きみを食べたい
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
オオカミのユイは、自販機で十円を貸したウサギのウルと親しくなる。だが彼への想いが深まるほど、幼い頃から抱えてきた「草食への興味」の正体が、恋ではなく捕食衝動だと気づいてしまう。好きなのに、そばにいられない。
本文
一
次の講義まで、まだ少し時間がある。
ユイは中庭の時計を見上げた。古びた針が、止まることなく時を刻んでいる。熱くも冷たくもない、ちょうどいい温度のコーヒーを飲むのが、気づけば習慣になっていた。
自販機の前に着くと、先客がいた。
自分と同い年くらいの白いウサギの男性だった。小柄で、長い耳が頭の上に二本、まっすぐ伸びている。財布を取り出し、小銭入れをまさぐっている。
「あ、あれ…?」
独り言のような声だった。どうやら小銭が足りないらしい。財布の中をもう一度確かめ、また首をかしげている。
ウサギはユイの気配に気づいて振り返った。
「あ、す、すみません!お先にどうぞ!」
慌てて横に退いた。
普段のユイなら、そのまま自販機でコーヒーを買って去っただろう。
でも、何かが引っかかった。
「小銭、足りないの?」
ウサギがきょとんとした顔でユイを見た。
「あ、そうですね…十円足りなくて…あはは」
ぎこちなくおどけてみせる。おかしい状況でもないのに、なぜか笑いで誤魔化そうとしている。
「十円…」
ユイは自分の財布から十円玉を一枚取り出した。それをウサギの手に乗せる。
「え…?」
「買いたいんでしょ」
ウサギは手のひらの十円玉を見つめていた。それからユイを見た。それからまた十円玉を見た。
「…あ!ありがとうございます!次見かけたら必ず返しますね!」
深々と頭を下げる。
「いいよ、返さなくても」
周囲の学生たちは二人に目もくれていないのに、そのオーバーな反応が恥ずかしくてユイは目を逸らした。
ウサギは十円を受け取ると自販機に向き直り、ボタンを押した。
落ちてきた缶を取り出す。それはユイがいつも買っているコーヒーだった。
ユイはそれに気づいたが、これ以上関わるのはやめようと思った。
「よし!」
ウサギは嬉しそうにコーヒー缶を手に、ユイに笑顔で会釈すると、足早に去っていった。その白い耳が人混みに消えるのをユイは見ていた。
ユイも自販機でコーヒーを買った。
この時はウルとはこれ以上関わりはないと思っていた。
* * *
二
あれから三日ほど経った、昼時のことだった。
ユイは昼食に向かって廊下を歩いていた。
「あっ、あのっ!」
背後から声をかけられた。
振り向くと、目の前に長い耳がある。頭一つ分見下ろすと、その耳の持ち主の白いウサギがいた。
「自販機の時の、十円の者です」
言わんとしていることは分かるが、ヘンテコな説明だった。
「あの時はありがとうございました!」
頭を下げて、ユイに十円を差し出す。まるで命でも助けられたかのような言い方に、ユイはかすかに照れた。
「返さなくていいって言ったのに…」
つい口に出てしまった。
「いえ!そういうわけにはいかないんです!」
「…ありがと、確かに」
ユイはウサギから十円を受け取った。これで貸し借りなし。二人の関係はこれで完了したはずだった。
「あ!そのコーヒー、好きなんですか?僕も好きでよく買ってるんですよ!」
ウサギが目を輝かせた。ユイが飲み終えて捨てようと持っていたコーヒーの空き缶に気づいたらしい。
「うん、まぁ…好きかな…」
実はかなりのコーヒー好きだが、自分の好みを他人に伝える時は控えめにしてしまうのが、ユイの癖だった。
「わぁ!」
ウサギの目がさらに輝いた。こんなドラマのキャラクターみたいな人、本当にいるんだ、とユイは思った。
「これからお昼ですか?もしよかったら、僕と一緒に食べませんか?」
屈託のない笑顔だった。ナンパとか、そういうものとは全然違う。ただ純粋に、一緒に食べようと言っている。
「いいよ」
ここで断った時の気まずさもあってそう答えた。でも、断りたいとも思っていなかった。
* * *
三
学食は混み合っていた。トレーを手に空席を探すユイの隣に、白いウサギがちょこんと並んだ。
こんな二人が一緒にうろうろしていたら目立つと思った。
「静かなとこがいいですよね?」
窓際の二人席に着いた。
大きな柱の影になっていて目立たない場所だ。現に誰もいない。
「…そういう訳で自己紹介しますね」
「ウル、といいます。一年生です」
何がそういう訳か分からないけど聞き流した。
「……ユイ。二年」
「ユイさん…ユイさんですか!」
「ユイさんって呼んでいいですか?」
もう呼んでるじゃん、と心の中で突っ込んだ。
ウルは照れたように耳をぴくりと動かし、それから自分のトレーに向き直った。ウルは根菜サラダをもりもりと、屈託なく食べはじめる。
ユイは自分のトレーに視線を落とした。チキン風ソテー。
この世界では本物の肉を口にすることは無い。全て大豆の代替肉だ。
「ユイさんって、友達多そうですよね」
「全然」
「え、意外です。なんか…いろんな人に気遣いできそうで」
「そういうのは苦手かな…」
「じゃあ、自販機で声かけてくれたのは?」
ユイは少し考えた。あの時なぜ声をかけたのか、自分でもよく分からなかった。
「……なんとなく」
「なんとなくで十円くれるんですか」ウルは笑った。「やっぱり優しいじゃないですか!」
「そういうんじゃないと思うけど…」
本当に、ただ引っかかっただけだった。困っているウサギを見て——何かが、自分の中で動いた。それが何なのかは、うまく言葉にならなかった。
ウルはジャガイモを美味しそうに食べ、顔を上げた。
「ユイさん、草食の知り合いって、います?」
唐突な質問だった。
「……いない、かな」
「そうですか。肉食の方って草食を避ける人も多いのでユイさんはどうかなって思って」
「それは……」
ユイは少し言葉に詰まった。
いないのは関わりたくなかったからではない。むしろ逆だ。
幼い頃から、草食のことが気になっていた。
放課後、校庭の隅で遊んでいたヤギの男の子。
図書室でいつも静かに本を読んでいたシカの女の子。
そういう子たちをいつも、遠くから眺めていた。
もっと近くで話してみたかった。どんなふうに笑うんだろう。どんな声をしているんだろう。
近づけなかったのは、怖かったからではなく——
…なんで、近づけなかったんだろう。
「ユイさん?」
「……関わりたくなかったわけじゃない。ただ、機会がなかっただけ」
ウルはそれを聞いて、花が開くように笑った。
「じゃあ、僕が初めての草食の知り合いですね」
「……まあ、そうなるね」
「光栄です!」
大げさだな、とユイは思った。でも、嫌ではなかった。
しばらく二人は黙って食事をした。静かな沈黙だった。気まずくはない。ただ、それぞれのペースで食べている。
ユイはウルを観察する。
自分と歳は同じはずなのにウサギ特有なのだろうか、随分幼く見える。
目は大きく、鼻は目に近く、ウルの容姿は多くの人がカワイイと言うだろう。
しかし、ユイにはウルを美しく感じた。
白い被毛。薄い皮膚。柔らかそうな体。
——なんかウルっておいしそう
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、ユイはハッとして視線をトレーに戻した。
ぼんやりしながら食べてるから訳の分からない事を考えるんだと自分に言い聞かせた。
二人はそれからとりとめのない話をした。共通の講義の話、通学路の話、学食のコーヒーはいまいちだという話。気づけば食事は終わっていた。
「また一緒に食べましょう」ウルが言った。
「……うん」
ユイはそれだけ答えた。また、という言葉が胸の中で小さく響いた。
* * *
四
さらにひと月が経った頃、二人は連絡先を交換していた。
帰りが一緒になった時は、新しくできたカフェに入ってコーヒーの飲み比べをした。ウルは飲んだことのない豆の味を大げさに褒め、ユイはその反応をおかしいと思いながらも、自分のことは棚に上げて黙って聞いていた。
ウルとの関係が心地よかった。でも、これが付き合っているのかただの友達なのか、よく分からずにいた。
連絡を取り合うようになっても、一緒に行動するようになっても、ウルは相変わらずだった。ユイのことは「ユイさん」と呼び、誰に対しても礼儀正しく、そしてオーバーな感情表現だった。
それが不思議と、嫌ではなかった。
* * *
五
約束の日は、曇りだった。
待ち合わせの駅の改札前で、ユイは時計を見た。まだ五分ある。それでも早めに着いてしまうのは、自分でも少しおかしいと思う。
「ユイさん!」
声の方を向くと、白い耳が人混みの上に見えた。改札を抜けてこちらに小走りしてくるウル。肩に小さなトートバッグ、今日は少しだけ洒落た格好をしている。
「おはようございます!待ちました?」
「ううん、今来たとこ」
「よかった。電車、一本乗り遅れちゃって…」
「気にしないよ」
ユイはそう返しながら歩き出した。ウルが隣に並ぶ。二人の間に、いつもよりほんの少し、余所行きの空気がある。
大学の帰り道でもなく、学食でもなく、休日に、二人で、目的地へ向かっている。それだけのことなのに、どこかが違った。
* * *
水族館は海沿いの複合施設の中にあった。平日ではないから家族連れも多い。子供の声が響いている。
「わあ…」
エントランスの水槽の前で、ウルが足を止めた。天井まで届く大きなアクリルパネルの向こうで、魚の群れがゆっくりと旋回している。青白い光が二人の顔に揺れた。
「来たこと、ある?」ユイが聞く。
「小学生の時に遠足で来たっきりです。ユイさんは?」
「私も久しぶり」
「一緒に来る人、いたんですか?」
「いなかった。一人で来てた」
ウルがユイを見た。何か言いたそうにして、それから前を向いた。「そうなんですね」とだけ言った。責めでも憐れみでもない、ただ、そうなんですね、という声だった。
* * *
クラゲの展示室は薄暗く、円柱形の水槽がいくつも立ち並んでいた。光に透かされたクラゲが、ゆらゆらと漂っている。
「きれいですね」ウルが呟いた。
ユイは黙って見入っていた。好きだった、こういう場所が。騒がしくなく、暗く、ただ何かがゆっくり動いている場所が。
クラゲはどれもフワフワとして、個の輪郭がぼんやりしている。それでいて、それぞれが好き勝手に漂い、泳いでいる。自由で、静かで、誰にも縛られていないように見えた。
(……私とは、ずいぶん違う)
ユイはふと、高校生の頃を思い出した。
オオカミの女子たちの間では、いつも「誰が好き」「誰がカッコいい」の話で持ちきりだった。全員が当然のように、同族のオオカミの男子しか候補に挙げない。群れることを好み、目立つことを嫌う——それが彼女たちの常識だった。
ユイは違った。幼い頃から、草食の彼らに強く惹かれていた。
ある日、他の女子に「ユイは誰が気になるの?」と聞かれた時、つい草食の男子の名前を口にしてしまった。あの瞬間の、空気の変わりようを今でも覚えている。
「ユイが冗談言うなんて意外だよねー」
誰かの軽い笑い声に、周りが同調して笑った。その場はそれで収まったが、それ以来ユイは二度と草食の話をしなくなった。無理に笑顔を作り、群れに合わせるようになった。
……結局、私はずっと一人だった。
「ユイさんってこういうの好きそう」
ウルの声で、ユイは現実に引き戻された。
「……なんで」
「なんとなく。静かなのが好きでしょ?」
ユイは少し考えてから、柔らかく微笑んだ。
「うん」
いつもなら「まあ」とか「どうかな」と濁すところを、今日は素直に出てしまった。
ウルが嬉しそうに笑う。「やっぱり」
「ウルくんはうるさいの好きそう」
「えっ、そんなことないですよ!」
「オーバーな言い方するじゃん、いつも」
「そ、それは…気持ちが溢れちゃうんです」
「溢れすぎ」
ウルはむっとした顔をしたが、すぐに笑った。ユイも、口元が緩むのを隠せなかった。
* * *
昼を過ぎた頃、二人は館内のカフェで休憩した。
木造船をモチーフにしているようで、壁や床、テーブルに至るまで木材が使われている。
天井から吊るされた古びたランプが船内の雰囲気を出すのに一役買っている。
壁には木彫りの海洋生物をあしらった柱時計があった。
振り子が規則正しい音を立て、和やかな雰囲気を醸している。
「なんか楽しいですね」ウルがカップを両手で包んで言った。
「うん」
「こういうの、初めてです。誰かと休日に出かけるの」
「友達いないの?」
「いますよ!でも、なんか…違うんですよね。今日は」
ユイは窓の外を見たまま、「違う?」と繰り返した。
「はい」ウルははっきり言った。「ユイさんと来るのは、友達と来るのとは違う気がします」
ユイの指先がカップの縁に触れたまま、止まった。
「……どういう意味」
「どういう意味…」ウルは少し困ったように耳を傾けた。「えっと、自分でも、うまく言えないんですけど…」
しばらく沈黙が落ちた。
カッ… カッ…
振り子の音が沈黙の時間をカウントするように聞こえる。
「ユイさんと初めて話した時から」ウルが続けた。「あの自販機の前から、ずっと気になってたんです。なんでこの人は私に十円くれたんだろうって」
「たった十円じゃない」
「たった十円でも、知らない人に渡さないじゃないですか、普通」
ユイは何も言わなかった。
「お昼に誘った時も断られると思ってました。でもユイさん、来てくれた」
「断りにくかっただけ」
「そうかもしれない」ウルは笑った。「でも、それでも嬉しかったんです。なんか…ユイさんといると、居心地がいい」
ユイはようやくウルの方を見た。ウルはまっすぐこちらを見ていた。誤魔化しのない、真剣な目だった。
「私ね」ユイは言いかけて、一度止まった。「ウルくんと一緒にいる時、いつもより喋ってる気がする」
「え?」
「自分でも気になってた。なんでだろうって」
窓の外で、海風に何かが揺れた。
「答え、出ました?」ウルが静かに聞いた。
ユイは少し間を置いてから、「たぶん」と言った。「ウルくんが、話しやすいから」
「それって」
「それ以上聞かないで…」ユイは目を逸らした。耳の先が、少し赤い。
ウルはしばらくユイの横顔を見ていた。それから小さく、でも確かに聞こえる声で言った。
「僕、ユイさんのことが好きです」
海の方から、風の音がした。
「……知ってた」
「えっ」
「なんとなく」
「気づいてたんですか!」
「しっ、声大きい」
「す、すみません…」ウルは小声になった。「じゃあ、ユイさんは?」
ユイはカップを置いた。窓の外を見たまま、ゆっくり言った。
「……好き。だと思う」
「“思う”って何ですか」
「ん…うるさい…」
「ちゃんと聞かせてください」
ユイはウルの方を向いた。一拍置いて、短く、でも真剣な目で言った。
「好き」
ウルの目が少し潤んだ。「うう、泣きそうです…」と自分で言って、目を押さえた。
「大げさ」
「だって…!うれしいんです!」
「…よかった」
ユイはそれだけ言って、また窓の外を向いた。嬉しそうな口元は隠れていない。
振り子の音が心地よい。
この時間が、いつまでも続けばいいのに——そんな願いが、胸の奥で小さく疼いた。
* * *
六
少し暑さを感じるようになってきたある日、二人は学食でコーヒーを飲んでいた。
ユイはソワソワと落ち着きがなかった。指先で何度も前髪をすいている。
今朝の出来事が、まだ頭から離れなかった。
駅から大学に向かう途中、ユイがATMに寄ったわずかな時間、ウルはキツネの女性に声をかけられていた。キャッチセールスだ。
タブレットを突きつけられ、密着気味に説明されるウル。ユイはそれを見た瞬間、ほとんど意識しないまま早足になっていた。
「ほら、遅れちゃうよ」
キツネを一瞥もせずにウルの腕を掴んで引き寄せた。ウルは慌てて「すみません、これからユイさんと歩くので」と頭を下げながらついてきた。
歩き出して、しばらくしてから、ユイは自分の手がまだウルの腕を掴んだままなのに気づいた。指が食い込んでいる。ウルが少し痛そうにしているのも、今さら分かった。
「ごめん」
手を離す。ウルは「大丈夫です」と笑った。その腕の白い被毛に、うっすらと赤い跡が残っていた。
ユイはそれを見て、目を逸らした。早足になった理由も、掴んだ力の強さも、うまく説明がつかなかった。ただ、キツネのタブレットとウルの顔が近かったことだけが、まだ視界の端に焼きついていた。
ウルは悪くない。キツネのセールスも、ただ仕事をしているだけだ。それなのに、他の肉食がウルに近づくことへの拒絶が、指の跡と同じくらいはっきりと、手のひらに残っていた。
(ウルくんは……私のものなのに)
そんな考えが一瞬よぎり、ユイは自分で自分に驚いた。
「……ねえ、この後うちに来る?」
突然の提案に、ウルが目を丸くした。
「いいんですか!?」
「うん。お詫びにもっと美味しいコーヒー、飲ませてあげるからさ」
ユイは少し視線を逸らしながら続けた。
「……今日は、もっと長く一緒にいたくなったから」
* * *
七
ユイのアパートは、駅から十分ほど歩いた住宅街にあった。
築年数はそれなりにあるが、こざっぱりと片付いていた。
ユイはリビングに案内するとテレビをつけ、「楽にしてて」とウルをソファに座らせた。それからリビングを出ていく。
ウルは部屋を見回した。本棚には小説がたくさん並んでいる。窓際に観葉植物が一鉢。生活の匂いがする部屋だった。
しばらくすると、コーヒーのいい香りが漂ってきた。
ユイは自宅では豆を挽いてコーヒーを楽しんでいるようだった。
「今日はお客さん用のいい豆だよ」
ユイの声が少し楽しそうだった。
湯気の立つコーヒーを一口啜る。確かに、おいしい。
二人でテーブルを挟んで座って、他愛のない話をした。バイトの話、授業の話、最近読んだ本の話。ユイはウルが話す時、静かに、嬉しそうに聞いてくれる。それがウルには嬉しかった。
* * *
八
夜になった。
二人はベッドに座り、壁に背をかけて並んでお笑い番組を見ていた。
正確には、画面を眺めているだけだった。意識は別にある。
テレビから聞こえる芸人のまくし立てるような声、観客の笑いの声、これらはフェードアウトし、壁掛け時計のカチッカチッと刻む音が一際大きく聞こえた。
ウルは手をユイの指先に乗せた。
ユイの体が、わずかに固まった。でも逃げなかった。
覚悟はしていたけど意外でもあった。ウルも一人の男性であることを再認識した。
ウルは正面を向いたまま、でも意識のすべてがその指先に集まっていることが分かる。
二人は顔を向け合い、互いの目を見た。
言葉を発することなく、二人はこの先の展開を受け入れ、求めていることが理解できた。
二人は目を瞑り顔を近づけ、キスをした。探るような、とても優しいキスだ。
これを皮切りに二人の世界は始まる。ウルはユイの服のボタンをゆっくりと外していく。
ユイは身につけたものは何もなくなり、自前の美しい被毛だけが露わになった。
「ユイさん、とても綺麗です」
ウルの感想は儀礼的ではなく、心から発せられたことが分かった。
ユイもウルの服を脱がした。とても男性のものだとは思えないほど、柔らかくきめの細かい白い被毛だった。
「ユイさん…」ウルはユイをベッドに寝かせると、首筋や鎖骨にキスをする。
「んっ…」ユイは体をなぞるように断続的にキスされる感覚に快感を覚える。
ユイの目の前にはウルの頭、とても近い。その時ユイは自身に今している行為の興奮とは別の、違和感を覚えた。
この時はそれが何かまでは分からなかった。今はウルの愛撫に身を委ねることに専念しないと…。
ウルはユイの反応を確認しつつ、ユイに少しでも気持ちよくなってもらいたいという一生懸命さが伝わった。
「ウルくん、私も…」
ユイは体を起こし、今度はウルを寝かせた。
間近で、ウルの匂いがした。汗と、さっき飲んだコーヒーの、かすかな苦み。その奥に、もっと生々しい何かがある。毛の下から立ちのぼる体温のような、血の巡りの音のような。耳を澄まさなくても、ウルの鼓動がすぐそこで鳴っているのが分かった。
口が、勝手に動いた。唇がめくれて、歯の先がウルの毛に触れる。
唾液が、あふれた。
ユイははっと我に返り、身を翻した。
目を閉じ、キスされる感覚に浸っていたウルはそれに気付き、体を起こす。「ユイさん?」
ユイは背中を向けて体を震わせていた。
「ユイさんっ!?」異変にウルの声が大きくなる。
ユイは泣いていた。自分に潜んでいたものの正体が分かった。幼い頃から感じていた草食動物に対する興味や関心——これらの正体はすべて、食べたいという欲求だった。
そして、私の事を好きに思ってくれた、これから身も心も一つになろうとしたウルを食べようと思ってしまったこと。
自分が自分でないような恐怖と罪悪感で押し潰されそうだった。
「ゴメン…ゴメンね!ウルくん!」
ユイの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
ウルは困惑していた。ユイの謝罪と涙の意味を理解できずにいた。
何か過去にこういう行為にトラウマがあるのか?
こういう事をするのが実は嫌だったのか?
いろいろなことが頭をもたげ、ウルも泣きそうになった。「ユイさん…」
ウルの悲しげな声にユイはわずかながら自分を取り戻した。
「ウルくん、私ね…さっきウルくんにキスしていた時、ウルくんを食べたくなっちゃったの…」
消え入りそうな声だった。
「え…」ウルは驚いた顔だ。恐怖や嫌悪ではなく、ただただ驚いているようだった。
「私、ずっと昔から草食動物に興味があったの。友達になりたい。もっと親密になりたいって」
ウルは黙って聞いていた。ただ真っ直ぐユイを見て。
「だから、ウルくんと仲良くなれて、一晩一緒に過ごすことができるなんてとても嬉しかった」
「でも、私の中にあった草食動物への興味はただ食べたいという欲求だったの。さっきウルくんの首を噛みたくなって分かった」
ウルは無意識だろう。それを聞いて自分の首に手を当てた。
「わたしっ、ウルくんのことは好き、だけどダメなのっ!あなたと一緒にいるほど、好きになればなるほど食べたくなっちゃうからっ!」
苦しそうなユイにウルは再び涙ぐんだ。
「大丈夫」と言いたかった。けど言えなかった。
この言葉で何が変わるのだろうか? この言葉の意味するところは? 「僕はユイさんに食べられても大丈夫」「ユイさんのその欲求はきっと無くなるよ」…どれも違う。
「…僕たち」
ーダメだ。
「近くなりすぎちゃダメだったのかな?」
言っちゃダメだ。
頭では否定していたが口に出てしまった。
ウルも泣いた。涙が溢れ出た。我慢していたが、自分の言葉で二人の関係を終わらせてしまったことに耐えられなかった。
二人は寄り添うこともできず、その場で泣くことしかできなかった。
* * *
どれくらい時間が経っただろう? 二人は落ち着きを取り戻していた。目を赤く腫らしている。
「気をつけてね」
玄関のドアノブに手をかけるウルに声をかけるユイ。
「うん、それじゃあ…」
ウルは別れの挨拶をした。視線は…私を見ていなかった。
静かだった。普段の感情豊かなウルとは思えないほどに。
こっちを見てほしかった。
「ガチャン」とドアが重たい金属音を立てて閉まる。部屋の中は静寂を迎えた。壁掛け時計のカチッカチッと刻む音だけが聞こえる。
何から気をつけるんだろう? 私みたいな肉食から? 深い意味はない言葉であったが、考えれば考えるほど嫌になる。
喧嘩でもない。幻滅でもない。相手への嫌悪感でもない。ただ好きなのにそばにいられない。
ユイはキッチンの椅子に座った。
電気を点けていない暗い室内。
カップが窓からの光で2つ影を伸ばしている。
張り切ってコーヒーを作りすぎた。
ユイのカップには飲みかけで温度を失ったコーヒーが街灯の青白い光を反射している。
ウルは綺麗に飲み干している。
美味しいと言い、何杯もおかわりをしてその後何度もトイレに行き、呆れて笑い合った。
それがつい数時間前の出来事だと信じられなかった。
ユイは感情がこみ上げてきてテーブルに突っ伏して再び泣いた。
二人の時間は止まった。
壁掛け時計の時を刻む音が、2人の関係を過去のものにしていった。