『雷の落ちた日』(アンカラの戦いを題材にしています)
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あらすじ
――アンカラの戦い 一四〇二年―― 第一章 東へ 一四〇二年の夏、私たちは東へ歩いていた。
本文
――アンカラの戦い 一四〇二年――
第一章 東へ
一四〇二年の夏、私たちは東へ歩いていた。
私の名はハサン。十七歳で、スルタンの常備歩兵、イェニチェリの末席にいる。生まれはセルビアの山あいの村だ。八つの年に役人が村に来て、同じ年頃の少年を何人か連れていった。私もその一人だった。母が最後に何と言ったのかは覚えていない。覚えているのは、母の手が粉で白かったことだけだ。パンを焼いている途中だったのだろう。
連れていかれた先で、新しい名前と新しい言葉、新しい神を与えられた。最初の何年かは、夜になると村の言葉で母を呼んだ。そのたびに年上の少年に頭を叩かれた。やがて呼ばなくなった。夢の中でさえ、トルコ語で話すようになった。
それを恨んだ時期もあったが、今は考えないことにしている。考えなくても、隊列は前へ進む。
私たちの主はバヤズィト。人は彼を「ユルドゥルム」、つまり雷と呼ぶ。バルカンでもアナトリアでも、あまりに速く現れて敵を打ち倒すからだ。私は一度だけ、行軍の途中で彼を近くで見た。黒い馬に乗り、日に焼けた顔で、まっすぐ前だけを見ていた。周りの者が誰も口をきかなかった。雷が通り過ぎるのを待つように、みな息をひそめていた。
私たちはコンスタンティノープルの城壁を何年も締めつけていた。海の向こうの古い都は、食べ物も兵も足りなくなっていると聞いた。あと一押しで落ちると、誰もが思っていた。
だが、東から別の嵐が来た。
ティムール。サマルカンドから来た足の悪い老人だ。ペルシアを呑み、インドを焼き、二年前にはスィヴァスの町を落とした。噂では、降った兵を生き埋めにしたという。別の噂では、落とした町の人々の首で塔を築いたという。どこまで本当かは分からない。だが、噂が本当かどうかは、兵にとってたいした問題ではない。怖いという気持ちだけが本物だった。
夜になると、古参の兵たちは焚き火のそばで、二人の王が交わした手紙の話をした。ティムールは、スルタンが匿っている東の亡命者たちを引き渡せと言った。スルタンは、おまえこそ我が領地に手を出すなと返した。手紙はやり取りのたびに荒くなり、最後には互いの妻を辱める言葉まで書かれたらしい。
「王様同士の口喧嘩だ」と、誰かが笑った。
「口喧嘩で済めばいいがな」と、別の誰かが言った。
焚き火がはぜて、火の粉が夜に散った。
「王様の喧嘩で死ぬのは、いつも俺たちだ」
隣で横になっていた古参兵のイブラヒムがそう言って、寝返りを打った。彼は三十を過ぎていて、イェニチェリの中では古株だった。私と同じように、子どものころにどこかの村から連れてこられたらしい。どこの村なのか、彼は一度も話さなかった。私も聞かなかった。
私は眠れずに空を見ていた。故郷で見たのと同じ星が出ていた。山の端に低くかかる、柄杓の形の星だ。あの夜も、母はこの星の下でパンを焼いていたのだろうか。
そんなことを考えても、何にもならない。私は目を閉じた。明日も、東へ歩くのだから。
第二章 渇き
私たちはティムールを追った。だが、追っているつもりで、追われていたのかもしれない。
軍は東の高原へ向かった。敵がそこから来るはずだったからだ。スルタンは、地の利のある場所で待ち構えて、一撃で打ち砕くつもりだった。それが雷のやり方だった。
ところがティムールは来なかった。私たちの脇をすり抜けて南へ回り、カイセリを経て、アンカラの町を囲んだという知らせが届いた。私たちが通ってきた道を、背後から突かれた形になる。
陣の中がざわついた。将たちが慌ただしく天幕を出入りした。夕方には、引き返すという命令が下った。
引き返すしかなかった。七月の太陽の下を、何日も強行軍で歩いた。乾いた土埃が鼻と喉に詰まった。鎧の下の汗は乾いて塩になり、肌がひりひり痛んだ。足の裏の豆がつぶれ、靴の中が血で濡れた。
馬が倒れ、人も倒れた。最初の日、私は倒れた兵に手を貸そうとした。イブラヒムに腕をつかまれて止められた。
「やめとけ。おまえも置いていかれる」
倒れた者を待つ余裕はなかった。二日目からは、私も振り返らなくなった。
アンカラの北の平原にたどり着いたとき、軍はもう半分疲れきっていた。遠くに町の城壁が見えた。その手前に、ティムールの陣が広がっていた。敵は木陰で休み、馬に草を食ませていた。こちらは土埃にまみれて、肩で息をしていた。
そして、水がなかった。
近くを流れているはずのチュブク川は、細く濁った筋になっていた。敵が上流で堰を作って、流れを変えたのだ。井戸という井戸は、あらかじめ埋められるか汚されていた。ティムールの兵が先回りしていたのだろう。
兵たちは濁った水たまりに群がった。泥ごと手ですくって飲む者もいた。私も飲んだ。砂の味がした。それでも、飲まずにはいられなかった。
イブラヒムは空の水筒を振って、乾いた笑いを漏らした。
「戦う前から負けてるな」
「そんなこと言うなよ」と私は言った。
「言わなくても同じだ」
彼はそう言って、水筒を逆さにした。一滴も落ちなかった。
その夜、陣のどこかで、セルビアの騎士たちが歌っていた。スルタンの義兄弟、ステファン公の率いる部隊だ。スルタンの妃の一人は、ステファン公の妹にあたる。彼らは臣下として、この戦に来ていた。私たちと同じように渇いているはずなのに、その声は低く、よく響いた。
歌の言葉が分かった。分かってしまった。それは私の村で、収穫の夜に大人たちが歌っていた歌だった。麦を束ねた後、焚き火を囲んで、父も叔父も歌っていた。幼い私は母の膝で、それを聞きながら眠った。
九年間、一度も思い出さなかった歌だった。それなのに、最初の一節で、続きがすべて口の中に浮かんできた。
「どうした」とイブラヒムが聞いた。
「何でもない」
私は耳をふさがなかった。ただ、聞こえないふりをした。
第三章 象
七月二十八日の朝、敵の陣が見えた。
夜明け前に起こされ、隊列を組まされた。東の空が白むにつれて、平原の向こうの景色が少しずつ浮かび上がってきた。
色とりどりの旗が並んでいた。赤、黒、緑、白。見たことのない紋がいくつも風に揺れていた。その数は、私たちより明らかに多かった。地平線の端から端まで、敵で埋まっているように見えた。
そして、その列の中に、見たことのない灰色の山がいくつも動いていた。
「象だ」と誰かが言った。
インドから連れてきたという獣は、遠くからでも大きかった。長い鼻を揺らし、ゆっくりと歩いていた。背中に木の櫓を載せ、その上に弓兵が乗っていた。
私たちの馬が怯えて鼻を鳴らした。前脚で地面をかき、後ずさろうとする馬もいた。騎兵たちが手綱を引き、首をたたいてなだめていた。
「あんなもの、どうやって倒すんだ」と若い兵がつぶやいた。
「足を狙え」とイブラヒムが言った。「どんな獣も、足がなきゃ立てない」
本当にそれで倒せるのか、私には分からなかった。イブラヒムにも分かっていなかったと思う。ただ、何か言わずにはいられなかったのだろう。
太鼓が鳴り、角笛が鳴った。戦が始まった。
私たちイェニチェリは中央の後方、スルタンのそばに配された。スルタンは丘の上に陣取り、馬上から戦場を見渡していた。その右手に長男のスレイマン王子がいた。
右翼にはセルビアの騎士たち、左翼にはアナトリアの諸侯から集めた兵がいた。そして、両翼にはタタールの騎兵たちもいた。
最初の衝突は右翼で起きた。セルビアの重騎兵が、鉄の壁のように敵へぶつかっていった。馬も人も全身を鎧で覆い、長い槍を構えていた。槍の穂先が朝日に光った。
遠目にも分かるほど、彼らは強かった。ぶつかった瞬間、敵の列がたわみ、揺らぐのが見えた。土煙の中で、セルビアの旗が前へ前へと進んでいった。
「行けるぞ」と若い兵たちが叫んだ。
「押してる、押してるぞ」
私も拳を握った。セルビアの騎士たちが押している。それがなぜか、自分のことのように誇らしかった。昨夜聞いた歌が、また頭の中で鳴りはじめた。私はそれを止めなかった。
イブラヒムだけが、左を見ていた。
「おい、ハサン」
「何だ」
「左翼の旗を見ろ。動きがおかしい」
私は右翼から目を離して、左を見た。
左翼の兵たちは、前に出ていなかった。かといって、退いてもいなかった。ただ、何かを待つように止まっていた。槍は立てたまま、誰も構えていなかった。
その向こうで、敵の陣から幾人かの騎馬が進み出た。彼らは旗を掲げていた。私には読めない紋だった。だが、左翼の兵たちはそれを見て、ざわめいた。そのざわめきは波のように広がり、隊列全体が揺れはじめた。
イブラヒムが小さく舌打ちをした。
「まずいぞ」
第四章 寝返り
あとで知ったことだ。
左翼にいたアナトリアの兵たちは、もともとスルタンが滅ぼした小さな君侯国の民だった。アイドゥン、サルハン、メンテシェ、ゲルミヤン。どれも、ほんの十年ほど前まで、それぞれの君主を戴いていた国だった。
かつての主君たちは、領地を奪われてティムールのもとへ逃げていた。スルタンの雷に打たれ、すべてを失った者たちだ。そしてこの日、彼らは敵陣の先頭で、昔の家来たちに向かって旗を振ったのだ。
帰ってこい、と。
おまえたちの本当の主は、ここにいる、と。
左翼は崩れた。いや、崩れたのではない。向きを変えたのだ。昨日まで隣で水を分けあった兵たちが、今度はこちらに槍を向けた。泥水をすくって飲んでいた、あの男たちだ。
タタールの騎兵たちも、いつの間にか消えていた。彼らも敵に付いたと、誰かが叫んだ。タタールの民は、もともとティムールと同じ草原から来た者たちだった。彼らにとっては、どちらの王に仕えても大差なかったのかもしれない。
陣の中が乱れた。叫び声と、馬のいななきと、太鼓が、ごちゃまぜになった。命令が飛び交ったが、誰も聞いていなかった。前にいた敵と、横から来た元の味方と、どちらに槍を向ければいいのか、誰にも分からなかった。
「列を崩すな」と隊長が怒鳴った。「スルタンをお守りしろ」
私たちは丘の周りに固まった。
右翼のセルビア騎士たちは、まだ戦っていた。彼らは退かなかった。退けば、スルタンの側面が丸裸になると知っていたのだろう。重い鎧のまま、何度も何度も敵に向かっていった。
鎧を着た騎士が一人、また一人と馬から落ちていった。落ちた騎士の上を、敵の馬が踏み越えていった。それでも、旗は立っていた。誰かが倒れると、別の誰かがその旗を拾い上げた。
私は槍を握ったまま、その旗から目を離せなかった。
あの中に、私の村の誰かがいるかもしれない。収穫の夜に一緒に歌った男の、息子がいるかもしれない。私を連れていった役人を憎んだ父の、遠い親戚がいるかもしれない。
彼らは、私を奪った国の王のために死んでいく。私はその王の兵として、ここに立っている。そして左翼の兵たちは、その王を捨てて、昔の主のもとへ帰っていった。
彼らは裏切り者なのだろうか。
それなら、自分の生まれた村を奪った国のために戦う私は、何なのだろう。奪われた故郷の歌を歌いながら、奪った者のために死んでいくセルビアの騎士たちは、何なのだろう。
どちらが裏切り者なのか、私には分からなかった。
昼を過ぎたころ、セルビアの騎士たちは、スルタンの長男スレイマン王子を囲んで戦場を離れていった。王子を逃がせ、と誰かが命じたのだろう。王子さえ生きていれば、国は続く。
ステファン公は最後までスルタンのもとへ戻ろうとしたが、敵に阻まれた、と聞いた。丘の上からは、遠ざかっていくセルビアの旗が見えた。土煙の中で、それはだんだん小さくなり、やがて見えなくなった。
あの歌も、もう聞こえなかった。
残ったのは、私たちだった。
第五章 丘
スルタンは退かなかった。
将の何人かが、逃げるように進言したと聞いた。スルタンは聞き入れなかった。雷が逃げるわけにはいかない、とでも思ったのだろうか。それとも、ただ怒っていたのだろうか。裏切った者たちに、そしてここまで自分を追い込んだ東の老人に。
私たちイェニチェリは、スルタンを囲んで小高い丘の上に集まった。数は一万人ほどだったと思う。周りはもう敵ばかりだった。
矢が雨のように降った。盾を構えても、すき間から矢が飛び込んできた。象の櫓からも矢が飛んできた。象そのものも、ゆっくりと丘に近づいてきた。足を狙えと言ったイブラヒムは、象の足元までたどり着くことすらできなかった。
敵の騎兵が、何度も丘の斜面を駆け上がってきた。私たちは槍を並べて、それを押し返した。押し返すたびに、味方の数は減っていった。
不思議なことに、怖くはなかった。喉が渇きすぎて、怖がる力も残っていなかったのかもしれない。舌が上あごに張りついて、声を出すのもつらかった。ただ、目の前に来た敵を突き、また次の敵を待った。それだけを繰り返していた。
スルタンは馬上で斧を振るっていた。丘の頂から降りて、自ら敵の中に飛び込んでいくこともあった。四十を過ぎた男とは思えないほど、彼は速かった。雷という名は嘘ではなかった。
一度、スルタンの馬が私のすぐそばを駆け抜けた。その顔は汗と血で汚れていた。目だけが、ぎらぎらと光っていた。私は思わず息をのんだ。この人は、最後まで負けを認めないのだと思った。
日が少し傾いたころ、イブラヒムが私の隣に来た。彼の左腕には、折れた矢が刺さったままだった。
「ここで死ぬぞ」とイブラヒムが言った。
「ああ」
「おまえ、故郷に帰りたかったか」
私は答えに詰まった。
帰りたいかと聞かれれば、帰りたかった。けれど、帰ってどうなるのだろう。母はもう生きていないかもしれない。生きていても、私の顔を見て、私だと分かるだろうか。私はもう、村の言葉をうまく話せない。帰る場所があるのかどうか、もう分からなかった。
「分からない」
「そうか」イブラヒムは笑った。「俺もだ」
それが彼の最後の言葉になった。次の瞬間、彼の首に矢が立った。彼は何か言いかけて、そのまま崩れ落ちた。私は彼の名を呼んだ。彼はもう答えなかった。
彼の村の名前を、私は結局知らないままだった。
日が傾くころ、丘の上の兵は数えるほどになっていた。誰かがスルタンの馬の轡をとって、逃げてくださいと叫んだ。スルタンはしばらく動かなかった。それから、馬首を返し、数人の供とともに丘を駆け下りていった。
私は追わなかった。足が動かなかった。
遠くで、喚声が上がった。スルタンの馬が倒れ、追手に囲まれたのだと、夜になってから知った。王子の一人も、ともに捕らえられたという。雷は、地に落ちた。
私はイブラヒムの体のそばに座り込んでいた。彼の目を閉じてやろうとしたが、手が震えてうまくいかなかった。
やがて敵の兵が来て、私の槍を取り上げ、縄をかけた。抵抗はしなかった。
夕日がやけに赤かった。
第六章 そのあと
私は捕虜として東へ連れていかれた。
ほかの捕虜たちと縄でつながれ、何日も歩かされた。来た道を、今度は逆向きに歩いた。途中で倒れた者は、そのまま置いていかれた。行軍のときと同じだった。勝っても負けても、歩けない者は置いていかれる。
だが、運がよかったのだろう。数か月後、敵の陣が移動する混乱にまぎれて、私は逃げ出した。夜の山を越え、川を渡り、村々で物乞いをしながら、半年かけて西へ戻った。
戻った国は、もう同じ国ではなかった。
スルタンは囚われの身のまま、翌年の春に亡くなった。檻に入れられて連れ回されたという噂も聞いたが、本当かどうかは知らない。知りたいとも思わなかった。あの丘で斧を振るっていた姿だけを、私は覚えておきたかった。
残された王子たちは、父の国を奪い合った。スレイマン、イーサー、ムーサー、メフメト。兄弟が兄弟を討つ争いが、十年続いた。
私はその間、いくつもの陣を渡り歩いた。ある年はスレイマン王子のもとで、次の年はムーサー王子のもとで戦った。昨日の味方が今日の敵になった。アンカラの左翼の兵たちと、同じことをしているのだと思った。
誰のために戦っているのか、分からない日も多かった。それでも、隊列は前へ進んだ。
ティムールは間もなくアナトリアを去った。そして三年後、東の大国、明へ向かう遠征の途中で死んだ。あれほどの嵐も、過ぎてしまえば跡形もなかった。彼が築いた大きな国も、彼の死後、少しずつほどけていったと聞いた。
雷も嵐も、去ってしまえば静かなものだ。
一つだけ、はっきりしたことがある。
あの日、私たちが負けたおかげで、コンスタンティノープルは救われた。城壁を締めつけていた手は離れ、あの古い都はそのあと五十年も生き延びた。都の人々は、アンカラの知らせを聞いて、教会の鐘を鳴らして神に感謝したという。
私たちの負けを喜んだ人々が、海の向こうにいた。それを聞いても、不思議と腹は立たなかった。
私は年をとってから、一度だけあの都の城壁を外から見た。夕日に照らされた、長い長い壁だった。三重に重なった石の壁が、海から海へと、どこまでも続いていた。
アンカラの丘で死んだイブラヒムも、セルビアの騎士たちも、自分が誰かの命を延ばしたとは知らずに死んだ。誰も、そんなつもりはなかった。ただ渇いて、ただ戦って、ただ倒れただけだった。
それでも、壁は立っていた。
あの壁の内側で、五十年分の子どもが生まれ、育ち、年をとったのだろう。パンを焼く母親もいたのだろう。その手も、粉で白かったのだろうか。
私は城壁に背を向けて、歩きだした。あの日と同じように、東から西へ吹く風が背中を押していた。
口の中で、小さく歌ってみた。収穫の夜の、あの歌だった。言葉はところどころ抜け落ちていたが、節だけは覚えていた。
後書き
この物語は、一四〇二年七月二十八日のアンカラの戦いを、架空の若いイェニチェリ「ハサン」の目から描いたものです。ハサンとイブラヒムは創作の人物ですが、出来事の大きな流れは史実に沿っています。
史実に基づく主な点は次のとおりです。
・バヤズィト1世は「ユルドゥルム(雷)」と呼ばれ、戦いの前にはコンスタンティノープルを長く封鎖していた。
・ティムールとバヤズィトは、亡命者の扱いや領土をめぐって、互いを侮辱する書簡を交わした。
・ティムールはオスマン軍の裏をかいてアンカラへ回り込み、オスマン軍は暑さの中の強行軍で疲れきった。水源をふさいだという話も伝わっている。
・ティムール軍はインド遠征で得た戦象を伴っていた。
・アナトリア諸侯国出身の兵やタタール騎兵が、ティムール側に付いた旧主君を見て寝返った。
・セルビアのステファン・ラザレヴィチ(バヤズィトの妃オリヴェラの兄)の騎士たちは奮戦し、のちにスレイマン王子とともに戦場を離れた。
・バヤズィトは最後までイェニチェリと丘で戦ったのち、逃れようとして捕らえられた。王子ムーサーも捕虜となり、バヤズィトは翌1403年に亡くなった。
・その後のオスマン帝国では、王子たちによる「空位時代」が約10年続き、メフメト1世が再統一した。
・ティムールは1405年、明への遠征の途中で亡くなった。
・コンスタンティノープルの陥落は1453年まで延びた。
一方、創作の部分もあります。戦場での細かな配置や時刻の流れ、兵の数、個々の場面の描写は物語として組み立てたものです。また、バヤズィトが檻に入れられたという話は、後世の誇張とする見方が有力です。作中でも、ハサンには「噂」として聞かせるだけにとどめました。
イェニチェリの多くは、バルカンのキリスト教徒の村から集められた少年たち(デヴシルメ)でした。この戦いでは、セルビアの騎士とセルビア生まれのイェニチェリが、同じスルタンのために戦場に立っていました。誰が裏切り、誰が忠実だったのか。その問いを、ハサンの目を通して描いてみたいと思って書きました。