図鑑の余白
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
夜の図書館で顔馴染みになったオオカミのゴーウとキツネのレニ。種族のイメージに縛られた二人が、図鑑の余白にお互いを書き足していく静かな物語。
本文
「ゴーウ君、これで何度目かな」
ウマの上司の声は穏やかだった。怒鳴ったり、机を叩いたりするような人ではない。ただその落ち着きの中に、取り返しのつかないものを前にしたときのような、静かな呆れが滲んでいた。
「はい……はい! 申し訳ありません!!」
ゴーウは深々と頭を下げた。三十六歳、オオカミ。もっとも、そう言われてすぐに信じてもらえることは少ない。オオカミというのは、目が鋭く、立ち姿に威圧感があって、集団を統率するような、そういうイメージがある。しかしゴーウの目は垂れていて、体はどこかまるみを帯びていて、こうして頭を下げると大きなクマのぬいぐるみが縮こまっているように見えた。
周囲の社員たちは、各々の画面に向かっていた。電話をしている者、書類に目を通している者。誰一人としてゴーウの方を見ていなかった。見ていないのではなく、見慣れているのだ。この光景は日常の一コマに過ぎなかった。
自席に戻ると、ゴーウは椅子に腰を落とし、肩をすぼめた。モニターに映る自分の作業ファイルを眺めながら、しかしその中身はしばらく頭に入ってこなかった。
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「今日もミスっちゃったなぁ……」
会社を出ると、思わず呟いていた。特定の誰かに向けた言葉ではない。夜の空気に向かってこぼれ落ちた、ただの独り言だ。
ゴーウは酒もタバコもギャンブルもしない。始めれば、きっとのめり込んでしまう気がした。それよりも、何となく罪悪感があった。疲れたからといって、そういうものに頼っていいのだろうかという、根拠のない後ろめたさ。だから今夜も素面のまま、改札を抜けて、駅ビルの中を歩いた。
いつもの道だった。毎日のように通っている道だ。
だからこそあまり気を留めてなかった。
シャッターが下りたままの店の前に、白い紙が一枚貼られていた。
「長らくのご利用ありがとうございました」
プリンタで打ち出したような文字が、照明の下で白々と光っていた。そのあっさりとした無機質さが、かえって胸に引っかかった。
ゴーウは足を止めて考えた。何の店だったろう。毎日歩いていたはずなのに、思い出せない。雑貨屋だったか。それとも食べ物屋か。
——自分も、こんな感じなのかな。
誰かに気づかれないまま、ある日ふいにいなくなっても、何の店だったかも思い出されないような。そんな存在に、自分はなっていないだろうか。
ため息をつき、ゴーウは歩き始めた。駅から二、三分の場所に、夜遅くまで明かりのついている図書館がある。今日もそこへ向かう。
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ゴーウが図書館を好きな理由は、一言では説明しにくい。
好きな棚は児童向けのコーナーだ。昆虫図鑑、植物図鑑、宇宙の図鑑。カラフルで、賑やかで、ページを開くたびに見たことのない何かが飛び込んでくる。小難しい文章は要らない。ただ眺めているだけで、自分の知らない世界がそこにあると実感できる。
今日は魚の図鑑を手に取った。
向かったのは、いつもの席だ。初めてこの図書館を訪れた日に座った、窓際の端の席。特別な理由はない。同じ場所は安心する。ただそれだけのことだ。
図鑑を机に置き、ページをゆっくりとめくっていると、隣の席に誰かが座った。
ゴーウは視線だけを動かした。
二十代半ばとおぼしき、銀色の被毛のキツネの女性だった。手に小説を抱えて、静かに席についていた。
ゴーウは急に、自分が図鑑を広げているという事実が気になった。いい大人が、子ども向けの魚の本を。そう思われていたらどうしよう。しかしそれを確かめる勇気もなく、ゴーウはそっと図鑑に目を落とした。
それがふたりの、最初の夜だった。
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それから、キツネの女性を図書館で見かけることが増えた。
特に言葉は交わさなかった。お互いに本を読み、満足したら帰る。それだけだ。夜の図書館には、そういう人たちが集まっている。顔は知っているが名前は知らない。定年後らしい老いたカバ。毎週木曜にやってくる、ウサギの学生。みんなそういう関係で、ここにいる。
ある夜、いつものようにページをめくっていると、足音が近づいてきた。キツネの女性だった。
彼女がゴーウの近くの席に差し掛かったとき、ふと目が合った。
彼女は微笑んで、軽く頭を下げた。
ゴーウは一瞬だけ固まってから、慌てて会釈を返した。
彼女が席について小説を開くのを横目に確認しながら、ゴーウはそっと周囲を見回した。他に誰もいない。やはり、自分に向けた会釈だったのだ。
——そういう顔馴染みに、なれたんだな。
それはとても小さなことのように思えたが、ゴーウには何か温かいものとして胸に残った。
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数日後、昼間はあんなに晴れていたのに、夜になると雨になった。
ゴーウはその日、閉館の音楽が流れるギリギリまで図書館にいた。幾つか前のページに戻りたくて、ついつい長居してしまったのだ。閉館五分前に、キツネの女性が席を立って帰っていくのをゴーウは見ていた。
荷物をまとめて外に出ると、エントランスの軒下に人影があった。
照明が落ちて薄暗い中、銀色の被毛が雨に滲んでいた。キツネの女性だ。雨脚は強く、収まる気配がない。
彼女は傘を持っていないようだった。
ゴーウは立ち止まって、少し考えた。声をかけるべきか。でも、いきなり話しかけるのは、迷惑ではないだろうか。
——でも、あの雨の中では。
「あの……ひょっとして、傘をお持ちじゃないですか?」
声に出してみると、なぜか語尾が申し訳なさそうになっていた。
薄暗い中、大きな影が声をかけてきたことに、キツネの女性は一瞬だけ身をすくめた。しかしすぐにゴーウだと分かったらしく、表情がやわらいだ。
「あ……はい。今日、カバンを新しいのに替えたら、折り畳み傘を入れ忘れてしまって」
彼女は苦笑いした。
「でしたら、僕のを貸しますよ」
それが、ゴーウなりの考えだった。干渉しすぎず、しかし何か助けになれないかと思って。
「え……でも、そうしたらあなたが」
「僕はここから十分ほど歩いた場所なので、大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないですよ、こんな雨の中!」
彼女は慌てて首を横に振った。「むしろ私は駅までですから、走れば何とかなるので」
ゴーウは困った。思い描いていた展開と違う。
「あの……迷惑でなければ」と前置きしてから、「僕が傘をさしますので、駅まで一緒に歩きませんか」
彼女は少し悩むが
「……お願いしちゃっても、いいんですか?」
と申し訳無さそうに伺う。
ゴーウは意外だった。
中年の男と若い女性が同じ傘で歩く姿を想像すると断られて当然だと思っていた。
雨の中、ふたりは並んで歩き始めた。
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「レニです。建築デザインの仕事をしています」
「あ、僕はゴーウといいます。えっと、ただの会社員で……」
「ただの、なんてことないと思いますけど」
レニはそう言って笑った。
建築デザインの仕事は、精密さが命だとレニは言った。数値の誤差が許されない世界。だから疲れた頭を休めるために、あえて計算の要らない物語の世界に浸りに図書館へ来ているのだと。
「ゴーウさんは、どうして図鑑を?」
やはり、気になっていたらしい。
ゴーウは少し顔を掻いて答える。
「会社と自宅を往復するだけだと、景色があまり変わらないんです」
「でも図鑑を開くと、見たこともない生き物がたくさんいて。自分がいる世界より、ずっと広い世界があるんだなって」
「それがなんとなく……好きなんです」
レニはしばらく黙ってから、「私、そんな事考えたことなかったかもしれません」と感心したように答えた。
話しながら歩いていたら、あっという間に駅の明かりが見えてきた。
そのとき、レニが気づいた。
「ゴーウさん、びしょ濡れじゃないですか!」
ゴーウは傘をほとんどレニの側に傾けていたから、自分自身は雨ざらしのままだった。
「後はすぐ家でお風呂に入るだけですから」
ゴーウはそう言って笑った。自身の状態は全く意に介していない。
レニは何か言いかけて、やめた。かわりに、小さく頭を下げた。
それぞれの帰り道へ、ふたりは別れた。顔馴染みだったふたりが、今夜初めて、少しだけお互いのことを知った。
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「こんばんは」
その日以来、図書館で顔を合わせると、ふたりは声に出して挨拶するようになった。
変わったのはそれだけではなかった。いつの頃からか、レニがゴーウの隣の席に座るようになっていた。そしてある夜には、ふたりで同じ図鑑をのぞきこんでいた。
「ほら、レニさん! これ、キツネアザミって言うんですよ」
ゴーウは図鑑のページを指差した。
どこか誇らしげで、子どものように楽しそうな声だった。
「え……どの辺りにキツネ要素があるんでしょうか?」
レニが素直な疑問を口にすると、ゴーウの耳がぴんと立つ。
「実はこれ、アザミとは別の属なんです」
ゴーウは嬉しそうに説明を始めた。
アザミみたいな見た目なのに、アザミ特有の鋭いトゲがないこと。
だから“アザミだと思って近づいたら違った”という、化かされた印象からその名が付いたこと。
図鑑には簡単な説明しか載っていない。
ページの上には、植物のイラストと短い解説文が整然と並んでいるだけだった。
レニは思わずページを見返した。
「え……えっ? その説明、どこに書いてあります?」
「別の図鑑で読んだんです。見比べると、けっこう違うことが書いてあって面白いんですよ」
ゴーウはそう言ってから、図鑑のページへ目を落とした。
「これは、ずいぶん簡素でしたね……あはは」
なぜか申し訳なさそうに笑う。
レニは少しだけ目を丸くした。
知識を持っている人間は、それを誇示するものだと思っていた。
仕事では特にそうだった。
知っていることは武器で、知らないことは隙になる。
だから皆、少しでも優位に立とうとする。
でもゴーウは違う。
知っていることを、自分のためではなく、誰かと一緒に楽しむために使っている。
「レニさんってキツネアザミにぴったりだなって思ったんです。トゲがないところが…優しい感じがして」
言い終えてから照れたように頭を掻く。
レニは返事を忘れた。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
キツネという言葉に、自分が嬉しい感情を抱く日が来るなんて、思ってもいなかった。
閉館十分前になると、ふたりはいつの間にか揃って帰り支度をするようになっていた。ロビーで少し話して、それから帰る。それが習慣になっていた。
ある夜、帰りかけにレニが言った。
「今度の休みに、植物園へ行きませんか?」
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休日の植物園は、賑やかだった。
普段顔を合わせる時は仕事着の二人だが、今日は私服、特別な日であると実感する。
ゴーウはいつもの図鑑顔負けの解説を、歩きながらレニに聞かせた。
「このユリ、品種改良されたものなんですけど、原種はもっと地味なんです。でも原種の方が、蜂や蝶を引きつける力は強い。派手さより、役割を果たすことを優先しているというか……そういう感じがして、好きなんですよね」
レニは目を細めた。ただの散歩が、小さな探検のようになっていく。
温室に入ると、湿り気を含んだ温かな空気がふたりを包んだ。
吊り鉢の花々が頭上に連なり、色とりどりの花弁が柔らかな光の中で揺れている。
ガラス越しの日差しはぼんやりと白く滲み、まるで別の国へ迷い込んだようだった。
ふたりは温室のカフェスペースでハーブティーを頼み、向かい合って腰を下ろした。
「綺麗ですね」
レニが呟く。
「本当に」
ゴーウも小さく頷いた。
白く塗られた木製のテーブルには透明なシートが敷かれ、その下には花の一生を描いた図解が挟まれていた。
芽吹き、蕾をつけ、花を咲かせ、種を残して枯れていく。
ゴーウはそれを眺めながら、静かに言った。
「花は立派だなぁ」
「……誰かに綺麗だと思われなくても、ちゃんと花を咲かせて、自分の役割を果たしています」
どこか含みのある言葉にレニは続きの言葉を待った。
「幼い頃から、よく言われてたんです」
「オオカミなのに泣き虫だ、とか。ケンカが弱い、とか。リーダーシップがない、とか」
ゴーウは苦笑する。
カップから立つ湯気が、ゆっくりと揺れていた。
「僕は、オオカミとして見られなくても、せめて誰かの役に立てたらいいなって……そう思って生きてきました」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
レニは静かに息を吐いた。
「……ゴーウさん」
少し迷うように視線を伏せ、それから小さく笑う。
「少なくとも、私はゴーウさんと一緒にいて、すごく救われてたんです」
「え……?」
ゴーウは瞬きをした。
本気で心当たりがない、という顔だった。
レニはそんな彼を見て、少しだけ肩の力を抜く。
「キツネって、嘘つきでずる賢いって思われてるじゃないですか」
「……はい」
知っている。
世間のキツネに対する扱いは良くない。
「私、子どもの頃から、けっこう嫌なこと言われてきたんです」
レニはカップに視線を落とした。
「なんでキツネなんだろう、って。何でこんな風に生まれたんだろうって、何度も思いました」
温室のどこかで、水滴が落ちる小さな音がした。
「だから私は、“キツネとして”じゃなくて、一人のヒトとして見てもらいたかったんです」
ゴーウは何も言わなかった。
ただ、レニの言葉を取りこぼさないように、静かに聞いていた。
「でも前に、キツネアザミの話をしてくれたじゃないですか」
レニは少しだけ笑った。
「あんな風に、“キツネ”って名前のついた花を見つけて、嬉しそうに私のことを話してくれた人、初めてだったんです」
ゴーウの目がゆっくりと見開かれる。
「だから私、多分……オオカミだからじゃなくて」
「ゴーウさんだから、救われたんだと思います」
温室の花々は、変わらず静かに揺れていた。
甘い花の香りが、ゆっくりとふたりの間を満たしていく。
ゴーウは何かを言おうとして、結局うまく言葉にできなかった。
代わりに、テーブルの下では少しだけ尻尾が揺れていた。
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出口に向かって歩きながら、レニが小さく言った。
「また、一緒にどこか行きましょうね」
ゴーウは少しだけ背筋を伸ばして、笑顔で頷いた。
歩きながら、気がついたら、手の甲が触れていた。しばらくして、どちらともなく、指が絡んだ。
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## 五章 嘘という鎧
植物園の翌週、二人はいつも通り図書館にいた。
レニが言った。「しばらく、来られなくなるかもしれないんです。大きな案件を任されることになって」
ゴーウは自分のことのように喜んだ。
「すごいじゃないですか、レニさん! 頑張ってください、応援しています」
その笑顔があまりにも屈託なかったから、レニは少し照れて俯いた。
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ニ週間ほど、図書館でレニに会えなかった。
普段から静かな場所だが、何かが足りないと感じた。ゴーウは一人で閉館の音楽を聞き、薄暗くなったエントランスへ向かった。
そこにレニがいた。
「レニさん!」
ゴーウの声が反響した。
レニはゴーウの顔を見た瞬間、ホッとしたような、それでいてどこか泣きそうな表情になった。仕事を早く切り上げて、閉館間際に駆けつけてきたのだという。
「ずっと心配していました」
「体は大丈夫ですか?」
レニは一瞬だけ答えに詰まった。
胸の奥で、何かが小さく軋む。
――大丈夫。
そう言えば済む。
いつもみたいに。
「……はい。大丈夫です」
「仕事は忙しいけど…楽しいです」
ゴーウは安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、レニの胸に鈍い痛みが走った。
またやった。
また、“ちゃんとしている自分”を演じた。
そしてゴーウは、いつものようにたわいもない話を始めた。
カレールーを別の銘柄に変えたら思いのほか美味しかったこと。閉店していた駅ビルの店が、今度パン屋になるらしいこと。会社では相変わらずミスを繰り返していること
レニは笑って聞いていた。
笑えているはずだった。
でも、頭のどこかで別の声が響いていた。
――ゴーウさんはどうしてこんなに無防備なんだろう。
失敗した話を隠さない。
取り繕わない。
自分を大きく見せようとしない。
頼り無いと思われてもおかしくない。
それなのに、隣にいると安心する。
レニは、自分の喉の奥が少し熱くなるのを感じた。
「レニさん?」
頬を伝ったものに気づき、ゴーウが戸惑った声を出す。
レニは慌てて目元を拭った。
「……ごめんなさい」
「その……ちょっと疲れてるだけで」
言いながら、自分で分かった。
違う。
疲れているだけじゃない。
ずっと怖かったのだ。
期待されることも。
失敗することも。
弱いと思われることも。
そして何より――
ゴーウにまで、ちゃんとした自分を演じてしまうことが。
レニは一瞬だけ目を逸らして、それからゆっくりと息を吐いた。
「……正直言うと、仕事、あまり順調ではなくて…ずっとプレッシャーに押しつぶされそうなんです」
「ゴーウさんに会いたかったのは本当です。だけどゴーウさんに会っても、大丈夫って答えていました。全然大丈夫じゃないのに」
「それに、ゴーウさんの失敗の話を聞いたとき……なんか、ホッとしちゃって」
レニは自分の言葉を確かめるように、少し間を置いた。
「気付いたんです。私はゴーウさんにすら自分の弱い姿をさらけ出せないんだって」
「ゴーウさんに会いたかったのも実は自分より下がいることを確認して安心したかったんじゃないかって……」
自嘲するように、小さく笑った。
「やっぱり、キツネって嘘つきですね」
ゴーウの脳裏に、以前図鑑で見たキツネアザミのページが浮かんだ。
トゲのない花。
アザミに似ているのに、アザミではない花。
そして、小さく添えられていた花言葉。
——“嘘は嫌い”。
「……でも」
「……嘘をつくことは、そんなに悪いことでしょうか」
レニはハッとして顔を上げた。
「擬態の事覚えていますか?」
「昆虫図鑑で枯れ葉そっくりの虫に驚いていたじゃないですか」とゴーウは言った。「毒のある虫に姿を似せた無毒の虫も、面白いって」
「……ええ」
「実際彼らは枯葉でもないし毒をもつ虫そのものでもない別の生き物です。けれど擬態することで身を守ってきた」
「これは卑怯でも恥じる事でもない、生きるための知恵だと思うんです」
ゴーウは手をぎゅっと握り語気を強めた
「…だから、レニさんが理想のレニさんの姿であろうと嘘をついたのも、それと同じだと僕は思うんです」
レニはしばらく動かなかった。
「あ…虫と一緒にしないでって言われたらごもっともで…身も蓋もありませんが…」
凄い上から目線で語ってしまったと思い、途端にたどたどしくなるゴーウ
レニはくすりと笑うとゴーウの胸元に額を預けるようにして寄りかかった。
「……ありがとう、ゴーウさん」
ゴーウは温かかった。
薄暗いエントランスで、ふたりはしばらくそのままでいた。
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休日の昼の図書館には、窓から温かい日差しが差し込んでいた。
今日はレニが図鑑を持ってきた。表紙には「種族図鑑」とある。ウサギ、トラ、ウマ。様々な種族の身体的な特徴や能力が、丁寧なイラストと共に記されていた。
ページを繰っていくと、オオカミの項にたどり着いた。
鋭い目つき。均整のとれた体躯。集団を統率するリーダーシップ。図解のオオカミは、凛として、たくましかった。
ゴーウはわずかに肩を落とした。
「ん…ちょっと、情報が少ないですね」
レニが言った。
「え?」
「だって、私の知っているオオカミは、もっと柔らかくて、優しいんですもの」
そう言って、ゴーウの顔をのぞき込んだ。
ゴーウの耳がぴんと立った。
「隣に素敵な実例がいるんだから、これからもずっと観察して、書き加えていかないといけませんね」
ゴーウの手にレニはそっと手を乗せる
ゴーウは嬉しくて、どう返していいか分からなくて、ただ頬がじわじわと温かくなった。
ページをめくると、奇しくもキツネの項だった。
ゴーウも先程のレニの言葉に乗る
「じゃあ、僕もお隣のキツネさんからいろいろ見せてもらいたいですね」
レニが目を丸くして、それからくすくすと笑いながらゴーウの肩を軽くつつく。
「もう、ゴーウさんたら。エッチなんですね」
「ええ!? そんなつもりじゃ……!」
ゴーウは耳まで赤くして、首をすくめた。
ふたりのカバンの中には、今朝寄ったパン屋の紙袋が入っている。駅ビルに新しくできたパン屋だ。この後、どこかで一緒に食べようと言っていた。
窓から差し込む光が、ふたりのページを等しく照らしていた。
種族も、年齢も、世間の目も、関係なかった。ここには図鑑と、隣に座る人と、これから足していく余白があるだけだ。
ゴーウは思った。自分はこれからも、おそらく大きくは変わらないだろう。ミスをして、頭を下げて、いつもの席に座って、図鑑を眺めて生きていく。
でも、隣には誰かがいる。
変わらない自分の隣に、新しいページを書き足してくれる誰かが。
ふたりは見つめ合い、微笑みを交わした。
完