絵の中のあなた
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
雨の音が、古い木造の屋根を叩くリズムに変わっていた。私は台所の窓辺で、湯気の立つマグカップを両手で包みながら、外の景色を眺めていた。庭先の紫陽花は、この時期特有の青紫色に深く染まり、雨粒を含んで重そうに頭を垂れている。その光景はどこか哀愁を帯びていたが、同時に、静かな安らぎも与えてくれた。「おばあちゃん、今日も元気?」
本文
雨の音が、古い木造の屋根を叩くリズムに変わっていた。
私は台所の窓辺で、湯気の立つマグカップを両手で包みながら、外の景色を眺めていた。庭先の紫陽花は、この時期特有の青紫色に深く染まり、雨粒を含んで重そうに頭を垂れている。その光景はどこか哀愁を帯びていたが、同時に、静かな安らぎも与えてくれた。
「おばあちゃん、今日も元気?」
背後から聞こえたのは、孫の陽太の声だった。彼は高校二年生になり、身長がぐんと伸びて、私の目線では首が痛くなるほどになった。声変わりした低いトーンには、まだ幼さが残っている。
「ええ、大丈夫よ。あなたこそ、部活で疲れてない? お茶でも淹れましょうか」
私が振り返ると、陽太は濡れた髪をタオルで拭きながら、苦笑いを浮かべていた。
「いや、いいよ。それより、これ見て」
彼がポケットから取り出したのは、一枚の古びた写真だった。
sepia トーンの色調が褪せ、端は少し破れている。写っているのは、若い頃の私と、もう一人の男性。二人とも、満面の笑みを浮かべている。背景には、今とは違う街並みが広がっていた。
「これは……誰の写真?」
私が尋ねると、陽太は椅子に座り、膝の上で写真を丁寧に広げた。
「おじいちゃんの若い頃だよ。母さんから聞いたんだ。おじいちゃんが亡くなる前に、ずっと大事にしてたものだって」
夫の名前は健一といった。五年前、病気でこの世を去った。彼との思い出は、鮮明な記憶というよりも、淡い水彩画のように滲んでしまった部分が多い。特に、彼が若かった頃の話は、あまり聞かされていなかった。
「おじいちゃんは、昔、画家だったんだって」
「画家?」
私は驚いて目を丸くした。確かに、健一は絵を描くのが好きだった。だが、職業として画家をしていたことはなかったはずだ。彼は銀行員として働き、定年後は家庭菜園に明け暮れていた。
「うん。大学時代まで描いてたらしいけど、就職を機に辞めたんだって。でも、どうしても諦めきれなくて、夜な夜な小さなキャンバスを描いてたんだよ。それが、全部捨てられずに残ってたんだ」
陽太は立ち上がり、居間の棚へ向かった。そこには、埃をかぶった木箱が置かれていた。彼が蓋を開けると、中には大小さまざまなスケッチブックや、乾いた油絵具のチューブ、そして筆入れが入っていた。
「見つけたんだ。押し入れの奥に隠してあった」
私は震える手で、一番上のスケッチブックを取り上げた。表紙には、鉛筆で小さく『K』とイニシャルが刻まれていた。ページをめくると、そこには風景画や人物画が次々と現れた。どれも未完成のまま止まっているものばかりだった。しかし、最後の一枚だけ、完成していた。
それは、私の姿だった。
二十代の私。長い髪を結い上げ、窓辺で本を読んでいる横顔。光の当たり方が優しく、瞳の奥に宿る穏やかな意志が、細密な筆致で描き出されていた。画面の隅には、日付が記されていた。私たちの結婚記念日の直前。
「いつ、これを描いたの……?」
呟くと、涙腺が緩んだ。私はこの絵を見たことがなかった。もし見ていたら、絶対に忘れないはずなのに。
「多分、おじいちゃんが、あなたのことを一番愛してた時期だと思う」
陽太が隣に座り、肩を寄せてきた。
「母さんが言ってた。おじいちゃんは、自分の才能に限界を感じて、絵を描くことをやめたんだって。でも、あなたの笑顔だけは、描き続けたかったんだって」
私は絵を見つめながら、当時の記憶を掘り起こそうとした。結婚当初、健一はよく「俺には君を描くことしかできない」と冗談めかして言っていた。あの時、私はそれをただの甘えだと受け取っていた。しかし、今になって思う。あれは、彼の誠実さの裏返しだったのではないか。
「ねえ、おばあちゃん。これを額に入れて飾らない?」
陽太が提案した。
「え? でも、こんな古いものを……」
「いいじゃん。おじいちゃんの気持ちなんだから。それに、僕、これ好きだな。すごく温かい色してる」
私は頷いた。その瞬間、胸の奥に詰まっていた何かが、すっと溶けていく感覚があった。悲しみではなく、感謝。彼が私をどう見ていたか、そして私が彼にとってどんな存在だったか。言葉にならなかった想いが、色彩の中に封じ込められていたのだ。
翌朝、私は庭に出て、紫陽花の花を切り取った。花瓶に活け、リビングのテーブルに置く。その隣に、額縁に入れたスケッチを並べた。朝日が差し込み、絵の中の私の頬を照らす。まるで、健一がそこに立って、微笑んでいるようだった。
数日後、陽太が帰省してきた時、彼はまたその絵の前に立ち尽くしていた。
「おばあちゃん、僕、大学で美術史を学ぶことに決めたんだ」
「えっ、急にどうしたの?」
「この絵を見て思ったんだ。描くって、ただ形を残すだけじゃない。時間とか、感情とか、そういうものを保存する行為なんだって。おじいちゃんは、生きてる間にこれを伝えられなかったけど、僕は伝えたい」
私は何も言わず、ただ陽太の頭を撫でた。その手つきは、かつて健一が私にしてくれたものと全く同じだった。
季節が巡り、再び梅雨の時期を迎えた頃、私は病院のベッドにいた。医師からは余命幾ばくもないことを告げられていた。意識が薄れゆく中、最後に目に映ったのは、枕元に置かれたあのスケッチだった。雨音の中で、絵の中の私は、永遠に若く、永遠に微笑んでいた。
「ありがとう、健一さん」
心の中で叫ぶように呟いた。
「あなたの絵は、ちゃんと届いたわ」
陽太が握ってくれた手の温もりが、次第に遠くなっていく。しかし、恐怖はなかった。むしろ、安心感で満たされていた。なぜなら、私たちは繋がっていたから。過去と現在、死者と生者、その境界線を越えて、愛は確かに存在し続けていたのだ。
目が閉じる直前、私は見た。
絵の中の私が、ゆっくりと瞬きをするのを。
そして、その唇が、「おかえり」と言ったのを。
暗闇の中、柔らかな光が差した。