鉛筆が尽きるまで
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
人間の姿で生きる化け狸のタクマは、夜な夜なTF漫画を描いてSNSに投稿していた。ある日、ずっと憧れていた絵師・孤狐と出会い、距離を縮めていく。
本文
渋谷から少し離れた、閑静な住宅街にほど近い古いアパートの一室。
夜の11時を回った頃、タブレットを凝視しながらペンを走らせる若い男性の姿があった。
彼の名はタクマ。19歳の大学生だ。
黒髪を少し長めに伸ばし、眼鏡をかけた地味めな顔立ち。部屋着のスウェット姿で、ベッドに寝そべりながらタブレットに集中している。
彼の趣味は、イラストやマンガを描くこと。特にTF(トランスフォーメーション)をテーマにした作品をSNSに投稿していた。
人間が動物に変わっていく過程での困惑、戸惑い、そして次第に新しい身体と感覚を満喫していく——そんなシチュエーションを、細かく丁寧に描くのが彼の作風だった。
人体のデッサン力はかなりのものであるが、
それ以上に変化の過程に対する異常なまでのこだわりと、滲み出るフェティシズムが、一定の固定ファンを生んでいた。
タクマは、化け狸だった。
しかし彼自身は、もはやそれを「本当の自分」とは思っていない。
人間の姿で生き、大学に通い、講義を受け、バイトをし、アパートでゲームをして、夜な夜な作品を描く。
衣食住が守られ、好きなことをして生きられるこの世界に、何の不満もなかった。
本当の姿であるタヌキに戻る理由など、彼の中にはもう存在しなかった。
「よしっ……完成!」
タクマは小さくガッツポーズをした。
今夜描き上げたのは、大学生の青年が徐々に狸の姿に変わっていく全8ページの短編だった。変化の最中に感じる羞恥と興奮、尻尾が生える瞬間の描写に特に力を入れていた。
すぐにSNSへ投稿する。
タイトルは『夜の腹鼓』。ハッシュタグをいくつか付けて、送信ボタンを押した瞬間——
ピコン、ピコン、ピコン。
通知数がみるみる増えていく。
いいね、リポスト、リプライ。
その数字が跳ね上がるのを見るのが、タクマにとって一番の快感だった。彼は満足げに頬を緩め、枕に顔を埋めた。
「ふふっ、反応いいな……」
投稿のついでにタイムラインを流し見る。
当然のようにTF関連のイラストや漫画が並び、ときにはかなり際どい実写系の投稿も混ざる。彼の性的指向も、完全に人間のそれだった。
指が、ふと止まった。
画面に表示されたのは、彼がずっと憧れている絵師の短編漫画だった。
アカウント名は孤狐(こぎつね)。
タクマと同じくTFを扱う作家だが、作風は大きく異なる。
細く繊細な線。感情の機微を丁寧にすくい上げる描写。TFを「目的」ではなく「内面世界を深く描くための手段」として使っているのが特徴だった。
タクマは夢中になって、リプライ欄まで続くその短編を読み進めた。
狐が人間の女性に変わっていく過程で、失われた「野生」と「文明」の間で揺れる葛藤が、静かに、しかし強く描かれていた。
読み終わると、自然とため息が漏れた。
「……上手いな。俺とは全然違う」
いいねとリポストを押す。
プロフィール欄は極めて簡素だった。
『漫画やイラストを描いてます。』
それ以外に日常のポストはほぼない。投稿されているのは作品ばかり。
絵柄の柔らかさと作風から、恐らく女性だとタクマは勝手に想像していた。
(どんな人なんだろう……)
狭い世界で生きてきたタクマにとって、同じTFというニッチな趣味を持つ、しかも推定女性という存在は、ただそれだけで特別に感じられた。
フォローは以前からしていたが、リプライしたりDMを送ったことはない。
タクマはベッドに仰向けになり、天井を見つめた。
ぼんやりと「もし会えたら、どんな話をするんだろう」と想像していた。
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化け狸の変身には、実は厳しい制約があった。
何にでも自由に化けられるわけではない。
化け狸ごとになれる人間の姿は予め決まっていて、変身出来るようになるまでどんな姿かは分からない。
そして変身後はどれだけその「人間らしさ」の解像度を高められるか——皮膚の質感、毛穴のひとつひとつ、指の関節の動き、声の微妙な揺らぎ——それらをどこまでリアルに再現できるかにかかっていた。
その修行は、里にいた頃、まるで芸大生のようなものだった。
人間を何時間も観察し、模写し、粘土で形を再現したり、夜通しイメージを研ぎ澄ます。挫折する者は少なくなかった。
しかしタクマにとっては、それが苦ではなかった。
むしろ楽しかった。
絵を描くことが好きだった彼にとって、人間を「観察し、模写する」行為は自然と今の趣味へと繋がっていった。
イベントまであと二ヶ月。
タクマはいつにも増して気合を入れて漫画を描いていた。
今回は同人イベントの合同誌への寄稿だ。
参加者リストを確認したとき、彼は息を飲んだ。
孤狐——その名前が確かに載っていた。
(孤狐さんに会えるかもしれない)
当初の目的は「自分の作品を発表すること」だったはずなのに、いつの間にかそれが二番手に下がっていた。
タクマは頬を緩めながら、夜な夜なタブレットに向かった。
納期には余裕を持って間に合った。
「脱稿しました!」
SNSにそう投稿すると、すぐに労いのリプライやいいねが殺到した。
タクマはベッドに寝転がり、ニヤけを隠せずにスマホを眺め続けた。
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イベント当日。
東京ビッグサイトは人で溢れていた。
タクマは事前チェックしていたサークルの合同誌を買いあさり、知り合いのサークルに挨拶を回っていた。
しかし、心のどこかでずっと、彼女(推定)を探していた。
壁際のスペースで購入した戦利品を整頓していると、ふと視線が自分の寄稿した合同誌のサークルスペースに向いた。
そこに——
黒髪のロングヘアをした女性が、サークル主と楽しそうに話をしていた。
細いシルエットに白いノースリーブのニット。
清楚で、どこか儚げな美しさと、柔らかな可愛らしさが同居したルックスだった。
タクマの胸が、どくんと大きく高鳴った。
人の波で視界が途切れ途切れになる中、彼は上半身を左右に動かしながら、必死に彼女の姿を目で追った。
女性は最後に小さく会釈をしてその場を去っていった。
タクマは平静を装い、まるでたまたま目に入ったような素振りでサークル主に近づいた。
サークル主はニヤニヤしながら答えた。
「あの方が孤狐さんだよ。びっくりでしょ〜」
それを聞いた瞬間、自分の変身が解けそうになった。
耳の付け根が熱くなり、尻尾の気配が腰のあたりでうずいたが、必死に抑え込んだ。
(あれが……孤狐さん……?)
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イベントは無事終わり、合同誌参加者での打ち上げが居酒屋で始まっていた。
タクマは元々参加予定だったが、彼女が参加すると知った瞬間、参加意欲を200%にまで高めて臨んでいた。
乾杯の音頭の後、皆が和やかに食事と会話を楽しんでいる中、タクマはメンバー内では最年少側で、まだ20歳になっていないためお酒は飲めず、ビールをついで回りながら雑談をしていた。
人嫌いではなかったので、こういう場は意外と心地よかった。
横目で様子を窺う。
数少ない女性メンバーの中で固まって楽しげに話している彼女の姿は、明るく華やかで目立っていた。
(今はこれでいい……。まだ男女でグループが分かれていても、そのうち自然と混ざっていくはずだ)
やがてサークル主が男性陣に声をかけ始め、女性グループの近くに腰を下ろした。
それを皮切りに「サークル主に話しかける体」で女性陣に混ざり込む男性が徐々に増えていく。
やはり彼女は人気だった。
その整ったルックスと屈託のない笑顔は、放っておけるはずがなかった。
タクマは混ざりたかったが、完全にタイミングを逃してしまい、自席で少し寂しく食事を続けていた。
すると酒が入って上機嫌になったサークル主が、突然大きな声で呼んだ。
「ぽん君ー! こっち来いよ!」
思いもしない好機だった。
タクマは中腰でへりくだった仕草を見せながら、早足でその場へ移動した。
サークル主がニヤニヤしながら女性陣に紹介する。
「彼がぽん君ね」
「まだ19!」
なぜかサークル主が自慢げに年齢をバラすと、
「えー!」「若ーい!」「マジで!?」
女性陣から驚きの声が上がった。タクマは照れくさくて嬉しくなってしまう。
その時、サヤが少し身を乗り出して、柔らかく微笑んだ。
「ぽん君、こんばんは。孤狐ことサヤです。ぽん君の作品、楽しく見させてもらってます」
サヤの声は思ったより少し低めで、親しみのある響きがあった。
タクマはドキッとして、慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、孤狐さんの作品はどれも素敵でもう……!」
声がうわずっているのが自分でも分かった。
結構エロティックとも取れるフェティシズム満載の作品を女性に褒められるのは、なんとも背徳的な気分だった。
「サヤでいいよ。ぽん君はぽん君でいい?」
「あ、僕はタクマって言います!」
サヤが本名で呼んでもいいと言ってくれたのに、自分だけアカウント名なのは失礼かと思い、慌てて本名を告げた。
「ふふ……タクマくん」
サヤが微笑みながら名前を呼んだ瞬間、タクマの胸に強烈な衝撃が走った。
(か、可愛い……!)
本名で呼び合うようになったことで一気に打ち解け、二人は自然とTFをテーマにした話で盛り上がり始めた。
タクマはずっと聞きたかったことを切り出した。
「サヤさんは、主人公が異なる姿に変わることで『自分とは何者か』を自問したり、自分の在り方について考えさせる作風ですよね。僕が描いてる作品とは全く違って、すごく気高くて……まるで別ジャンルみたいで、ずっと気になってました」
頷きながら聞いていたサヤは、少し天井を見上げてから静かに答えた。
「そうね。何ていうか、別の姿になるって、結構『自分を否定する』ことに扱われがちだと思うの。ほら、呪いで犬やカエルにされちゃった、みたいな話とかあるでしょ?」
「でも私は、自分っていうのは姿が決めるものじゃないと思ってる。赤ちゃんの頃と大人、お年寄りになった時の見た目は全然違うけど、全部自分じゃない? そういう延長上にTFがあってもいいんじゃないかなって、私は思うな」
「……お〜!」
いつの間にか周囲のメンバーもサヤの話に聞き入っていて、感銘を受けた声があちこちから上がっていた。
タクマは胸の奥が少しズキッとした。
自分は化け狸であることを普段は忘れるくらい人間社会に馴染んでいたが、「自分は何者か」と問われた時、人間かタヌキかの二択しか考えていなかった。しかしサヤの言葉は、その枠を優しく広げてくれた気がした。
サヤの考え方に、ますます魅力を感じる。
これはもう「好き」というより、明確に「恋」に変わり始めていた。
そんなタクマがポケーっとしていると、ふと目が合った。
サヤは優しくニコッと微笑みかけた。
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イベントの翌日、タクマは早速レポート制作に取りかかった。
合同誌イベントの当日の様子を漫画形式で描き起こす、いわゆる「イベントレポート」だ。
こういうものは鮮度が命。
記憶が新しいうちに仕上げて、参加者たちの間で共有するのが暗黙のルールだった。
不特定多数が見るものというより、参加者本人たちに見てもらうためのレポートなので、容姿や人柄をさりげなく褒めておくとウケが良いと相場が決まっている。
タクマの最大の目的は、もちろんサヤへのアピールだった。
(でも、あまりサヤさんに偏りすぎるのも露骨すぎる……)
彼は苦心しながらページのバランスを調整した。
サークル主の挨拶、他のメンバーとの会話、盛り上がった雰囲気など全体を丁寧に描きつつも、どうしてもサヤのページには力が入ってしまう。
サヤはアカウント名の「孤狐」から連想して、擬人化された美しいキツネのケモノキャラとして描いた。
耳の形、尾のライン、柔らかな笑顔の表情——どれも時間をかけて丁寧に描き込んだ。
普段の自分では出せないくらいの気合だった。
TF論については、詳しく描きたかった。
サヤが語った「姿が変わっても全部自分」という深い話は、タクマの心に強く残っていた。
しかしレポートという性質上、バランスを考えると無難にまとめるしかなかった。
「孤狐さんはとても素敵な方でした」
「孤狐さんの語るTF論に、メンバーみんな感心していました」
……これだけだ。
(ホントはもっと書きたかった……)
少し後ろ髪を引かれる思いだったが、イベントから二日目には手早く完成させてPixivとXに投稿した。
投稿後、タクマは普段より明らかに通知を確認する頻度が高くなっていた。
固定メンバーの「お疲れ様」「面白かった!」といういいねとコメントが並ぶ中——
サヤのアカウントから、いいねと一緒に引用リポストが届いた。
『ぽんさんは可愛かったです♪』
その一言を見た瞬間、タクマはベッドに突っ伏した。
「うわああああっ……!」
枕に顔を思い切り埋め、両足をバタバタと動かしながら悶絶する。
耳まで真っ赤になっていた。心臓がバクバクと鳴っているのが自分でも分かる。
(可愛いって……俺のこと!? サヤさんが!?)
照れと嬉しさで頭が沸騰しそうだった。
特に「ぽんさん」と呼んでくれたのが、妙に親しげで胸に染みた。
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それからタクマとサヤは、打ち上げをきっかけに連絡を取り合うようになった。
最初はレポートの感想から始まったやり取りが、次第に日常の話題へ広がっていく。
互いの近況、最近読んだ漫画、描いている作品の話、そして画材の話へと。
ある日、アナログ画の話題になった時、タクマはふと昔のことを思い出した。
(……そういえば、僕が人間の姿を安定させるために描き始めたのも、元は修行の一環だったんだよな)
化け狸として人間社会に溶け込むための修行は鉛筆を握るための手を作るところから始まった。
何とか再現した指のようなものでクレヨンを握った。
手が安定してきてからは、鉛筆に切り替え、人間そのものを描き続けた。
様々なアングル、ポーズ、表情。
さらに医学書まで買い込んで筋肉や骨格のディテールを学び、徐々に「人間らしい動きとシルエット」を自分のものにしていった。
描くことで身体に覚えさせる——それがタクマなりの、人間になるための努力だった。
そんな話を軽く匂わせながら返信していると、サヤから新しいメッセージが届いた。
『私もアナログ画、久しぶりに描きたくなってきて。
画材を新しく買いたいんだけど、近くに大きな書店があるから一緒に買いに行かない?
タクマくんも何か欲しいものあったら教えてね♪』
タクマは画面を凝視した。
(……え? 二人で?)
心臓が急に大きく鳴り始めた。
これは、デートなのだろうか……?
メッセージを三度読み返し、勘違いしていないか必死で確認する。
文章のトーンはあくまで「画材買い物のお誘い」なのに、タクマの頭の中ではすでに淡いピンク色の妄想が広がっていた。
指が震えながら返信を打つ。
『僕でよければ喜んで!
いつがいいですか?』
送信した瞬間、枕に顔を埋めて小さく叫んだ。
「まじか……本当に二人で行くのか……!」
照れと期待で胸がいっぱいになる。
サヤと二人きりで過ごす時間。
それがただの買い物だとしても、タクマにとっては特別なイベントだった。
一方で、少しだけ冷静な部分が囁く。
(……俺みたいな、実はタヌキの奴が、サヤさんと並んで歩くなんて……)
人間として上手く振る舞えている自信はある。
でも、サヤの前ではどうしても素の部分が出てしまいそうで、少しだけ怖くもあった。
送信から数分後、サヤからすぐに返信が来た。
『やった! 来週の土曜とかどう?
楽しみにしてるね、タクマくん♡』
そのハートマークを見て、タクマは再び枕にダイブした。
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ここ最近、タクマは寝るとタヌキ姿になっていることが増えていた。
朝、目が覚めるとパジャマや下着が脱げ落ちていて、その中に小さなタヌキの自分が埋もれている。
最初は珍しいことではなかったが、最近は頻度が明らかに上がっていた。
「……ちょっと最近、気が緩んでるのかな?」
タクマは布団の中で小さくため息をついた。
人間の姿を保つ集中力が、明らかに低下している。
サヤのことを考える時間が多くなったせいか、精神的な余裕が本能に影響を与えているのかもしれなかった。
(こんな体たらくで、サヤさんと一晩一緒に過ごすことになったら……絶対にまずい)
勝手に都合の良い展開を想像しては、慌てて頭を振って自戒するのだった。
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約束の当日。
タクマとサヤは、都内でも有数の大型書店に向かって並んで歩いていた。
サヤはふわっとした明るいベージュのニットに、柔らかいフレアスカートという可愛らしいコーデだった。
特に印象的だったのは、彼女の長い黒髪だ。
深い艶と輝くようなキューティクルが光を反射して、まるで美しい狐の毛並みを思わせる。
タクマは今まであんなに綺麗な黒髪を見たことがなかった。
「でっか……!」
書店に入り、画材フロアに到着するとタクマの目が輝いた。
修行時代はほとんど鉛筆しか使わなかった彼にとって、このフロアは未知の世界だった。
広い通路に所狭しと並ぶ画材の数々に、テンションが一気に上がる。
150色の色鉛筆セットを見つけた瞬間、思わず声が出た。
「こんなに色があったらいいですよねー!」
隣のサヤが笑いながら答える。
「そうだね。でも私は、色数が少ない方が逆にやってやろうじゃんってなるかも」
少しドヤ顔で言い返してきたサヤに、タクマは思わず笑ってしまった。
その後もタクマは現代にも現存していたスクリーントーンや、様々な色のコピックを見ては目を輝かせ、値段を見ては大げさに驚いたりして、終始楽しげだった。
サヤもそんな彼の様子を優しく見守りながら、時折楽しそうに相槌を打っていた。
いろいろと見て回った結果、
サヤはソフトパステルのセットを、
タクマは結局デッサン用の高級鉛筆と、厚手のスケッチブックを買うことにした。
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その後、二人は書店近くのカフェで昼食をとることにした。
タクマが事前に「女子ウケバッチリ」とネットで調べて選んだ店だったが、入ってみると想像以上にカップル向けの雰囲気が強かった。
柔らかい照明、二人掛けのソファ席、テーブルに飾られた小さな花……。
タクマは内心で縮こまりながらも、なんとか自然を装って会話を続けていた。
食事が終わり、プチデザートが運ばれてきた後も、サヤはメニューをじっと見つめていた。そして少し迷った様子で、期間限定のジェラートを追加注文した。
運ばれてきた色鮮やかなジェラートを前に、サヤは少しバツが悪そうに笑った。
「ふふ……期間限定って言葉に弱いんだ、私」
その言葉に、タクマは自然と頷いた。
「わかります。期間が決まってると、『この時しかない!』ってなっちゃいますからね」
するとサヤの顔がパッと明るくなり、身を乗り出すように熱弁し始めた。
「そう! このジェラートだって、タクマくんとこのお店に来なかったら絶対に食べられなかったわけだし!」
「と言うことで、限られた期間を堪能させてもらいます!」
そう言ってスプーンを手に取ったサヤは、最後に小さく肩をすくめて付け加えた。
「……ホントはダイエットしてたんだけどね」
そして、悪戯っぽく舌をちょこっと出してみせる。
その瞬間、タクマは胸を強く突かれたような感覚に襲われた。
(……こんなあざとい仕草が、普通に可愛く見えてしまう……)
サヤの柔らかい唇から覗く舌先が、わずかに濡れて光っている。
タクマは自分の反応に内心で動揺した。
ただ可愛いと思うだけではなく、はっきりと性的な興奮を覚えてしまった自分に、驚きと羞恥が同時に押し寄せてくる。
(やば……僕、何考えてんだ……)
慌てて視線を逸らそうとしたが、サヤの笑顔があまりにも自然で、かえって目が離せなくなっていた。
サヤはそんなタクマの反応に気づいているのか、いないのか、満足げにジェラートを一口食べながら微笑んでいた。
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食事を終えた後、二人はそのまま近くにある小さな動物園へ足を伸ばした。
規模は大きくなく、象やキリンといった大型の海外動物はいない。
日本の小型~中型の動物を中心に集めた、どちらかと言えば地味で落ち着いた園内だった。
それでも二人はゆっくりと回りながら、動物たちを眺めていた。
やがて「キツネとタヌキ」の展示コーナーに辿り着いた。
金網には手作りのポップが貼られていて、「赤ちゃん産まれました!」と可愛い子ギツネのイラストが描かれている。
二人は同時に背伸びをして、
「いる?」「ほら、あそこ!」
とキョロキョロしながら赤ちゃんキツネを探した。
確かに、小さな子ギツネが数匹、母親の近くでじゃれ合っていた。
サヤの反応を期待して横を見たタクマだったが、彼女の表情が予想とは違っていた。
サヤは静かに展示を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……あの子達はああやって、この世界にいた証を残していくんだね」
「え……?」
タクマが戸惑うと、サヤはゆっくりと彼の方を向いた。
「タクマくん。私達、化け狸と化け狐は何が残せるんだろう?」
タクマは息を飲んだ。
自分が化け狸であることを見破られた衝撃と、サヤが化け狐であるという事実の両方に、頭が真っ白になった。
「何で…、僕が化け狸だって分かったの…?」
「DMでデッサンを“修行“って呼んでた時、かな」
タクマはハッとした。
サヤは少し悲しそうな顔で続けた。
「化け狐も化け狸も、もう残り少ないよね……」
タクマは知っていた。
化ける力は、人々が「狐や狸が化ける」という存在を信じる想いの強さに比例するということ。
そして現代社会では、そうした幻想が急速に失われつつあることも。
「私、感じてるんだ。もう私が人間の姿でいられるのも、残りわずかだって」
タクマの背筋が凍った。
ここ最近、自分が寝るとタヌキ姿に戻ってしまう頻度が上がっている理由が、急に腑に落ちた。
そして、せっかくサヤと親しくなれたのに、人間の姿で一緒にいられる時間も限られているという現実が、重くのしかかってきた。
タクマは必死に明るく振る舞おうとした。
「そうだ! サヤさんも僕も、化け狐と化け狸のテーマでTF作品を描こうよ! そうすればもっと認知されるよ! 孤狐さんの作品なら絶対に影響力あるって!」
サヤは悲しそうに微笑んだ。
「それはジャンルとしての認知であって……実在するって思ってくれるかは、また別かもね」
「じゃあ、動画を投稿しよう! 僕やサヤさんがタヌキとキツネの姿から人間になる姿を……!」
「AIだって思われちゃうよ……」
気付いたら、タクマは熱弁している最中に涙を流していた。
頰を伝う涙を自分で認識した瞬間、嗚咽が漏れた。
サヤは静かに近づき、タクマの頰にそっと手を当てて涙を拭った。
「凄いね……泣くことも出来るんだ。相当修行したんだね」
その言葉に、タクマはさらに泣いた。
動物は涙を流せない。化け狐も化け狸も然りである。
サヤは、人間の涙までトレース出来ておらず、どんなに悲しくても泣くことができないようだった。
その事実に胸が張り裂けそうになって、タクマは声を上げて泣いた。
サヤは黙って彼の背中を優しく撫でながら、複雑な眼差しでタクマを見つめていた。
ーーーーーーーーーーーーー
その日以降、タクマはサヤのアパートに頻繁に通うようになった。
二人はコンビニで買い込んだお菓子やアイスを並べ、サブスクで映画を見たり、ゲームをしたりした。
「アイス、半分ずつ食べて交換しよっか?」
サヤは笑いながらスプーンを差し出し、肩を寄せ、腕に触れ、時には髪をくしゃくしゃと撫でてくる。距離が、明らかに近くなっていた。
サヤは意外にもギャグアニメが大好きで、この上品な見た目からは想像もつかないような笑いっぷりだった。
タクマはそんなギャップに苦笑いした。
そして毎回、必ずお互いをデッサンする時間を設けた。
「あ、タクマくん。ここちょっと耳の作り込みが甘いよ」
サヤはそう言いながら、タクマの耳を指先でそっと撫でる。
「そ、そう? 個人差じゃない……?」
タクマは恥ずかしそうに身をよじる。
「ところで、化けた姿を模写したって、コピーのコピーになっちゃわない?」
「私はほぼ完璧だから、そんなことにならないよ」
「おお〜言うね〜」
「しっかり確認させてもらおうじゃない」
タクマがわざとらしく体を捻ったり屈んだりして、下からサヤの胸元を覗き込むと、
「えっち!」
と軽くはたかれる。
そんな他愛もないやり取りを繰り返しながら、二人はとても充実した、しかしどこか儚い日々を過ごした。
ーーーーーーーーーーーーー
それからひと月経つ頃。
日に日に、二人の力が弱まっていくのを実感するようになった。
タクマは集中していないとすぐに変身が解けそうになり、常に気が張っていた。
精神的にかなり参っていた。
サヤはさらに酷かった。
人間の姿を維持できる時間が、一日の半分を切るようになっていた。
自然と、二人は外に出ることを減らし、家で過ごす時間が増えていった。
ある夜、サヤの部屋で。
二人はベッドに腰掛け、壁を背に寄り添っていた。
サヤは疲れた様子で、タクマの肩にそっと頭を乗せている。長い黒髪がタクマの胸元に流れ、柔らかな重みと温かさが伝わってきた。
「……無理しなくていいよ」
タクマが小さく言うと、サヤは静かに首を振った。
「この姿で、タクマくんと一緒にいたいの……」
その声は、明らかに疲弊していた。
力が弱まったら変身が解ける——それを二人は、今まさに身をもって理解させられていた。
タクマは天井を見つめ、ぽつりと呟いた。
「完全に力を失ったら、僕達はどうなるんだろう」
サヤはしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「私達は、妖(あやかし)で……生き物じゃない…」
「やっぱり…消えちゃうんじゃないかな…」
それでも、タクマは自分の肩に触れるサヤの体温を感じていた。
ケガをすれば血も出る。痛みも感じる。
この温もりは、紛れもなく「生きている」証のように思えた。
サヤが、囁くような小さな声で言った。
「タクマくん……お願い、聞いてくれる?」
「……うん」
「私、泣いてみたい」
タクマは息を飲んだ。
「どうして……?」
サヤは俯きながら静かに話す。
「だって……悲しいのに泣けないのがこんなに辛いなんて思わなかったから」
サヤの感情は溢れた。
「タクマくんとこれからも人間の姿で絵を描きたかった!一緒にいろんな所に行ったり、一緒に美味しいものを食べたかった!」
「…それが叶わなくてこんなに悲しいのに、タクマくんに泣いて伝えられないのが、辛い」
サヤは悲痛な声でタクマに訴えかける。
とても悲しそうなのに涙はやはり出ていない。
タクマは、胸が締め付けられた。
ーーーーーーーーーーーーー
その言葉を聞いた翌日から、彼は行動を始めた。
以前二人で行った書店で、目に関する医学書を何冊も買い漁った。
涙のメカニズム、涙腺の構造、表情筋の動き——タクマは自分で図解を描きながら、一生懸命サヤに教え続けた。
自分の変身が解けそうになるのを必死に抑えながら、ただサヤのために。
サヤも、残された人間の時間をほとんどその修行に捧げた。
鏡の前で涙腺を意識し、感情を呼び起こし、タクマに教えられた通りに目を細め、眉を寄せ、何度も何度も試した。
そして——
人間の姿でいられる時間が一日の大半を失っていたある日。
サヤの瞳から、ついに一粒の涙がこぼれ落ちた。
透明で、熱くて、震えるような涙だった。
その瞬間、二人は本当に喜んで泣いた。
タクマは声を上げて泣き、サヤも嗚咽を漏らしながら泣いた。
たぶん、それは二人にとって、一生分に相当するほどの涙だった。
サヤはタクマの胸に顔を埋めながら、涙声で何度も繰り返した。
「……ありがとう、タクマくん」
タクマはただ、彼女の震える背中を、必死に抱きしめていた。
ーーーーーーーーーーーーー
その後もタクマは人間でいられる時間は絵を描き続けた。
やがてタクマが書店で買ったデッサン鉛筆のストックが無くなる頃。
サヤのアカウントの更新が、パタリと止まった。
「気長に再開待っています!」
「心配です」
「大丈夫でしょうか?」
そんな心配のリプライが並ぶ中、タクマはただ一言だけ送った。
『ありがとう』
そして後を追うように、タクマのアカウントの更新も止まった。
サヤの最後の投稿は、人間からタヌキになった男性のTF漫画だった。
タクマの最後の投稿は、人間が狐になった女性の、静かな別れの物語だった。
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二人は既にあらゆる契約を解約し、部屋を片付け終えていた。
殺風景になり、静まり返ったサヤのアパートのテーブルには、二冊のスケッチブックだけが静かに置かれていた。
スケッチブックにはそれぞれ鉛筆のデッサンとソフトパステルの柔らかなイラストが描かれている。
憂いを帯びた横顔のサヤ
笑顔のタクマ
眠っているサヤ
変顔でマッスルポーズをとるタクマ
食べ終えたアイスの容器やポテトの袋
ベランダから見える風景
キツネとタヌキが仲睦まじく寄り添う姿ーー
完