お取り込みくださいの表紙画像

お取り込みください

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/11/5 📝 9,415文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

母が亡くなって三週間。日曜の明け渡しに間に合わせるため、紗枝は古い団地へ片づけに戻った。ベランダには、右袖を縫い閉じた灰色の雨合羽が一着だけ残っている。針も袋も捨てずに使った母らしい、意味のない繕い物だと思った。隣の木崎さんに昼食をもらい、古い写真を選び、袖口の糸を切る。雨が来る前に取り込めば、今日の仕事は終わるはずだった。母が外に干したままにしていた理由を、紗枝はまだ尋ねられるつもりでいた。

本文

母の部屋で最初に捨てたのは、空のごみ袋だった。

台所の引き出しから、三角に折られた袋が二十枚ほど出てきた。スーパーのもの、薬局のもの、私が正月に菓子を入れて持ってきたもの。どれもいったん裏返して洗ってある。底の角だけに細かい水垢が残っていた。

私は買ってきた四十五リットルの袋を広げ、まとめて入れた。白い袋一枚を、さらに白い袋へ捨てる。引き出しを閉めようとして、奥にもう一束見つけた。

午後二時を回っていた。日曜の夕方には鍵を返す約束で、残りは二日。母が入院先で死んでから三週間たつ。郵便を取りに一度寄ったきりで、冷蔵庫もまだ開けていなかった。

玄関の戸を少し開けて作業をしていると、木崎さんがラップをかけた皿を持ってきた。

「お昼、まだでしょう」

「パンを買ってきたので」

「パンだけじゃねえ」

皿には煮たかぼちゃと、竹輪を縦に切って焼いたものが載っている。受け取ると、木崎さんは廊下に並べた袋を数えた。目で追っただけだが、何を捨てたか尋ねられたようで、私は袋の口を足で奥へ寄せた。

「あの、小さいお皿とか、使いますか」

「うちも減らしてるとこ。膝が悪くなると、高い所へしまえないから」

木崎さんは四〇五号室の人で、私が家を出る前から隣にいた。母から電話が来ると、本人の話より木崎さんの膝の話のほうが長いこともあった。今日は厚い靴下で、踊り場に出てきている。

母の椅子を勧めたが、木崎さんは台所の丸椅子を引いた。六畳間のほうは、まだ母が着替えに戻ってきそうな散らかり方をしていた。

私はかぼちゃを一切れ食べ、皿のラップを丸めた。

「それ、袋に入れないで」

木崎さんに言われ、手を止める。

「汁、付いてるでしょう。そのまま台所に置いといて。皿はあとで持って帰る」

母に言われたのかと思った。窓際のカレンダーには、入院した日にだけ赤い丸がある。私が丸を付けた。病院から電話を受け、来月の家賃をどうするか分からず、とりあえず日付を残したのだった。

「外は見た?」

木崎さんが障子の下のほうへ目をやった。

「まだです。植木って土ごと出せないんですよね」

「鉢はないよ。澄江さん、春に全部人にあげてたから」

障子を開けると、南の窓から光が差していた。ガラスの向こうに灰色の雨合羽が掛かっている。白い壁を背にした袖の片方が、物干し竿の下で折れ曲がっていた。

「あれ、まだあったんだ」

子どものころから見ていた、とまでは言えない。ただ、実家の窓から見える灰色のものに見覚えがあった。合羽というより、窓の一部になっていた。

サンダルは一足しかない。木崎さんが室内に残り、私は母の小さいサンダルに踵をはみ出させて外へ出た。

雨合羽は外側の低い竿に、太い針金のハンガーで掛けてある。首の内側を二つの洗濯ばさみが挟み、裾は床から少し浮いていた。脇腹に丸い補修布がある。母が鍋敷きを切り抜いたような、きれいな円だった。

左の袖は普通に垂れている。右だけが手首の所で平たく潰れ、口を縫われていた。

私は指でその端をしごいた。生成りの糸が二列走り、何本かは縫い足されている。中に水がたまっているのか、布を持ち上げると予想より重い。右袖の下には、髪染めに使っていた古い洗面器が置いてあった。底が薄茶色に染まり、一筋だけ水が入っている。

「これ、どうして縫ってるんですか」

窓越しに声をかけた。

木崎さんは膝に手を置き、体を伸ばした。

「虫が入らないようにしたんじゃないの」

「反対は開いてますけど」

「じゃあ、裂けたとか」

私は洗面器を足先でずらそうとした。サンダルの縁が水に入ったので、元へ戻す。

「捨てるなら、そのままでいいよ。古いのは、いじるとぽろぽろするから」

木崎さんの声に、私は袖から手を離す。

手に灰色の粉は付いていなかった。布は厚く、縫い目さえなければ、まだ着られそうだった。

◇

写真の箱は、四畳半の押し入れのいちばん下にあった。

母は写真をアルバムに貼らず、写真店の封筒に戻していた。封筒に年月が書いてあるから、探すにはそのほうが早い。私が家を出た年の一束だけ抜き、ほかは箱のまま持ち帰ることにした。

木崎さんは、皿はそのままでいいと言って帰っていた。かぼちゃの残りはラップをかけ直して、台所に置いてある。夕方また顔を出すと言ってくれたので、そのころには一度、下の集積所へ袋を運びたかった。

窓のすぐ下で子どもの声がした。学校から帰った子が、階段の入口で友達を待っているらしい。母はここに一人で住んで、毎日この声を聞いていた。

私は薄い写真の束をめくった。

引っ越しの朝、段ボールに腰掛けた自分が写っている。母は向かい側にいて、顔ではなく丸めた背中だけが入っていた。私の足元に電気釜がある。持っていくと言ったのに、母が一度ふたを開けて内釜を洗い直した。そのせいで出るのが遅れ、私は怒っていた。

写真の日付は十三年前だった。

母の背中の向こう、ベランダの端に、合羽の丸い補修布が写っている。白く潰れた右袖の先も見えた。私は窓へ寄って写真をかざした。ハンガーの位置も、袖の曲がり方もほとんど同じだった。

合羽より母の背中が気になり、写真をもう一度近づけた。なぜ顔を写さなかったのだろうと思う。裏には私の字で、新居の住所が書いてあった。引っ越してすぐ、住所を知らせるために母へ送ったものだ。捨てずにこの封筒へ戻していた。

携帯電話に雨の通知が来た。夕方から強くなるという。窓を開けると、隣の棟の屋上に黒い雲がかかっていた。

持ってきた紺の上着は綿で、水がかかるとすぐ染みる。傘を差してこの階段を袋と往復するのは無理だった。手すりに一方の手を使わないと、踊り場の角を曲がれない。

私は写真を箱へ戻し、裁縫ばさみを出した。

ばさみを持ったまま、私は少し迷った。十三年も外にあったものを着るのは嫌だった。窓から襟を引き寄せ、背中の裏へ手を当てる。そこは乾いていて、こすっても指に粉が付かない。水がたまっていたのは、縫われた袖だけだった。外を拭いて、袋を下ろす二往復だけ服の上へかぶればいい。帰りに着る上着をぬらすよりはましだと思った。

窓際の卓にばさみを置いてから、右の袖口を室内へ引き寄せた。合羽の胴はまだ外に掛けてある。上の糸は白っぽく、下の糸は煤けた色をしていた。一本切ると、すぐ下に細かい針目が現れた。二重に縫ったのではなく、前に縫った上からまた縫い直している。

私は上の糸を少しずつ切った。母なら刃を布に当てるなと言う。実際、二度ほど表面まで削ってしまう。落ちた灰色の薄片を拾うと、指の先に貼りついて取れない。

布をひっくり返す母の手を思い出した。左の薬指だけが曲がり切らず、物を押さえるとき、ほかの指より浮いていた。最後の電話は、寝巻きを取りに寄ってほしいという用事だった。職場の締め時で、私は受話器を肩に挟んだまま携帯電話にも出た。聞き違えた品番を修正している最中で、伝票から目が離せない。

『袋、底を見てから捨てなさい』

母はそう言った。何の袋のことか聞く余裕がなくて、帰ってからにすると切った。夜には忘れ、翌朝、病院から電話があった。容体の急変は夜中だったそうだ。私が折り返していても、会えたかどうかは分からない。

最後の一本を切ると、閉じていた口が開く。

中から水が流れた。流れは細く、サッシの溝へまっすぐ入った。私は手首を引き、袖を外へ戻した。洗面器に水が落ちるのを待ってから、ばさみを拭いた。

糸くずが刃の根元にからんでいる。爪で取ると、生成りと茶色の糸が一本ずつ離れた。

◇

ハンガーを外しかけたところで、声がした。

『雨になるよ。取り込んで』

母の声だった。

言葉の終わりが少し上がる。返事を待っているときだけ、母はそういう言い方をした。私はハンガーをつかんだまま、室内を振り返った。

台所の蛍光灯を点け忘れていた。廊下の先に玄関の隙間が白く見える。さっきまであった子どもの声は、もうしなかった。

「木崎さん?」

仕切り板の向こうから返事はない。

私は合羽を竿へ掛け直し、室内へ戻った。携帯電話の画面は暗い。留守番電話を再生していたわけでもない。母のラジオは電池を外し、流しの上にまとめてあった。テレビは午前中にコードを抜いている。

玄関から踊り場をのぞくと、四〇五号室の戸も閉まっていた。窓越しのテレビの声が似たのかもしれない。母に似ていた、といえば、木崎さんは自分もそうだった話をしてくれるだろう。それを聞くと、いまの声を母のものにしてしまいそうだった。

戸を押し戻し、先に台所の灯りを点けた。

外へ出ると、ベランダの床に雨の点ができていた。合羽の肩には細かい水滴が並んでいる。縫い目を切ったまま放置すれば、今度は中までぬれる。私は洗濯ばさみを外してハンガーを持ち上げた。

右袖が竿に残った。

手を戻してみると、肘の所で竿の向こうに折れ、濡れた布同士が貼りついている。力を入れて引くと、胴が私の胸へ落ちてきた。片手にハンガー、片手に裾を持ち、脇で束を抱える。

開いた右袖口が、自分の右手首へかぶさった。

紺の上着の袖が少しまくれ、白い洗濯表示が出ていた。合羽の内側がそこに貼りつく。表は雨で冷たいのに、重なった所だけが温かった。濡れた袖が肌に触れたのかと思い、私は手首を振って外した。

合羽は椅子の背に掛けた。ハンガーを抜き、床に落ちないよう裾を座面へ寄せる。母の椅子は低いので、袖口は畳に届きそうだった。

右手を胸の高さまで持ち上げた。袖の裏を指で拭くと湿っていたが、手首そのものはぬれていない。白い表示の端が折れ、手の甲へ刺さる。直してから、私は流しで手を洗った。

合羽は外側を拭いても、水が落ち続けた。雑巾はもう捨てた袋の中にある。探す代わりに、台所のタオルを一枚使った。裾を持ち上げ、椅子の下に差し入れると、木の脚の内側まで水が回っていた。

座面の合羽が沈んだ。

私の手が引っ掛かったのだと思った。タオルを引き抜き、布を上からならす。脇の補修布の下だけ、椅子の縁を越えて垂れている。どこかに水がたまっているなら、風呂場で絞ってから着ればいい。

私は右の袖を持った。

袋の口を広げるように、縫ってあった端を親指と人差し指で開いた。白い内布が見える。その先は暗い。袖を少し引いても、奥の布は動かなかった。

袖口の下側に、肌色の丸みが触れた。

親指の先だった。爪は向こうを向いているのか、見えない。丸い腹が布の縁を押し上げ、切った糸の穴を一つずつなぞった。

つまんでいた端を離す。

袖は椅子から落ちなかった。畳へ下ろしかけたタオルが、左手に残っている。流しに置こうとして、蛇口の横のラップをどける。濡れた指に貼りついて離れず、私はタオルごと押しつけた。

玄関まで歩いて、戸を開けた。

四〇五号室の呼び鈴を押した。二度目を押す前に木崎さんが出てきた。前髪のピンを外し、指に挟んでいた。

「どうしたの」

「合羽の、中」

そこまで言うと、次が出なかった。

木崎さんは私の手ではなく、私の部屋の窓を見た。踊り場からはベランダは見えない。六畳間の黄色い灯りだけが廊下の奥に見えていた。

「取り込んだの?」

うなずくと、木崎さんはピンを髪へ戻した。靴下のまま私の玄関を上がり、台所で止まった。

椅子の背に掛けた合羽は、そのままだった。右袖が座面の下に入り、口の所だけが見えない。

木崎さんは一度引いた足を、また台所へ戻した。

「紗枝ちゃん」

私の右手首を見ていた。

紺の袖口だけが、ぬれて黒くなっていた。

「その上着、脱いで」

上着を脱ぐと、右の袖口が裏返った。

白い洗濯表示が垂れている。私はそれを直さず、玄関に置いた鞄の上へ上着を載せた。木崎さんは、私の手首に付いた糸くずを指で払った。

「ぬれてたから。腕まで冷やすよ」

それから六畳間を見た。

「何を見たの」

「指です。ここに、ひとつ」

自分の親指を出したが、木崎さんは見なかった。卓の上の裁縫ばさみに手を伸ばしかけ、途中で止める。

「切った?」

「袖。着ようと思って」

木崎さんは台所の丸椅子を窓際へ運んだ。私も持とうとすると、自分でできると言った。椅子に座ってから、合羽の掛かったほうへ少しずつ寄せていく。私は折り畳み卓をずらした。

「糸が残ってるね」

「まだあれば、取ります」

「取らなくていい」

靴下のつま先が、畳から浮いている。膝の悪い人が椅子に座るときの形と違う。私は四十五リットルの袋を一枚引き抜き、口を大きく広げた。

「これに入れて、外へ出します」

木崎さんは黙って膝の上に手をそろえた。

袖に触れないよう、裾のほうから袋をかぶせた。内側へ押し込まず、上から包めば持てると思った。薄い袋越しに補修布の丸みが見える。右袖は椅子の下にあり、私はしゃがんでそこだけを袋の端でつまんだ。

合羽を引くと、椅子も動いた。

背に引っ掛かっている。袋ごしに左の肩を外すと、今度は座面の布がぴんと張った。木崎さんが腰を浮かせた。

「引っ張らないで」

「引いてません」

膝から力を抜いてみせた。私の手は袋の口を持っているだけで、袖はその先で伸びている。床すれすれの所まで来て、袋の底が縦に裂けた。

私は手を離した。灰色の布が椅子の下へ戻る。袋だけが、畳の上へ落ちた。

椅子を起こし、合羽を拾い直すことはできなかった。窓を開けておくと雨が吹き込むので、そこだけ閉めた。鍵を回し、閉まったかどうか確かめる。その間、木崎さんは座ったままにしていた。

「お母さん、あれを着てるの、見ましたか」

「ないよ」

「私も。お父さんのでもないんです」

「澄江さんは、縫ってたよ」

木崎さんは右の袖口のある辺りを指した。私は椅子の下を見ないよう、卓に手をついた。

「いつ」

「夏の終わりに。糸が切れたって。膝を悪くする前は、椅子を持って外でやってた」

「何で縫うのか、聞かなかったんですか」

聞いている途中で、木崎さんは首を横に振った。

「うちにも、聞かれたくないことはあるからね」

部屋に来る人のこと、玄関に置く薬のこと。母は私にも尋ねなかった。代わりに近所の膝の話をする。その話を私は、また同じことを言っていると思って聞いていた。

「入院してからも、あれ、外にあったでしょう」

木崎さんは答えず、窓へ顔を向ける。次の言葉を待っていると、手を膝の下へ挟み込んだ。

「一度、風で袖が竿に巻いてた。ほかは動いてないのに、右だけ。澄江さんに言おうと思って、そのまま」

言葉の終わりに、木崎さんは唇を閉じた。

携帯電話を出して、管理の人にかけようとした。母の合羽に手がある。母はそれを縫っていた。片づけができない事情を声にすれば、さっき自分が見たことまでおかしくなりそうだった。

そのまま鞄を持って帰ることならできた。木崎さんは隣の部屋へ戻ればいい。今夜のうちにでも、明日の朝でも、私はここから電車に乗れる。

窓の下に、木崎さんが持ってきた丸椅子がある。四〇五号室からは、同じ形の灯りがベランダへ漏れている。

私は携帯電話を卓に伏せた。

「針、使えますか」

木崎さんは初めて私の顔を見た。

「目がね。糸だけ通してくれるなら」

四畳半の棚から青い菓子缶を下ろした。中を見なくても、何があるか知っていた。母は針箱だけは、私が小さいころから同じ場所へ戻していた。

◇

缶の底に、木綿糸の巻きが横たわっていた。

上から見たときには空に見えた。母が細かい物を底へ押し込むせいで、私は何度も空の袋を捨てたことがある。針箱から糸を取ると、電話の声を思い出す。木崎さんには何も言わず、巻きから長めに糸を引いた。

硬くなった毛糸を布で包んだ針山から一本抜こうとすると、横のもう一本が引っ掛かって出てくる。木崎さんは短いほうだけ受け取り、長いほうを缶へ返すよう私に言った。

「待ち針、ある?」

底を探して、赤い頭のものを三本拾った。私は針に糸を通し、木崎さんの掌へ渡した。二人とも椅子の正面には立てず、脇から合羽を見ていた。裾を卓へ引き上げると、座面にたまっていた水が畳へ落ちた。

「右を、こっちへ」

「そっちは、口が」

「見なくていいよ。端だけ持って」

私は卓の前へ座布団を引いて座り、素手で布をつかんだ。軍手は鞄に入っている。取りに行こうとしたが、木崎さんが先に半袖の袖を肩までたくし上げたので、私もシャツの腕をまくった。

合羽の外側は冷えている。縫い目のあった端を二枚重ねにして持つと、内側から押し広げられた。指を添えて押し返す。掌の幅を変えずにいるだけで、手首が卓から持ち上がる。

「このまま縫いますか」

木崎さんは針を近づけ、布の厚みを見た。

「糸、どっちに残ってた?」

私が切った糸くずは、小皿にまとめてある。白いほうに、灰色の薄片が幾つか付いていた。木崎さんはそれを見て、合羽の縁に指を当てた。

「こっちを返して」

二人で袖口を折り返した。白い内布を外へ出し、切った穴の列を上へ向ける。木崎さんが折った所を押さえる間、私は端をずらさないようにつまんでいた。布を裏に返すと、さっきまで内側へ引かれていた重さが手のすぐ下へ集まった。

木崎さんは待ち針を刺し、口の端から縫い始めた。

「押さえて。もう少し近い所」

合羽の口が、私の指の下で開こうとする。木崎さんの針が一度止まった。私は親指の腹を広く当て、爪を立てずに押した。母が私の指を直したときと同じ形になる。布をつかむたびにつまみ直していたのは、針に当たらないようにするためだと思っていた。

壁の時計は五時半を指している。外の雨で、窓の右半分だけがぬれていた。木崎さんが糸を引くとき、窓のしずくも同じ速さで下へ動く。私はそちらを見て、指の間の暗い所へ目をやらずに済ませた。

最初の待ち針を木崎さんが抜いた。

「缶に」

私は左手で受け取り、針箱のふたに置いた。右手は離せない。左で布を押さえ直そうとすると、右の親指が持ち上がる。木崎さんが糸を引いて、その分だけ口を狭くした。

「ここ、硬いね」

母の古い糸が残った所だった。新しい針の先が入らず、木崎さんは針を寝かせた。指ぬきをはめた中指で押すと、小さく布が沈む。

「一度休みますか」

「先に休んで。私は大丈夫」

私は首を振った。卓の縁が前腕に当たり、細い線になって痛んだ。位置を変えたいが、二人の間の布は少しでもたるませると口が開く。自分で切った所を、母と同じように閉じるには、まだ半分あった。

台所の蛍光灯が一度暗くなった。窓の外から車が出ていく音がする。母の部屋は夕方になると暗い。子どものころ、私は宿題のノートを持って台所へ移っていたが、母はここで明かりに針穴を向け、糸を通していたのか。卓の縁に当たらない所まで膝を寄せ、布を押さえ直す。

木崎さんの膝に私の膝が当たった。

「ごめんなさい」

「そのまま」

木崎さんは私の手の位置を直さなかった。私は袖口から目を離さず、母が残した針の穴に、新しい糸が重なるのを見ていた。

終わりまであと二針ほどになったとき、布の間に入った糸が張った。

針を持つ木崎さんの手は動いていないのに、糸の途中だけが布の内へ入っている。私は右の親指をずらし、最後の隙間を指の腹で潰した。針は木崎さんに持っていてもらう。左の爪で糸を引き戻すと、内側から短く引き返された。

「離して」

言ってから、それでは木崎さんが布を離してしまうと思った。

「針だけ。私に」

木崎さんは針を私の左手へ渡し、右の手首を支えた。私は糸を引き切らず、たるませてから、元の穴へ針を戻した。もう一度引くと、糸は指の間へ出てきた。

糸が戻ると、私は左手の針を木崎さんへ返し、両手で縁を押さえた。木崎さんが最後の穴へ針を通し、糸を結んで切る。

切れ端が卓の上に落ちた。

合羽の袖は平らだった。

押さえていた親指を離すと、同じ幅のへこみが布の上に残った。水で柔らかくなっていたのだろう。私は親指の腹をシャツの胸では拭かず、卓の端にあった紙で押さえた。

木崎さんは待ち針を二本探した。ふたの一本と合わせて三本あることを確かめ、缶を閉じる。私はその音を待って、合羽の肩を持ち上げる。

今度は、布だけが椅子から離れる。

「窓、開けてください」

木崎さんが鍵を回した。私は自分の靴を玄関から持ってきて、ベランダへ下ろした。母のサンダルでは、雨で滑る床を踏めなかった。

ハンガーを首へ通し、外側の低い竿へ掛けた。脇の丸い補修布がこちらを向くようにすると、右袖は竿の向こうへ行く。いったん首を掛け直して袖を手前へ戻すと、縫った端が低く下がる。

洗面器が、その下にある。

母が置いたときと同じ向きになるまで、首の位置を少しずつ直した。縫い閉じた右袖の先から水が落ち、洗面器の底の茶色い筋をぬらした。

私は二つの洗濯ばさみで首を留めた。木崎さんは室内から見ていた。サッシを閉める前に、袖と洗面器をもう一度確かめた。

◇

翌朝は晴れていた。

午前七時前、下の階でほうきを使う音がした。排水溝に寄せた葉を、水で流している。台所に敷いた座布団から起き、昨夜買いに出た総菜の容器を片づける。箸は洗って、木崎さんの分と二膳並べてあった。

木崎さんは縫い終えると自分の部屋へ帰り、夕飯の時間にまた来た。合羽のことは話さなかった。私が買ってきた総菜の値段を聞き、同じものが水曜には安いと言った。冷蔵庫の片づけ方を相談し、結局その夜は何も捨てなかった。

私はパンの袋を開けた。昨日の残りだったが、口をきちんと縛ってあったので硬くなっていない。食べながら玄関を見る。鞄の上の紺の上着は、昨夜置いた形で乾いている。

九時になってから管理の人へ電話をかけ、仕事が終わらなかったので明け渡しを延ばしたいと伝えた。追加の費用がかかり、担当者との立ち会いも必要になるという。私はその場で手帳を開き、平日に一日休みを取るための印を付けた。

合羽はごみ袋の数に入れなかった。

木崎さんが来たのは、電話を切ったあとだった。今度は玄関で靴を脱ぐ。手には皿を返してもらうための袋を持っている。

次に来る日を伝えると、木崎さんは通院の日だから立ち会えないと言った。

「じゃあ、私だけで来ます。その前に一度、電話してもいいですか」

「いいよ。夕方より、お昼のほうが出られる」

「窓の外は、触らなくていいです」

木崎さんは袋を開いて、私の渡した皿をしまった。

「雨の日には見えるから。見えた分だけは言うよ」

私は携帯電話の木崎さんの番号を登録し直した。母の家の欄に小さく入れていたものを、別の名前に分けた。

玄関で紺の上着を持ち上げた。右の袖が裏返っている。直そうとしてやめたが、持ち上げても引き戻されず、合羽のような重さもない。袖口は冷たく乾いていた。腕を通すのは嫌でも、帰って洗うだけならできると思った。ここに残して、木崎さんに扱わせたくはなかった。

内側を上にしたまま畳み、着替えの袋には入れず、鞄の持ち手に掛けた。

持ち帰った母の物は、写真の箱と針箱だけだった。

団地の外階段は日が当たり、手すりが乾いていた。私は鞄から垂れる上着の袖を取っ手へ巻きつけ、そのまま電車で持ち帰った。

自分の部屋へ戻ると、窓を全部開けた。

流しに昨日の朝のコップが置きっぱなしになっている。中の水を捨て、鞄から箱を出した。母の写真は卓へ、針箱は棚へ。紺の上着は、もう一度干してから洗うことにした。

丸いハンガーを首に通し、室内の物干しへ掛ける。

脱いでからは、一度も袖に腕を戻していなかった。左を下へ伸ばし、右の裏返った端を洗濯ばさみで留める。白い洗濯表示は、部屋のほうを向いていた。

その下から、黄色い爪が一枚、布の縁を越えて出てきた。

ジャンル・タグ

作品統計

👁️ 閲覧数: 1 👍 いいね: 1 📚 本棚登録: 1

作者について

書架

書架

百合......良いよね......

作者ページを見る