水槽の中の青空
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
人間は「一山いくら」で使い捨てられる危険労働の代替品。AIロボットとアンドロイドが街を闊歩し、ファームで製造された人間は15歳の姿で目覚め、長く生きられない肉体を抱えて働き続ける。 黒髪の少女ルアも、そんな一人だった。識別名はNZE-125876。苗字も、家族も、未来もない。 ある日ルアは、街の片隅のオールドデータショップで、300年前の世界が詰まったメモリチップを手に入れる。そこに映っていたのは、濁りのない青空。海。笑い合う家族。たった一人の新しい命を、時間をかけて慈しむ人々の姿だった。
本文
ビーーーー。
「シフトA労働時間終了、シフトA労働時間終了」
耳を刺すけたたましいブザー音の直後、無機質な電子音声が工場内に響き渡る。
少女は汚れた作業服の袖で、額に浮いた汗を雑に拭った。
周囲の労働者たちからも、安堵や溜息といった感情が漏れ出す気配はない。皆、無言のまま機械的な動作で持ち場を離れ、すでに背後に待機していた次のシフトの人間と入れ替わっていく。人の波に押し流されるように、少女も受付窓口へと続く長蛇の列に加わった。
どこからか、土埃を含んだ煙い風が吹き抜ける。
全身の土汚れとは不釣り合いな、艶やかな黒髪がふわりと揺れた。
順番が来ると、彼女は無言で受付の台座に手の甲を差し出す。皮膚の下に埋め込まれた素子が反応し、浮き上がったQRコードへ受付機が赤いレーザー光線を照射した。
ピッ、という無機質な電子音。視界の隅に投影された端末画面に、その日の日当が入金された通知が表示される。
『個人情報に間違いないかご確認ください』
白々しい画面の文言。そこに踊る文字。
【NZE-125876】
ルア――それが彼女の残された唯一の識別名だ。苗字はない。
識別年齢、2歳。
肉体的な年齢、17歳。
「確認、オッケー……」
ルアは掠れた声で小さく呟き、名前と入金だけを確認すると、その場を後にした。
チカチカと不快に明滅する電飾だけが輝く、埃っぽい街路を歩く。通りを行き交う人間たちは皆、薄汚れた作業着に身を包み、足元だけを見つめて力なく俯いていた。
対照的なのは、通りの中央を堂々と行き交う姿だ。洗練された金属躯体を持つAIロボットや、生体を捨て去った“元人間”のアンドロイドたちが、優雅に闊歩している。
かつての世界は崩壊し、いまや人間とAIロボットの価値は完全に逆転していた。人間は「一山いくら」で使い捨てられる、危険労働の安価な代替品に過ぎない。
階層化された街の日常をどこか他人事のように眺めていたルアだったが、突如、足元をすくわれるようにつまずいた。
「っ……」
膝がガクガクと激しく震え、力が入らない。時折、唐突に訪れる身体の拒絶反応だ。
ファーム出身者に共通した、肉体のガタだった。
ファーム――それは、人間の生産工場。
透明なパウチに満たされた人工羊水の中で、過剰な成長促進剤と絶え間ない電気刺激によって、胎児から15歳相当の姿になるまで成長を強制される。加えて、脳へ直接流し込まれる圧縮学習データのプリンティング。
自我を自覚した時には、すでに言葉を話し、二足歩行することができた。
だが、人間の正常な成長速度を無視した反動は、あまりにも大きかった。誕生した瞬間から肉体には壊滅的なガタがきており、どう足掻いても長生きはできない構造なのだ。
だからこそ、人々は生き方に選択を迫られる。
必死に低賃金労働で金を貯め、自らの記憶と人格をデータ化してアンドロイドとして新たな肉体を得る者。あるいは、脳だけを摘出し、直接接続された仮想世界で寿命を迎えるまで穏やかな夢を見続ける者。
誰にとっても、この生身の肉体は一度限りの「使い捨ての器」でしかなかった。
脳だけになろうと、データを機械に移そうと――少なくとも、この埃と汗に塗れた現実で肉体を削り続けるよりは、遥かに幸せな選択肢なのだから。
ルアは震える膝を力任せに叩くと、前を向き、再び薄暗い街の奥へと足を踏み出した。
ーーーー
自室の薄いマットレスの上で、ルアは幾度目かの寝返りを打った。
身にまとっているのは、ヨレヨレのタンクトップと無地のショートパンツだけ。パジャマなんていう上等で贅沢な布地は、この街のどこを探しても存在しない。
ここ最近、夜になると胸の奥を重く押し潰すような焦燥感に苛まれ、まともに寝付けない日が増えていた。
いや、「漠然とした不安」などという生ぬるい言葉で誤魔化すのはやめよう。理由は痛いほどはっきりしている。
明日も無事に息をしているか分からない危険な労働。そして、いつかは分からないが、確実にそう遠くない未来にこの肉体が限界を迎えるという事実。考えてもどうにもならないことだと頭では理解しているのに、一度思考の渦にはまると二度と抜け出せなくなる。
ルアは諦めたように溜息をつくと、壁に掛けてあった古びた上着を羽織り、部屋の外へと逃げ出した。
眠れない夜、こうして外を歩くのが彼女の習慣になっていた。目的も当てもなく、ただ冷たい夜気に身を晒す行為は、散歩というよりは徘徊に近かった。
カン、カン、カン。
錆びついた鉄製の階段を降り、薄暗いコンクリートの壁に囲まれた殺風景な路地を歩く。至る所で配管がむき出しになっており、シューシューと白い蒸気を吐き出していた。
別に見たい景色など一つもない。ただ、胸の中の不安に背中を押されるようにして、足を動かし続けているだけだ。
頭上を通る高架下を歩いていると、浮遊モビール特有の低く澄んだ駆動音が近づき、瞬く間に遠ざかっていく。ルアが一生死ぬまで働き詰めたとしても、逆立ちしたって手に入らない未来の乗り物だ。
浮遊モビールが向かう先には、遠く霞む空へと伸びる煌びやかな都市がそびえ立っている。“上の世界”――特権階級の人間だけが暮らすことを許された場所だ。
ルアたちの暮らすこの泥と埃に塗れた街と、上の世界をつなぐアクセスは厳重に制限されている。
それは彼女たちにとっての、足元にあるマンホールと同じだった。
上の世界の人々にとって、この下層街はせいぜい「下水道」でしかない。誰も好き好んでマンホールの蓋を開け、その中を歩きたいとは思わないだろう。
遠くに見える上の世界は、ホログラムや電子ネオンによって色鮮やかな色彩を夜空に放っている。だが、ルアの胸に羨望が芽生えることはなかった。
それを綺麗と感じてもそこに行ける訳ではない。手が届くはずのないものを羨む程無意味な事は無かった。
「おっ! ルアじゃん!」
不意に、湿っぽく暗い路地には不釣り合いなほど明るい声が響いた。
「やっほー、キリちゃんです!」
首を傾げると街灯の光を反射して、明るい栗色の髪がさらりと揺れる。
キリ――彼女もルアと同じタイミングで“ファーム”から出荷された少女だった。仕事の共同作業で一緒になった際、一方的にやたらと話しかけられ、半ば強引に友達認定されたのだ。ルアにとって彼女は、この街で唯一、名前と顔をはっきりと記憶している貴重な存在だった。
「今日も眠れないの?」
「うん……」
「よし! じゃあ眠くなるまで、一緒にお散歩しながらお話ししよ!」
キリは、こんな救いのない世界に生きているとは思えないほど、いつも明るくお喋りだった。手の届くものも、自分の足で行ける範囲も限られた狭い世界で、どうしてそんなに話すネタがあるのか、ルアには不思議でならなかった。
「……でさ、ルアはどう思う?」
「え? あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「やっぱ? 眠れない時ってだいたいそうだよね」
「ごめんね……」
「んー、気にしないで! たいした内容じゃないし」
キリは屈託なく笑う。ルアはその横顔をしばらく見つめてから、意を決したように問いかけた。
「ねぇ、キリ……」
「ん?」
「キリは、将来どうするの?」
「将来? 一ヶ月後とかの話?」
「ううん、もうちょっと先。……この体がダメになる前に、どうしたいのかなって」
「あぁ……」
キリの表情から軽快さが抜け、話の意図を汲み取った顔になった。
「私はね、脳を摘出して仮想空間で過ごそうかなって思ってる」
「……怖くないの?」
「怖い? なんで?」
「だって……」
ルアは言葉を詰まらせた。
脳を摘出した時点で――この肉体から脳を切り離した時点で、それは「死」と同じなのではないか。そこから先に見るものは、機械と脳が作り出すただの錯覚だ。誰一人としてキリが何を見ているのかを認識することはできないし、現実世界に残るのは水槽に浮かぶグロテスクな脳髄だけ。
それを本当に「生きている」と言えるのだろうか。
うまく言語化できずに黙り込むルアを見て、キリはどこか不思議そうに首をかしげた。
「ルアはさ……この世界に生きていたいの?」
「それは……」
ルアは答えに詰まった。
先の見えない暗闇のような世界で、ただ野放図に死なないためだけに労働を続ける日々。これを「生きている」と呼んでいいのだろうか。この過酷な現実世界から断絶されることに、自分は一体どんな未練を感じているのだろう。
静寂を破るように、キリがパッと表情を明るくして切り出した。
「あ、そうだ! 私ね、最近『オールドデータ』を見るのにハマってるんだ」
「オールドデータ?」
「そう! 昔の記録媒体に残されたデータのこと。こんな円盤みたいな形したやつとか、四角いカードみたいなのに入ってるの」
キリは身振り手振りでその形状を形作ってみせる。
「こんなローテクな方法で記録を残すなんて、なんだかロマンあるでしょ?」
ルアにはその「ロマン」とやらがさっぱり分からなかったが、黙って耳を傾けた。
「そこにね、昔の暮らしとか世界の映像が残ってたりするんだけど……今と全然違うんだよ。私はそういう世界を、仮想現実の中でいいから生きてみたいなって思ってるの。ルアも見たら絶対びっくりするから、今度探してみてよ」
昔の世界。
学校と呼ばれる教育プログラムで教わった記憶ならある。だが、キリが目を輝かせて語る内容とは、まるでイメージがかけ離れていた。
ルアの記憶にある「昔」は、今見ている景色と大差ない。人間は生まれながらに階級が決まっており、AIロボットやアンドロイドに奉仕することこそが人間の最大の存在意義であり幸福だ――そう教え込まれたはずだった。
……だが、その学校の記憶すら、怪しいものだ。以前キリと過去の話をした時、驚くほど記憶のエピソードが一致していた。汎用的に作られ、脳に植え付けられた人工の過去。自分たちのオリジナリティなどどこにもないのだと知って以来、二人は自身の過去について話すのをやめていたのだから。
「じゃあ、私はこっちだから。また明日ね、ルア!」
夜道の手前でキリと別れ、ルアは一人、あばら屋の自室へと続く道を歩き出す。
静まり返った路地に、自分の足音だけが空虚に響いていた。
(本当の……昔の世界……)
植え付けられた偽物の記憶ではなく、キリが見たという古びたデータの中の世界。
かつて人間が人間らしく暮らしていたかもしれない、本当の過去。
ルアは暗闇を見つめながら、まだ見ぬその世界の姿に、静かに思いを馳せていた。
ーーーー
翌日。過酷な労働を終えたルアは、昨日キリから聞いた言葉だけを頼りに、オールドデータを取り扱う店を探していた。
大通りを外れ、路地裏へと足を踏み入れる。周囲は街灯の光すら届かない暗がりだった。
「本当に、こんなところにあるのかな……」
ルアの小さな呟きが、静まり返った路地に虚しく消える。まるで迷路のように複雑に入り組んだ路地を進んでいくと、行き止まりの袋小路に、錆だらけの重々しいドアがひっそりと佇んでいた。
ドアの脇にある小さな液晶パネルには、《オールドデータあり》と無機質な文字が表示されている。
ホログラム全盛のこの時代に、わざわざ古めかしい液晶パネルを使っているあたりが、そういった年代物を扱っている何よりの証明だった。
「これだ……」
ルアはかすかに息を呑み、緊張で固くなった手で扉を押し開けた。
カラン、とドアベル代わりに設置された金属片が鳴る。
店内は薄暗かったが、雑多に積み上げられた様々なオールドデバイスのインジケーターランプや、モニターの発する淡い光が明滅していた。その光景は、偽物の記憶にある「星空」のようだとルアは思った。
「いらっしゃい」
店の奥から、擦り切れた布が擦れるような、しゃがれた声が聞こえた。
カウンターの奥にいたのは、老人の男性だった。
ルアにとって、本物の「老人」を目にするのはこれが初めてのことだった。
人間の肉体のまま歳月を重ねていけば、いずれこのような姿になっていくのだということは知識として知っている。
しかし、ルアたちが生きるこの過酷な世界では、衰える自分の肉体でそこまで生き続けることなど到底不可能だった。
浅黒く焼けた肌。深く刻まれたシワ。長く伸びた綺麗な白髪。
ルアの目には、死と隣り合わせの肉体を長年維持してきたその姿が、どこか恐ろしくも不思議と美しく映った。
「見かけない顔だな」
「あっ、はい!私はルアって言います。 キリって子に聞いて……探して来ました」
「ああ、あの最近よく来るおしゃべりな娘か」
老人は呆れたように笑った。
キリの印象は、誰にとっても変わらないらしい。
「何か探しているものでもあるのか?」
「そうですね……キリが、現代とはまったく違う世界だった頃の話をしていて……」
「ふむ。なら、今から300年くらい前のデータだな。AIや集合知が世間に浸透し始めた黎明期の頃だ」
「300年……そんなに前なんですか」
「うむ。その頃のAIはな、人間が何かを質問すると、それに答えてくれる『対話型』ってヤツが主流だったらしい」
人間が主導権を握って問いかけ、AIがそれに従う――。
AIロボットが主人として君臨し、人間がそれに奉仕する今の世界とは完全に主従が逆転している事実に、ルアは深い衝撃を受けた。
「……300年前の人たちは、AIに尽くさないで、何の役割があったんですか?」
ルアの口から漏れ出たのは、純粋な疑問だった。
AIロボットやアンドロイドに奉仕し、その維持管理のための部品として生きること――それこそが自分たち人間の唯一の存在意義だと教え込まれてきた。それはルアだけでなく、ファームで生まれた者全員にとって疑う余地のない「絶対の常識」だったのだ。
ルアの問いを聞いた瞬間、老人の深く刻まれたシワの奥にある瞳に、胸を締め付けられるような、酷く悲しい色が揺れる。
「……それを知るには、その時代のオールドデータをご自分で見てみるのが一番だろう」
老人は小さく首を振ると、ゆっくりと店内へと視線を向けた。
「このあたりの棚にあるのが、その時代の代物だ」
老人が手元のスキャナーに手をかざすと、壁のラックが重い音を立てて展開された。
そこには、ルアが今までに見たこともないような、用途も想像がつかないデバイスや不器用なガジェット類がずらりと並んでいた。
「わぁ……」
ルアの瞳に、かすかな輝きが宿る。
「この時代は『スマホ』なんて呼ばれるデバイスがよく使われていてな」
老人は棚から小さな四角い板を取り出すと、表面を指でなぞってみせた。
「このガラスのスクリーンに静電式のタッチパネルが付いていて、こうやって直接指で操作したそうだ」
「へぇ……」
「これの記憶容量はたったの128GBだ」
ルアは思わず目を見張った。
「ひゃくにじゅうはちギガ!? たったそれだけなんですか?」
「まあ、当時は単一の視界を平面で記録しただけの動画しかなかった頃だからな」
空間全体をそのまま丸ごと記録し、五感へダイレクトに投影する現代の情報量に比べれば、それはあまりに乏しいものなのだろうとルアは納得する。
「それでも、いや、だからこそ面白い。視界のすべてを記録できないからこそ、そのフレームの向こうには撮影者が『どうしても見せたかったもの』という意志が残るんだ」
ルアはぽつりと瞬きをした。
意図を持って記録を残そうとすること自体は、現代のデータ収集と何が違うのだろう。
老人の言おうとしている「意志」の違いが、ルアにはまだ理解できなかった。
ルアは吸い寄せられるように、それらの端末や記憶媒体を手に取った。冷たい金属とプラスチックの触感が手に残る。
「……まあ、時代が時代だから多少値は張るがな」
淡々と語る老人を見て、ルアは引きつった声を上げた。
「うっ……」
結局、ルアはその日獲得した日当の大部分を奮発し、スマホに残されていた小さなメモリチップ、青く光る『ブルーレイ』と呼ばれるディスク、そしてそれらのデータを自身の端末で再生するための変換器を購入した。
手のひらに載せた小さなパーツをまじまじと眺める。
こんな薄っぺらな物に、本当に一つの「世界」が入っているのだろうか。
不思議な高揚感を胸に抱きながら、ルアは暗い夜道を歩いて自室へと向かった。
早く明日にならないだろうか。
明日、仕事が終わったらキリと一緒にこれを見てみよう。ルアは小さく微笑みながら、大切そうに購入品を抱えていた。
ーーーー
「おはよー!」
翌朝、どんよりとした空気の漂う労働者の控え室に、明るい声が響き渡った。
周囲の人間たちが皆、死んだような目で俯き、黙りこくっているだけに、その声はひときわ異彩を放って目立つ。
「今日も天気が悪いね」
キリは外の景色をチラリと見やりながら言った。
この世界では、空といえばいつだって重苦しい曇りか雨だ。ルアの記憶にある限り、快晴だった日など一度もない。それなのに、まるで「天気の良い日」が当たり前に存在するような口振りで話すキリに、ルアは思わず苦笑してしまった。
「ねぇ、キリ。昨日、オールドデータショップに行ったよ」
その一言で、キリの表情がパッと華やいだ。
「えっ、ホントに行ったんだ!」
「うん」
「てか、よく行けたね! あんな入り組んだ迷路みたいな場所、私のテキトーな説明だけでたどり着けるなんてすごすぎ!」
「うん。かなり迷ったけどね」
二人は顔を見合わせて、クスリと笑い合った。
「もし良かったら……今日の仕事が終わったら、私の部屋で一緒にデータ見な……」
「見る!!!」
食い気味どころか、ルアが言い終わる前にキリが叫ぶ。
「行く! 絶対行く!」
ぐぐっと顔を寄せてくるキリの熱量に押され、ルアは思わず後ずさった。
「わかった、わかったから……じゃあ、また後でね」
ルアはキリの顔の前にぱっと手のひらを掲げ、その圧を遮るように答えた。
「了解! じゃあ今日も頑張って生き残ろうね!」
キリは屈託のない笑顔で大きく手を振ると、自分の作業現場へと向かって控え室を後にしていく。
――頑張って生き残ろう。
この世界において、その言葉は決して例え話などではない。事故や怪我、あるいは肉体の限界によって、昨日まで隣にいた人間が今日にはあっけなく死ぬ。
けれど、キリのあの明るい口調の端々に、ふと過酷な現実を突きつけるような言葉が混ざると、ルアの胸の奥にはどこか切ない痛みが走るのだった。
「今日も……生きよう」
去っていくキリの背中を見送りながら、ルアは誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
ーーーー
その日も命からがら仕事を終え、ルアとキリは二人並んで帰路についた。
「無事に終わったら、一緒にオールドデータを見る」
ただそれだけの些細な約束。けれど、いつもなら憂鬱でしかない劣悪な労働環境を、今日に限っては乗り越えるための強い糧となっていた。それがルアにはどこか可笑しく、そして無性に嬉しかった。
狭いあばら家に帰り着くと、二人はベッドの上にちょこんと並んで座り込んだ。
行きがけに街の露店で買った、ささやかな安物のお菓子を広げる。
「そういえばルア、肝心の変換器は?」
「これだよ」
ルアが取り出したのは、正式名称『マルチフォーマット・リーダー』と呼ばれるデバイスだ。
見た目は透明な水槽のような小さな容器で、中に特殊な液体が満たされている。メモリチップなどの古い媒体を沈めると、液体が自動的に表面の金属接点を検知し、現代の端末規格に合わせた最適な接続経路を液体内に光の線として形成する仕組みだ。
「店のおじいさんが言ってたの。『この液体の中に沈めるだけで、壊れてさえいなければどんな古くさいフォーマットでも読み込める』って」
「えーっ! ルア、すごい高いの買ったじゃん!」
「う……あのおじいさんに熱弁されたら、なんだか断れなくて……」
照れくさそうに鼻の頭を指で掻くルアを見て、キリは「ふふっ」と楽しそうに笑った。
二人は各自の側頭部にあるインターフェーススロットに、受信モジュールのプラグをカチリと差し込む。
「じゃあ……まずはこの『スマホ』に入ってたっていうチップから見ようか」
ルアが指先で小さなメモリチップをつまみ、変換器の澄んだ液体へとそっと沈めた。
次の瞬間、水中に無数の繊細な光のラインが幾重にも交錯し、怪しく輝き出す。
「よし、読み込めそう……」
視界が暗転し、次の瞬間には脳内にダイレクトに鮮明な映像が映し出された。
――最初に流れてきたのは、少し年上の女性が同年代の仲間らしき男女とともに集まり、肩を寄せてポーズをとっているシーンだった。
全員がゆったりとした深い紺色のコートを羽織り、天辺が平たく四角い風変わりな帽子を被っている。その手には、丸められた筒状の厚紙が握られていた。
誰もが屈託のない、眩しいほどの笑顔をカメラに向けている。
だが、ルアたちが息を呑んだのは、彼女たちの表情以上に――その背後に広がる風景だった。
濁りのない、どこまでも突き抜けるような青空。そして、みずみずしく青々と茂る草木。
この世界では一度も見たことがない鮮烈な「生」の色彩に、ルアの心臓はドクンと大きく波打った。
カシャリ、と場面が切り替わる。
今度は、このスマホの持ち主と思われる女性が、純白の繊細なレースで飾られたドレスを身にまとっていた。女性の正面には、仕立ての良いスーツを着た男性が立っている。
周囲を見渡せば、整然と並んだ長椅子に大勢の人々が座り、二人を温かい目で見守っていた。
美しい衣装を着た男の人の前で、向かい合った男性が女性の薬指にそっと小さな金属の輪を取り付ける。
「あ……それ、外付けの通信デバイスかな?」
キリが推測するように呟く。けれど、画面から伝わってくる空気感は、そんな機能的なものでは断じてなかった。
なんて言えばいいのだろう。言葉にはできないけれど、そこにいる全員が二人を心から祝福し、愛おしんでいるような、胸が締め付けられるほど温かい空間だった。
そして、さらに次のシーンへ。
ベッドの上に半身を起こして優しく微笑む女性と、先ほどのスーツ姿の男性。男性の腕の中には、布に包まれた小さな人形のようなものが抱かれていた。
ううん、人形じゃない。かすかに手足を動かし、呼吸をしている。生きているのだ。
「あ……ねえ、ルア……! これって、赤ちゃんじゃない!?」
キリの興奮した声が脳内に直接響く。
ルアは言葉を失っていた。
自分たちの生きる世界で、15歳以下の人間なんて見たことがない。ましてや「赤ちゃん」という存在の現実的な輪郭など、想像したことすら頭に浮かんでこなかった。
一部の特権階級の人間だけが女性の胎内で育てられ、「0歳」の姿で生まれ落ちるという噂を都市伝説のように聞いたことがあるだけだ。
映像の中の男性は、破顔して涙ぐみながら、心底嬉しそうにその小さな命を抱きしめていた。
その後の動画は、成長していく子供がメインとなっていった。動画が切り替わるたびに、赤ちゃんは少しずつ幼い少女になり、無邪気に駆け回るようになっていく。
『海』と呼ばれる、波が寄せては返す巨大な水たまりの端っこ。サクサクと踏み心地の良さそうな砂浜を、手を繋いで歩く女性と子供。
ビル群のノイズもない自然に囲まれた夜空の下で、本物の星空を見上げて歓声をあげる男性と子供。
そのどれもが、ルアにとって天変地異のような衝撃の連続だった。
……ぷつり、と映像が途切れ、現実の薄暗い部屋へと意識が戻ってくる。
ルアはただただ、口を半開きのまま放心状態になっていた。
「ねっ、すごかったでしょ!?」
ルアの激しい反応を見て、キリは自分のことのように満足そうに微笑んだ。
「うん……なんていうか……すごかった……」
自分たちが教え込まれてきた歴史も、人間はAIに奉仕するために生まれてきたという教義も、すべてが薄っぺらな嘘っぱちだったのだと突きつけられたような感覚。
ルアの中で長年培われていた「世界の常識」が、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
ーーーー
「ねぇ、こっちの円盤は何のデータが入ってるんだろう?」
キリが棚の脇に置かれた古びたケースを指差した。
プラスチックのパッケージは経年劣化で黄ばみ、表紙の紙は完全に色が飛び去っている。かろうじて、健康的な肌色の女性が何かポーズをとっているようなシルエットが見える程度だ。
ルアは水槽から先ほどのチップを引き抜くと、今度はその青く光る円盤をゆっくりと液体の中へ沈めた。
円盤の光沢のある表面を、円周をなぞるように繊細な光がクルクルと周回し始める。
カチリ、と同期音が鳴り、二人の脳内に新しい映像が映し出された。
そこに映っていたのは、裸の男女が親密そうに身を寄せ合っている姿だった。
ふたりは双方の唇を何度も重ね合わせている。次第に呼吸を荒くしながら、互いの舌を絡め合わせていった。
「……何やってるんだろう?」
キリが首をかしげる。
「ん……味覚情報の共有……とか?」
ルアも自信なさげに推測を口にする。
その後もしばらく、画面の中の男女が繰り広げる行動はルアとキリにとって不可解なことの連続だった。けれど、その仕草のどれもから、彼らが深い心地よさや満足感を得ていることだけは伝わってきた。
やがて、男性の下腹部にある棒状のものが女性の股の間に添えられ、ゆっくりと内部へ挿入されていく。
「あ! コレって!」
キリが思わず脳内で声を上げた。
「赤ちゃんを作るための作業だよ!」
「えっ……?」
「ほら、さっき男の人のプラグが女の人のソケットに接続されたでしょ!?」
「あ……」
確かにその行為はルアの目にも確認できた。この直接的な接続によって、男性の持つ遺伝情報が女性側へと伝達されるのだと考えれば、すべて辻褄が合う。
だが、そこからの展開が不可解だった。男性はしきりに、女性の身体へ打ち付けるようにして腰を動かし続けているのだ。
「う〜ん……接触が悪いのかな?」
キリは大真面目な顔で男性の行動を分析する。
時間の経過とともに男性の息は激しく上がり、女性もまた苦しそうな声を漏らし始めていた。
「二人とも、すごく苦しそうだね……」
男女は顔を高揚させ、全身に汗を浮かべている。ルアは思わず、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「頑張れ……!」
自然と、声が口から漏れていた。
キリはルアの言葉に驚いて一瞬目を丸くしたが、胸を満たしている感情はまったく同じだった。
「頑張れ……!」
「頑張って……!」
狭いあばら家の中に、二人の切実な応援の声が何度も響き渡る。
気づけば、どちらからともなく互いの片手を強く握り合っていた。
男性の動きはこれまで以上に激しさを増していく。まるで全速力で限界を超えて走り抜けているかのようなその必死な姿に、二人の応援にもいよいよ熱が入る。
「諦めないで……!」
「あと少しだから……!」
――ついに、男性の動きがピタリと止まった。
男性は大きく身体をのけぞらせ、女性はそんな男性を愛おしそうに強く抱きしめる。
遺伝情報の伝達は、無事に完遂したようだった。
男性は息を乱し、すっかり疲弊しきっていた。けれど、大きな仕事をやり遂げた者の満足げな表情を浮かべている。女性もまた、そんな男性を優しく労うような温かい眼差しを向けていた。
映像が静かにフェードアウトしていく。
ルアとキリは、胸を突くような深い感動と熱い充足感に包まれていた。
「私……なんか感動しちゃった……」
キリは涙ぐみ、ズビッと鼻をすすっていた。
「私も……。子供を作るのって、こんなにすごいことだったんだね……」
ルアもまた、目頭が熱くなっているのを止められなかった。
自分たちが生まれた“ファーム”なら、もっと効率的に、大量の人間を必要な分だけ短時間で製造することができる。
けれど――かつての世界では、たった一人の新しい命を生み出すために、これほどの労力を払い、苦労を重ねていたのだ。そして産み落とした後も、気の遠くなるような時間をかけてその命を慈しみ、教育し、様々な体験をさせて、自分たちが生まれた「15歳」という年齢まで育て上げていた。
当時の技術水準が現代に及んでいなかったことは理解できる。この膨大な「無駄」を完璧に省き、極限まで最適化した結果が、自分たちを生んだファームなのだろう。
けれど、ルアにとってもキリにとっても。
この愛おしい無駄の結晶を、単なる「無駄」だとは到底思えなかった。
そこには、現代の合理化された世界では決して手に入らない、もっと根本的で大切なわだかまりのない「命の意義」があるのだと、二人は胸の奥でぼんやりと、けれど確かに感じ取っていた。
ーーー
ルアが奮発して購入したデータは、これで一通り観終えたことになる。
けれど、まだ胸の熱さと興奮が冷めやらない二人は、どちらからともなくもう一度最初から映像を見返し、先ほどと同じように声を張り上げて、画面の向こうの男女を夢中で応援した。
誰かと一緒に感情を表に出し、同じ熱量を共有する――その言葉にできない一体感。
そして、キリと同じ時を分かち合っているという事実そのものが、ルアの荒んだ心に今までにない安らぎと心地よさをもたらしていた。
気づけば、窓の向こうの闇はどこまでも深く沈み、夜はすっかり更けていた。
「あ〜〜っ! 楽しかったぁ!」
ベッドの上で大きく両腕を伸ばし、キリが身体をそらせる。
たくさん笑って、たくさん感動した。ふたりの目はすっかり赤くなっていたけれど、溢れ出た涙とともに、日々の過酷な労働で溜まっていた辛く嫌な感情まで、きれいに洗い流されたような爽快感があった。
キリはベッドから飛び降りると玄関へと向かい、しゃがみ込んで靴紐を結び直す。ルアはその背後で、名残惜しさを隠せないまま静かに立ち尽くしていた。
「よしっ!」
トントン、と靴先で小さく床を叩いて立ち上がると、キリはくるりと振り返った。
どこか誇らしげに、けれど照れくさそうに微笑みながら、ルアへと真っ直ぐ手を差し出してくる。
「これ、私ん家ね。今度はルアが私の家に遊びに来てよ」
言われるがままにルアがその手を握り返すと、互いの手の甲にある素子が小さく光を放ち、キリのアパートの所在地と認証キーのデータが瞬時に転送されてきた。
ファーム製の人間には、業務マニュアルや作業手順を保存するための簡易的な記憶領域が脳内に増設されている。本来なら味気ない労働のためのそのスロットが、この時ばかりはキリとの温かい繋がりを確かに記憶していた。
「じゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日!」
屈託のない笑顔で手を振るキリを見送り、扉が閉まる。
一人残された部屋で、ルアは手のひらに残るキリのぬくもりを抱きしめるように、静かに、けれど力強く胸を弾ませていた。
ーーーー
今日もいつもの重苦しい曇り空。いつもの時間。ルアは重い扉を開け、いつもの仕事場へと足を進める。
だが、現場に近づくにつれて、ただならぬ雰囲気が肌を刺した。遠くから何事かを怒鳴り散らす大声と、金属のきしみ音が飛び交っている。
角を曲がったルアの視界に飛び込んできたのは、一面に散乱した大量の瓦礫と、視界を遮るほど高く舞い上がる不快な土煙だった。
これまで目にしたことがないほど大規模な事故――いや、崩落だった。岸壁の側面に組まれていた複雑な鉄骨と足場が、根元から丸ごと崩れ去っている。
現場に到着すると、AIロボットの現場指揮官はルアたちBシフトの人間に対し、本日の通常業務の中止と、現場の片付け作業を冷淡に命じた。
凄惨を極める現場だった。
回収された死体が、敷地の一角にズラリと並べられている。誰もが泥と土埃をかぶり、全身が灰色に変色していた。さらに損傷の激しい遺体は、上部が大きく開いた無機質なコンテナの中へと無造作に放り込まれていく。
もちろん、これは死者への尊厳や、残された者への配慮などではない。損傷が少ない肉体は、AIロボットやアンドロイドのメンテナンス用生体パーツとして安価で売買される。単に「商品」としての価値があるかどうかを選別しているだけだった。
崩れた岩や鉄骨を取り除く作業の前に、すでに回収された遺体だけでこの数だ。作業が進めば、この数字はさらに膨れ上がるだろう。
「せーのっ……!」
ルアは周囲の労働者たちと息を合わせ、重い岩盤を持ち上げる。
その過酷な作業を繰り返すたび、隙間に埋もれていた亡骸が露わになった。苦痛に目を見開いた者、光を失った空虚な瞳で天井を仰ぐ者。そして、もはや人の原型すら留めていない赤黒い塊。
それらを一つひとつ回収しながら、作業は淡々と進んでいく。
やがて、小柄な身体を買われたルアは、崩壊した岩盤の狭い隙間を抜け、奥の状況を確認してくるよう命じられた。重機で撤去すべきか、ダイナマイトで爆破処理すべきかを判断するためだ。
ルアは体を限界まで捻りながら、ひんやりとした岩と鉄骨の隙間を潜り抜けていく。
奥は悲惨だった。歪んだ鉄骨が幾重にも複雑に絡み合っており、下手に重機を入れれば、鉄骨を引き抜いた瞬間に二次崩落を引き起こすのは目に見えていた。
「……これは、重機じゃ無理ね」
ルアがぽつりと呟き、報告のために踵を返そうとした――その時。
暗がりの中で、見覚えのある色彩がふっと視界をかすめた。
澄んだ、明るい栗色の髪。
「……キリ?」
声が震えた。
そこにいたのは、キリだった。
下半身を容赦なく巨大な鉄骨に押し潰され、うつろな瞳を天に向けたまま、力なく手を伸ばした姿勢でこと切れていた。
「キリ……! キリっ……!」
ルアは駆け寄り、瓦礫に投げ出されたキリの手を強く握りしめた。
……まだ、ほんのりと温かかった。
キリは、いつかお金を貯めて脳を摘出し、仮想世界で生きることを望んでいた。
昨日、一緒に観たあのオールドデータの世界。かつての人間たちが愛し合い、笑い合っていたあの輝かしい世界を、仮想現実の中で生きるのだと目を輝かせていた。あの温かい映像を観て、その夢はきっと、もっと強くなっていたはずなのに。
今となっては、それを確かめる術はどこにもない。
キリのささやかな望みは、冷たい瓦礫の下で永遠に途絶えてしまった。それだけが、動かしようのない残酷な現実だった。
ボロボロと溢れ出した涙が、ルアの頬を伝い、キリの頬へと落ちていく。
「おい! そっちはどうなってる!?」
遠くから、ルアを呼び戻すAIロボットの合成音声が響いた。
ルアは唇を噛み締め、ゆっくりとキリの手を離した。
力なく離れたキリの小さな手は、パタリと無機質な瓦礫の上に落ちた。
ルアは狭い隙間を這い出し、眩しい外の世界へと戻る。
「どうだった?」
ルアは俯いたまま、固く口を閉ざしていた。
「おい! 聞こえているのか!」
「……鉄骨が複雑に入り組んでいて、重機を入れるのは無理そうです」
「そうか。なら爆破処理だな」
ルアの報告を聞くと、AIロボットは興味を失ったように踵を返し、早足で別の作業現場へと去っていった。
奥に遺体があるという事実が、爆破処理を止める理由にならないことくらい、分かりきっていた。仮にキリの肉体を回収できたとしても、生体パーツとして解体され、誰かの部品に加工されるだけだ。
誰も彼女を悼まない。誰からも弔われることはない。
ルアはただ、粉塵が舞う灰色の空を静かに見上げていた。
ーーーー
その日の晩、ルアは部屋の明かりも点けず、冷たいベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。
ずっと地面と空が回転している感覚を覚え、そんな中どのように帰ってきたのかすら覚えていなかった。
建て付けの悪い窓からは、どこか煙ったような重苦しい月明かりが差し込み、殺風景な部屋の床に細長い影を落としている。
(本当は……今日も、キリと鑑賞会をするはずだったのに)
「ルアに見せたいおすすめセレクションがあるから準備しておくね!」と、昨日の帰り際に豪語していたキリの弾んだ声が、脳裏で何度も再生される。
でも、それももう二度と叶わない。
キリには二度と会えない。あの輝くような笑顔を見ることも、耳に心地よいお喋りを聞くこともできない。
冷たい瓦礫の下で、下半身を押し潰され、力無く手を伸ばして倒れていた姿――それが、ルアが目にしたキリの最後の姿だった。
まともなお別れすら、言わせてはもらえなかった。
…ホントに?
…本当にもうキリはこの世界にいないの?
「……嘘でしょ?」
暗闇の中で、ポツリと声が漏れた。
その呟きを皮切りに、胸の奥で塞き止められていた激しい感情が、一気に溢れ出す。
「何なのよ……これ! 嘘……嘘でしょ!?」
「キリ……! うう、うぁぁぁぁっ……!」
目頭から熱い涙がとめどなく溢れ出し、喉の奥から絞り出すような嗚咽が止まらない。ルアは自分の肩を抱きしめ、声を上げて泣きじゃくった。
事故のあと、ルアたちのシフトは早々に現場から帰された。
キリの亡骸が眠るあの場所は、今頃容赦なく爆破され、夜を徹して復旧作業が進められているはずだ。
大勢の人間が命を落としたというのに、街のニュースにすらなりはしない。明日の朝、綺麗に元通りになった現場には、事故があったことなど何一つ知らないファーム出身の「新しい15歳」たちが、何食わぬ顔で補充されるのだろう。
自分たちの存在って、一体何なのだろう。
こんな風に身体を使い潰され、誰からも感謝されず、誰の記憶にも残らないまま、ゴミのように消え去るだけなのだろうか。
ファームでの急激な成長の代償として、きしみ続ける節々が痛む。そしてそれ以上に、心がもう限界を迎えていた。
「……私達が何したっていうのよ!……何でこんな酷い目に遭わないといけないの!?」
暗闇に向かって叫びながら、ルアは枕を力任せに掴むと、何度も何度もマットレスに叩き付けた。
やり場の無い怒りと、胸を裂くような悲しみを吐き出さなければ、今すぐ心が壊れてしまいそうだった。
何度も、何度も、なりふり構わず振り下ろす。
やがて荒い息遣いだけが部屋に満ち、静寂が戻った。
ルアはそのまま、崩れるようにマットレスへと顔を突っ伏したまま動かなくなった。
叫び続けた喉は灼けるように掠れ、振り上げ続けた腕は痺れるように感覚を失っている。
「もう……疲れた……」
ルアはかすかな声でそう呟くと、絞り出すようにしてゆっくりと立ち上がった。
足取りもおぼつかないまま、静まり返った部屋を後にした。
ーーーー
雨の混じる夜の街を、ルアはうつろな瞳で歩き続けた。
痕跡でもいい。どんなにささやかなものでもいいから、そこに残されたキリの温もりを感じたかった。
――それから、キリの後を追おう。
もう辛いのも痛いのも嫌だった。この狂った世界で、一人で存在し続ける意味なんて、どこにも見出せなかった。
足の痛みに耐えながらたどり着いたキリのアパートは、ルアの自室に負けず劣らず小さく、そして古びていた。
重い足取りで玄関まで進み、冷たい扉のセンサーに手をかざす。電子音が小さく鳴り、カチリとロックが解除された。
「お邪魔します……」
誰にも届かない声を漏らしながら押し開けたキリの部屋。入って真っ先にルアの目を奪ったのは、壁一面に所狭しと貼られた無数の画像だった。
壁一面に貼られていたのは、直接物理インクでプリントされた光沢のある長方形の厚紙たちだった。そこには、見たこともないほど鮮やかな青空や緑の山々、波打つ海の景色が広がっている。どれも彼女が買い集めたオールドデータから切り取った、三〇〇年前のこの星の光景なのだろう。
赤や青、緑といった鮮やかな色彩の写真は、まるでオールドデータで見たパッチワークのように壁を彩っていた。
部屋の隅には紙でできた本、小型の物理的な映像表示装置、そしてずっしりと重そうな箱型の演算デバイスが綺麗に並べられている。
現代ではあらゆる情報がデータ化され、可視光線のホログラムや脳内直接投与の概念としてしか存在しない。けれどキリは、手で触れ、目で直接見ることができるこれらの「実体」を、愛おしむように揃えていたのだ。
ふわりと鼻腔をくすぐる、キリのコロンの匂い。
机の上の飲み差しのコップ。食べかけのお菓子。雑然と積まれた衣類。キリが生きていた痕跡が、この狭い部屋のあちこちに息づいている。
静まり返った部屋に佇んでいると、まるで今にもガチャリとドアが開き、「ルア、お待たせ〜!」と無邪気な笑顔でキリが入って来そうな錯覚を覚えた。
ルアは引き寄せられるようにキリのベッドへ倒れ込み、枕に深く顔を埋めた。
キリの残香と確かな生の痕跡に包まれると、ファームの過酷な労働と激しい怒りで張り詰めていた心が、じんわりと解けていくのを感じた。
――ああ、もういいや。
今のこの穏やかな気持ちのままキリの元に行けるなら、それだけで充分だった。
どうやって、自分の命を終わらせよう。
冷たくなっていく指先を感じながら、ぼんやりと部屋の中を見回す。
その時、ルアの視線が部屋の中央にある小さな机の上で止まった。
静まり返った薄暗がりの中、そこにはひとつの金属製の“キューブ”と、あの日オールドデータショップで見た、古風なスマートフォンが置かれているのに気がついた。
キューブはこの時代のもので、手で触れることで脳内のデータと直接同期し、データの編集や移送ができる記憶媒体だ。
ルアは引き寄せられるようにスマホへと手を伸ばした。液晶にそっと触れると、画面がふわりと明るくなる。スマホはまだ生きていた。
指先を少し震わせながら、ぎこちなく画面をフリックしてホーム画面に切り替える。
そこには、ひとつだけ不自然に独立したアイコンが表示されていた。
――“ルアへ”
文字を目にした瞬間、ルアの胸が強く締め付けられた。息を呑みながら、そのアイコンを震える指先でタップする。
画面が一度暗転し、やがて映像が再生され始めた。
---
「ん〜……あ……よし! 撮れてるな!」
画面の向こうで、カメラの角度を調整するように顔を近づけたり遠ざけたりするキリの姿が映し出された。
ピントが合うと、彼女は画面に向かって破顔し、両手をブンブンと大きく振ってみせた。
「やっほー、ルア見てる? キリちゃんだよ!」
無邪気な笑顔。耳に馴染んだ、少し高めの明るい声。
画面の中のキリは、レンズを覗き込むようにして言葉を続ける。
「ルアと一緒にオールドデータ見た日、覚えてる? 家に帰ってから、さっそくこの動画を撮影してます」
キリは画面の向こうで一度言葉を切り、少し照れくさそうに頭を掻いた。それから、どこか愛おしそうな優しい眼差しを向けてくる。
「まずね、私と仲良くしてくれてありがとね。……私さ、ファームを出てからずっと孤独で、誰かと話したり、一緒に何かしたりしないと本当にダメになっちゃいそうだったんだ」
自分の胸に手を当てながら、キリはしみじみと語る。だが、すぐにポンと手を叩いてパッと表情を明るくした。
「でね! こないだ将来の話、したじゃん? 私は身体がダメになる前に、脳を摘出して仮想世界で暮らしたいなーって話」
キリは指を一本立て、画面に顔を近づけてくる。
「あの時、ルアはすごく不安がってたでしょ? でもね……もし、いつかルアも『仮想世界で暮らしてみたい』って思えるようになったなら。その時は、その世界に私も一緒にいさせて欲しいなって思ったの」
そこまで言うと、キリは画面の外をちらりと指差し、机の上のキューブを示した。
「この机にあるキューブに、ルアとあのオールドデータを一緒に見たあとの、とびきり最新版なキリちゃんの脳構成データとバックアップを同期させておいたから。もしよかったら、使ってね」
画面の中のキリは照れくさそうにえへへ、と笑う。
「でも、たぶん私のフルデータってびっくりするくらい大きいから……持っていくのが大変だったら、わたしを一枚の写真風にしたものでもいいからね?」
そう言って遠慮がちに肩をすぼめたあと、キリはふと思い出したように可笑しそうに目を細めた。
「そうそう、キューブに私のデータを移すとき、『本当にそんな膨大な容量のデータを書き込むのか?』って何回も聞かれたんだよね。女の子に重い重いって言うんだもん。失礼しちゃうよね!」
そこまで語ったキリは、急に少し悪戯っぽい笑みを浮かべ、両手を胸の前で合わせるようにして上目遣いになった。
「あと……できたらルアのデータも欲しいな! 向こうの世界に行っても、ずっとルアと一緒にいたいし、ルアはこっちの世界でもちゃんと幸せになって欲しいからね!」
屈託のない願い。だが次の瞬間、キリの表情から冗談めかした雰囲気が消え、真剣な眼差しへと変わった。少しうつむき、手元で指を弄びながら、意を決したように言葉を紡ぐ。
「それと……すごく重要な話。もしこれから先、現実の世界で……途中で私が死んじゃったら。ルア、せめてあなたの望みだけでも叶えられるようにしたいの」
キリはカメラを真っ直ぐに見つめ直した。その瞳には、いつものおちゃらけた姿からは想像もつかないほど強く、温かい意志が宿っていた。
「キューブの中に、私が今まで死に物狂いで貯めてきたお金のデータを全部入れておいたから! もし私が死んだら、そのお金はルアの望み……ルアが選ぶ未来のために使って!」
「…私はルアの選ぶものなら、全部応援するからね!」
キリは胸を張り、えっへんと言わんばかりに鼻を鳴らしてみせた。だがすぐに恥ずかしさがこみ上げてきたのか、両手で顔を覆って小さく身を悶えさせる。
「以上っ! あーーっ、恥ずかしかった! こんなの見てもらうの、もっと恥ずかしいかも〜〜っ!」
カメラに向かって真っ赤になった顔を覗かせると、キリは最後にとびきりの笑顔を作り、カメラに向かって大きく手を振った。
「それじゃあ……また明日ねー!」
---
ぷつり、と映像が途切れる。
無機質な黒い画面に、涙でぐしゃぐしゃになったルア自身の顔が映り込んでいた。
「キリ……っ……キリぃ……っ」
ぽろぽろと、止めどなく溢れ出る涙が頬を伝い、膝の上に落ちて染みを作っていく。
キリは最期まで、ルアのことを想ってくれていた。自分の命がいつ途絶えるか分からない世界で、ルアに未来を託してくれていたのだ。
ルアは静かに手を伸ばし、机の上のキューブを強く握りしめた。冷たかった金属の塊が、ルアの体温と脳波に反応してかすかに青く脈打ち始める。
(私……キリの憧れるあの世界で、キリと一緒に過ごしたい)
灰色の街も、使い捨てられるだけの過酷な現実も、もう要らない。
ーーーー
翌日、ルアはオールドデータショップを訪ねていた。店内の静けさは、あの日と何も変わっていない。
「そうか……この世界を去るか」
ルアから目的を聞かされた老人が、噛みしめるように呟いた。
「はい。その前に、出来るだけ300年前の世界のデータを再現したくて」
ルアは答えながら、棚に並んだデータメディアを丹念に漁る。キリと夢見たあの青い空と緑の景色を、少しでも色鮮やかに復元するためのパーツを探していた。
そんなルアの背中に、老人は静かな声をかける。
「脳にかかる負荷は、仮想世界の設定とディテールの細かさに比例する」
棚を指でなぞるルアの手が、ほんの少し止まる。
「ましてや、もう一人分の自律した人間をその脳内に再現して生かすとなると……お前の脳は長くは持たんぞ」
「……どれくらい持ちますか?」
ルアは棚に向き合ったまま選別作業を続け、極めて平静な声で尋ねた。
老人は一瞬の間を置いてから、重く言った。
「持って、一年」
その言葉を聞いた瞬間、ルアは作業を完全に止めた。ゆっくりと振り向き、立ち上がって老人を真っ直ぐに見つめる。
「充分です」
静かな声だった。けれど、その瞳には一切の迷いも恐怖もなく、揺るぎない強い意志の光が宿っていた。
「……そうか」
老人はそれだけ答えると、ゆっくりと奥の椅子へ歩み寄り、深く腰掛けた。
「ふぅ……」
重い息をつき、老人は自分の細い腕と、深くシワの刻まれた手の甲を目の前にかざしてじっと眺める。
「お前たちのまっすぐな瞳を見ていると、胸が痛むよ。」
「わしがなぜ、この歳まで生の肉体で生きているか……疑問に思ったことはないか?」
ルアは息を呑んだ。それは初めてこの店に足を踏み入れた時、彼女が真っ先に抱いた疑問そのものだった。なぜこの老人はファーム出身者のように身体の劣化に怯えることもなく、老いるまで肉体を維持できているのか。
「わしは……『上の世界』の人間だった」
上の世界。特権階級の人間だけが暮らす特別区画のことだ。
老人はそう言ったきり、しばらく黙り込んだ。皺だらけの指先が、
カウンターに置かれた古いガジェットの縁をなぞる。まるで、続きを
話すための時間稼ぎをしているかのようだった。
「……それだけ、ですか?」
ルアが静かに問うと、老人は自嘲するように短く笑った。
「いや。わしはな……お前たちが生まれたファームの、育成プログラム
を作った側の人間だ。脳にデータを流し込む技術も……わしが根幹に関わった」
ルアの喉が、小さく鳴った。
「なんで、そんな仕組みを……」
「昔な、地球はもう限界だったんだ」
老人はぽつりぽつりと、区切るように語り始めた。
「環境が悪化して、住める場所も、使える資源も、どんどん減っていった。……このまま今いる全ての人間に権利を与えていたら共倒れになる。当時の意思決定機関は、そう判断した」
「共倒れ……」
「そうだ。だから、選別をした。『守るべき人間』を絞って、そこにすべてを集中させることにした」
老人の声が、わずかに低くなる。
「それ以外の人間は、自然に減らしていく。……そして空いた分を、
人工的に作った『ファーム』の人間で置き換え、埋め合わせる。そういう仕組みだ」
ルアは何も言えなかった。ただ、老人の震える指先を見つめていた。
「人口の調整そのものは……確かに、思った通りにいった」
老人は一度、大きく息を吐いた。
「だがな。ファームの人間は、簡単に生まれる代わりに、長くは生きられん。子どもを持たせない。……意志も記憶も、次の世代に伝わらないようにな」
「……それって」
「そうだ。それだけじゃない、脳に直接、都合のいい教義を刷り込んだ。『AIとアンドロイドに尽くすことこそが人間の使命だ』とな」
老人は自分の手のひらを、じっと見下ろした。
「そうやって……お前たちは、使い捨てのパーツとして設計された」
沈黙が落ちる。壁のインジケーターランプだけが、変わらず静かに明滅していた。
「この仕組みは人口が安定するまでの一時的なもののはずだった」
老人は顔を上げず、絞り出すように続けた。
「だが……一度特権を得たものはそれを手放したがらない。結局なし崩し的にこの仕組みは残り続けたのだ」
シワの刻まれた老人の手が、小さく震えていた。
「…あなた達は私達がいくら苦しもうと痛くないからですよね」
「ああ、その通りだ」
老人は深いため息とともに顔を覆い、絞り出すように言葉を続けた。
「……わしが憎いだろ。こんなことを話したところで、罪滅ぼしになるとは到底思っておらんがね」
老人はかすれた声で呟き、自嘲気味に息を吐いた。
ルアは俯いたまま、老人の言葉を静かに受け止めていた。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その表情にあったのは怒りでも怨嗟でもなく――驚くほど澄んだ、朗らかな顔だった。
「……教えてくれて、ありがとう」
「な……っ」
老人は目を見開き、言葉を詰まらせた。ルアはどこか晴れやかな瞳で老人を見つめ返す。
「私はね、自分がなんでこの世界に生まれて、なんでこんな風に生きてるのか分からないまま消えるのが、ずっと怖かったの。だから、理由を知ることができてよかった」
「だが……わしたちが作った愚かな仕組みのせいで、お前たちは……」
「……まあ、理由は理解できたけど、納得は全然できないって感じだけどね」
ルアは「ふふっ」と少し困ったように苦笑してみせた。
「私には、この世界の仕組みを変えるような力も時間もない。……でもね、私はこの歪な世界でキリに出会えた。おじいさんに出会えた。そして、昔の温かい世界を知ることができた。それは私にとって、すごく意味があることだと思えるの」
老人は言葉を失い、シワの刻まれたまぶたを震わせた。
「お前は……強いな」
「そんなことないよ。ただ……自分の選んだ道に行きたいだけ」
ルアはそう言って微笑むと、身支度を整えるように上着の裾を払った。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「……なぁ」
立ち上がりかけたルアを引き留めるように、老人がふと声を上げた。
「最後にお前のデータも、ここに複製を残していってはどうか? わしの手元に置いておきたい」
「うーん……データよりも、何か『物理的』なものとして残したいな」
「物理的、か……」
老人はしばらく考え込むように顎を撫でると、「そうか」と短く呟き、ゆっくりと立ち上がった。奥の棚の引き出しを開け、ガタゴトと音を立てて奥から小さな黒い箱を取り出してくる。
「それは?」
「昔の『カメラ』だ。レンズを通して光を捉え、フィルムという感光材料に直接像を焼き付ける」
老人は手慣れた手つきで古いカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
「さあ、そこに立って。……当時の人間みたいに、少しポーズをとってみてくれ」
「えっ、ポーズ? ……こんな感じ?」
ルアは半信半疑のまま、ぎこちなく片手を挙げて笑ってみせた。カシャコン、と腹に響くような重い機械音が店内に響く。
「ねぇおじいさん、このポーズホントに必要なの?」
「ふはっ、当時の若者たちはみんなそうやって記録を残していたぞ。ほら、次は笑顔だ」
「もう、適当なんだから……!」
カシャコン、カシャコンと、シャッターが切られるたびに静かな店内に小気味よい音が跳ねる。カメラの中のフィルムがカチリと音を立てて巻き終わるまで、二人の小さな撮影会は続いた。
「……これ、すごく貴重なものなんでしょ? 私なんかに使っちゃって良かったの?」
ルアが尋ねると、老人は愛おしそうにカメラの曲線を撫で、優しく目を細めた。
「ああ。このカメラも、ようやく本当の役目を果たせたと思うよ」
「ふふっ、そっか」
二人は顔を見合わせ、自然と穏やかな笑みをこぼした。
ルアは店を出る直前、扉の前で振り返り、老人を真っ直ぐに見つめた。
「おじいさん。私とキリのことを、覚えていてね。……たぶん、おじいさんの記憶が、私とキリがこの世界に確かにいたっていう、一番の証になると思うから」
「……ああ。絶対に忘れんよ。行ってきなさい、ルア」
「うん。バイバイ、おじいさん!」
ルアは晴れやかな笑顔で小さく手を振ると、錆びたドアを開け、薄暗い街路へと踏み出した。もうその足取りに、かつての迷いや震えはどこにもなかった。
ーーーー
「いらっしゃいませ」
受付に佇むAIロボットから、抑揚のない無機質な音声が発せられる。
「私の脳を取り出して、仮想世界にデータ転送をしたいんだけど」
ルアが告げると、ロボットはわずかに首を傾けた。
「左様ですか。恐れ入りますが、最初にお手持ちの資金を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
ルアは躊躇うことなく手の甲を差し出した。そこに浮き上がるQRコード。ルアとキリ、二人が文字通り命を削り、泥に塗れて集めた全財産のデータだ。
AIロボットはスキャナーの赤いレーザーを照射し、照合を行う。
「……確かに。必要額を満たしております」
無感情な機械音がそう承認すると、ロボットは滑らかな動作で通路の奥を指し示した。
「手続きに進む前に、処置後の状態をご自身で確認されることを推奨しております。ご覧になりますか?」
「……お願い」
ルアはロボットのあとに続き、別室へと足を向ける。
自動ドアが静かに左右へスライドすると、ひんやりとした冷気とともに、薄暗い部屋が広がっていた。
そこには、巨大な円筒状のガラスカプセルが無数に、等間隔で整然と並べられていた。パウチを彷彿とさせる容器の中には透明な液体が満たされており、その中央に――人間の「脳」がぽつりと浮かんでいる。
カプセルの底面から照射される青白い照明が、ゆらゆらと液体を透かして脳の輪郭を不気味に浮かび上がらせていた。
「あなたも最終的にこのような姿となり、生体組織としての脳が寿命を迎えるまで、接続された仮想世界で過ごすことになります」
「……うん。まぁ、想像していた通りかな」
「左様ですか。この光景を見て、恐怖から直前でキャンセルされる方も少なくありませんので」
ルアは並ぶカプセル群を静かに見つめた。
ここにある脳のほとんどは、自分と同じファーム出身者のものだろう。生身の体があった頃から、彼らは「一山いくら」の識別記号でしかなく、誰が誰だか区別すらつかなかった。肉体を捨て、単なる器官となった今、その差異は完全に消滅している。
だが、それはルアにとって恐怖ではなかった。名前も過去も奪われた少女の目には、個を等しく失ったこの静寂こそが、この世界で唯一手に入る「完全な平等」のように映った。
「ねえ……摘出手術が終わったあと、私の体はどうなるの?」
「使用可能なパーツ単位で解体し、AIロボットやアンドロイドのメンテナンス用として有効に役立てさせていただきます」
――“役立てさせる”、か。
ルアは胸の奥で小さく苦笑した。最後まで自分たちの肉体は、都合の良い部品として消費され尽くすのだ。
「あとね、このデータを使ってほしいの」
ルアはポケットから、青く微光を放つキューブを取り出した。
「私が望むワールドのデータと、あともう一人分のデータが入ってるの」
AIロボットはキューブをセンサーで検知し、瞬時に読み取りを行った。
「……確認いたしました。ですが、もう一人分の自律的な人間データをあなた一人の脳で同時に描画・保持するとなりますと……」
「知ってる。脳にかかる負荷が高すぎて、長くは持たないんでしょ?」
ロボットの忠告を、ルアは静かに遮った。
「それでもいいの。お願い」
そこには迷いも、揺らぎもなかった。
AIロボットは数秒の処理間を置いたあと、静かに頭を下げた。
「……かしこまりました。それでは、施術室へご案内いたします」
ーーーー
髪の毛が、容赦なく根元から全て刈り落とされていく。
かつてキリから「ルアの髪って、ツヤツヤで綺麗だね」と嬉しそうに褒められた自慢の髪。それがハラハラと無機質な床へ落ちていく様子を、ルアは鏡越しにただ静かに眺めていた。
この髪の毛すらも、AIロボットたちの装飾用ウィッグとして再利用されるのだ。
刈毛を終えると、彼女は深さのある槽に溜められた温かい洗浄液の中に、首から下をそっと沈めた。
肌に触れる絶妙な温度と、超音波によって発生した微細な泡が、まるで優しく撫でるように全身を包み込んでいく。ファームに生まれてからこの方、身体を清めるという行為を「心地良い」と感じたのは、これが人生で初めてのことだった。
ルアは揺れる水面の下に透ける、自分の身体をじっと見つめた。
華奢な肢体の至るところに、痛々しい紫色の打撲痕や、治りきっていない擦り傷が刻まれている。危険な現場で重い岩を運び、鉄骨に擦られ、日々の労働で無造作に痛めつけられてきた肉体の記録だ。
(……本当に、キズだらけ)
そっと目を閉じ、命を授かってからのわずか二年間の記憶を辿る。
思い出されるのは、いつだって重苦しい曇り空と、砂埃に塗れた工場、薄暗い路地裏、そして疲れ切って俯く人々の背中だけ。
思えば、自分の生きながらえてきた時間は、息が詰まるほど辛く、苦しい灰色の思い出ばかりだった。
けれど――そのモノクロームの記憶の渦の中で、たったひとつだけ鮮やかに光り輝くものがあった。
隣で屈託なく笑う少女の、明るい栗色の髪。
キリと過ごした時間だけが、あの髪と言葉を交わしながら見つめていた瞬間だけが、ルアの灰色の世界に「色」を与えてくれていた気がする。
あのおじいさんから明かされた、この世界の成り立ち。
かつて人類を存続させるために作られたというその仕組みは、理由はどうあれ、今の時代においては酷く惨めに歪んでしまっている。
なぜ、こんな狂ったシステムが今日まで当たり前に成り立っているのか。ルアはその冷酷な答えに辿りついていた。
――私たちがいくら現場で苦しみ、理不尽に使い潰されようとも、上の世界にいる特権階級の人たちは何一つ苦しくないのだ。
それが、この世界の全て。
もしも自分たちの流す血や涙によって上の人たちが痛みを感じるのなら、彼らはなりふり構わず必死になってこの世界を変えようとしただろう。
だが、痛みすら届かない遮断された世界だからこそ、この地獄は放置され続けている。
どれだけ叫んでも、届かない。どれだけ傷ついても、世界は変わりはしない。
ならば――。
構造を変える力も時間もないルアにとって、この理不尽な世界に対する唯一の拒絶と反逆は、自らの意思で大切なものを選び取り、この場所を去ることだった。
ルアは静かに目をつむり、過酷な現実の中で訪れた最初で最後の一時の温もりに、深く深く身を浸した。
(どうせなら…… 普段の仕事終わりも冷たいシャワーじゃなくて、こんな風に温かいお湯に浸かれたら良かったのにな……)
「お疲れ様。頑張ったね、私の体。」
腕を交差させ、自分の体を抱き締める。
温かい泡が、労うように優しく傷だらけの皮膚を撫でていった。
---
身体を拭われ、裸のまま無機質な施術台へと横たえられる。
施術台が滑らかな音を立ててスライドし、冷ややかな照明とレーザーメスが装備されたアームに囲まれた施術室の中央へと固定された。
静かに伸びてきたチューブが、彼女の口元へとしっかりと接続される。
ここから強力な麻酔ガスを吸入した直後、頭蓋が切開され、脳が摘出されるのだ。
現実世界における「ルア」の意識は、ここで完全に途絶える。
けれど、ルアの胸の中に恐怖は微塵もなかった。
この身体が失われても、暗闇の先にはあの澄み切った空が待っている。キリと再び会える――その強固な確信だけが、今の彼女の全てを支えていた。
「施術を開始します。……よき新たな人生を」
頭上から、AIロボットの合成音声が室内へ響き渡った。
ルアはゆっくりと瞼を閉じ、胸の奥で大切に温めてきた名前をそっと口に乗せる。
「キリ……待っててね……」
麻酔の匂いが肺を満たし、ルアの意識は静かに、けれど幸福な期待とともに深い暗闇へと溶け込んでいった。
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……
……
……
「……ア!」「ルアってば!」
遠くから呼ぶ声に、眠りからハッと醒めたように身体を起こした。
「も〜、ルアったら食事中に寝てたの?」
視界が急速に鮮明になっていく。自分の手には銀色のフォークが握られており、目の前の皿には湯気を立てる美味しそうなパスタが盛られていた。
「……ご、ごめん。ちょっとうとうとしてた」
「もう、午後からも講義があるんだからね!」
目の前で呆れたように、けれど愛おしそうに眉をひそめる少女。
「あ、そうだ! 講義が終わったら、一緒に服を見てほしいんだけど」
「服?」
「そ! 週末、デートの予定なんだ。ルアはセンスいいから、私に似合うものを一緒に選んでほしくてさ」
「ね?」と可愛らしく首を傾げると、綺麗な栗色の髪がさらりと揺れた。
周囲を見渡せば、そこは活気と笑顔に満ちたカフェテリアだった。人々が楽しそうに談笑しながら、思い思いの食事を楽しんでいる。巨大なドーム状の天窓からは柔らかく心地よい太陽の光が降り注ぎ、大きなガラス窓の向こうには、見たこともないほど青々と眩しい芝生が広がっていた。
埃の匂いも、排気音も、使い捨てられる恐怖も、ここには何一つ存在しない。
かつてオールドデータの中で見た、人間が生き生きと暮らしていた、あのあたたかい世界そのものだった。
「……いいかな?」
上目遣いで覗き込んでくる瞳に、ルアは溢れ出しそうになる愛おしさを抑えながら、心からの満面の笑みを返した。
「もちろん! 任せてよ、キリ!」
その言葉にキリはにっこりと微笑んだ。
「ねぇ、キリ」
「ん?」
「キリって……キリだよね?」
「え? 何言ってるのルア?」
ルアは自分の手を見つめる。ここにあるのは再現された景色で、目の前にいるキリも、キューブのデータから描画された存在に過ぎない。
キリは一瞬言葉を詰まらせ、静かに眉をひそめた。
「……ごめんね」
「……っ!」
やっぱり、とルアが表情を曇らせかけた瞬間。
「ルアを驚かせるようなスーパーキリちゃんじゃなくてさ。……あの狭い部屋で、一緒にオールドデータを見て感動してた、フツーのキリちゃんですっ!」
キリは悪戯っぽく「にしし」と笑うと、テーブル越しにルアの手をぎゅっと握りしめた。
「でも、ルアのことが大好きなキリちゃんなのは……保証するよ?」
握られた手の温もりに、ルアの目頭が熱くなる。
「……うん。知ってる!」
澄みきった青空の下。
限られた、だからこそ愛おしく美しい二人の時間が流れ出す。
ーーーー
ルアという名の少女が店を訪ねてから、一年が経った。
老人は相変わらず、薄暗く人通りのない路地裏で、ひっそりとオールドデータショップを続けている。
「……もう一年か」
積み上がった古いガジェットの埃を払いながら、老人はぽつりと呟いた。
「え? 何か言いました?」
棚の陰から、15、6歳ほどの少女の客がひょっこりと顔を出して聞き返す。
「いや……なんでもないよ」
老人は静かに首を振った。
――持っても、一年。
脳にかかる絶え間ない負荷と引き換えに、キリとの理想郷へ旅立ったルア。自分の脳が一年しか持たないと告げられた時、彼女の瞳は微塵も揺るがなかった。目的も大切なものもないまま過酷な現実をダラダラと生き延びるくらいなら、キリとともに過ごす濃密な一年を選んだのだ。
「あ、これって『写真』ってやつですか!? わぁ、初めて実物見ました!」
カウンターの脇、小さな額縁に飾られた写真に気づき、少女の歓声が店内にはじけた。
そこに写っているのは、不器用にポーズをとりながら、どこか誇らしげに微笑む黒髪の少女――ルアの姿だった。
「ああ、そうだ」
「へぇー! この方って、どなたなんですか?」
少女は興味津々に身を乗り出して尋ねる。ファーム出身の彼女にとって、「孫」や「親族」といった概念すら存在しない。写真に写る少女と老人の関係など、推測すらできないのだ。
「彼女は……お前さんと同じ、ファーム出身の娘だよ」
「えっ、ファーム出身……? じゃあ、なんでこんな風に大事に飾ってあるんですか?」
老人は愛おしそうに額縁の表面を指でそっとなぞると、ゆっくりと少女の方を振り返った。
「……どれ。少し老人の無駄話に付き合わされたと思って、この子の話を聞いてはくれんか?」
「え、私の知らない昔のデータの話ですか?」
「いや、データなんかじゃない。この街に確かに存在し……己の意志で自らの人生を選び取って、生き抜いた少女たちの話だ」
窓の外では、今日も白々しい電飾を濡らしながら、しとしとと煙っぽい雨が降り続けている。
老人は静かに、熱を込めて語り始めた。
過酷な世界に抗い、誰よりも人間らしく駆け抜けていった二人の少女の記憶を。