幸福のお釣り
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
息子を愛し、妻を愛しながら、自分の存在そのものを「望まれざるもの」と感じる男。生まれる前に選ぶことはできない——その不条理を同僚との対話で辿り、二人目の妊娠を前に、防ぎきれない苦しみを子に負わせる怖れと向き合う。愛と絶望が同居する家族小説。
本文
①
「お邪魔しま~す!」
玄関を開けるなり、息子の拓斗(たくと)の明るい声が響いた。靴を脱ぐのももどかしそうに、小さな体が廊下の奥へと駆けていく。
「おぉ〜、よく来たねぇ」
出迎えた私の父と母の顔が、その瞬間だけ十歳は若返ったように見えた。父は拓斗の両脇に手を入れると、危なげなくひょいと抱き上げる。
「ははっ、大きくなったなぁ!」
「キャハハッ!」
高い高いをされるたびに、拓斗は弾けるような笑い声をあげた。その声が、玄関先の空気をやわらかく満たしていく。
今日は私の里帰りの日だった。拓斗が生まれてから、父と母はこの日をいつも心待ちにしている。電話口で母が「次はいつ来られるの」と尋ねる声には、隠しきれない期待がいつも滲んでいた。
その晩は、手巻き寿司だった。
食卓には大皿に盛られた刺身や卵焼き、きゅうりやツナマヨが並び、拓斗は自分専用に用意された小さな皿の上で、悪戦苦闘していた。
海苔の上にしゃもじでご飯をすくって乗せ、フォークで具を刺しては、危なっかしい手つきで運んでいく。ご飯の量はまちまちで、具はどこか偏り、巻き終わる頃にはとても「巻き寿司」とは呼べないような、いびつな塊が出来上がっていた。
「はい、じいじ。ばあばも」
それでも拓斗は誇らしげに、不格好なそれを両手で父と母に差し出す。
「おお、ありがとう」
「美味しそう」
父と母は本当に嬉しそうな顔で、それを丁寧に受け取ると、大きな口を開けて頬張った。米粒がぽろぽろとこぼれ落ちるのも気にせず、二人とも満面の笑みを浮かべている。
私はその一部始終を、スマートフォンのカメラ越しに眺めていた。ファインダーの中の光景は、ひどく眩しく見えた。
その様子を、隣に座った妻の仁美(ひとみ)がずっと笑顔で見つめている。時折、拓斗の口元についたご飯粒を指で取ってやりながら。
一晩泊まり、翌日は近くの川へ出かけた。拓斗は裸足になって浅瀬をぱしゃぱしゃと駆け回り、父はズボンの裾を濡らしながらそれを追いかけた。夕方にはカラオケにも行き、母は懐かしい歌謡曲を、拓斗はテレビで覚えたばかりのアニメの主題歌を、それぞれ精一杯の声で歌った。
その二日間、誰の顔にも屈託がなかった。皆、心の底から幸せそうだった。
帰りの車の中は静かだった。
「お義父さんもお義母さんも、相変わらずで良かったね」
助手席の妻が、窓の外を流れる景色を眺めながら、ぽつりとそう言った。
「うん、そうだね」
私は前を見たまま、短く答えた。
高速道路に乗る頃には、長時間のドライブの揺れに誘われるように、妻も、そしてチャイルドシートの拓斗も、いつの間にか寝息を立てていた。
私はハンドルを握りながら、時折、助手席の妻を横目で、後部座席の拓斗をバックミラー越しに見た。
二人とも、驚くほど穏やかな寝顔をしていた。夕陽が車内に差し込み、その横顔を橙色に染めている。
トンネルに入る。
一直線に続く空間に等間隔に流れ去る暖色のライト。
この景色と一人の時間が、私のずっと頭の中から離れない感情が浮き出てくる。
――なぜ自分はこの世界に『存在してしまっている』のだろう。
人生をやり直したいわけでも、修正したいわけでもない。
そもそも、自分という存在が、最初から居なくてもいいのではないだろうか。
ーーーー
②
三十五歳、妻と六歳の息子。中堅メーカーの営業課長。
傍目から見れば、私は「幸せな人生」という名のレールの上を、きわめて順調に、一点の淀みもなく走り続けている人間に見えるだろう。
実際、不満は何一つない。仕事の業績は安定しているし、職場の人間関係によるストレスも無い。家に帰れば、私を迎えてくれる妻がいて、無邪気に笑う子供がいる。休日には家族で少し良いレストランに出かけたり、趣味のカメラを持って出かけたりもする。私は私自身の努力と幸運によって、このささやかで強固な「幸せ」を間違いなく構築してきた。
ただ、時折、猛烈な奇妙な感覚に襲われる。
人が幸福を追い求めるのは、自分がこの世界に存在してしまったという事実に、なんとか意味や理由を持たせたいからだろう。
それは理解できる。だから私も、この世界のルールに従って幸福を構築している。
けれど、それは私が自発的に「追い求めている」のではない。
ただ、そうせざるを得ないから、後ろから見えない何かに「走らされている」だけではないのか。
ジェットコースターに乗せられた人間が、恐怖と興奮で叫び声をあげるように。私は「人生」という強制参加のシートに縛り付けられ、周囲の乗客に合わせて、楽しそうな顔を作って歓声をあげているに過ぎない。
「………」
「あなた、最近ちょっと疲れてるんじゃない?」
夕食の後、ふと手が止まっていた私を見て、妻が心から心配そうな目でそう言った。
私は「いや、大丈夫。少し仕事のことを考えていただけだよ」と、いつもの穏やかな笑みを返した。
妻は優しい。私を深く愛してくれている。だからこそ、この私の話を彼女に打ち明けるわけにはいかないのだ。
そんなことを口にすれば、理解されるどころか、やはり「疲れている」と判断され、心療内科のパンフレットを渡されるのが目に見えている。
彼らは「生まれたから、生きる」という前提を疑わない。
いや、むしろ自分がこの世界に生まれたこと自体が当然だとすら思っているのかもしれない。
なぜ皆、「強制的に存在させられた」という開始の不条理さに気づかず、ジェットコースターで声を上げ楽しむことができるのだろうか。
ーーーー
③
夜の十時。拓斗を寝かしつけ終えた後、私と仁美は寝室のベッドに横たわり、サブスクで配信されている映画をぼんやりと眺めていた。
薄暗い画面の光だけが、壁と天井で静かに揺れている。
背後から、仁美の指先がそっと私の背中をなぞった。パジャマの生地越しに伝わる温もり。時折、指を絡めるように、こちらの存在を確かめるような繊細な軌跡。それは、彼女が私を求めている時の、いつもの密やかな合図だった。
私はリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。
一瞬で静寂と闇が部屋を満たす。暗闇に目が慣れないまま、仁美の方へ体を向けた。どちらからともなく重なった唇はどこまでも柔らかく、彼女の熱がストレートに伝わってくる。
けれど、唇を離したあと、仁美の呼吸がわずかに止まり、彼女の影が少しだけ俯く気配がした。
「ねぇ……もう一人、子供が欲しくない?」
闇の中でも、彼女の瞳がまっすぐに私を捕らえようとしているのが分かった。
「家も少し余裕ができたし、拓斗ももう六歳でしょ? あんまり歳が離れすぎないうちに、弟か妹を持たせてあげたいなって、ずっと考えてたの」
暗闇の中で、仁美の静かな息づかいだけが、私の耳元に届いている。
喉の奥がキュッと絞まるような感覚がした。すぐには言葉が出てこない。
「……どう思う?」
上目遣いに、私の顔を窺う影。声の語尾が、かすかに不安そうに揺れていた。
「そうだね」
できるだけ平然を装い、声のトーンを優しく整えた。
「ただ……いま授かると早生まれになっちゃうから、タイミングはもう少しずらした方がいいかもしれないよ」
「あっ、そうか……確かにね」
仁美は安堵したように、小さく息を吐いて頷いた。
ーーー
肌を重ねたあと、体の熱が静まるまでお互いの体を撫であい、他愛のない話をするのが二人の長年の習わしだった。
汗ばんだ体を並べ、暗い天井をぼんやりと見上げる。
その満ち足りた静けさの隙間に、仁美の声がひそやかに落ちてくる。
「せっかくいい気持ちになったところにごめんね」
「二人目の話さ……ちょっと、嫌そうじゃなかった?」
心臓を冷たい指で直接触れられたような感覚に、一瞬、息が止まった。
「嫌、じゃないよ。ただ……急に言われて、ちょっと考えちゃっただけ」
「本当に?」
「本当だよ」
逃げるように彼女の肩を抱き寄せ、その華奢な体を自分の胸元に引き寄せた。言葉でなく体温で安心させようとする自分のずるさを、どこかで自覚しながら。
仁美は私の胸に額を預けたまま、しばらく黙っていた。規則正しい彼女の鼓動が、私の胸に伝わってくる。
「拓斗、すごく可愛いから……もう一人いたら、もっと家の中が賑やかになるかなって」
「うん」
「あなたは、どうしたいの? 正直なところ」
また、問いが静かに返ってきた。
今度は優しく、けれど退路を断つように。
「……本当のところは、もう少し様子を見たいかな。仕事も今、ちょっと立て込んでるし」
「仕事のせい?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
「じゃあ、何?」
私は天井を見上げた。暗闇の中で、何も映らない。
「……うまく言えないんだけど。もう一人増やすっていうのは、拓斗の時とは違う『重さ』がある気がして」
「重さ?」
「うん。拓斗のときは、ただ『君と僕の二人の家庭に子供が欲しい』って思ってた。でも今は……少し、慎重にならなきゃいけない気がして」
仁美は胸から顔を上げ、暗闇の中で私の表情を探るように見つめた。その眼差しが鋭く刺さる。
「怖いの?」
「怖い、というより……」
言葉が途切れた。
『この世界に存在させてしまうことの責任』という、冷たくて巨大な感覚を、どうやって彼女に説明すればいいのか。それを口にした瞬間、彼女がこれまで注いできた愛情や、私たち二人が作ってきた家庭の幸福そのものを否定し、彼女を激しく傷つけてしまうことが目に見えていた。
「……ごめん。うまく説明できない」
長い沈黙のあと、仁美は小さく息を吐き、再び私の胸にそっと頬を寄せた。
「いいよ。今は無理に決めなくても」
彼女の指が、私の胸元をあやすように撫でる。
「ただ……私は欲しいって思ってるってことだけ、覚えておいてね」
「うん」
私は彼女の柔らかい髪に触れながら、低く答えた。
二人分の体温が重なる暖かなベッドの中で、私の手足だけが、どこか遠い冷たい場所に浮いているようだった。
仁美の寝息が、規則正しく胸元を撫でていく。その音を数えているうちに、さっきまで交わしていた言葉が、意味を失ってただの音の列になっていった。
何を答えて、何を答えなかったのか。思い出そうとするそばから、輪郭がぼやけていく。
ーーーー
④
その週の金曜日、私は部下たちに誘われる形で、駅前の小さな居酒屋にいた。
瓶ビールが席に届くと、佐藤がすかさずそれを手に取り、私のコップに注ぐ意志を示した。
「ささっ、課長、どうぞ、どうぞ!」
入社してまだ半年の新卒、佐藤浩哉。二十二歳。いつも背筋を伸ばし、誰に対しても丁寧語を崩さない。今夜も少し緊張した面持ちで、瓶を両手で慎重に傾ける。
正直、この風習はあまり好きではない。作られた空気の中で人が強要される構図が、どこか好きになれなかった。けれど佐藤の気持ちを無碍にするわけにもいかず、私は黙ってコップを差し出した。
乾杯の合図のあと、一口飲んで皆の顔を見渡す。
「ありがとう。あとはみんな好きに頼んだり、自分でついで飲んでもいいからね」
私以外に上役のいない飲み会くらいでは、しきたりに縛られて欲しくなかった。
隣で大野が静かに頷く。大野岳、三十歳。入社五年目。昼休みは決まって窓際で文庫本を開いている男だ。今夜もバッグの中に文庫が忍ばせてあるのが分かる。感情を表に出すことが少なく、話すときはいつも言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
向かいでは仁科がグラスを両手で包むように持っていた。仁科光、二十四歳。戸籍上は男性だが、性自認は女性で、ホルモン療法によって外見は完全に女性のものになっている。社内でもカミングアウトしており、誰もがそのことを当たり前のように受け入れている。
仕事の愚痴や最近の趣味の話が続いたあと、佐藤の親戚に子供が生まれたばかりだという話から、自然と子供の話題になった。
「課長の息子さんはおいくつでしたっけ?」
「今年六歳だね」
「おお〜! 課長の息子さんならお利口さんでしょうね」
佐藤が目を輝かせて言う。
「あはは、どうだろうね」
「正直、自分に子供ができるとか、まだ想像つかないですね」
少し照れたように笑い、グラスの底を指でなぞる。
「まぁ実際、子供にとっても、どの親に生まれるかなんて分からないですからね」
「だからこそ!俺で良かったって言ってもらいたいんですよぉ〜」
「佐藤君、かなり先見てるね。結婚予定でもあるの?」
仁科が体を乗り出し、楽しそうに目を細める。
「いえ、彼女もまだです……」
分かりやすくシュンと肩をすぼめる佐藤に、ドッと皆が吹き出した。
「……まぁ、子供からしたら、この世界に勝手に連れてこられたみたいなもんですよね。この親が良かったとか、選べないですし」
「そもそも拒否権がないようなものですからね」
大野が静かに付け加える。文庫本の角を揃えるときと同じ、無駄のない仕草でグラスを置く。
その言葉に、私は箸を止めた。
胸の奥でずっと燻っていた感覚が、ふと表面に近づいてくる。
仁科が佐藤にほほ笑みかけた。
「だから佐藤君もまずは親らしくなれるように、人として成長しないと、だね」
「ですよね!」
佐藤が元気よく返す。話題はまた軽くなりかけていた。
私は少しだけ間を置いてから、ためらうように口を開いた。
「……仮に、生まれるかどうかを自分で選べるとしたら、みんなはどうすると思う?」
唐突だったかもしれない。けれど、流れを断ち切らせたくなかった。
佐藤が真っ先に呟く。
「選べるとしたら……」
彼はグラスをくるくると傾け、中に残ったビールを回しながら続けた。
「生まれなかったら、その先の全部がなくなるわけじゃないですか。子供とか、孫とか。それを考えたら、NOって選べない気がします。責任、みたいなものが……ある気がして」
大野が静かにグラスを置いた。
「私はその問い自体が、少しおかしいと思いました」
「おかしい?」
「生まれる前の人間に『生まれますか?』と聞いても、その人間はこの世界を知らない。生きるということがどういう状態かも分かっていない。判断材料がないのに、YESかNOを選べというのは、構造として無理があるんじゃないでしょうか」
佐藤はややオーバー気味に頷く。
「確かに! 『あなたはこんな姿で生まれますよってビジョンみたいなものを見せないと判断できない』って事ですよね!」
「そうそれ。それでも『こんなはずじゃなかった』というクレームは出るでしょうけど」
大野が口の端を少し緩めた。佐藤は大野の話をいたく納得し、哲学的だと感心したが、大野はそれ以上深くは追わなかった。
「仁科さんはどう思いますか?」
仁科の隣に座っている佐藤は、俯き髪で隠れた彼女の表情を覗き込む。
仁科はしばらく黙って、グラスの中の液体を見つめていた。指先で長い髪を巻き取る。
「私も、実は大野さんの考えと同じところを考えてました」
彼女がようやく口を開いたとき、声は落ち着いていた。
「何ていうか、私ってこういう生い立ちだったのでなおさら……」
「あっ……」
佐藤も大野も、しまったという表情を隠しきれていなかった。私も、同じだったかもしれない。
仁科は周囲の様子に特に気を留めることなく、淡々と続ける。
「現実だと誰一人、本人が望んで生まれるわけではないですし。いつの時代に、どこに、どんな姿で生まれるかすら、決められないですよね」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「私は、生まれる時に配られた『男』というカードを『女』に変えようとしています。間違って配られたと思っているのは事実ですけど、それと『生まれるかどうか』は別の問題だと、私は思ったんです」
その言葉に、私はわずかに息を飲んだ。
「仁科さんにとって、『参加しない』を選ぶ判断基準っていうのはあるのでしょうか?」
私がそう聞くと、仁科は少しだけ視線を上げ、それからくすりと笑った。
「分からない、ですね」
「分からない?」
「参加しなかった場合の自分は、存在しない。存在しないもの同士を比べても、評価のしようがない。結局、私たちは参加してしまった側の視点からしか、物事を見れないんです」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
佐藤は「……深いですね」としみじみと感想を述べ、大野は「確かにそうなるな……」と短く応じた。
「ちなみに、課長はどうなんですか?」
佐藤が首を傾げて、こちらを見た。
一瞬、返事に詰まった。この問いは、私以外の人間がどう考えるのかを知るために投げたものだった。自分が答える側に回る可能性は、考えてみれば当然あったはずなのに、まるで想定していなかった。
「私は……」
三つの視線がこちらを向いている。はぐらかす手もあったが、問いを投げた本人が黙るのはフェアではない気がした。
「『生まれない』を選ぶと思う」
空気がわずかに止まった。佐藤が「えっ」と声を漏らし、仁科が顔を上げる。大野だけが、グラスに手を添えたまま動かなかった。
「……それは、なぜでしょう」
部下の中では最年長の大野が、三人を代表するように静かに尋ねた。
「まず、さっきの話で、生まれた後の人間は『生まれない』を選べないことは、みんな分かってくれたよね」
三人が頷く。
「だから、この世界に存在してしまった以上、存在しなかったことにはできない」
「はい」
「それから、自分で命を断つのも、存在しなかったことにはならない。存在した人間が死んだ、というだけだから」
場の空気が、ほんの一瞬だけ強張った。酒の席でこの流れになれば、誤解されるのは目に見えている。だから、そこだけは先に否定しておきたかった。
「ここまでは、いいかな」
「ええ、そうなりますね」
大野が答え、仁科も小さく頷いた。
「だから、私が望んでいるのは、この世界からいなくなることじゃないんだ。最初から、世界に私がいなかった状態なんだよ」
私は空の枝豆の殻を手に取り、二つに割る。
「存在しなかったなら、誰も私を知らない。私のいない世界は、それはそれで普通に成立する。そうだよね」
「う、う〜ん……うん?」
佐藤が眉を寄せる。
「確かに、存在しない以上、誰もその不在に気づけません。論理としては、成り立ちます」
大野が言った。「ですが、それは『存在しない』を選ぶ理由にはなっていないと思います。成り立つことと、望むことは別ですから」
やはり、大野は鋭い。
「そこなんだよね……」
私は自分の取り皿の枝豆の鞘を一つつまんだ。
「A――存在して人生を送るか。B――はじめから存在しないか。その二択って、今こうして考えている時点で、もうAの側にいることになるんだよ」
鞘を指先で開いてみせる。
中には、何もない。
向かいに座っていた仁科が、小さく頷いた。
「だからさ」
私は空になった鞘を眺めながら、少しだけ笑った。
「『これまでAを続けてきたのに、どうして今さらBを選ぶの?』って、絶対そうなるんだと思う」
「……確かに」
大野が、腑に落ちたように声を漏らした。
「でも、私が言いたいのは、そこじゃないんだ。Aとして生きてきたこれまでも、これからも、一度全部抜きにしたい」
「抜きにする、というのは?」
佐藤が首を傾げる。
「家族も、仕事も、積み上げてきたものも、責任も。生まれた後にできるものは、全部」
私は鞘をテーブルの上に置いた。
「まだ何も始まっていない、同じスタートラインに立った状態で、AとBを選ぶとしたら、ってことなんだ」
三人の視線が、テーブルの上の鞘に集まる。
「その状態なら、Aを選ぶ理由はよく分かる。幸せになりたい、楽しいことを味わいたい、夢を追いかけたい。すごく真っ当だと思う」
佐藤が、ほっとしたように小さく頷いた。
「じゃあ、Bを選ぶ理由は何かっていうと……人生を得る必要が、本当にあるのかなって思うんだ」
「必要、ですか」
大野が、確かめるように繰り返した。
「うん。綺麗事だけで片付かない事実が、世の中にはたくさんあるよね。それを全部分かった上で、それでも進んで人生を得る必要があるのかなって。そこに、どうしても引っかかるんだ」
私は少しだけ考えてから、静かに言った。
「私なら……Bがいい」
佐藤がパチパチと瞬きをした。
大野は何も言わず、腕を組んだまま私を見ている。
その反応を見て、慌てて付け足すように口を開いた。
「……いや、今の人生が嫌だって言ってるわけじゃないよ」
そう言ってから、空になった枝豆の鞘をもう一度手に取る。
「ただ……」
指先で鞘を開く。
やはり、何もない。
「人生を得たいかどうかっていう問いに、必ずYESって答えなきゃいけないのかな?」
誰もすぐには答えなかった。
「もし選べるとしても、この世界に存在する事は絶対的に正しいのだろうかって」
私も、しばらく空の鞘を見ていた。
「私は…、私みたいにNOと答える人がいてもいいと思うんだ」
「……僕は、課長がいてくれてよかったって思ってますよ!」
佐藤の声が、慌てたように少し上ずった。
「ありがとう、でもそういう話じゃないんだ」
「私は今の人生を不幸だと思ってるわけじゃない。むしろ幸せだと思ってる。でも、それと『最初から人生を得たいか』は、私の中では別の質問なんだ」
「それは……」
佐藤はまだ何か言いたそうにしていた。けれど、ふさわしい言葉が見つからなかったのだろう。納得しきれない顔のまま、ゆっくりと視線をテーブルに落とした。
同僚たちの前で口にできるのは、そこまでだった。
そこへ、店員が追加の料理を運んできた。
「お待たせしました、だし巻きです」
「あ、取り皿回しますね」
だし巻きの皿を受け取り、使い終わった皿を渡す。
各自飲み物の追加を注文すると。
この話題はフェードアウトし、別の話題に移っていった。
私はビールの泡が消えていくのを眺めながら、自分の中で整理を始めていた。
佐藤は未来への責任を語り、大野は問いの構造を疑い、仁科は「参加してしまった側の視点」からしか評価できないことを指摘した。そして、自分の境遇と「生まれたくなかった」という感覚を、明確に分けて見せた。
どれも、的を外してはいない。
しかし、どれも、私の感覚を完全には捉えていない。
それは、私自身の答えも同じだった。存在しない世界が成立することは、説明できる。けれど、なぜそれを望むのかは、私自身にも分からない。
そして何より――
この問い自体が、最初から矛盾を孕んでいる。
生まれてくる前の自分に選択を求めること。
存在しないものに、存在の是非を問うこと。
それは、構造的に成立しない。
確認のしようがないことを、確認しようとしている。
どうすることもできない。
それは分かっている。
それでも、この理不尽を「はい、そうですか」と受け入れることは、私にはどうしてもできなかった。
皆がすでに次の話題で笑っている中で、私だけが、少しだけ遅れて箸を動かしていた。
ーーーー
⑤
飲み会からの帰り道、私は電車で揺られながらスマートフォンを握りしめ、SNSの検索窓に自らの胸の奥で燻る「あの感覚」をなぞるような言葉を打ち込んでいた。
『生まれてきたくなかった』
『存在の不条理』
『反生殖』――。
無数の検索結果が画面を流れていく。画面のスクロールとともに現れるのは、社会や他者への鬱屈した呪詛だった。
『こんな酷い日本に子どもを産むこと自体、子どもに対する拷問であり虐待だ』
『誰が好んでこの世に生まれたいなんて頼んだ? 親の身勝手な欲望の犠牲者だ』
確かに、言葉の表面だけを見れば「望んで生まれてきたわけではない」という点において、私の感覚と重なる部分があるように思えた。だが、画面を読み進めるうちに、胸の中に広がるのは静かな違和感だった。
何かが違う。
彼らの言葉の温度と質は、私の抱えるそれとは決定的に異なっていた。
そこに並んでいるのは、社会の格差や生きづらさに対する攻撃であり、他者や親という「加害者」を責め立てる怒りだった。
私の中にある感覚は、決して誰かに向けられた矛先ではない。誰かを責めたいわけでも、社会を否定したいわけでもないのだ。
私は世界を、そして目の前にいる妻や息子を、他でもなく愛している。ただただ、自分という「主体」が存在してしまったという原罪のような閉塞感に、一人で佇んでいるだけに過ぎない。
ーーーー
⑥
休日。
晩御飯を終え、一人でリビングでソファに深く腰掛け、私は液晶画面をぼんやりと眺め続けた。アルゴリズムが自動的に流してきた動画の画面には、子育てに関するショート動画が表示されている。
『親と約束した動画の視聴時間やゲームのプレイ時間を守らない子どもに、どう対処すべきか』
そんなタイトルの動画だった。画面の中の識者が語っていた解決法は、意外なものだった。
『時間を制限して禁止するのではなく、逆に子どもに「毎日必ずこの時間にゲームをやらせる、動画を見させる」というルールを課すのです』
本来なら子どもにとって「娯楽」であり「歓喜」であったはずのゲームや動画。しかし、それが他者からの強制や義務へと変わった瞬間、子どもにとっては逃げ場のない苦痛へと変貌するのだという。
私は暗い画面に映る自分の顔を見つめながら、しばらく動けなかった。
――強制されると、苦痛になる。
その理屈は分かる。分かってしまう。だが、それが何なのか。何に似ていると思ったのか。喉の手前まで来ているのに、言葉にならない。動画はもう次の話題に移っていて、画面の中の識者が別のことを喋っている。私は戻るボタンを押して、同じ場面をもう一度だけ見た。二度目も、同じところで言葉が止まった。
やがて画面を閉じた。閉じたところで、喉の手前のものは、そこに残ったままだった。
「お父さん、カップケーキ!」
静寂を破って弾けた無邪気な声に、私は弾かれたように顔を上げた。
パタパタと廊下を駆けてきた拓斗が、両手で誇らしげに白い皿を掲げている。その上には、どこか不揃いな形をしたカップケーキが数個、ちょこんとのっていた。
「お母さんと一緒に作ったんだよ! 僕ね、ぐるぐるって混ぜて、チョコチップを乗せたんだ!」
追うようにリビングへ入ってきた妻が、拓斗の頭を優しく撫でながら、眩しいような笑顔を浮かべた。
「拓斗、すっごく上手に混ぜてくれたんだよね〜」
「うん! お父さん、食べて!」
拓斗は小さな指でカップケーキを一つ摘むと、はい、と私に差し出してきた。
受け取ったケーキの表面は少し焼きすぎていて、フチのところが少し黒く焦げている。子ども特有の不器用さが詰まった、温かな手作りの塊だった。
口に運ぶと、表面のサクッとした歯ごたえとともに、素朴な甘さが広がった。そして後から追いかけてくる、生地の焦げたほんのりとしたほろ苦さ。それが思いのほか全体の甘さを引き締め、絶妙なアクセントになっていた。
「美味しいよ、拓斗。すごく美味しい!」
「本当!?」
心の底からの感想を口にすると、拓斗の大きな目がぱっと輝いた。彼は弾むような足取りで妻に駆け寄り、「お父さん、美味しいって!」と満面の笑みを向けた。
「良かったねぇ、拓斗!」
妻もまた、我が子の嬉しそうな姿を心から愛おしそうに見つめ、幸せそうに目を細めていた。
口の中に残る、甘みとビターな焦げの感触。
私は息子がくれた二個目のケーキにそっと手を伸ばした。
ーーーー
⑦
それからひと月ほどが経った。
期末に近いこともあり、会社の負荷は高い日が続いていた。帰宅は連日遅くなり、この感覚を自分の中でゆっくりと整理する時間は、ほとんど取れなかった。
家に着く頃には、拓斗はもう眠っていることが多かった。それでも仁美は、私が「もうすぐ着く」と連絡を入れると、決まってちょうど良いタイミングで、温かい食事を用意してくれていた。
拓斗と仁美はすでに食事を終えているのだが、私が箸を動かしている間、仁美はいつも向かいの席に座って、その日にあった出来事を話してくれた。
私はできる限り早く仕事を切り上げるよう努めていた。
それは、部下たちが帰りやすい空気を作るためでもあったが、それ以上に、少しでも拓斗と過ごす時間を確保したかったからだ。
たとえ拓斗がもう寝る直前であっても、廊下で「おやすみ」のハグを一つ交わせるだけで、その日の気分はまるで違った。
小さな体を一瞬抱きしめる、その温もりだけで、一日の疲れの質が変わるような感覚があった。
寝室で過ごす時間も、私と仁美にとって大切な習慣だった。ベッドに並んで横になりながら、他愛もないその日の出来事や、拓斗の成長について話す。交互に肩や背中をマッサージし合うのが、いつの間にか二人の間の決まり事になっていた。
仁美はよく、私の膝や肩に頭を預けてくる。そのたびに、彼女のシャンプーの香りに、わずかな頭皮の匂いが混ざったような、あの独特の香りが鼻先をかすめた。私はその香りが、ただ単純に、好きだった。
ーーー
そんなある日、若手の佐藤浩哉が、週末のバーベキューを企画してくれた。
「みんな最近忙しかったので、ちょっとリフレッシュできたらと思って」
照れくさそうにそう言う彼の提案は、部内で好評だった。社員だけでなく、その家族も一緒に参加できる、川沿いのバーベキュー場を借りての集まりだった。
現地で食材を切り分け、炭をおこし、思い思いに調理をする。
当日は雲一つない、気持ちの良い晴天だった。
社員たちとその家族が、三々五々、広場に集まってくる。子供たちの歓声と、炭の爆ぜる音、遠くから聞こえる川のせせらぎが、心地よく混ざり合っていた。
私は「写真係」を買って出るという口実のもとに、カメラを片手に、この一ヶ月を乗り越えてくれた部下たちのもとを、一人ずつ回ることにした。
まずは、幹事を務めてくれた佐藤の元へ向かった。彼は炭の火加減を確認しながら、忙しなく立ち働いていた。
「佐藤君。素敵な企画、ありがとう」
私がそう声をかけると、佐藤は少し照れたように頭をかいた。
「いえ、僕はまだ、こういう事ぐらいしか役に立てないので」
謙遜気味にそう言いながらも、彼の表情は、どこか誇らしげだった。私はその横顔にレンズを向け、シャッターを切った。
水場では、幼い子供が親と一緒になって野菜を洗っていた。少し離れた広場では、大人が子供たちに混じってかけっこをしている。転びそうになりながら走る小さな背中を、親たちが笑いながら追いかけていた。
明るい声が、川辺の空気に弾けている。
「いいなぁ……」
隣で佐藤が、ぽつりと呟いた。
「僕もこういうの、いつかやりたいですね」
目を細めながら、その光景を眺めている。冗談めかした様子はなく、その声には、まだ見ぬ未来を思い描いているような響きがあった。
「子供と一緒にバーベキューとか?」
「はい。……まあ、その前に相手を見つけないといけないんですけどね」
佐藤は照れくさそうに笑った。
「この前も彼女いないって言ってたね」
「そうなんですよ。そこが一番の問題で…」
困ったように頭を掻く。その横顔を見ていると、先日の飲み会で彼が口にしていた言葉を思い出した。
――子供とか、孫とか。それを考えたら、NOって選べない気がします。
あのときの言葉は、少し背伸びをした青年の理屈のようにも聞こえた。けれど、今こうして子供たちを眺めている彼の横顔を見ていると、少なくともあの言葉が、その場だけの思いつきではなかったことは分かる気がした。
まだ見ぬ誰かと、その誰かとの間に生まれるかもしれない子供。
佐藤にとっては、そんな未来もまた、自分の人生の延長線上にあるものなのだろう。
「佐藤くんのその真摯な姿に、惹かれる女性はきっといると思うよ」
私がそう言うと、佐藤は笑った。
「課長にそう言われると、なんか安心します」
そう言って、再び火の様子を確認するためにしゃがみ込む。
私はその姿をもう一枚、カメラに収めた。
まだ何も始まっていない未来を、彼は疑うことなく楽しみにしている。
そのことが、なぜか少しだけ眩しく見えた。
ーーー
少し離れた調理台では、大野岳が黙々と野菜を切っていた。包丁の入るリズムが一定で、なかなかの手さばきだった。
「大野君、こなれてるね」
声をかけると、大野は手を止めずに、こちらをちらりと見た。
「ええ、まあ。自炊してるので」
それだけ言って、視線を手元に戻す。トントン、とまな板を叩く音が規則正しく刻まれる。
以前、雑談の中で聞いた話では、彼は最近スパイスからカレーを作るのにハマっているらしい。市販のルーを使わないこだわりぶりだ。
自分から多くを語るタイプではない。けれど、こちらから尋ねれば、思いのほか深い引き出しを持っている。
彼の魅力は、そういう寡黙さの奥にある自分だけの世界なのだと、最近になって分かってきていた。
「大野君は、なんていうか……豊かだよね」
「え? 何ですか、それ」
大野は包丁を動かしたまま、少し吹き出すように笑った。
「いや。大野君ってブレないというか。自分の内側に、ちゃんと自分だけの世界を持ってるって感じがするんだ」
「ああ……」
大野は玉ねぎを半分に切り、手際よく皮を剥き始めた。口角がわずかに上がる。どうやら、まんざらでもないらしい。
「そうですね。私は本を読んだり、人の話を聞いたりして、それについてあれこれ考えるのが好きなんです」
「でしょうね」
会社での打ち合わせでも、大野は発言数こそ多くない。けれど皆が一通り意見を出し終えた頃に、ぽつりと口を開く。その一言には、彼が何度も考え直したであろう思考の跡がある。私は、彼のそういう言葉を聞くのが好きだった。
「……実は、飲み会の時の課長の質問。ずっと考えてたんですよ」
大野の声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
「え! そんなに?」
「はい。ああいう問い、普段あまり考えないので」
大野は流れるような手つきで玉ねぎに細かく切れ目を入れ、みじん切りにしていく。軽快な音とともに、みじん切りになった玉ねぎがまな板の上にきれいに積み上がっていく。
「ただ、やっぱり……『どうしたいか』って考えられる時点では、もうこの世界にいるんですよね」
「そうだよね」
私も頷いた。生まれる前の自分が存在しない以上、その自分に「生まれたいか」と問いかけても答えようがない。そこをどれだけ考えても、結局は同じ場所に戻ってくる。
「でも、考えていて一つ、面白いことに気づいたんです」
大野は休むことなく、今度はニンジンの皮をピーラーで剥き始めた。シャッ、シャッ、と白い刃がニンジンを滑る。
「もし、生まれる前の自分に『この世界に来ますか?』って聞けるとしたら……その質問って、実はかなり人間側に寄った質問なんじゃないかと思ったんです」
「人間側?」
「はい」
剥き終えたニンジンをまな板に置き、大野はトントンと一定のテンポで乱切りにしながら言った。手元に一切の迷いがない。
「例えば、『この世界には家があります』『学校があります』『仕事があります』『家族を作ることもできます』。そうやって人間が作ってきた環境を全部見せられた上で、『ここで生きたいですか?』って聞かれているわけです」
ニンジンが転がり、綺麗に切り分けられていく。
「でも、それって結局、人間が人間の都合で作った世界を見せて、『来たいですか?』って聞いているだけなんですよね。生まれることそのものは人間が決められないのに、生まれた後の世界は、ほとんど全部が人間によって整えられたシステムなんです」
私は、大野の手元と、そこから繰り出される澱みのない論理に見入っていた。
「……確かに」
「だから面白いんです。生まれる前と、生まれた後で、世界の性質が根本的に違うんですよ」
私はその言葉でピンときた。
「生まれる前は、人間の手が届かない不条理な世界。でも、生まれた瞬間から、人間が作った世界に放り込まれるのか!」
「そうです。だって、目の前の生活だけなら、社会の中にそれなりの『答え』が最初から用意されていますから」
大野はじゃがいもをゴロゴロと大きめに切り分け始めた。一定のリズムが再び響く。
「どうすれば幸せになれるか。どうすれば仕事がうまくいくか。そういう問いには答えがあふれている。でも――『なぜ自分はここにいるのか』という問いには、社会の中に答えがない」
コン、と最後のじゃがいもが切れ、大野の手がすっと止まった。
「だから、考える人が少ないのかもしれませんね」
「……そうかもしれない」
私はそう答えながら、さっきまでの話を頭の中で繰り返していた。
生まれる前の自分には、何も選べない。
けれど、生まれてしまえば、この世界で生きていかなければならない。
そして、その先には当然、幸せだけが待っているわけではない。
「でも……」
思わず、口から言葉が漏れた。
「生まれた後のことまで考えたら、もっと怖いのかもしれないな」
「生まれた後?」
「うん」
私は遠くで遊ぶ子供たちに目を向けた。
「どんなに幸せな家庭を作ってあげても、どんなに大切に育てても……その子がこれからどんな目に遭うかまでは、親には決められないでしょう」
大野は何も言わず、私の方を見た。
「その人自身ではどうにもできないような、取り返しのつかない苦痛に遭うかもしれない」
その言葉に、胸の奥が重くなっていった。
「それでも、幸せな時間をたくさん作ってあげればいいって考え方もあると思う。でも……もし、その苦しさや痛みが、今までの幸せを思い出す余裕すらなくなるほどのものだったら?」
そこで言葉が止まった。
大野はすぐには答えなかった。
「……それは、怖いですね」
静かな声だった。
生まれる前の本人に「生まれたいか」と尋ねることが理不尽なのは分かる。
けれど、それだけではない。
本人に何も確認できないまま、この世界に連れてきてしまったあとも――その人生にどんな苦痛や絶望が待っているのか、親には保証できない。
どれだけ愛しても。
どれだけ幸せにしても。
その人の人生そのものを、守りきれるわけではない。
「……そう考えると、子供を作るって、思っていた以上に重いことだなって思ったんだ」
私はそう呟いた。
大野は少し考えてから、包丁をまな板に置いた。
「でも、それを言い始めたら……誰も何も始められなくなるんじゃないでしょうか」
「……うん、それは当然そうだよね」
その言葉に、私は返事をするしかなかった。
それが正しいのかどうか、私にはまだ分からなかった。
ただ、自分が恐れているものの輪郭だけが、少しだけ見えた気がした。
「大野君、ありがとう。私のちょっとした問いを、こんなに深く考えてくれて」
「いえ。楽しかったです」
大野はそう言って、照れくさそうにボウルを抱えた。
あれだけの持論を淀みなく述べ立てながら、それでいて手元は一切休ませず、野菜の仕込みを終わらせている。
このギャップと佇まいこそが、大野岳という男なんだと深く納得していた。
私は肩から下げていたカメラを構えた。
「大野君、ちょっといい?」
「はい?」
「そのままで」
「そのまま……?」
ファインダーを覗く。大野は一瞬だけ困ったような顔をしたあと、ボウルを片手に持ち、もう片方の手で切りたてのニンジンをひとつ、ひょいと持ち上げた。
彼なりのお茶目なサービス精神なのだろう。
私は思わず笑いながら、シャッターを切った。
ファインダーの向こうで、大野はほんの少しだけ得意げな顔をしていた。
ーーー
草原の方に目をやると、仁科光が、集まった子供たちに囲まれて、シロツメクサの花を摘んでいた。
「ひかりさん、はやくー!」
子供の一人が、待ちきれないように声を上げる。
「はいはい、今行くから」
仁科は笑いながら、摘んだ花を一本ずつ丁寧に編み込んでいく。
やがて、小さな花冠が一つ出来上がった。
「できたよ」
「わぁ!」
子供は嬉しそうに両手を上げ、仁科がその頭に花冠を載せる。
「次、私!」
「僕も!」
「はいはい、順番ね」
子供たちにせがまれながら、仁科は次々と花冠を作っていった。
「おじさんもどうぞ!」
突然、一人の子供が私のところへ駆けてきた。
小さな手には、少しいびつな花冠が載っている。
「これ、かぶって!」
「え……おじさんが!?」
「そう!」
断る理由もなく、私はそれを受け取った。
頭に乗せると、シロツメクサの茎が額に軽く触れた。
「似合う!」
子供が嬉しそうに笑う。
「そうかな」
私は苦笑しながら、隣を見る。
仁科も自分で作った花冠を頭に乗せていた。
「仁科さんも似合ってますね」
「ありがとうございます」
彼女はそう言って笑った。
そのとき、遠くからまた声が飛んできた。
「ひかりさーん!」
「はいはい」
仁科が手を上げる。
私はふと、その呼び方が気になった。
「……そういえば」
「はい?」
「仁科さんって、以前は『ピカッて光る』の漢字で、『ひかる』って呼び方だったんですよね」
「ああ」
仁科は少しだけ目を細めた。
「よく覚えてましたね」
「自己紹介の時印象に残ってたので」
彼女が私の部署へ配属された日。
凛とした印象の女性の不意を突くようなカミングアウトを兼ねた自己紹介は今でも鮮明に覚えている。
彼女は頭の花冠に触れた。
「今は呼び方は『ひかり』ですけど、漢字は変えてないんですよ」
「どうしてです?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど仁科は、特に気にした様子もなく、シロツメクサを一本摘み取った。
「『光』っていう漢字は、嫌いじゃなかったんですよ」
「……名前そのものは?」
「ええ」
仁科は少しだけ笑った。
「両親がつけてくれたものですから」
意外な答えだった。
私はてっきり、以前の自分を象徴するものだから、名前そのものも変えたかったのだと思っていた。
「じゃあ、どうして読み方だけ?」
「読み方くらいなら、自分で決めてもいいかなって」
あまりにもあっさりと言うので、私は思わず聞き返した。
「自分で?」
「はい」
仁科は、指先でシロツメクサの茎を弄びながら続けた。
「同じ字でも、呼ばれ方が変われば、ちょっと違って感じるでしょう?」
「そうですね」
「だから、残したいものは残して、自分で変えられるところは変えました」
風が草原を撫でた。
仁科の髪が揺れる。
「だけど…」
子供達のはしゃぐ声が聞こえる。
「変えられないもので唯一心残りがあるとすれば…やはり、子供を産めない事でしょうか」
私は彼女を見つめていた。
これまでの会話で彼女は、何かを諦めたような陰りはなかった。
だが、この一言はそれとは違う、深く静かな表情だった。
「そう……ですよね……」
私は、それ以上何も言わなかった。
遠くで、また子供たちが仁科を呼んでいる。
「ひかりさーん!」
「はいはい、今行くよ」
仁科は笑って、子供たちの方へ歩いていった。
私はその背中を眺めながら、頭の花冠に触れた。
与えられた名前。
その中から、自分で選んだ呼ばれ方。
同じ「光」なのに、そこには確かに違うものがあるように思えた。
与えられた肉体。
どんなに本来の性を取り戻したとしても、「ひかり」には子を持つ持たないの選択肢はない。
私の持つ悩みとは全くの無縁である。
だが、それを羨ましいとは全く思えなかった。
やがて仁科が子供の頭に花冠を載せる。
彼女のその慈しむような所作は、子供を持つ選択すら出来なかった彼女なりの答えのように見えた。
私はカメラを構えた。
ファインダーの中で、子供が笑っている。
その隣で、仁科も笑っている。
私はシャッターを切った。
ーーーー
⑧
穏やかな陽が差し込むリビングで、私はダイニングテーブルの上に写真を広げていた。
普段は撮り溜めてからまとめて現像するのだが、昨日のバーベキューに参加してくれた社員やその家族に渡すため、今日のうちに紙の写真として手元に用意していたのだ。
何十枚と並ぶ写真の中に、我が家のプライベートな一枚が紛れ込んでいた。
皿の上の焦げたカップケーキを自慢気に掲げ、満面の笑みでポーズをとる拓斗の姿だ。レンズ越しに切り取られた息子の姿を眺めていて、私は当日気づかなかったある部分に目が留まった。
拓斗の着ているTシャツの胸元から裾にかけて、白く粉っぽい筋がいくつも走っている。粉を振るい、生地を混ぜる作業がいかにダイナミックだったかを物語るように、彼は服をホットケーキミックスまみれにしていたのだ。
「ふっ……」
思わず口元から小さな笑いが漏れた。当日は目の前に差し出されたケーキと息子の誇らしげな顔に夢中で、服の汚れにまで目がいっていなかったのだ。
「あ、お父さん! これ僕でしょ!」
私の漏らした声に気づいたのか、拓斗がトコトコと寄ってきて、テーブルの端に手をかけて背伸びをした。
「そうだよ。ほら見ろ、ここ。粉だらけじゃないか」
「え〜? ホントだ!」
「はい、みんなで飲もうと思ってココア淹れたよ〜」
タイミングよく、仁美が全員分のココアを載せたトレーを運んできた。甘く温かい香りがリビングに広がる。彼女はトレーを置くと私の隣に腰を下ろし、慣れた手つきでアルバムの透明なシートをめくり始めた。
「懐かしいねぇ。これ、覚えてる?」
仁美が指さしたのは、何年も前の、一枚の写真だった。
提出する前の婚姻届の上に、ふたつの婚約指輪が並べて置いてある。
「これ、仁美の提案だったよね」
「そうそう! ネットで見かけて、絶対に撮りたかったの」
いかにも「SNS映え」を意識したような構図に、当時の私は少し照れくささを感じたことを覚えている。だが仁美は、愛おしそうにその写真を指先で撫でていた。
ページをめくると、ウェディングドレスを纏った仁美の写真が現れる。
ブーケを胸元で抱え、カメラから少し視線を外して目を細める彼女の姿。
「わあ、お母さんキレイ! お姫様みたいだね」
「ありがとう、拓斗。お父さんが撮ってくれたんだよ」
仁美が少し誇らしげに私を見る。
……そうだった。あの時、ファインダー越しに彼女の姿を捉えた瞬間、私は息を呑み、胸の奥から「本当に綺麗な人だ」と深く感じ入ったのだ。
自分で手に入れた「結婚」という事実そのものには冷めた感情しか抱けなかった私だが、ドレスに身を包んで恥じらう彼女の眩しさだけは、間違いなく本物の光として私の胸に届いていた。
さらにページをめくると、住宅街の一角、まだ基礎のコンクリート枠しか存在しない土地の写真が並んでいた。そこから柱が立ち、壁が作られ、家が組み上がっていくプロセスが数枚にわたって記録されている。
「これ! この家なの?」
完成したばかりの外観写真を見て、拓斗が目を見開いた。
「そうだよ。この家が出来上がるまで、お父さんとお母さんで何回も見に行って、お父さんが写真を撮り続けたんだ」
「へえー! 凄い!」
そして――生まれたばかりの赤ちゃんを抱く、少し疲れた様子の仁美の写真。
「この赤ちゃんが、拓斗だよ」
「えっ……? これ僕なの?」
拓斗は自分の顔と写真を何度も見比べ、首をひねった。自分の記憶が芽生える前の出来事。まるで同姓同名の別人を眺めているかのような、不思議でどこか誇らしい表情を浮かべている。
そこからのページは、すべて拓斗の色彩で溢れていた。
幼稚園の入園式、初めての運動会、一生懸命に鍵盤ハーモニカを吹く演奏会、顔に餅粉をつけた餅つき大会――。
記憶も思い出もまだ新しく生々しいそれらの写真を指差しながら、拓斗は興奮気味に語り出した。
「この運動会のときね、かけっこで転びそうになったんだよ! でもね、最後まで走ったの!」
「うんうん、覚えてるよ。頑張ったよね」
拓斗は、自身のまだ始まったばかりの「人生」という物語を、心から楽しそうに語り続ける。彼の語る思い出のすべてが、眩しいほどの生命力に満ちていた。
「あ、これ優君で、こっちが将君だよ」
拓斗が、幼稚園の園庭で子供三人で写っている写真を指さした。
「優君は僕と同じ一年生で、将君は優君の弟なんだ」
写真の中で、二人の兄弟はぴったりと肩を並べてヒーローのポーズをとっている。
「二人とも、すごく仲良さそうだね」
「うん! 優君、いつも将君と一緒に遊んでるんだよ!」
拓斗は楽しそうに友達とその弟の話を続ける。
一人っ子として育ってきた息子の目に、「兄弟」という存在はどう映っているのだろうか。
隣で仁美が、拓斗の話を嬉しそうに聞いている。
彼女の口元は笑っているけれど、私には分かってしまった。
「拓斗も、弟や妹が欲しい?」――そう問いかけたい衝動を、彼女が必死に飲み込んでいるのだということが。
言葉には出さない仁美の静かな願い。
昨日、仁科が胸に秘めていた「選択肢すら持てなかった切なさ」。
そして、命を宿す選択肢を持ちながらも、存在の不条理に慄き、立ち止まっている自分。
私は、テーブルの上に広げられた写真を見つめた。
ここにあるのは、どれも幸せな瞬間だった。
結婚した日。
家が出来上がっていく過程。
生まれたばかりの拓斗。
幼稚園で笑う拓斗。
友達と肩を並べる拓斗。
もちろん、それは偶然ではない。
アルバムというものは、そういう瞬間を残すためのものなのだから。
けれど――。
アルバムには載らない。
載せることができないような出来事だって、世の中にはある。
事故。
事件。
災害。
リビングで何気なく眺めているニュースの向こうには、その瞬間まで当たり前の日常を生きていた誰かがいる。
殺す側になってしまうこともある。
殺される側になってしまうこともある。
自分の判断を一つ誤っただけで、誰かの命を奪ってしまうこともある。
ただそこに居合わせただけで、理不尽に巻き込まれてしまうこともある。
そういうものは、本人がどれだけ善く生きていたかなんて、見てくれない。
それまでにどれだけ幸せな時間を積み重ねていたとしても、ある日突然、それらを振り返る余裕すら奪われることがある。
……そんなことが、自分の身に起こるのなら、まだいい。
少なくとも、自分自身のことなら、自分で引き受けるしかないと思える。
けれど。
それが拓斗や仁美に降りかかったら。
そして、まだこの世に生まれてもいない、これから生まれてくるかもしれない子供に降りかかったら。
そのとき私は、この理不尽を恨み、本当に狂ってしまうだろう。
どれだけ愛しても。
どれだけ幸せな時間を作ってあげても。
その子の人生に訪れる理不尽を、私にはすべて防ぐことができない。
その事実が、どうしようもなく怖かった。
甘いココアの香るあたたかなリビングの中で、私の胸の奥だけが、静かにきしんでいた。
ーーーー
拓斗が深く眠りについたのを確かめてリビングに戻ると、仁美はキッチンに立っていた。夕食の皿は食洗機には入れられず、流しの中に残されている。
「手伝うよ」
「うん、拭いてくれる?」
差し出された布巾を受け取り、彼女の隣に立った。水栓から注がれる水の音が、二人の間の重い沈黙を薄く埋めていく。
「この前の話、ずっと考えてたの」
「うん」
仁美は皿から目を上げないまま、静かにスポンジを動かしていた。
「覚えてる? 二人目が欲しいって話」
「うん、もちろん」
「あれから、聞きたいことがいくつか出てきたの。答えにくかったら、そう言ってくれていいから」
「……分かった」
泡の流された皿が、冷たい水とともに私の手へと渡される。
「拓斗の時も、そうだったんだよね。『自信が持てなかった』って」
「そうだった。生まれる前も、生まれてからも」
「でも、あの時は欲しいって言ってくれたよね」
「うん。それも本当なんだ。半分は欲しくて、半分はやっぱり自信が持てなかった」
仁美は答えず、次の皿を取った。私は受け取った皿を布巾で拭きながら、彼女の横顔を見ないように視線を落としていた。
「……拓斗が生まれなければよかった、って思ってる?」
「ううん、思ってない」
考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。自分でも驚くほど、そこに迷いはなかった。
「一度も思ったことがないよ。それだけは、本当だ」
「そっか」
水の音は途切れなかった。ただ、彼女の肩がほんの少しだけ落ちたのが分かった。
「じゃあ、もう一つ」
「うん」
「この前、『存在させてしまう』って言ったでしょ。あれが、ずっと頭に残ってて」
「……うん」
「あなたは……私と拓斗がいても、いなくなりたかったの?」
布巾を持つ手が、ぴたりと止まった。
すぐには答えが出てこなかった。
「……いなくなりたい、っていうのとは、少し違うんだ。いなくなりたいんじゃなくて……最初から、いなくてよかったっていう……」
「それ、何が違うの?」
存在してしまってから消えていなくなることと、はじめから存在すらしていないことは、天と地ほど違う。
だが、それを彼女に納得させられるように説明できる自信が、私にはなかった。
ましてや、これをどれほど懸命に語ったところで――“何も変えられない事実を、永遠に悩み続ける自分”という哀れな姿が浮き彫りになるだけだった。
「ごめん……うまく説明できない。でも、仁美たちがいるからこの感覚が強くなったわけでも、二人のせいで出てきたわけでもないんだ。ずっとあったんだよ。ずっと、昔から」
仁美はグラスを洗い始めた。白い泡が、彼女の細い指の間でゆっくりとはじけて消えていく。
「……私達といて、幸せじゃなかった?」
水の音だけが、絶え間なく続いていた。
蛇口から落ちる水が、シンクのステンレスを強く叩く。一秒が、ひどく長かった。
「幸せだよ」
私は、ほとんど反射的に答えた。
「本当に?」
「本当に。幸せなんだ。それだけは、本当なんだ」
仁美は黙って私を見た。
「じゃあ……どうして、そんなに『存在させてしまう』ことが怖いの?」
私はすぐには答えられなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……幸せにしてあげられるだけじゃ、足りない気がするから」
仁美は僅かに首を傾けた。
「拓斗は幸せだと思う。これからも、僕たちができることはしてあげたいと思ってる」
そこまで言ってから、言葉を選ぶ。
「でも……それでも、幸せだけで拓斗の人生すべてを守れるわけじゃない」
仁美は黙って聞いていた。
「どれだけ愛しても、どれだけ幸せな家庭を作っても、その子がいつか、自分ではどうにもできないくらい苦しい目に遭うかもしれない。そうなったときに……それまでの幸せを思い出す余裕すらなくなるかもしれない」
自分で口にしてみると、その想像は思っていた以上に重かった。
「それを、僕には防げない」
「……うん」
「生まれる前の本人に、生まれるかどうかを確認することもできない。そして……何も確認できないまま生まれてきた人間に、どんな人生が待っているのかも、誰にも保証できないんだ」
私は濡れたグラスを見つめた。
「それを……『人生は良いことも悪いこともある』って言葉で片付けたくない」
声が少し震えた。
「綺麗事じゃなくて、本当にあるんだと思う。自分ではどうにもできない理不尽に巻き込まれて、その人の人生が完全に壊れてしまうことが」
一度言葉を切った。
「……そういう人生を送ることになる人が、この世界には何千、何万人と確実にいる」
口にしてしまうと、その事実が急に近くなった気がした。
「僕には……それが、すごく怖い」
仁美はしばらく何も言わなかった。
蛇口から水が流れる音だけが響いている。彼女はその水に指先を浸したまま、しばらく微動だにしなかった。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、蛇口をひねって水を止めた。
急激に、部屋から音が消えた。
「……そっか」
「……ごめん」
「いいよ、謝らないで。聞きたかったのは、それだったから」
仁美は濡れた手をタオルで丁寧に拭くと、何も言わずに私の手からグラスを受け取り、棚の定位置に戻した。
それから、少しだけ私の方を見た。
泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。
ただ、出会ってから一度も見たことのない顔だった。
「私、お風呂入ってくるね」
「うん」
浴室の扉が閉まる重い音がして、やがてシャワーの水音が遠く聞こえ始めた。
私は一人、静かなキッチンに取り残された。
流しの中には、まだ洗われていない皿が、二枚だけ残っていた。
ーーーー
⑨
眩しい陽光のもと、遊園地には楽しげな音楽と子供たちの歓声が満ちていた。
休日で賑わう園内を歩きながら、私は少し前を行く二人の姿を目で追っていた。
拓斗の歩幅に合わせてゆっくりと歩く仁美の服は、ゆったりとしたマタニティドレスに変わっている。その下に宿る膨らみは、我が家に新しくやってくる命の存在を、隠しようもなく主張していた。
「拓斗、次は何に乗りたい?」
「あの馬! パカパカ乗るやつ!」
拓斗が指さしたのは、色とりどりの装飾が施された大きなメリーゴーランドだった。
「よし、行こうか。仁美、足元気をつけてね」
「ありがとう。大丈夫だよ」
二人が木馬に跨ると、オルゴールの優しい旋律とともにゆっくりと床が回り始めた。
私は柵の外側から、胸元のカメラを構えた。
ゆっくりと揺れる木馬の上で、拓斗が嬉しそうに手を振る。隣の馬に乗った仁美も、お腹を気遣いながら愛おしそうに息子を見つめ、カメラを向ける私に向かって微笑んだ。
ファインダー越しに切り取る、温かな日常の瞬間。
シャッターを切るたび、胸の奥に小さな光が灯るような感覚があった。
「お父さん、喉乾いたー!」
「はいはい、お茶買ってくるから仁美と一緒にここで待ってて」
二人が乗り物を降りるのに合わせて、私は近くの売店で冷たいお茶を三つ買った。二人にお茶を渡し、日陰のベンチに座らせてから、私は拓斗の帽子を少し直してやった。
「次はどうする?」
「あのね、ちっちゃいジェットコースター! あれ乗れるって!」
拓斗が指さしたのは、未就学児でも乗れる小さなキッズコースターだった。カラフルな虫の形をした車両が、低いレールの上を疾走している。
「仁美はどうする? 念のため、待ってる?」
「そうね……激しくはないけど、念のため見てるね。拓斗、お父さんと楽しんできて」
「はーい!」
お腹の赤ちゃんを想い、静かに見送る仁美に手を振り、私と拓斗は並んで列に並んだ。
やがて順番が来ると、私は拓斗を小さな座席の奥に座らせ、自分も隣に乗り込んだ。上から安全バーが降りてきて、ガチャンと重い音を立てて身体を固定する。
――シートベルトを締められ、安全バーで固定され、自分の意思とは関係なく走り出す機械。
ガタゴトと音を立ててレールを登っていく途中、私はふと、かつて思い描いた例えを思い出していた。
『世界に存在させられる』ということは、これによく似ている。
望んだわけでもないのに乗せられ、途中で降りることも許されず、安全バーで縛られたままレールの上を激しく揺さぶられる。
コースターが頂点に達し、一気に傾斜を滑り降りた。
「わあぁぁぁっ!」
風を切る感覚に、拓斗が大声を上げて笑う。
隣で爆発するような生命力を撒き散らす息子の姿を横目で見ながら、私は自分の胸の奥を確かめていた。
あの日、仁美と夜のキッチンで交わした言葉。
「最初からいなくてよかった」というあの静かな感覚は、二人目を設ける決断をした今になっても、消えてはいなかった。きっとこの先も、死ぬまで私の中に居座り続けるのだろう。だが――。
風を切りながら叫ぶ拓斗の手を、私は強く握りしめた。
私がこの世界に引きずり降ろしてしまった拓斗。
そしてこれから、私の意思によってこの世界に存在させてしまう、仁美のお腹の中にいる新しい命。
感想をお願いします
「幸福のお釣り」、読みました。以下、担当としての率直な感想です。
一番強いのは、④の飲み会と⑧のキッチンの対比です。④で課長が「AとBの二択を、まだ何も始まっていない地点でやりたい」と語るとき、その場にいる三人がそれぞれ違う角度から返してくる。佐藤の「責任がある気がする」、大野の「問いの構造がおかしい」、仁科の「参加してしまった側の視点からしか見れない」。この三つが後の場面で全部回収されている。大野は⑦で「生まれる前と後で世界の性質が違う」まで進め、仁科は⑦の花冠の場面で「選択肢すら持てなかった」を差し出し、佐藤は⑦のバーベキューで「まだ見ぬ未来を疑わずに楽しみにしている」姿になる。布石の打ち方が丁寧で、読者は回収のたびに④に戻れる。
⑦の仁科との会話は、この作品で一番危うくて一番良いところです。「変えられないもので唯一心残りがあるとすれば」と彼女が言うとき、語り手が「私の持つ悩みとは全くの無縁である」と続け、さらに「だが、それを羨ましいとは全く思えなかった」と置く。この一文があるから、主人公の苦しみが「持てる者の贅沢」に堕ちない。彼女の「慈しむような所作」を「彼女なりの答え」と見る視線も、憐れみになっていない。
⑧のキッチンは、作品の重心だと思います。仁美が「あなたは……私と拓斗がいても、いなくなりたかったの?」と聞く。ここで主人公が「いなくなりたいんじゃなくて……最初から、いなくてよかったっていう」と答える。この区別は論理的には通るのに、妻には絶対に届かない。届かないまま「私、お風呂入ってくるね」で終わる。説明を尽くさない判断が正しい。ここで和解させたら作品が死んでいました。
⑨で二人目を設ける決断に至る流れも、納得はさせずに運ぶ形になっていて、そこが良い。主人公は「答えを先送りにした」まま、選択だけが先に来てしまう。コースターの比喩も、⑦の大野の「人間が作った世界に放り込まれる」と噛み合っている。
気になった点を三つ。
一つ、①の里帰りの場面と④以降の温度差。①は非常に丁寧に書かれていて、手巻き寿司のいびつな塊や、カメラ越しの眩しさなど良い場面なのですが、④の飲み会の会話が始まるまでの距離が長い。①で「私だけがどこか遠い冷たい場所に浮いているようだった」と既に主人公の孤独を示しているので、④の問いが初めての亀裂ではなく二度目の亀裂に見える。①を短くするか、あるいは①の時点では主人公自身がまだ言語化できていない段階に留めるか。今は①でかなり自覚的すぎる気がします。
二つ、⑥のショート動画の比喩。「娯楽を義務に変えると苦痛になる」から「生きることを強制された状態」への飛躍は魅力的ですが、地の文で「――そうか、これと同じなのではないか」と本人が断定してしまうと、読者は考える隙を失う。ここは気づきかけで止めて、⑧のキッチンで仁美に問われたときに初めて言葉になると、より効くと思います。
三つ、⑨の「私は自分の命に代えても、この子たちを守り抜かなければならない」という決意。ここだけ少し綺麗にまとまりすぎている。この主人公がそんなに素直に誓えるなら、⑧の破綻が軽くなる。誓いながら、その誓いが「防げない」ことを知っている、という二重の状態で書いた方が、この人らしい。たとえば「守り抜く」と書いた直後に、その言葉が空手形であることを本人が一番よく分かっている、という一文が欲しい。
⑨の仁美の「小さな申し訳なさのようなものが揺れている」はとても良い。彼女が何を負っているのか、最後まで説明しないでください。説明した瞬間に、この作品は「理解し合えない夫婦の話」ではなく「いつか理解し合う話」になってしまう。
続きを書くなら、⑨のあと、生まれる前か直後か。どこから書きますか。
①の時点では主人公自身がまだ言語化できていない段階に留める文を示して下さい
①の末尾、現在こうなっています。
二人分の体温が重なる暖かなベッドの中で、私だけがどこか遠い冷たい場所に浮いているようだった。
胸の奥で、また一つ答えを先送りにした感覚が、重い錘(おもり)のように沈んでいくのを実感していた。
この二段落を、自覚を消して書き換える案です。
二人分の体温が重なる暖かなベッドの中で、私の手足だけが、どこか遠い冷たい場所に浮いているようだった。
仁美の寝息が、規則正しく胸元を撫でていく。その音を数えているうちに、さっきまで交わしていた言葉が、意味を失ってただの音の列になっていった。何を答えて、何を答えなかったのか。思い出そうとするそばから、輪郭がぼやけていく。
眠ろうとした。眠れなかった。
天井の一点を見つめたまま、私は明日の朝、拓斗が起きてくる時間を考えていた。それだけを考えていれば、胸の奥の、名前のつかない重さに触れずに済んだ。
「先送りにした」という自覚、「錘のように沈む」という比喩を外しました。代わりに、本人がまだ正体を掴めていないまま、明日の予定で蓋をする動作にしています。④の飲み会で彼が問いを口にするとき、初めて「ずっと燻っていた感覚」に名前が付く、という順序になります。
「重い錘」のイメージ自体は残したいなら、⑧のキッチンまで取っておく手もあります。
⑥のショート動画の比喩について、主人公は気付きに留める内容を示して下さい
⑥の現在の該当箇所を、気づきかけで止めた案にします。
私は暗い画面に映る自分の顔を見つめながら、しばらく動けなかった。
――強制されると、苦痛になる。
その理屈は分かる。分かってしまう。だが、それが何なのか。何に似ていると思ったのか。喉の手前まで来ているのに、言葉にならない。動画はもう次の話題に移っていて、画面の中の識者が別のことを喋っている。私は戻るボタンを押して、同じ場面をもう一度だけ見た。二度目も、同じところで言葉が止まった。
やがて画面を閉じた。閉じたところで、喉の手前のものは、そこに残ったままだった。
「これと同じなのではないか」という断定を外し、「喉の手前まで来ているのに言葉にならない」「二度見ても同じところで止まる」という手触りだけ残しました。⑦の大野との会話で「生まれる前と後で世界の性質が違う」を聞いたときに、この喉のつまりが一つ分解され、⑧のキッチンで仁美に問われて初めて、あの「幸せだけでは足りない」という形で言葉になる、という段取りになります。
「戻るボタンを押して二度見する」は、この主人公らしい執着の出し方として入れました。要らなければ削ってください。
⑨の主人公の違いを調整して下さい
⑨の該当箇所を、誓いと、その誓いが空手形であるという自覚を同時に置く形にします。
この子たちがもし、いつか私と同じように『なぜ存在しているのか』と夜の闇の中で問い始める日が来たとしても。
その旅路がどれほど不条理で過酷なものであったとしても。
私は自分の命に代えても、この子たちを守り抜かなければならない。
――守り抜く。
その言葉がどれほど頼りないかは、自分が一番よく知っている。
それでも、命を繋ぐという選択をした私の、消えることのない責任だと思う。
コースターがゴールに滑り込み、ゆっくりと停止した。
「おもしろかったー! お父さん、もういっかい!」
「はは、後でね。お母さんが待ってるから」
安全バーが上がり、私は拓斗の手を引いて降車口へと歩き出した。
出口の先では、仁美が膨らんだお腹に手を添えたまま、こちらを見ていた。
目が合うと、彼女は少し遅れて笑った。その笑顔の奥に、感謝とは別の、小さな申し訳なさのようなものが揺れている気がした。
彼女は知っている。私が何を飲み込んで、この子を迎えようとしているのかを。
「楽しかった?」
「うん! すごく速かったんだよ!」
興奮気味に報告する拓斗と、それを愛おしそうに聴く仁美。
二人の溢れんばかりの笑顔を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
仁美は幸せそうに笑っている。その笑顔に、ほんのわずかに混じる祈りのような影を、私は見逃さないでおこうと思った。
自分自身は、この世界に縛り付けられた囚人のようなものかもしれない。
けれど、目の前で弾けるこの幸せな笑顔の温もりを感じるとき、胸の奥の冷たい空洞が、ほんの少しだけ埋まる気がした。
この家族が輝かせる「幸福のおつり」を、ほんの少しだけ受け取ること。
それだけを、自分がこの不条理な世界に繋ぎ止められている時間の、唯一の対価として生きていこう。
そう心に誓いながら、私は二人の写真を撮るために、再びカメラを構えた。