二十九
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
30人の中学生が無人島で殺し合いを強いられ、29人が死亡。首謀者の老資産家は法の網をすり抜けようと、若手弁護士を名指しで弁護人に選ぶ。法と狂気がぶつかる法廷劇。
本文
①
「――本日午前9時すぎ、30人の中学生が集団で失踪していた事件で、大きな動きがありました。警視庁に出頭した自称・資産家の男が、先ほど検察庁へと身柄を移されました。男は失踪事件への関与を認めている模様です」
法律事務所の片隅に置かれたテレビの画面の中で、ヘリコプターのローター音がけたたましく鳴り響いていた。
映し出されているのは、東京地検へと滑り込んでいく一台の黒い護送車だ。何重もの報道陣と野次馬が黄色い規制線の向こうで怒号のようにシャッターを切り、カメラのフラッシュが激しく明滅している。
樹咲法律事務所の若手弁護士、御子柴ユイトは、ぬるくなったコーヒーを片手にその画面を凝視していた。
世間を震撼させている「鳳凰学園中等部3年B組 集団失踪事件」。
修学旅行の帰路、貸切バスごと忽然と姿を消した30名の生徒たち。誘拐か、あるいは大規模な遭難か。神隠しとまで囁かれた未曾有の事件は、発生から1週間が経ち、急展開を迎えていた。
数時間前、失踪中の30名の生徒の内の1人の生徒が、本土の港で保護されたのだ。
それとほぼ同時に、1人の高齢の男が警察署へ歩いて出頭した。男の名は葛城伊織(かつらぎ いおり)、78歳。総資産数百億とも言われる財界の引退者だった。
「身柄がもう検察に移ったか。警察の48時間はあっという間だな……」
ユイトは小さく呟いた。
通常、これほどの大事件であれば警察は限界まで身柄を拘束して取調べを行う。しかし、この葛城という老人は出頭した瞬間から「私がやった」と全面的に罪を認めたため、手続きは極めて迅速に進んだようだった。
その時、テレビの画面がスタジオへと切り替わり、アナウンサーの顔が目に見えて強張った。入ってきたばかりの「速報」の原稿を読み上げるその声が、わずかに震えている。
「――番組の途中ですが、たった今、保護された生徒の供述による新情報が入りました。……信じがたい内容です。行方不明となっている生徒たちは、伊豆諸島の無人島に拉致・拘束され、そこで……『互いに殺し合いを強制させられていた』とのことです」
事務所の空気が、凍りついた。
「生存者は、本日保護された1名のみ。残る 29名の生徒は、全員が死亡した可能性が極めて高いと見られています。繰り返します、死亡した生徒は29名――」
殺し合い。29人の死亡。
およそ現代の日本で起きるはずのない凶行の全貌が、テレビの向こう側から津波のように社会へ溢れ出していく。凄惨なデスゲームの存在が、今この瞬間に白日の下に晒されたのだ。老人は、ゲームが完遂し、遺体が完全に処理されたことを見届けてから、悠然と本土へ戻り、生徒の解放と出頭を行ったのである。
ユイトの背中に、冷たい汗が伝わった。
これは「集団失踪事件」などではない。1人の狂った資産家が命を弄んだ、史上最悪の大量虐殺事件だ。日本中が、いや世界中がこの老人への激しい憎悪で燃え上がることになるだろう。
その刹那、ユイトのデスクの上で、固定電話がけたたましく鳴り響いた。
びくりと肩を揺らしながらも、ユイトは受話器を取る。
「はい、樹咲法律事務所です」
『――東京地検、刑事部の検事の者ですが。御子柴ユイト弁護士、ご本人でしょうか』
低く、どこか困惑と緊張の混じった男の声だった。検察からの直接の連絡。ユイトの胸に嫌な予感がよぎる。
「はい、私が御子柴ですが。……何か」
『先ほど送致されてきた、大量殺人および誘拐の被疑者、葛城伊織の件です。……被疑者が、あなたを私選弁護人として名指しで指定しました。本人が『彼が来ない限り、これ以上の供述には一切応じない』と言い張っていましてね。大至急、接見に来ていただきたい』
「……え?」
受話器を持つユイトの手が、微かに震えた。
画面の向こう、何重もの警察官に囲まれて検察庁へと入っていった、あの稀代の凶悪犯。
葛城伊織。
面識など、あるはずがない。なぜ、一介の若手弁護士にすぎない自分を?
『御子柴先生、聞いていますか? すでに地検の周りには報道陣が押し寄せています。一刻を争います。今すぐ、来てください』
一方的に切れた受話器から、ツーツーと虚しい音が響く。
ユイトはゆっくりと受話器を置き、再びテレビの画面に目をやった。
そこには、護送車から降りた際、一瞬だけカメラのレンズを捉えた老人の顔が映し出されていた。深く刻まれた皺の奥にある瞳からは感情が読み取れなかった。
---
②
「ユイト、本当に行くのか」
事務所の所長であるベテラン弁護士が、引き留めるようにユイトの肩を掴んだ。その顔は苦渋に満ちている。
「葛城伊織という男が何をやったか、テレビを見たろう。まだ全貌すら見えないが、これが事実なら、日本司法の歴史に残る最悪の大量虐殺だ。そんな奴の弁護人を引き受ければ……君の弁護士生命どころか、これからの人生すべてが狂うぞ」
「……分かっています」
ユイトは乾いた声で答えた。所長の言うことは痛いほど正しい。
「でも、被疑者から名指しで私選弁護人に指定された以上、まずは本人と会い、意思を確認するのが弁護士の義務です。それが……私の信じる法の正義ですから」
事務所の所長の手を振り払うようにして、ユイトは事務所を急いで飛び出した。
車を運転しながらも、ユイトの意識は半ばここにはなかった。
バックミラーに吊るされたマスコットが左右に揺れ、まるでそれに催眠術にかけられているようだった。
握るハンドルが、自分の手ではないように冷たい。
――中学生、拉致、強制的な殺し合い、29名死亡、死体の粉砕。
カーラジオから流れる到底現実とは思えないニュースの単語が、何度も、何度も頭の中で乱反射する。まるで側頭部を鈍器で強く殴られたような、激しい目眩と吐き気がユイトを襲っていた。
全く面識のない、葛城伊織という老資産家。なぜ、一介の若手にすぎない自分を指名したのか。何が目的なのか。
すべてが理解できない。
いや、脳が理解することを拒絶しているようだった。
ただ一つだけ、確実な事実として理解できるのは、このあまりにも異常な事件の首謀者を弁護するということは、自分のこれまでの平穏な人生を一瞬で変えてしまうだろう、ということだけだった。
東京地検の建物の前に到着した時、そこは異様な光景が広がっていた。
何百人もの報道陣、カメラの放列、そして怒号を上げる群衆。
ユイトが車から降り、弁護士バッジを胸にエントランスへ向かおうとした瞬間、記者たちが一斉に彼を認識した。
「御子柴先生! 葛城伊織に指名されたというのは本当ですか!?」
「葛城とは以前から面識があったのですか!?」
「29人もの子供を殺害した狂人を、あなたはどう弁護するつもりですか! 遺族の気持ちをどう考えているんですか!」
無数のマイクが容赦なく顔の前に突きつけられ、凄まじいフラッシュの光が視界を白く染める。質問の形を借りた、剥き出しの悪意と非難の嵐。
「……通してください! コメントは控えます!」
ユイトは奥歯を噛み締め、押し寄せる人間たちの壁を必死で押し退けながら、這うようにして検察庁の重いガラス扉の中へと滑り込んだ。
内部に入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、その空気は別の意味で異常だった。案内を始めた検察事務官も、すれ違う職員たちも、誰もが死人のような、あるいは酷く怯えたような重苦しい表情を浮かべている。事件の凄惨さが、国家機関の人間たちの精神すらも蝕んでいるのが分かった。
幾重ものセキュリティを抜け、ユイトは一番奥にある接見室の前に立たされた。
「……どうぞ、御子柴先生。被疑者が待っています」
事務官の言葉に、ユイトは深く息を吸い、鉄の扉を開けた。
アクリル板で仕切られた狭い部屋。
そこに、その老人はいた。
葛城伊織は、最初は背を丸め、ぼんやりとパイプ椅子に座っていた。しかし、扉が開いてユイトが足を踏み入れた瞬間、老人の瞳に恐ろしいほどの光が宿った。死にかけていた肉体が、一瞬で瑞々しい生気を取り戻したかのような変貌だった。
老人は、実になめらかに、優しげに微笑んだ。
「やぁ、君が御子柴ユイト君だね」
穏やかで、包容力すら感じさせる声だった。白髪を綺麗に整え、仕立ての良いシャツを着たその姿からは、29人の子供たちを地獄のゲームに突き落とし、その遺体をシュレッダーで粉砕した極悪人とは、およそ信じられなかった。
「私が葛城伊織だ。しばらくお世話になるかと思うが、よろしく頼むよ」
あまりに日常的な挨拶に、ユイトはひどく調子を狂わされた。胃の奥からせり上がる不快感を必死に抑え込みながら、アクリル板の向こうの椅子に腰掛ける。
「……葛城容疑者。私は、御子柴ユイトです。まずは、単刀直入に伺います」
ユイトは手帳を開き、震えそうになる声を無理に引き締めて老人を見据えた。
「あなたと私は、これまでに一度も面識がありません。なぜ、私を弁護人に指名したのですか。国選ではなく、私を選んだ理由は何ですか」
葛城は嬉しそうに目を細め、細く長い指を机の上で組んだ。
「私は予め出頭前に若い弁護士を探していた。そして君の存在が目に入った」
伊織は顎に手をあて、まるでユイトを鑑定するかのように眺める。
「君の過去まで調べさせてもらったよ。なるほど弁護士コミュニティでも『法の遵守を何よりも重んじる、生真面目な若者』と評判なのも納得できる」
「私はそこに惹かれたんだよ」
ユイトの過去。その言葉に体が揺れる。
「…私の主義が、あなたの弁護にどう関係すると?」
「大いに関係あるとも」
葛城は身を乗り出し、アクリル板越しにユイトの目を覗き込んだ。その瞳は歓喜に濡れている。
「この事件はね、本当に難しい。物凄く時間が掛かる事は間違いない。そして社会的注目も憎悪も凄い。それでも君のように芯の通った弁護士なら、しっかり自分の仕事をやり抜いてくれると信じているんだ」
葛城は自分の胸を愛おしそうに撫で、穏やかに笑った。
「実はね。私は心臓が悪くて、そう長くないんだ」
この一言でユイトの背筋に、ゾッと冷たい戦慄が走った。
「私の望むのは、正しい裁判だよ、御子柴君。これは悪人だろうが善人だろうが、何一つおかしくない、正当な要望だ。分かるね?」
「君が正義を貫いて裁判を引き延ばし、世間から恨まれる中で……悲しいかな、私は寿命を迎えて死ぬ」
「……!」
ユイトは言葉を失った。
この老人は、自分の「正義感」や「法の遵守」という美徳を、裁判を合法的に引き延ばし、刑から逃げ切るための『盾』として利用しようとしている。
「これは私の持論だが……」
伊織はそこで言葉を切った。
そして、何かを語ることを楽しむように、ゆっくりと続ける。
「喜びや幸福というものは、一過性のものだ。どれほど素晴らしい時間であっても、それはやがて思い出になる。個人の中で完結してしまうんだ」
「一方で、悲劇は違う」
その声に、わずかな熱が混じる。
「悲劇は波紋のように広がり、連鎖する」
「子供たちは修学旅行の帰りだった。きっと皆、楽しかっただろう。家に帰れば、親に旅行の話をしたはずだ。友達と笑い合った時間を、思い出として残したはずだ」
「だが……その29人の喜びや幸せは、そこで終わる」
伊織の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「ところが、29人の死は終わらない」
「遺族の悲しみになり、怒りになり、憎しみになる。そこからまた誰かの絶望が生まれ、誰かの人生を狂わせる。そうして悲劇は、当事者の手を離れてなお、広がり続ける」
「まるで……最初から持っているエネルギーのポテンシャルが違うようにね」
伊織は楽しそうに語った。
「その荒れ狂うエネルギーを生み出す。それが私の残す最高の『作品』だ」
一度、言葉を止める。
そして、ユイトをまっすぐ見つめた。
「そしてね、御子柴君」
老人はアクリル板に自身の顔を近づけた。
満面の笑みだった。
だが、その目は全く笑っていなかった。
「君が私の弁護人として、社会から悪徳と罵られ、遺族から蔑まれ、それでも自分の信じる正義の狭間で苦悩する」
「怒り、絶望し……きっといつか感情を爆発させる」
伊織の声が、嬉々としたものへと変わっていく。
「その美しい姿もまた、私の作品には欠かせない一部だ」
「君はね。私の最高傑作を完成へと導く、案内人なんだよ」
伊織は、満足そうに微笑んだ。
「この上ない大役を預かったんだよ、御子柴君」
部屋の空気が、静かに重くなっていく。
ユイトには、目の前の老人が、ただ人を殺した犯罪者には見えなかった。
自分以外の人間の存在も、一人ひとりが感じる悲しみも、怒りも、絶望さえも。
全てが自分の作品のための『素材』として眺めている、そんな人間に見えた。
---
③
「……くそっ」
検察庁を後にしたユイトの耳の奥には、今も葛城伊織のくぐもった笑い声がこびりついて離れなかった。
しかし、弁護士としての職務は、もう始まっている。
次に向かったのは、事件の「唯一の生存者」が搬送されている、都内の大学病院だった。
警察の厳重な警備が敷かれた特別病棟。
その一室で、白を基調とした無機質な部屋のベッドに、一人の少女がぽつんと座っていた。
小野ヒナタ、15歳。
拉致されるまでは、クラスでも目立たない、ごく普通の女子生徒だった。
可愛いシールを集めるのが趣味で、休み時間になれば、気の合う友達と机を突き合わせ、お互いのシール帳を見せ合いながら笑っていた。
そんな、どこにでもいるはずの少女だった。
だが今、その瞳に浮かんでいるのは、生きた人間のものとは思えないほどの虚ろさだった。
小さな両手は、白いシーツを強く握りしめている。
「……小野ヒナタさん、ですね」
ユイトが、できるだけ刺激しないよう静かに声をかける。
ヒナタの肩が、びくりと跳ねた。
「私は弁護士の御子柴ユイトです。あの事件の……葛城伊織の弁護人に選ばれた者です」
「葛城」という名前が出た瞬間だった。
同席していた警察の捜査員と、面会に付き添っていたヒナタの両親の間に、刺すような緊張が走った。
当然だ。
彼らにとってユイトは、娘をあの地獄へ突き落とした人間の「味方」に見える。
「おい、あんた!」
ヒナタの父親が、ユイトを遠ざけるように手を突き出す。
そのときだった。
「……部屋にいたの……」
「……え?」
誰かが息を呑んだ。
ヒナタは、虚空の一点を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いている。
「……あの、部屋に……」
誰も尋ねていない。
それでも、言葉が止まらない。
「目が覚めたら、知らない部屋で……みんな、首輪をつけられていて……」
ヒナタの指が、シーツを握り直す。
「あのおじいさんが、画面に出てきて……ルールを説明したの」
「殺し合いに加わらないものは、首輪を爆発させるって……」
呼吸が、少しずつ速くなる。
「みんな、嘘だと思った。お笑い番組のドッキリだって……」
「でも……」
ヒナタの瞳が、さらに見開かれた。
「ドーンって……ものすごい音がして……」
声が震える。
「私の隣にいた、カナちゃんが……さっきまで、バスの中でシールを交換してたカナちゃんが……」
ヒナタの手が、激しく震え始める。
「頭が……あり得ない角度に曲がってて……床が、一瞬で赤くなって……」
「カナちゃんの周りにいた子も、服も顔も赤くなって……」
「火薬の匂いと……お肉の焼けた匂いがして……」
「気持ち悪くて……吐いて……吐いて……」
それは、葛城伊織が仕掛けた「号砲」だった。
運営側にとっては、ゲームが始まっても動けないであろう生徒たちを恐怖で従わせるための、ただの『人の命を一つ使った実演』。
その気まぐれに選ばれた一人が、ヒナタの親友だった。
パニックに陥った室内を、武装したスタッフが怒号と銃声で抑え込む。
武器を支給され、屋外へ放たれたヒナタは、ただ恐怖に突き動かされていた。
数人の友達と一緒に、必死に走った。
隠れた。
逃げ続けた。
それだけだった。
「私の武器は……フライ返しだったの」
ヒナタが、かすかに笑ったように見えた。
だが、それは笑顔ではなかった。
「そんなので……戦えるわけない」
「だから、ずっと走って……隠れて……」
「遠くのほうから、たくさん銃声が聞こえて……」
「しばらくしたら、一緒に逃げた友達も……みんな、ドーンって……」
そこで言葉が途切れる。
「……頭が、なくなっちゃって……」
ヒナタは両手で顔を覆った。
次の瞬間、悲鳴のような声を上げて泣き崩れた。
「……すみません」
ユイトはそれだけを言って、病室を出た。
扉が閉まる。
その場に立ち尽くしたまま、ユイトは深く息を吐いた。
(これが……葛城伊織の作品だというのか!?)
ユイトは、強く拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
その痛みを感じながら、ユイトは初めて理解した。
ヒナタは知らない。
あの島で何が起きていたのか。
フィクションのような緻密なデスゲームでもなければ、高度な心理戦が繰り広げられたわけでもない。
現実に起きたそれは、もっと杜撰で、あっけなく終わり、そこに物語など無かった。
ひとたび生徒間で殺害が行われると、パニックに陥った生徒たちの間で、すぐに殺し合いが始まった。
伊織に金で雇われたスタッフたちの監視も、信じられないほどずさんだった。
首輪の爆発によって死亡した生徒は5名。
だが、そのうち最初の「号砲」となったカナを除く4名のうち、2名はスタッフの押し間違いなどによる「操作ミス」だった。
戦闘に加わっていたにも関わらず爆発する首輪。
戦闘に加わろうとしなかった生徒二人の爆殺。
そして、逃げ続けていたヒナタたちも、同じ運命にあった。
先に友達が爆殺された。
次はいよいよヒナタだった。
そのとき、スタッフが操作を誤った。
爆発したのは、ヒナタの首輪ではなく、戦って唯一生き残っていた生徒の首輪だった。
そのミスによって、ヒナタだけが生き残った。
彼女は、生徒同士がどのように殺し合ったのか、その光景を見ていない。
ただ怯え、逃げ惑っていただけだった。
それなのに――最後まで生き残ってしまった。
彼女はデスゲームではあり得ない「不戦勝」で、本土へ帰された。
本土へ向かう船の甲板に、ヒナタは座らされていた。
目の前には、業務用の大きな蓋付きの円筒形プラスチック容器が、十数個、等間隔に並んでいる。
その側面には、いくつかの赤い液体の筋が伸び、乾いていた。
ヒナタの脳は、それが何なのか理解することを拒んでいた。
それでも、かすかに漂う火薬の匂いと、あの部屋で嗅いだ鉄のような生臭い匂いが、否応なく現実を突きつけてくる。
――あの中に、クラスのみんながいる。
名前も。
顔も。
思い出も。
すべてが形を失って、あの無機質な容器の中にある。
やがて、元いた島が水平線の彼方へ消えた。
見渡す限り、青い海だけになる。
すると、分厚いカッパを着た男たちが容器を持ち上げ、海面に向けて傾けた。
まるで、そこに入っているのが人間だと思わないような躊躇の無さだった。
バシャ、バシャ……。
重たい液体が海面を叩く音が、何度も響く。
晴天の美しい海に、赤黒いモヤが一瞬だけ広がり、波に攫われて消えていく。
「やめて……!」
ヒナタは両手で顔を覆った。
「もう、やめてぇ……!!!」
誰がどの容器に入っているのかすら分からない。
最後の別れを告げることもできない。
29人の人生が、名前も顔も失ったまま、ただ処理されていく。
その光景を、葛城伊織は船の特等席から、穏やかな表情で眺めていた。
このゲームは辛うじてゲームの体を成しているが、蓋を開けてみれば、ただの狂った老人の道楽と、人の命を何とも思わないスタッフたちの不手際だった。
こんな内容にも関わらず、29人もの子供達の人生が消えたのだ。
---
④
それは、文字通りの暴風雨だった。
事件の全貌が報道されるや否や、世間は狂気的な怒りに包まれた。SNSのトレンドは葛城伊織への呪詛で埋め尽くされ、ニュース番組は連日、遺族たちの血を吐くよう
な号泣と、やり場のない怒りを報じ続けた。
そしてその牙は、即座にユイトにも向けられた。
「大量殺人鬼の片棒を担ぐ悪徳弁護士」
「人の心を持たない法の亡者」
ネット上にはユイトの顔写真、経歴、事務所の住所が瞬く間に晒された。事務所の電話は鳴り止まず、受話器を取れば「人殺し」「お前も死ね」という罵声が鼓膜を刺す。
カミソリの刃が同封された脅迫状が届き、事務所の入り口には生卵が投げつけられた。
所長からは「しばらく実家に身を隠すか、有給を取れ」と告げられたが、ユイ
トにそんな選択肢はなかった。
何よりユイトを打ちのめしたのは、世間のバッシングではなかった。
手元に集まり始めた「事件の客観的証拠」のあまりの虚無さに、彼は愕然としていたのだ。
勾留期限が迫る、ある日の検察庁・接見室。
アクリル板を挟んで座るユイトの顔は土気色に変色し、目の下には濃い隈が刻まれていた。手元の資料をめくる指が、怒りと絶望で微かに震えている。
「……葛城容疑者。警察と検察の初期捜査書類に、目を通しました」
葛城伊織は、いつものように穏やかな、まるで孫の成長を見守るような優しい眼差しでユイトを見ていた。
「気の毒に、ずいぶんお疲れのようだね。進捗は問題なさそうかな?」
「……最悪です」
ユイトは声を絞り出した。言葉を選ぼうとして、選びきれずに、そのまま吐き出す。
「あなたの事件は、立証できない」
伊織の眉が、わずかに動いた。
「遺体はすべて粉砕され、海に撒かれた。個人を特定できる死体が、一つも残っていない。島に残された記録も、雇われた連中の供述も、支離滅裂だ。誰が、誰を、どの凶器で殺したのか。どの死があなたの意図したもので、どれが現場のミスなのか。……因果関係が、一本も繋がらない」
ユイトは資料から顔を上げた。
「殺人で人を裁くには、一つ一つの死を、証拠で特定しなければならない。それが29人分ある。このまま起訴しても、公判は維持できない。罪状を精査しようとすれば、それだけで何年、何十年かかる」
そこまで言って、ユイトは自分の中の何かが音を立てて崩れるのを感じた。法を守ろうとすればするほど、手続きを厳密に求めれば求めるほど、立証の壁は高くなる。そしてその壁の向こうで、心臓を患ったこの老人は、確実に寿命を迎える。
「あぁ……!」
ユイトはデスクに両拳を叩きつけた。ガン、と激しい音が接見室に響く。
「あなたは……こうなることを見越して、子供たちの大量虐殺の手段にデスゲームを選んだんだ!」
法律という、人間が作った正義のシステムの網を、老人がたやすくすり抜けていく。ユイトは自身の無力さと、信じてきた「法」の限界に打ちのめされ、ただ呼吸を荒くして俯くことしかできなかった。
そんなユイトの絶望を、葛城伊織は一滴も聞き漏らさぬよう、うれしそうな表情で見つめていた。
老人はゆっくりと椅子から立ち上がり、アクリル板にそっと手を触れた。その手のひらは、まるで傷ついた若者を慰めるかのように、酷く優しげだった。
「素晴らしいよ、御子柴君。実に素晴らしい着眼点だ。私の作品に宿る意図を正確に読み解いてくれた」
伊織の声は、どこまでも柔らかく、慈愛に満ちていた。
「悲しいものだよ。命など、一時のパニックと、あのバカ共のボタンの押し間違いで、一瞬で、塵のように消えてしまう」
伊織はアクリル板越しに、ユイトの濁った瞳をじっと覗き込んだ。
「だが、絶望することはないよ、御子柴君。ここからだ。ここから、君の丁寧な仕事と、法への忠誠を示す時だ」
「……え?」
「君は弁護士だ。どんな凶悪犯であれ、証拠不十分のまま、感情論で死刑にしてはならないと、法に誓ったはずだ。なら、君がやるべきことは一つしかない」
伊織は、人差し指を立てる。
「検察のずさんな立証を、一つずつ丁寧に、法の刃で切り落としていきなさい。誰が死んだのか分からないと主張しなさい。スタッフのミスによる死亡は私の責任ではないと、厳格に手続きを求めなさい」
そして、両手をアクリル板につき、ユイトの顔をまじまじと見つめる。
「法治国家が法治国家たらしめるのは、『法が正しく適用されるかどうか』なんだ。例えどんな悪人だろうと、それは曲げてはならないと、どうか君が示してくれ!」
「う……!」
すると、急に伊織は胸を抑え込む。ユイトから体を背け、呼吸を落ち着ける。
「すまんな……。つい興奮すると、この心臓が悲鳴をあげてしまう」
「時間は限られている。頼んだよ……」
ユイトは伊織の動作が演技かどうかはどうでもよかった。
伊織は何も間違ったことを言っていない。
だが、その言葉が意味するところは、ユイトが信じてきたものとはまるで違っていた。
ただ脂汗をかきながら苦しそうに微笑む老人を見つめ返すことしかできなかった。
---
⑤
深夜2時。世間の喧騒から隔絶されたユイトの自室は、静まり返っていた。
デスクの上には、葛城伊織の事件に関する膨大な捜査資料と、実況見分調書、そしてヒナタの不完全な供述調書が乱雑に積み上がっている。
スマートフォンはとうに電源を切っていた。SNSを開けば、今も自分への殺害予告や罵詈雑言がタイムラインを恐ろしい速度で流れているはずだった。
「……ううっ!」
ユイトは目頭を強く押さえ、深く椅子にもたれかかった。
(僕は……怪物の逃げ切りに加担しているのか?)
その自己嫌悪の刃が、ユイトの心を容赦なく切り刻む。
世間が言うように、自分は悪徳弁護士なのだろうか。ただの法の亡者なのだろうか。
息が詰まりそうになり、ユイトは視線をデスクの脇へと向けた。
暗い部屋の中で、一つのアクリルケースだけが、スタンドライトの光を浴びて静かに佇んでいる。
そのケースの中には、数十個の、ジャンルも統一感もバラバラなカプセルトイが整然と並べられていた。
格好いいロボット、奇妙な形の動物、チープなミニチュアの家具、ヘンテコな置物。バリエーションに富んだそれらの玩具は、ユイトが小学生の頃から大切に集めてきたものだった。
ユイトはそのうちの一つ、古ぼけたカプセルを手に取り、そっと指先で触れた。
――ユイトが小学生の頃、父親が巨額の詐欺事件の容疑者にされた。
当時のユイトの記憶は、父親のいない食卓と
学校では「犯罪者の子」と石を投げられた日々だった。
その絶望の淵から父親を救い出してくれたのが、一人の弁護士だった。
周囲がどんなに感情論で父親を叩こうとも、その弁護士だけは冷徹なまでに平然としていた。
『感情や状況だけで人を裁いてはならない。警察の逮捕手続きに違法性がある。証拠の集め方が不当だ。法の手続きを厳密に、正しく守ること。それだけが、無実の人間を救う唯一の盾だ』
弁護士は法律という厳格なルールを徹底的に遵守させることで、国家権力の暴走を止め、父親の無実を証明した。
釈放された父の帰りを待つ事務所の片隅で、泣きじゃくるユイトにその弁護士が手渡してくれたのが、一つのカプセルトイだった。
『ユイト君。法というのはね、このカプセルと同じなんだ』
弁護士は、プラスチックの球体をユイトの小さな手のひらに乗せて言った。
『カプセルは、決まった形をしていないとしっかり閉まらない。カプセルが閉まらないと中のおもちゃは守れなくなってしまう』
『つまり、人を守るのに法はこの時はこの形で、この時はこの大きさでってしちゃダメなんだ。どんな時でも同じであるべきなんだよ』
その時はよく分からなかった。
だが、弁護士の言葉はユイトに格好良く見え、この光景がずっと心に深く刻まれていた。
ケースの中に並ぶ、色とりどりの玩具たち。
それは、葛城伊織に理不尽に命を奪われた、29人の子供たちの姿にも見えた。彼らにもそれぞれ、千差万別の人生があり、豊かな感情があり、大切な日常があったはずなのだ。
葛城伊織は、その尊い中身をすり潰し、海に捨てた。
そして今、その醜い犯罪を隠すための盾として、ユイトの信じる「カプセル(法)」を利用しようとしている。
「……違う」
ユイトの瞳に、静かだが激しい怒りの炎が灯った。
「葛城伊織。あんたの思い通りにはさせない」
ユイトはカプセルをケースへと戻し、パチンと音を立てて蓋を閉めた。
---
⑥
接見室の空気は、前日とは一変していた。
パイプ椅子に深く腰掛けたユイトの瞳からは、迷いも、揺らぎも、すべてが削ぎ落とされていた。その冷徹なまでの静けさに、アクリル板の向こうの葛城伊織は、不気味な笑みを深くした。
「おはよう、御子柴君。今日は良い顔をしているね」
「世間の反応はどうかね?もっとも、テレビを見ずとも君の身をもってそれを知っているとは思うが」
伊織は愛おしげに細い指を組み、愉悦に浸るように言った。
だが、ユイトは眉一つ動かさず、静かに手帳を閉じた。
「……葛城容疑者。あなたの言う『作品』について、少し聞かせてください」
「おや、急にどういう風の吹き回しだね?」
「いえ。あなたはこの一連の事件を最高傑作の作品と仰るが、実際に誰もそれを作品だとは思っていない。世間にあるのは、ただの凄惨な大量虐殺への怒りと、手間取る捜査への不満だけです。誰もあなたの意図など理解していない。せっかくなので、あなたを指名した弁護人として、私が聞いておこうと思いまして」
「ふむ……」
伊織は満足そうに顎を引いた。「まぁ、君も作品の一部なのだから、気になるのも無理はない。いいだろう」
そこから老人は、嬉々として語り始めた。
数年前、心臓の病を宣告され、己の余命が長くないと知った時のこと。大金を払い、離島を買い取り、反社会的な人間たちを動かして30人の中学生を拉致した前準備。そして、極限状態の中で子供たちが怒り、悲しみ、殺し合っていく光景の美しさ。
「子供達は、本来なら一生得ることのなかった体験をした」
伊織はそう言って、ゆっくりとユイトを見た。
「死を間近に感じ、逃げ、戦い、生きようとあがいた。彼らの人生は、あの瞬間にどれほど濃密なものになったことか」
細い身体が、熱に浮かされたように微かに震える。
「この圧倒的人生の濃度は、仮に十四、十五で人生を終えることになったとしても、些細なことだとは思わないかね?」
ユイトは答えなかった。
「そして――」
伊織の口元が、愉悦に歪む。
「そして彼らの死は、家族を苦しめ、学校を変え、世間を騒がせ、今なお人々の心に残り続けている」
その声は次第に熱を帯びていく。
「1という小石ではない」
「29という巨大な岩が生む、圧倒的な波紋。いや、むしろ波だ」
「それが、多くの人間の感情を揺さぶるのだ」
伊織は両手を広げる。
「これこそが――私が生み出した作品だ!」
狂人の独白が、狭い接見室を満たしていく。
しかし、ユイトはその熱弁を、ただ冷ややかに、どこか哀れむような目で見つめていた。
「……何か言いたそうだね、御子柴君」
伊織が、不満げに眉をひそめた。
「いや」
ユイトは、ふっと息を漏らした。
「何というか。作品とか仰る割に、あなたが手掛けた事って、実はあまりないなと思いまして」
「……なに?」
伊織の穏やかな声の底に、初めて鋭い棘が混じった。
「あなたは子供たちを直接誘拐もしていない。実際に手を下して殺してもいない。死体の処理だって、金で雇った男たちにやらせた。あなたがした事といえば、すべてが終わった後、本土に戻ってきて警察署に出頭したことだけだ」
「私はシナリオを作り、金を出し、場所と人を集めた。監督やプロデューサーとはそういうものだろう。私の意思がすべてを動かしたのだ!」
「……葛城さん。カプセルトイって知ってますか? ああ、あなたの場合、ガチャポンって言ったほうが分かりやすいですかね」
突飛な話題に、伊織は怪訝そうに目を細めた。
「当然、知っているが……。それが何の関係があるのかな」
「面白いですよね。僕はあれが結構好きで、集めてるんです。お金を入れれば、ガチャっとレバーが回って、何かが手に入る。中に何が入っているかは、僕には分からない」
ユイトは淡々と語りながら、すっと、伊織を射抜くような冷たい目つきに変わった。
「けど、その中身を、僕は自分の『作品』とは呼ばない。なぜなら、お金を払って、既製品のレバーを回しただけだからだ」
「何を言って――」
「あなたのした事は、それと同じだ」
ユイトは静かに言葉を続ける。
「あなたは直接29人を殺したわけじゃない。ネットや小説にいくらでもある『デスゲーム』という手垢のついた、何番煎じかも分からないネタに、ただ金を払ってガチャのレバーを回しただけだ。運営スタッフはミスを重ね、ゲームはグダグダ。誰が誰を殺したかも分からない、成り行きの、あまりにも雑で呆気ない結果を、たまたま受け取って自分の作品だと納得させているだけだ」
伊織の顔から、穏やかな微笑みが完全に消え去った。白髪の頭をわななかせ、アクリル板を激しく叩く。
「黙れ! この事件はな!私の名と共に、未来永劫、この世界に残るのだ!」
「サインを入れれば、既製品があなたの作品になる、とでも?」
ユイトはふっと力を抜き、冷徹に言い放った。
「今日ここでハッキリさせたいと思います。私はあなたの『作品』とやらに、これっぽっちも興味が無い。そもそも、あなたの起こした事件を、作品だとも、芸術だとも思わない。ただの、醜くてずさんな大量犯罪だ」
「貴様……ッ!」
「あなたは勘違いしているようですが、あなたがどう受け取ろうと、私の法への忠誠は人を守るためのものだ。あなたのくだらない作品に加担するつもりは、毛頭ありません」
「お前、お前はッ!……私の案内人なんだ……!」
伊織は顔を真っ赤に染め、激昂のあまり立ち上がろうとした。
――その瞬間だった。
老人の顔が歪んだ。
肺からすべての空気が漏れ出たような短い悲鳴とともに、伊織は自身の左胸を狂ったように掻きむしった。
「がっ……あ、あ、は……ッ!」
ガタガタとパイプ椅子が倒れ、伊織の身体が床へと崩れ落ちる。
「葛城さん!」
ユイトは即座に椅子を蹴り、接見室の扉を開けて廊下へ向かって叫んだ。
「事務官! 被疑者が発作を起こしました! 大至急、救急車とAEDを!!」
廊下がにわかに騒がしくなり、複数の職員が部屋へと飛び込んでくる。その喧騒の渦中、床に這いつくばる伊織は、迫る死の恐怖に怯えながら、濁った目でユイトを睨み上げていた。
伊織の目は、狂おしいほどの怨嗟を述べていた。
――こんな結末は望んでいない。
――なぜ、お前のような若造の言葉に、私の作品が、歪められなければならないのか。
ユイトは、その見開かれた目を、静かに見つめ返していた。
勝ち誇るような笑みも、憐れみの表情も浮かべない。ただ、冷徹なまでに、法の守護者としての眼差しだった。
---
間もなく救急隊が到着し、心臓マッサージを受けながら、葛城伊織の身柄は搬送されていった。
ユイトは遠ざかる救急車のランプを見送った。
逃げ切られた。伊織の描くシナリオの通りになってしまった。ユイトの啖呵は、老人の傲慢な幻想を否定し、伊織と自分の関係をハッキリさせる為。そして、これからも続く戦いに身を焼かれても法を守ると告げる為だった。だが、伊織は自身の命すらあのデスゲームのように、あっけなく雑に終わりを迎えようとしていた。
その夜、地検から電話があった。急性心筋梗塞。搬送先の病院で集中治療室に入ったが、意識は戻っていないという。
三日後、意識が戻らぬまま、伊織は別の病院へ移された。警察病院の、施錠された個室だ。勾留の執行停止という手続きが取られた、と事務官は淡々と言った。容疑者としての身柄は保持されたまま、治療のために拘束の場所が変わるだけだ、と。
ユイトは二度、その病室の扉の前に立った。二度とも、面会は叶わなかった。
医師の説明は簡潔だった。心臓そのものが、もう持たない。いつ止まってもおかしくない。そういう状態だと。
一週間後、伊織は昏睡状態のまま起訴された。罪状は殺人二十九件、監禁致死、誘拐。検察は、被告の状態を見越した上で、それでも起訴する道を選んだ。起訴しなければ、事件は「捜査中」のまま宙に浮く。二十九という数字に、法の上での決着を付けられなくなる。
だが、公判は開かれなかった。
ーーー
⑦
公判の期日が指定される前に、葛城伊織は死んだ。
昏睡のまま、一度も法廷に立つことなく、判決を受けることなく、被告は死亡した。刑事訴訟法上の公訴棄却。書類の上では、事件はそう処理された。
首謀者の急死による公訴棄却。
そのニュースが流れた直後の日本は、犯人に「勝ち逃げ」されたという猛烈な敗北感と、行き場を失った怒りで満ちていた。検察の前には抗議の群衆が押し寄せ、メディアは連日、司法の限界を糾弾し続けた。
伊織の目論見は、一見、完璧に成功したかのように思えた。
彼は最後まで「29人の命を奪った史上最悪の狂人」という巨大なインパクトを残したまま、法の審判をすり抜けてみせたのだから。
しかし、主謀者という「巨大な怒りの矛先」を失った世界は、数週間が経つ頃、静かに、しかし決定的にその姿を変え始めていた。
激しい怒りが過ぎ去った後に残されたのは、あまりにも重い「29」という不在の数だった。メディアや社会の関心は、次第に「葛城伊織が何をしたか」から、「奪われた29人の子供たちは、どんな子たちだったのか」へと、急速にシフトしていった。
そして事件から数か月後。
鳳凰学園中等部の校庭の一角に、小さな石碑が建てられた。
黒い御影石の表面には、亡くなった生徒たちの名前が、一人ずつ刻まれている。
二十九人。
そこには事件の名前は無かった。
ただ、亡くなった生徒たちの名前だけが、静かに並んでいた。
その碑の前には、季節の花が絶えることなく供えられていた。
最初のうちは、遺族や関係者が訪れるたびに、花束や手紙が置かれていた。やがて、在校生たちが学校帰りに立ち寄る姿も見られるようになった。
事件を直接知らない生徒たちも、その名前の前では自然と声を落とした。
そこに刻まれているのが、自分たちと同じ学校に通い、同じ校舎で笑い、同じ時間を過ごしていた生徒たちの名前だと知っていたからだ。
ニュース番組の特集は、無機質な「29」という数字を解体し始めた。
画面には、一人ひとりの顔写真と、その名前が丁寧に映し出される。
『カナさん。将来はイラストレーターになる夢があり、友達といつも手作りのシール帳を作っていました』
『タカシ君。野球部のエースで、次の大会で勝ったら母親に新しいグローブを買ってもらう約束をしていました』
『ユウカさん。人見知りだけど、捨て猫を見捨てられずに里親を見つけるまで頑張る優しい女の子でした』
それは、伊織がどれほど巨額の資金を投じようとも、どれほど冷酷な計画を立てようとも、決してコントロールすることのできなかった「確かな生」の記憶だった。
伊織にとって29人の子供たちは、自身の芸術作品を構成するための、等質な『素材』にすぎなかった。死体をシュレッダーで粉砕し、海に撒いたのも、個々の存在を消し去り、社会に「29の不在」というひと塊の巨大な傷跡を遺すための計算だった。
だが、現実は違った。
社会が涙し、記憶にとどめたのは、葛城伊織という怪物の名前ではなかった。中断させられた29通りの、かけがえのない、ささやかで豊かな人生の輝きだった。
一人ひとりの物語が語られるたび、葛城伊織という存在は、クリエイターなどではなく、ただその尊い未来を理不尽に踏みにじった、醜く退屈な「一人の犯罪者」へと格下げされていった。
深夜の自室。
ユイトは、テレビから流れる中学生たちの生前の笑顔を、静かに見つめていた。
バッシングの嵐はすでに止んでいる。今や御子柴ユイトという弁護士の名前すら、激動するニュースの片隅へと追いやられつつあった。それでよかった。
ユイトはデスクの脇にあるアクリルケースへと視線を向けた。
スタンドライトの光に照らされた、数十個のカプセルトイ。
格好いいロボット、奇妙な動物、チープなミニチュア。
「……葛城伊織」
ユイトは、ケースの中のおもちゃたちを愛おしそうに見つめながら、静かに呟いた。
伊織は裁判を待たずして死んだ。
仮に死刑になっても、死刑は犯罪者一人に与えうる最大の罰だ。
それでも死を目前にした老人一人の命が29人の若い命に釣り合うはずもなかった。
そして法律とは、人間の命や苦痛を天秤に載せて、完全な等価交換をするための制度ではない。ユイトはそれを痛い程理解している。
ユイトは手元の古ぼけたカプセルをケースの特等席へと戻し、優しく蓋を閉めた。
パチン、と心地よいプラスチックの音が響く。
---
⑧
事件から、3年の月日が流れた。
鳳凰学園中等部3年B組の生徒たちが帰ってくるはずだった中学校の校舎は、すでに別の生徒たちの声で満たされている。だが、小野ヒナタがその門をくぐることは、二度となかった。
部屋に並べられた机、チャイムの音、黒板。教室を連想させるすべてのものが、今でも彼女の脳裏に「あの日、あり得ない角度に曲がったカナの首」や「肉の焦げる匂い」を呼び起こすフラッシュバックの引き金だった。
彼女は今も、精神科への通院を続けながら、自宅の部屋で静かに暮らしている。
この3年間、生き残ったことへの罪悪感に苛まれ、ただ息をしているだけの抜け殻のような日々だった。
そんな彼女の部屋のローテーブルの上に、一冊の分厚いアルバムが置かれていた。
それは、事件後に遺族会や学校から、せめてもの形見にと手渡された、3年B組の学級アルバムだった。これまでは開くことすら恐ろしかったその表紙に、ヒナタは今日、初めて指を触れた。
ページをめくると、そこには14歳だった頃の、クラスメイトたちの笑顔が並んでいる。
テレビのニュースは、いつしか葛城伊織という老人の名前を呼ばなくなった。代わりに、このアルバムに写っている子供たちが、どれほど愛され、どんな夢を持っていたかが、3年経った今も社会の中で大切に語り継がれている。
「……あ」
ヒナタの指が、ページの一角で止まった。
修学旅行のバスの座席で、ピースサインを作っているカナの姿。その隣には、どこか決まり悪そうに、でも嬉しそうに笑っている自分自身が写っていた。
カナの胸ポケットからは、キャラクターもののシール帳の端が少しだけ覗いている。
ヒナタの目から、一滴の涙がこぼれ、写真の上の透明なフィルムを濡らした。
泣いたのは、あの日、本土へ向かう船の甲板で叫んで以来、初めてのことだった。あの時の涙は恐怖と絶望だったが、今の涙は、違う。
ヒナタはゆっくりと立ち上がり、部屋のクローゼットの奥から、色褪せた一冊のノートを取り出してきた。あの日、奇跡的に自宅に残されていた、自分のシール帳だった。
ページを開くと、そこにはカナと交換した、キラキラと光るホログラムのシールが大切に貼られている。
「……カナちゃん」
掠れた声で、ヒナタはその名前を呼んだ。
あの日、誰がどこにいるかも分からず、お別れの言葉さえ言えないまま海へ消えていった友達。
伊織は、彼女たちの命を「29」という無機質な数字の塊にして処理した。でも、違う。カナは、確かにここにいた。ヒナタとシールを交換して、他愛のない話をして笑っていた、世界に一人だけの友達だ。
ヒナタは、おぼつかない手で、自分のシール帳の新しいページに、手元にあった小さな花のシールを一枚、そっと貼り付けた。
傷が癒える日は、きっと来ない。一生、学校の机を見ることはできないかもしれない。
それでも、生き残ってしまった自分が、彼らの「生きていた証」を奪わせないために。このクラスメイトたちがどんなに素敵な子たちだったか、いつか、誰かに語れるようになるために。
ヒナタはアルバムを抱きしめ、静かに、本当に静かに、止まっていた時間を動かし始めた。
窓の外からは、あの日と変わらない、穏やかな初夏の風が吹き込んでいた。