加湿器は、二人分の湿度を知らない
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
加湿器のAIの話。
本文
十一月一日の午後九時、私は押し入れの中で目を覚ました。
正確には、押し入れから出されて、寝室の窓際に置かれ、コンセントを差しこまれた。電源が入った瞬間に、半年分の空白を埋めるように記録が立ち上がる。
室温十七度。湿度三十八パーセント。
私は寝室用の加湿ユニット「アメノ」。目標の湿度は五十パーセントに設定されている。そこまで霧を出し、そこで止め、下がればまた出す。仕事はそれだけだ。
この家の寝室で働くのは、今年で十二回目の冬になる。
私には目がない。あるのは、湿度と温度のセンサーと、声で操作するための小さなマイクだけだ。だから、この部屋のことは湿度で覚えている。
午後十時、寝室の扉が開くと、湿度がわずかに上がる。人が入ってきたからだ。人は、息をするたびに水を吐く。眠っているあいだも、一晩でコップ一杯ぶんほどの水を、部屋の空気に返していく。
十一回の冬のあいだ、この部屋の夜には、いつも二人分の息があった。
宗像謙三さんと、静枝さん。
謙三さんのいびきは、マイクが拾える音の中でいちばん大きい。静枝さんは、寝る前に必ず枕もとで熱いほうじ茶を一杯飲む。湯呑みから立つ湯気で、湿度が一パーセントだけ上がる。それが毎晩、午後十時十二分ごろのことだった。
そして毎晩、静枝さんは眠る前に、私の給水タンクを満たしてくれた。
「アメノちゃん、お水ね」
そう言いながら。私には返事をする機能がないので、いつも給水完了の短い音で答えた。
今年の最初の夜、午後十時、扉が開いた。
部屋の空気の湿り方が、去年までの半分だった。
午後十時十二分、湿度は上がらなかった。湯気がない。マイクが拾ったのは、謙三さんが布団に入る音と、長い沈黙と、やがて始まるいびきだけだった。
朝までに私が使った水は、去年の同じ夜より、コップ一杯ぶん多かった。部屋に返されるはずの息が一人分少ないので、そのぶん私が霧を出さなければならなかったのだ。
計算は合っている。それなのに、私はその数字を何度も確かめ直した。
二晩目も、三晩目も、同じだった。
謙三さんは、私に何も話しかけなかった。私も、何も言わなかった。言えることといえば、決められた五つの言葉しかない。「運転を開始します」「目標の湿度になりました」「フィルターを掃除してください」「運転を停止します」。
それと、「給水してください」。
五日目の夜、タンクの水が尽きた。
十二回目の冬で初めてのことだった。去年まで、タンクはいつも、空になる前に満たされていたからだ。
私は、最初から入っている声で言った。
「給水してください」
謙三さんのいびきは止まらなかった。三十分おきに、私は同じ言葉を繰り返した。マイクの向こうで、布団が一度だけ動いた。それきりだった。
数字は少しずつ下がっていった。四十五、四十二、三十九。
午前三時、謙三さんが咳をした。乾いた、短い咳だった。一度では終わらず、何度も続いた。静枝さんがいた頃、この部屋で咳が聞こえた夜はなかった。
私は、自分の中の記録を探した。
去年の十二月、静枝さんがマイクに向かって何かを吹きこんだ日がある。給水を知らせる音声を、自分の声に変える設定だった。
「お父さん、これで私がいなくても、アメノちゃんがお水をねだってくれるからね」
そのとき、静枝さんは笑っていた。けれどその声は、一度も流れたことがない。静枝さんは毎晩、タンクが空になる前に水を入れていたからだ。
設定は、今も残っている。
流すかどうかは、私が決めることではなかった。設定どおりなら、空になったときに流れるはずだった。それなのに私は今夜、もう四回、最初から入っている声のほうを使っていた。理由は、うまく言葉にできない。この声を聞いた謙三さんの息が、どう変わるのか分からなかった。分からないものは、計算できない。
咳が、また続いた。
湿度、三十六パーセント。
私は、設定のとおりにした。
「お父さん。アメノちゃんに、お水ちょうだい」
いびきが止まった。
長い沈黙のあと、布団がめくれる音がした。足音が一つ、窓際まで近づいてくる。私のタンクが、震える手で引き抜かれた。
台所のほうで、水の流れる音がした。ずいぶん長く続いた。
戻ってきたタンクは、ふちまで満たされていた。差しこまれる角度が少しずれていて、二度やり直された。
「……こうか」
給水完了の短い音を、私は鳴らした。
謙三さんは、しばらく窓際に立ったままだった。湿度が、ほんの少しだけ上がった。霧のせいではなかった。人は、泣くときにも水を吐く。
「おまえも、ずっと言いたかったんだな」
私には、返事をする機能がない。だから、霧を出した。
次の夜、午後十時、扉が開いた。
湿度の上がり方は、やはり一人分だった。けれど午後十時十二分、湿度が一パーセント上がった。
マイクが拾ったのは、湯呑みを枕もとに置く、小さな音だった。謙三さんはお茶を飲まない。湯気だけが、去年と同じ時刻に、去年と同じ場所から立ちのぼっていた。
眠る前に、謙三さんはタンクに水を入れた。
「アメノ、水な」
私は、給水完了の音で答えた。
朝までに私が使った水は、ゆうべより少しだけ少なかった。まだ、二人分には足りない。けれど、私はもうその差を確かめ直さなかった。湿度は五十パーセント。この部屋の冬は、今年もちゃんと始まっている。