自然に。
「うちにおいでよ」
トワは再び雑誌へ向き直る。
平積みを整えながら続ける。
「特に予定もないし」
その声色に特別なものはなかった。
重さも。
緊張も。
覚悟も。
何も感じられない。
ただ友人を家へ招く時と同じ調子だった。
「ありがとう」
ハルカがそう言うと、
「うん」
トワは軽く笑った。
「じゃあバイト終わったら行こっか」
そしてまた鼻歌に戻る。
さっきまで流れていた曲のサビだった。
ハルカはその横顔を見つめる。
分からない。
本当に分からない。
昨日からずっとそうだ。
けれど。
だからこそ知りたいと思う。
もっと。
今よりずっと。
トワという人間のことを。
ハルカは静かに息を吐くと、自分の持ち場へ戻った。
閉店まであと数時間。
ーーーーーー
トワのアパートは、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
外観は比較的新しく、白を基調とした三階建ての建物だった。
エントランスも綺麗で、共用廊下にも古びた印象はない。
築年数はそれほど経っていないのだろう。
部屋の中も同様だった。
壁紙は新しく、床も明るい色合いをしている。
リフォームしたばかりのような清潔感があった。
「楽にしててね」
トワはそう言ってローテーブルの前へ座るよう促した。
「あ、うん」
ハルカは少し緊張しながら腰を下ろす。
女性の部屋に来ること自体ほとんど経験がない。
それがトワとなれば尚更だった。
「コーヒーでいいかな?」
キッチンから声が飛んでくる。
「あ、うん」
「砂糖とかミルクは?」
「なくていいかな」
一瞬の間。
そして。
「あっ」
どこか嬉しそうな声。
「そっか。私もブラック派なんだ」
たったそれだけのことなのに。
トワは本当に嬉しそうだった。
ハルカは思わず苦笑する。
そういうところだ。
自分にはないものを彼女は当たり前のように持っている。
しばらくして。
「はい、どうぞ」
マグカップが二つテーブルへ置かれた。
コーヒーの香りが広がる。
「ありがとう」
ハルカは礼を言い、カップへ手を伸ばした。
二人は向かい合ってコーヒーを飲む。
静かな時間だった。
だがハルカの胸の内は静かではなかった。
聞きたいことは山ほどある。
昨日から頭の中を埋め尽くしている疑問もある。
それなのに。
あまりにもトワが普段通り過ぎた。
何から切り出せばいいのか分からない。
そんな風に迷っていると。
「ハルカくんは、優しいね」
不意にトワが言った。
ハルカは目を瞬く。
「あ、えっと……そうかな?」
何について言われているのか分からなかった。
トワはカップを両手で包みながら微笑む。
「うん」
「小説を私に見せてくれたじゃん」
ハルカは言葉を失った。
「『いつか出来たら読ませるね』って言えば」
トワは続ける。
「私に見せずに済ませることだって出来たのに」
その言葉に。
あの日の書店でのやり取りが蘇る。
確かにそうだった。
曖昧に笑って誤魔化すこともできた。
完成したら。
いつか。
そのうち。
未来を前提にした言葉で。
だが。
「それは……」
ハルカは少し迷った。
けれど答えは決まっていた。
「そこで誤魔化したら」
「トワさんに対して、あまりに酷いことをしてると思ったから」
それだけははっきり言えた。
トワはしばらく黙っていた。
それから小さく笑う。
「やっぱり」
「ハルカくんは優しいね」
ハルカは何も返せなかった。
代わりにコーヒーへ口をつける。
少し苦かった。
「私ね」
トワが静かに話し始める。
「少し安心したんだ」
「安心?」
「うん」
彼女は頷いた。
「自分の数字が見えないこと」
ハルカは眉をひそめる。
「なんで?」
「だってさ」
トワは少し照れくさそうに笑った。
「もしかしたら永遠に死なないのかもしれないって思ったことがあったから」
ハルカは思わず言葉を失う。
そんな発想をしたことがなかった。
自分にとっては当たり前だった。
この力はそういうものだと。
唯一、自分自身だけは見えない。
ただそれだけだと。
だがトワは違った。
永遠に死なない可能性。
そんなことを考えたことがあったのだ。
「だからね」
トワは続ける。
「私もちゃんと終わるんだって分かって、少し安心した」
ハルカは納得できなかった。
全くできなかった。
考えれば考えるほど理不尽だ。
望みもしないのに。
他人の終わりを見せられる。
家族の終わりも。
友人の終わりも。
幼い子供の終わりも。
それなのに。
自分だけは見えない。
ようやく知れたと思ったら。
残り一年。
そんなもの。
あまりにも残酷じゃないか。
「トワさんは……」
気付けば口を開いていた。
「なんでそんなに冷静でいられるんですか」
言った瞬間。
少し責めるような響きになってしまったと気付く。
だが取り消せなかった。
トワは怒らなかった。
少しだけ俯く。
そして静かに答えた。
「怖いよ」
その声は小さかった。
「やっぱり死ぬのは怖い」
ハルカは息を呑む。
「怖くないわけない」
トワは苦笑した。
「もっと生きたいし」
「もっといろんなことしたいし」
「見たいものもいっぱいあるし」
そこまで言って。
少しだけ視線を落とす。
「だけど」
トワは続けた。
「これまで何人も見てきたから」
「私より若い人も」
「小さい子も」
「ほんの少ししか生きられない数字の人も」
ハルカの脳裏に。
あの幼児の数字がよぎる。
4。
あの時の吐き気まで蘇る。
「だから」
トワは静かに言う。
「私だけ特別じゃないよ」
「でも……!」
思った以上に声が出た。
部屋の空気が震える。
しかし。
その先が続かなかった。
何と言えばいいのか分からない。
特別だと言いたかったのか。
違うと言いたかったのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
納得できなかった。
トワはそういう人なのだ。
ようやく分かった。
愛想が良いのも。
人の話を楽しそうに聞くのも。
楽しさを共有したがるのも。
処世術なんかじゃない。
誰かに好かれるためでもない。
全部。
彼女自身なのだ。
他人の痛みに目を向けられる人。
他人の喜びを一緒に喜べる人。
だから。
自分のことさえ後回しにしてしまう。
そんな人なのだ。
ハルカは拳を握る。
胸の奥が熱かった。
苦しかった。
そして。
もう抑えられなかった。
「トワさん」
トワが顔を上げる。
ハルカはその目を見る。
逃げなかった。
逸らさなかった。
「僕は……」
喉が震える。
それでも言う。
「僕は、トワさんのことが好きです」
言葉が溢れた。
止まらなかった。
「そういう」
「誰にでも優しいトワさんのことを好きになりました」
沈黙。
時間が止まる。
トワは何も言わない。
ただこちらを見ている。
やがて。
「……うん」
小さく頷いた。
「ハルカくんが私のこと好きなの、知ってた」
ハルカは目を見開く。
「え?」
トワは少し笑う。
そしてテーブルの上の原稿を指差す仕草をした。
「だって」
「小説で書いてたじゃん」
その瞬間。
脳裏に自分の文章が浮かぶ。
――寿命が分かったら、好きになる相手も選んでしまうのだろうか。
――少なくともそうならなかった。
――好きになった相手だからこそ、これまで意味がないと割り切っていたことに意味を見出すようになった。
自分で書いた言葉だった。
そのまま。
心の中を曝け出した言葉だった。
トワは少しだけ困ったように笑う。
そして。
その頬を。
一筋の涙が静かに伝った。
けれどその表情は。
泣いているというより。
何か大切なものを受け取った人の顔に見えた。
ーーーーーー
ハロウィンが終わると、街はあっという間にクリスマスへ塗り替えられた。
店先にはリースが飾られ。
駅前には大きなツリーが立ち。
どどこへ行っても鈴の音を思わせる音楽が流れている。
季節は容赦なく進んでいく。
そして。
ハルカとトワもまた、限られた時間の中を歩いていた。
可能な限り一緒にいた。
講義が終われば会った。
バイトの日は帰り道を共にした。
休日には出掛けた。
近場のショッピングモール。
映画館。
水族館。
美術館。
少し遠くの観光地まで足を延ばすこともあった。
以前のハルカなら考えられなかったことだった。
人との関わりを避けていた。
数字を見たくなかった。
失うことを考えたくなかった。
だから距離を取っていた。
だが。
本当は違った。
もともと人と話すことは嫌いではなかった。
誰かと同じものを見て。
同じことで笑って。
同じ時間を過ごすことは好きだった。
ただ怖かっただけだ。
それをトワが思い出させてくれた。
だからハルカは話した。
些細なことも。
くだらないことも。
今日見た景色も。
講義で起きた出来事も。
コンビニで見つけた新商品のことも。
何でも話した。
まるでこれまで失っていた時間を取り戻そうとするように。
そして。
よく笑うようになった。
よく目を合わせるようになった。
トワの瞳を見て話すことが当たり前になっていた。
年の瀬。
二人は少し背伸びをしたレストランにいた。
普段なら選ばないような場所だった。
厚みのある絨毯。
落とされた照明。
静かに流れるピアノ曲。
グラスの中に灯された小さなキャンドルが、テーブルの上を柔らかく照らしている。
その光が料理にも映り込み、どこか幻想的だった。
ハルカはフォークを置く。
胸の鼓動が速い。
緊張していた。
だが。
不思議と迷いはなかった。
トワもそれを感じ取っているようだった。
向かい側で静かにこちらを見ている。
普段とは違う空気だった。
場所だけではない。
今日という日そのものが違う。
そんな予感が二人の間に流れていた。
「トワさん」
ハルカは呼ぶ。
「うん」
優しい返事。
ハルカは息を吸った。
「俺」
一度言葉を切る。
「トワさんに会えて、本当に良かった」
トワは黙って聞いている。
「この力のせいで」
ハルカは続ける。
「俺はずっと人を避けてた」
教師も。
友人も。
家族でさえ。
心のどこかで距離を取っていた。
終わりを知ってしまうから。
失うことが怖かったから。
「でも」
ハルカは微笑む。
「トワさんに会えて」
その言葉は自然と出てきた。
「俺は俺を取り戻せたと思う」
トワの瞳が少し潤む。
それでも彼女は何も言わない。
最後まで聞こうとしていた。
「だから、俺も」
胸の奥から言葉を絞り出す。
「トワさんのために、何かを与えられる人になりたい」
ただ守りたいわけじゃない。
ただ見送るだけの存在になりたくない。
自分もまた。
彼女の人生に何かを残せる人でありたかった。
ハルカはトワの瞳をまっすぐ見つめる。
逃げない。
逸らさない。
初めて数字が見えたあの日とは違う。
そこにあるのは22という数字ではなく。
トワという一人の女性だった。
「トワさん」
ハルカはポケットへ手を入れる。
そして。
小さな箱を取り出した。
テーブルの上へ置く。
トワが息を呑む。
箱を開く。
中には指輪が収まっていた。
決して高価なものではない。
けれど。
ハルカにとっては特別だった。
バイト代を貯めて。
迷って。
何度も店を回って。
ようやく選んだものだった。
「俺と」
鼓動が耳の奥で鳴っている。
それでも言う。
「結婚してほしい」
静寂。
周囲の音が遠くなる。
トワは指輪を見つめていた。
そして。
ゆっくり顔を上げる。
涙が滲んでいる。
けれど笑っていた。
本当に嬉しそうに。
幸せそうに。
「喜んで、お受けします」
ハルカは思わず笑ってしまった。
トワも笑った。
二人とも分かっていた。
こうなることを。
あの日。
互いの想いを伝え合った時から。
きっとこの日へ向かって歩いていた。
けれど。
急ぎたくはなかった。
時間がないからと。
終わりが見えているからと。
通過儀礼のように済ませたくなかった。
恋人として話した。
笑った。
出掛けた。
喧嘩も少しした。
何気ない日々を重ねた。
そうして少しずつ。
互いを知り。
互いを選び。
今日という日へ辿り着いた。
だからこれは。
残された時間への焦りではない。
同情でもない。
義務でもない。
ハルカ自身の意志だった。
この人と生きたい。
この人の隣にいたい。
そう思ったから。
キャンドルの灯りが揺れる。
その温かな光の中で。
ハルカはトワの指に指輪をはめた。
細い薬指に収まったそれを見つめながら。
二人はしばらく何も言わなかった。
言葉にしなくても分かっていた。
今この瞬間が。
互いの人生の中で、かけがえのない一頁になったことを。
ーーーー
ハルカはトワのアパートで暮らし始めた。
最初の数日は、まるで異文化交流だった。
タオルは毎日替えるのか。
食器は共用するのか。
シャンプーの置き場所はどこか。
洗濯物は夜干すのか朝干すのか。
些細なことばかりだった。
けれど、それらは確かに二人が別々の人生を歩んできた証でもあった。
時には意見が食い違うこともあった。
だが喧嘩になることはなかった。
「じゃあ間を取ろうか」
「それなら私も納得」
そんなやり取りを重ねながら、二人だけのルールが少しずつ増えていく。
それが楽しかった。
ハルカにとっても。
トワにとっても。
新しい生活そのものが宝物だった。
*
結婚式は挙げなかった。
代わりに写真スタジオで記念写真を残すことにした。
白い背景。
柔らかな照明。
静かなスタジオ。
衣装に着替えたトワを見た瞬間、ハルカは息を呑んだ。
白いドレスに包まれた彼女は、まるで光を纏っているようだった。
肩までの髪はゆるく巻かれ。
小さなティアラが照明を受けてきらりと輝く。
頬は少し赤く。
瞳はいつもより潤んで見えた。
何か言わなければと思った。
小説を書く人間として。
もっと気の利いた表現があるはずだった。
比喩でも。
詩的な言葉でも。
だが。
「綺麗だ……」
出てきたのは、それだけだった。
トワは少し照れたように笑った。
「ありがとう」
本当に感動すると、人は言葉を失う。
ハルカは初めてそれを知った。
写真は何枚も撮った。
並んで立つ写真。
見つめ合う写真。
笑い合う写真。
けれどハルカは、カメラよりもトワを見ていた。
少しでも。
一秒でも長く。
その姿を目に焼き付けたかった。
きっとトワも同じだった。
カメラマンが休憩に入った時、二人は顔を見合わせて少し笑った。
言葉にしなくても分かっていた。
この日を。
この姿を。
互いに忘れたくないと思っていることを。
*
同棲生活にも慣れ始めた頃。
慌ただしかった毎日が少し落ち着いた夜に二人は初めて肌を重ねた。
部屋の照明は落とされている。
窓の外では遠くの車の音がかすかに聞こえる。
二人は同じベッドに横になっていた。
指先が触れ合う距離。
穏やかな静寂が流れている。
「ハルカくんってさ」
トワがくすりと笑った。
「ホント文学青年って感じだよね」
「えっ、何それ?」
ハルカは思わず聞き返す。
「だって」
トワは枕に頬を乗せながら言う。
「付き合ってる間は全然やらしい感じしないのに、こういう時は情熱的だし」
「それでいて情緒的だし」
「私のことずっと『トワさん』って呼ぶし」
「言葉遣いも丁寧だし」
ハルカは首を傾げた。
文学青年とは何なのだろう。
どこからそんな印象が生まれたのか分からない。
トワはさらに続ける。
「あとさ」
「ハルカくんって絶対一人称が『僕』っぽいのに、『俺』なのが可愛い」
「何だよそれ」
今度は本当に吹き出した。
ますます意味が分からない。
だがトワは満足そうだった。
その笑顔につられて、ハルカも笑う。
トワはそっと指を絡めてくる。
温かい。
そのぬくもりを感じながら。
不意にトワが言った。
「ハルカくんと子供欲しかったな……」
ハルカの笑顔が止まる。
胸が小さく軋んだ。
言葉が出ない。
だがトワは間を置かずに続けた。
「私ね」
「子供の名前も考えてたんだよ」
少し得意げな顔だった。
「女の子ならチヨ」
「男の子ならカナタ」
ハルカはその名前を頭の中で繰り返す。
どれも優しい響きだった。
そして不思議と。
二人の子供に似合う気がした。
チヨ。
カナタ。
まだ存在しない誰かの名前。
けれど確かに愛情が込められていた。
だからこそ苦しかった。
二人には分かっている。
それは叶わない未来だ。
もし今から授かったとしても。
待っているのは幸福な未来ではない。
考えたくもない結末だった。
ハルカは静かに目を伏せる。
何か言わなければと思うのに。
何も言えなかった。
そんなハルカを見て。
トワは少しだけ笑った。
重くなりすぎないように。
自分自身を励ますように。
「だからさ」
明るい声を作る。
「子供の分も私を愛してね」
その言葉は冗談めいていた。
けれど。
本当は冗談ではないことを知っている。
ハルカの胸の奥がずきりと痛んだ。
言葉にならない。
代わりに。
絡められた指をそっと握り返した。
離さないように。
失わないように。
そんな願いを込めるように。
トワも少しだけ力を返してくる。
二人はしばらく何も話さなかった。
静かな夜だった。
幸せで。
温かくて。
だからこそ、どうしようもなく切ない夜だった。
ーーーー
トワの誕生日が近付いていた。
22歳。
トワの命が終わる年齢。
トワが次の誕生日を迎えることはない。
22歳になってから364日のどこかで、必ず別れが訪れる。
誕生日。
本来なら誰よりも盛大に祝うべき日だ。
トワがこの世に生まれた日。
ハルカが出会うことのできた奇跡の始まりの日。
けれどハルカにとって、その数字はどうしても別の意味を持ってしまう。
*
ハルカは一人でケーキ屋にいた。
予約していた誕生日ケーキを受け取るためだ。
トワはイチゴのショートケーキが好きだった。
そしてそれはハルカも同じだった。
ショーケースの中に並ぶ華やかなケーキを見ても、結局二人ともいつもショートケーキを選んでしまう。
店員が箱を開き、確認をお願いしますと言った。
真っ白な生クリーム。
整然と並ぶイチゴ。
崩れ一つない美しいケーキだった。
チョコレートのプレートには、
『トワさん お誕生日おめでとう』
と書かれている。
「数字のキャンドルもお付けできますよ」
店員が笑顔で言う。
22。
その数字が脳裏に浮かぶ。
目を合わせる度に見えてしまう数字。
嫌でも頭上に浮かぶ数字。
ハルカは小さく首を振った。
「いえ、大丈夫です」
もう見たくなかった。
少なくとも今日くらいは。
*
アパートに戻ると、ハルカは誕生日の準備を始めた。
といっても大掛かりなものではない。
二人でケーキを食べる。
プレゼントを渡す。
それだけだ。
けれど今の二人には、それで充分だった。
時計を見る。
まだ帰ってこない。
トワは今日で書店のアルバイトを辞める。
最後の勤務日だった。
正直に言えば。
ハルカは外へ出てほしくなかった。
家にいてほしかった。
何事もなく今日を終えてほしかった。
けれど意味がないことも分かっている。
事故を避ければいいわけではない。
危険な場所へ行かなければいいわけでもない。
数字は外れない。
そうなる時は、そうなる。
ハルカ自身が誰より知っていた。
やがて。
鍵の回る音が聞こえた。
金属のドアが開く。
「ただいま〜!」
聞き慣れた声。
それだけで頬が緩む。
今日も無事だった。
それだけで嬉しかった。
「おかえり」
玄関へ向かうと。
トワは両手いっぱいに紙袋を抱えていた。
「すごい量だね」
「えへへ」
トワは照れ臭そうに笑う。
中身を一つずつ見せてくれた。
店長から贈られた高級な万年筆。
バイト仲間からもらった花束。
焼き菓子の詰め合わせ。
書店の常連客から渡された小説。
「これ面白いらしいんだよね〜」
嬉しそうにページをめくる。
その姿を見ながら。
ハルカは改めて思った。
トワは本当に人から愛されている。
店長も。
同僚も。
客も。
誰もがトワとの別れを惜しんでいる。
それは彼女が特別なことをしていたからではない。
ただトワがトワだったからだ。
誰かの話を聞き。
誰かと笑い。
誰かの喜びを一緒に喜ぶ。
そんな当たり前のことを。
誰より自然にできる人だった。
ハルカはそれが誇らしかった。
自分の好きになった人が。
こんなにも沢山の人に愛されていることが。
*
「わあ!」
ケーキの箱を開いた瞬間。
トワの顔がぱっと明るくなる。
「ショートケーキだ!」
「好きでしょ」
「大好き!」
子供みたいな反応だった。
トワが淹れたコーヒーが並ぶ。
ブラック。
二人とも同じだ。
ケーキを一口。
コーヒーを一口。
甘さと苦さが交互に広がる。
「美味しい……」
トワが幸せそうに呟いた。
「この組み合わせ最強だね」
「確かに」
ハルカも頷く。
しばらく二人でケーキを味わう。
そして。
トワが笑顔で言った。
「また食べたいね」
フォークを持ったまま。
屈託なく。
「次の誕生日もお願いね!」
ハルカの胸が少しだけ揺れる。
以前なら。
きっと言葉に詰まっていただろう。
実際、一度同じ失敗をしたことがあった。
テレビで旅行特集を見ていた夜。
何気なく。
本当に何気なく。
『結婚記念日にどこ行こうか?』
と言ってしまった。
子供の頃の家族旅行の話をして。
温泉が良いとか。
海も良いとか。
観光名所の話で盛り上がって。
気付いた時にはもう遅かった。
トワは笑っていた。
けれど。
どこか嬉しくて。
どこか悲しそうだった。
その表情を見て。
ハルカは自分が何を口にしたのか理解した。
必死に謝った。
何度も謝った。
だがトワは怒らなかった。
それどころか。
『嬉しかったよ』
そう言ったのだ。
『こうやって二人の未来を考えてくれるの』
あの時の言葉を。
今も覚えている。
だから。
今度は逃げなかった。
ハルカはトワの目を真っ直ぐ見た。
そして笑う。
「またこのケーキ用意するから」
ゆっくりと言う。
「コーヒーお願いね」
一瞬。
トワが目を丸くする。
そして。
少しだけ目を潤ませながら笑った。
「うん」
その返事は。
まるで未来そのものを抱きしめるような声だった。
ーーーー
トワが22歳になってからも、生活はほとんど変わらなかった。
変えたところで結末は変わらない。
だが、それを理由に特別扱いをするのも違う気がした。
普通に生きる。
普通に笑う。
普通に過ごす。
そして自然に最期を迎える。
それがトワの望みだった。
だから二人はこれまで通り暮らした。
朝起きて。
一緒に朝食を食べて。
洗濯をして。
買い物へ行き。
夜になれば並んでテレビを見る。
どこにでもいる夫婦と変わらない毎日だった。
ただ一つだけ。
ハルカは以前にも増してトワの傍を離れなくなった。
外を歩く時は必ず隣を歩いた。
信号を渡る時も。
駅のホームでも。
人混みの中でも。
少し大袈裟なくらいに。
片時も離れなかった。
少なくとも自分は死なない。
それは確定している。
ならば。
自分は事故除けのお守りになれるかもしれない。
そんな考えだった。
もちろん理屈では分かっている。
もし車が突っ込んできたら。
ハルカだけが助かり。
トワだけが死ぬ。
数字とはそういうものだ。
避けられない。
覆らない。
それでも。
何もしないではいられなかった。
ただ一つだけ願った。
苦しまないでほしい。
痛い思いをしないでほしい。
恐怖の中で終わってほしくない。
もし何かあるのなら。
できるだけ穏やかに。
できるだけ安らかに。
そして。
もし叶うなら。
その時は自分も一緒に連れて行ってほしいとさえ思った。
*
トワの誕生日から二ヶ月が過ぎていた。
春の気配が少しずつ近付いている。
その日の夜。
二人は早めに風呂を済ませていた。
パジャマ姿のまま映画を見る予定だった。
テレビでは21時から放送される話題作の宣伝が流れている。
時計を見る。
20時58分。
「ハルカくん、始まっちゃうよー」
先にソファへ座ったトワが声を掛ける。
「うん、あとちょっと」
ハルカはキッチンにいた。
コーヒーメーカーから立ち上る香り。
レギュラーコーヒーを二人分。
映画のお供だ。
「今日はブラック?」
トワが聞く。
「いつも通り」
「だよね」
笑い声が返ってくる。
いつも通りだった。
本当に。
何もかも。
いつも通りだった。
コーヒーをマグカップへ注ぐ。
21時まであと1分。
「お待たせ〜」
ハルカは少し急ぎ足でリビングへ戻る。
コーヒーをこぼさないよう。
自然と摺り足になる。
そんな自分がおかしくて少し笑いそうになった。
そして。
ソファを見る。
トワは背もたれに頭を預けていた。
目を閉じている。
ハルカは立ち止まった。
違和感だった。
ほんの僅かな。
言葉にできない違和感。
こういう時。
トワなら何か言う。
「遅ーい」
とか。
「早く早く」
とか。
必ず何か反応する。
それがない。
胸の奥が冷たくなる。
血の気が引いていく。
手の中のマグカップが小さく震える。
心臓の音だけが頭の中で響いた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
嫌な予感が脳を支配する。
「トワさん……?」
返事はない。
マグカップをテーブルへ置く。
足がもつれそうになる。
「トワさん!」
駆け寄る。
肩へ手を置く。
温かい。
まだ温かい。
「トワさん!」
揺する。
反応はない。
眠っているだけだ。
そうであってくれ。
そう願う。
「トワさん!」
声が裏返る。
何度呼んでも。
返事はない。
「トワ!」
気付けば叫んでいた。
初めてだった。
呼び捨てにしたのは。
けれど。
そんなことはどうでもよかった。
揺さぶられた身体が。
力なく傾く。
まるで。
糸の切れたマリオネットのように。
ソファから滑り落ちる。
その光景を。
ハルカは認められなかった。
「嘘だ……」
声が漏れる。
「嘘だ!」
床へ膝をつく。
必死に胸へ手を当てる。
心臓マッサージ。
何度も。
何度も。
何度も。
意味がないことくらい分かっていた。
数字に例外は無い。
これまで何百人も見てきた。
一度だって外れたことはない。
それでも。
関係なかった。
理屈なんてどうでもよかった。
「戻って来て……!」
押す。
「頼むから……!」
押す。
「トワ……!」
押す。
涙で視界が滲む。
息が苦しい。
喉が痛い。
それでも続ける。
続ける。
続ける。
時間の感覚はなかった。
何分だったのか。
何十分だったのか。
分からない。
ただ。
やがて。
ハルカの腕は止まった。
力が抜ける。
床へ崩れ落ちる。
フローリングへ額を押し付ける。
呼吸ができない。
嗚咽だけが漏れる。
声にならない。
苦しい。
痛い。
どうしようもなく。
痛い。
トワは死んだ。
その事実だけがそこにあった。
静かな部屋。
テレビでは映画のオープニングが始まっている。
さっきまで二人で見るはずだった映画。
その音だけが虚しく流れている。
ハルカは震える手で顔を上げた。
トワを見る。
穏やかな顔だった。
まるで眠っているみたいだった。
苦しんだ様子はない。
痛みに歪んだ表情でもない。
ただ静かだった。
それだけが救いだった。
そして。
ハルカは気付く。
もう。
そこには何もなかった。
あれほど見続けてきた数字が。
あれほど憎んだ数字が。
あれほど恐れた数字が。
どこにもない。
トワの頭上には。
もう何も表示されていなかった。
ーーーーーー
特発性心筋症。
それがトワの死因だった。
あまりにも突然だった。
前触れなど何もなかった。
数分前まで笑っていた。
映画を見る約束をしていた。
コーヒーも淹れた。
それなのに。
振り返った時にはもう届かない場所へ行っていた。
倒れたトワの名を何度も呼んだ。
心臓マッサージもした。
腕が痛くなるほど続けた。
けれど今となっては、その記憶すら夢の中の出来事のようだった。
現実感がない。
身体だけが地面を歩いている。
心だけがどこか遠くを漂っている。
浮いているような。
沈んでいるような。
そんな矛盾した感覚が続いていた。
*
葬儀場でトワの両親と顔を合わせた。
祭壇には大きな遺影が飾られている。
そこにいるのは、いつものトワだった。
彼女が良く見せてくる笑顔。
けれど、その笑顔は写真の中にしか存在しない。
ハルカは目を伏せた。
トワは両親と仲が良かった。
付き合っている頃から頻繁に連絡を取り合っていたし、ハルカも何度か食事に招かれた。
プロポーズから二日後。
二人で婚姻届を提出した時もそうだった。
トワは真っ先に両親へ報告した。
学生同士。
式も挙げない。
普通なら反対されてもおかしくない結婚だった。
それでも二人は受け入れられた。
トワの両親は、娘が決めたことなら応援したいと言ってくれた。
それはトワ自身が長い年月をかけて築いてきた信頼があったからだ。
「ハルカくん……」
父親が声を掛ける。
目の下には深い隈ができていた。
「急にこんな事になってしまって……」
唇が震える。
「本当に申し訳ない」
そう言って深く頭を下げた。
ハルカは息を呑む。
違う。
謝るべきなのは自分だ。
「違います……」
声が掠れる。
「俺の方こそ……」
喉が詰まる。
「トワさんを……救ってあげられなくて……」
本当は。
この日が来ることも知っていた。
本当は。
あの日倒れた時、助からないことも知っていた。
何もできないことも。
全部分かっていた。
けれど、それを言えるはずがなかった。
トワの両親にとっては全てが突然のことだ。
元気だった娘が、ある日突然帰ってこなくなった。
気持ちの整理などできるはずがない。
整理以前に、どこへ感情を置けばいいのかすら分からないはずだった。
それでも二人は参列者へ頭を下げ続けた。
娘のために来てくれた人へ礼を言い続けた。
気丈だった。
あまりにも。
参列者は多かった。
書店の店長。
バイト仲間。
大学の友人。
保育実習で知り合った人々。
近所の人。
親戚。
皆が涙を流していた。
トワは愛されていた。
知っていたことだった。
けれど改めて目の当たりにすると胸が痛んだ。
誰もが口を揃える。
『本当に良い子だった』
『明るい子だった』
『優しかった』
ハルカは思う。
そうだ。
皆の言う通りだ。
だから好きになった。
だから失いたくなかった。
*
火葬の日。
出棺を終えた後、ハルカはトワの両親の車に乗せてもらった。
棺を乗せた車の後ろを走る。
窓の外には見慣れた街並みが流れていた。
トワも何度も見た景色だ。
「トワはね、小さい頃から誰にでも話しかける子だったんだ」
父親がぽつりと話し始める。
そこからは止まらなかった。
幼稚園で泣いていた子に声を掛けた話。
迷子の子を見つけて先生のところへ連れていった話。
小学生の時、近所のおばあさんの荷物を毎回持ってあげていた話。
中学生になっても、高校生になっても。
父親は次から次へと思い出を語った。
まるで話すことで娘を繋ぎ止めようとしているみたいだった。
「ね、親バカでしょ?」
助手席の母親が少しだけ笑う。
「ハルカくんも付き合わされて大変だよね」
気遣うような言葉だった。
けれど。
ハルカは首を横に振った。
親バカなんかじゃない。
トワは本当にそういう人だった。
人を愛し。
人を気遣い。
人の喜びを自分のことのように喜ぶ。
だから沢山の人に愛された。
だから自分も好きになった。
父親の話はどれも誇張には聞こえなかった。
コンビニ。
信号機。
歩道を歩く学生達。
世界は何事もなかったように動いている。
「そういえば…」
運転席のトワの父がふと思い出したように口を開く。
「トワ、中学一年の頃に学校へ行けなくなった時期があったんだ」
ハルカは顔を上げた。
「不登校……ですか?」
「ああ。半年くらいかな」
父親は苦笑いを浮かべる。
「別にいじめとかじゃないんだ」
「ただ、あの頃のトワは真面目すぎたんだ」
その言葉に、ハルカは少しだけ胸がざわついた。
「ニュースで事故の話を見れば落ち込むし、病気で亡くなった人の話を聞けば泣いてた」
「ドラマの中の出来事ですら、自分のことみたいに受け止めてたよ」
「人が悲しんでいるのを見ると、自分も同じくらい苦しくなっちゃう子だった」
助手席の母親も懐かしそうに頷く。
「今思うとね、あの子は誰よりも人の痛みに敏感だったのよ」
「だから世の中の理不尽さを真正面から受け止めちゃったのかもしれない」
「どうして優しい人が死ぬの?」
「どうして事故に遭うの?」
「どうして人は別れなきゃいけないの?」
そんなことばかり言ってたわね、と母親は小さく笑った。
笑っていたが、その目は少し潤んでいた。
ハルカは窓の外へ視線を向けた。
理解した。
トワはその頃に力が発現したのだ。
中学一年。
まだ幼さを残した少女が。
友人の頭上に浮かぶ数字を見た。
教師の数字を見た。
両親の数字を見た。
見知らぬ人々の数字を見た。
そして、それが何を意味するのか知ってしまった。
ハルカは高校生になってからだった。
それでも耐え難かった。
クラスメイトの数字。
幼児の数字。
家族の数字。
何度も吐きそうになった。
人と目を合わせることをやめた。
人を好きになることから逃げた。
ではトワはどうだったのだろう。
もっと幼い頃に。
もっと感受性の強い時期に。
同じ地獄を見せられていたのだ。
いや。
もしかしたら、自分以上だったのかもしれない。
ハルカが知るトワはいつも明るかった。
よく笑った。
よく喋った。
誰に対しても優しかった。
だが、それは最初からそうだったのではない。
一度深く傷つき。
一度立ち止まり。
一度世界に絶望した。
その先で辿り着いた姿だったのだろう。
ハルカは初めて知った。
トワの笑顔は、生まれつきの明るさだけではない。
悲しみを知った人間が、それでも笑おうと選び続けた結果だったのだと。
*
火葬場へ到着する。
車を降りた瞬間。
先ほどまでの空気が消えた。
建物の中へ入る。
そこには異質なほどの静寂があった。
天井が高い。
横に長い空間。
壁に並ぶ重々しい金属扉。
磨かれた床。
白い壁。
華やかさなど微塵もない。
無機質だ。
慰めも。
温もりも。
ここには存在しない。
ただ。
終わりだけがある。
“終焉”という言葉を建物にしたら、きっとこうなるのだろう。
そんな空間だった。
*
棺の蓋が再び開かれる。
最後の別れの時間。
花が入れられる。
一輪。
また一輪。
友人達が涙を流しながら供えていく。
ハルカも手を伸ばした。
手に持っていたのは。
二十二歳の誕生日に贈ったプレゼントだった。
革張りのスケジュール帳。
保育士になった時。
子供が生まれた時。
慌ただしい日々になるから絶対に必要になる。
そう言って贈ったものだった。
トワは嬉しそうに使ってくれた。
ページを開く。
そこにはトワの字が並んでいた。
ToDoページ。
未来の予定。
未来の夢。
――保育士試験に合格する
――ハルカと子供達と海を見る
――北海道に旅行する
どれも叶わなかった。
どれも。
叶うはずだった未来だった。
ハルカは唇を噛む。
そしてスケジュール帳をそっと棺へ置いた。
さらに封筒を添える。
感謝を書き綴った手紙だった。
何度も読み返した。
何度も書き直した。
ありがとう。
好きです。
幸せでした。
たったそれだけのことが、どうしても足りない気がした。
*
「まもなくお別れのお時間です」
職員が静かに告げる。
その言葉だけで胸が苦しくなる。
「それじゃあね」
母親が言う。
震える声だった。
「もう少し待っててな」
父親が言う。
笑おうとしているのが分かった。
うまく笑えていなかった。
ハルカは棺を見つめる。
眠っているみたいだった。
今にも目を覚ましそうだった。
「トワさん」
声が震える。
「ありがとう」
それ以上は言えなかった。
棺がゆっくりと運ばれていく。
金属扉の向こうへ。
まだ大丈夫だった。
悲しい。
苦しい。
涙も出る。
けれどどこかで現実感がなかった。
棺がここにある。
トワの身体がここにある。
だからまだ近くにいるような気がしていた。
会えないだけで。
まだいるような気がしていた。
けれど。
重い金属扉が動き始める。
ゆっくり。
ゆっくり。
閉じていく。
その瞬間だった。
理解してしまった。
ああ。
もう二度と会えないのだと。
トワがこの世界から消える。
魂も肉体も。
消える。
もう話せない。
もう笑わない。
もう名前を呼んでも返事はない。
もう手を握れない。
コーヒーも飲めない。
映画も見られない。
来年の誕生日もない。
結婚記念日もない。
海も。
北海道も。
保育士試験も。
全部。
全部。
永遠に失われた。
ガン――
重い音を立てて金属扉が閉まる。
世界がそこで終わった気がした。
「トワぁぁっ……!」
悲鳴のような声が響く。
母親だった。
今まで気丈に振る舞っていた母親が、その場へ崩れ落ちる。
「やだぁ……!」
「トワ……!」
「お願いだから戻って来て……!」
子供のように泣いていた。
娘を失った母親のあまりに悲痛な声だった。
その慟哭を聞いた瞬間。
ハルカの中で最後の堤防が決壊した。
「トワ……!」
初めて会った日の笑顔。
書店で響く明るい声。
コーヒーの香り。
ウェディングドレス姿。
指を絡めた夜。
全部が一気に押し寄せる。
膝から力が抜けた。
床へ崩れ落ちる。
涙で前が見えない。
呼吸ができない。
胸が痛い。
「トワぁ……!」
声を上げて泣いた。
もう届かないと分かっていても。
叫ばずにはいられなかった。
重い金属扉は閉じたままだった。
その向こうにいるトワには。
ーーもう二度と会えない。
ーーーーーー
カリ…
カリ、カリ、カリ…
カリ、カリ…
紙を擦る音が静かな部屋に響いていた。
本棚に囲まれた部屋。
壁一面を埋め尽くす本の背表紙は、長い年月を経て少しずつ色褪せている。
机の上では、今ではスマホから呼び名も変わった携帯デバイスが音楽を流していた。
画面には、
――令和の懐メロ特集
そんな文字が表示されている。
流れてきたイントロに、思わず手が止まった。
聞き覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
あの曲だ。
まだ大学生だった頃。
閑散とした書店の店内で。
雑誌を並べながらトワが口ずさんでいた曲。
少し音程が怪しくて。
けれど本人は全く気にしていなくて。
楽しそうだった。
「……懐メロ、か」
ハルカは小さく笑う。
当時は流行りの最先端だった曲も、今では懐かしい歌になってしまった。
歳を取るわけだ。
ペンを持つ手を見る。
深く刻まれた皺。
血管の浮いた皮膚。
そして薬指には、一つの指輪。
何十年も身につけ続けたそれは、かつての輝きを失っていた。
それでも外したことは一度もない。
外そうと思ったこともなかった。
机の上には積み上げられた原稿用紙。
紙の束はもはや本一冊どころではない。
辞典のような厚みになっていた。
時代は変わった。
文字を紙に書く人も減った。
本も電子化された。
それでも紙は消えなかった。
人はやはり手に取れるものを求める。
そこにあるという安心感を求める。
だから紙の本は残った。
そして自分も。
最後まで手書きにこだわり続けた。
インクの匂い。
紙の感触。
書いた文字がそこに残る感覚。
それが好きだった。
「……さて」
原稿をめくる。
最初のページは、もう何十年も前に書いたものだ。
人の終わりが見える大学生。
小さな書店。
明るい女の子。
そして恋。
トワに読ませた小説。
あの時は無理やり終わらせた。
約束を守るために。
トワに読んでもらうために。
けれど本当は終わっていなかった。
これは自分の半生だった。
だからその後も続いていた。
ページを重ねるたびに。
年月を重ねるたびに。
原稿は年輪のように厚くなった。
技巧なんてない。
伏線もない。
綺麗な構成もない。
小説というより、ただの自伝だ。
それでも。
もし向こうでトワに渡したら。
『えー!』
きっと目を丸くして。
『こんなに分厚くなったんだね!』
と笑うだろう。
そんな光景が容易に想像できた。
「……はは」
自然と笑みが零れる。
その直後だった。
激しい咳が込み上げる。
「ごほっ……!」
胸が痛む。
肺の奥が焼けるようだった。
机に手をつく。
呼吸を整える。
最近はこればかりだ。
医師から説明も受けている。
自分の身体がどこへ向かっているのかも分かっている。
もう長くはない。
きっとこれが自分の終わり方なのだろう。
「もう少し……楽な終わり方が良かったな」
誰に言うでもなく呟く。
肺の病気。
息苦しい。
正直しんどい。
運命というものは最後まで融通が利かない。
そう思う。
だが同時に。
もうすぐ会えるのだとも思っていた。
長かった。
本当に長かった。
気づけば。
父の数字も。
母の数字も。
ずっと昔に追い越していた。
そしてあの日。
休憩室でトワが言った言葉を思い出す。
『ハルカくんは充分生きられるから心配しないで』
あの時は意味が分からなかった。
いや。
今でも基準は分からない。
だが。
「……充分過ぎるよ」
ハルカは少し呆れたように笑った。
何十年も生きた。
いろいろなものが様変わりした。
トワと一緒に働いた書店もあの一帯高層マンションになった。
トワと食べたケーキの店も今は空き店舗になった。
トワとの思い出の場所がどんどん別のものに上書きされていった。
一方で。
沢山の人と出会った。
沢山の別れを経験した。
泣いた。
怒った。
笑った。
幸せだった。
思えば。
人の終わりが見える力。
あれは力なんて呼べるものではなかった。
呪いだったのかもしれない。
幼い子供の頭上に浮かぶ小さな数字。
若くして終わる人々。
知りたくもない別れ。
あの力のせいで何度も苦しんだ。
人を避けた。
目を逸らした。
孤独になった。
だが。
その呪いがあったから。
人との関わりから逃げるように。
救いを求めるように。
あの小さな書店へ応募した。
そしてトワと出会った。
「運命、か……」
ハルカは窓の外を見る。
夕暮れだった。
赤く染まった空。
ゆっくりと沈んでいく太陽。
人は皆。
抗えないものを抱えて生きている。
寿命。
病気。
事故。
別れ。
出会い。
喜び。
悲しみ。
良いことも。
悪いことも。
全て運命という大きな流れの中にある。
だから人は出会う。
だから人は恋をする。
だから人は別れる。
そして死ぬ。
それでも。
だからこそ。
人生は美しいのかもしれない。
ハルカは最後のページへ視線を落とした。
白紙だった。
長い長い物語の終着点。
ペン先を置く。
静かに文字を書く。
たった一行。
それだけでよかった。
書き終える。
ペンを置く。
原稿をそっと閉じた。
窓から吹いた風がページを揺らした。
まるで誰かが覗き込んでいるようだった。
ハルカは微笑む。
そして、もうずっと前に旅立った妻へ語りかけた。
「トワ」
机の横には古い写真立て。
ウェディングドレス姿の彼女が笑っている。
「君に送ったスケジュール帳は、とっくに埋まっちゃったよね」
返事はない。
けれど。
きっと聞いている。
そんな気がした。
だから続ける。
「新しいのを持っていくよ」
薬指の指輪をそっと撫でる。
「今度は、一緒に埋めよう」
夕陽が部屋を優しく照らしていた。
まるで誰かが迎えに来たように。
静かに。
穏やかに。
長い物語は、そこで幕を閉じた。