第15話 沈黙の巫女、音を超える日
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あらすじ
神環ノ縁~和風ソシャゲのモブ神主に転生したので巫女たちと縁を繋いで穢れを祓います~ - 第15話 沈黙の巫女、音を超える日
本文
音のない朝だった。
いつもなら、山鳥の囀りや風鈴の共鳴が空気を揺らすはずの縁側に、その日は、霊環の鼓動さえも沈黙していた。
黄羽響は、薄羽織一枚で縁に座っていた。足を揃え、手を膝に添え、背を丸めず、まるで音を出さないためだけに姿勢を保っているようだった。
静か、だな。
そう思う。けれど、それを誰かに言うことはない。
沈黙は、彼女にとって選んだものではなかった。与えられた形式であり、決して逸れてはならない輪郭だった。
声を持たない巫女。
響が神環大社に迎えられた当時、周囲はそう呼んだ。音を聴き、音に応じ、音でしか応えない。口を開かずとも、その反響だけで周囲の感情を掬い取る者。
だから、彼女は喋らなかった。
そうすることで、信頼された。そうすることで、巫女として機能した。
けれど。
「……ねえ、響ちゃん。今日も一緒に朝のお茶しない?」
響の前に現れたのは、陽ノ宮レンだった。巫女という肩書きを超えて、今や女として抱かれた誰よりも柔らかな空気を纏った女。
響は、ほんの一秒だけ視線を泳がせた。それから、ゆっくり首を横に振る。
「……そっか。……また、あとでね」
レンは、それ以上追わなかった。
柔らかい音のように、その場を立ち去った。
そして、気づいた。
……わたし、言葉を返せないんだ。
喋ることは、響にとって許されたはずだった。八雲との結縁の夜、彼に抱かれた瞬間。胸の奥に長年蓄えてきた音にならなかった感情が、声として溢れ出た。
けれどそれは、快楽と涙に支えられた声だった。
朝の会話。
何でもない日常の対話。
言葉で始まる関係構築。
響には、それができない。
もし、また黙ったら……戻ってしまう気がして……怖い。
◇ ◇ ◇
境内の奥。
霊環式の連絡所で、八雲が霊流データの確認をしていた。
「響の感応式、また反応値が落ちてる……?」
綾音がそっと隣から覗き込む。
「身体の霊環感度自体は安定しています。けれど反響式の応答波が、昨日よりも鈍い」
「……沈黙に戻ってるってことか」
八雲が、静かに息を吐く。
綾音は小さく首を傾げた。
「……八雲様。響さんには今、何を返せばいいのでしょう?」
「……それを俺も、ずっと考えてる」
誰よりも音を感じる少女が、今、何も返せない空白の中にいる。
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づいた頃。
響はひとり、音場管理の森に足を踏み入れていた。
霊災の前兆音が、かすかに聞こえていたから。
キィ……
微かなノイズ。
しかしそれは、音ではなかった。
何かが音を食っている。
その違和感に、響は一歩を踏み出した。けれど、同時に思った。
この先にあるのは……わたしの、答えなんだろうか。
けれど、答える言葉を、響はまだ持っていなかった。
そのとき、空間が、音もなく、崩れた。
◇ ◇ ◇
空間が、崩れていた。
森の中。霊場と結界の狭間に、ぽっかりと穴のような気配が存在していた。それは見る者にそこに在るとすら認識させないほど曖昧で、ただ、音の消失だけが周囲の異常を告げていた。
響は、そこで立ち尽くしていた。
音が……ない。
風のざわめきも、葉擦れも、鳥の羽音も。全てがその領域の中で、消えていた。
音を、食われてる……?
声を出そうとした。
だが、出ない。
喉は震える。息は流れている。けれど、音にならない。
何も響かないという事実が、鼓膜の内側をじわじわと侵してくる。
怖い。
聴くことで世界を感じていた響にとって、聞こえないというのは世界から拒絶されるのと同義だった。
次の瞬間、白い何かが、彼女の足元から生えた。
「……っ!」
反射で飛び退いた。
が、そのとき既に視界は乱れていた。結界の残響が聞こえないことで、反応の遅れが生じる。音のない空間では、響にとって今起きていることが、まるで夢のように不確かだった。
それは、霊災無響子。
反響領域そのものを侵食し、音を媒介とした神技を無効化する禁忌の霊的存在。
響のスキルは、ことごとく、音を前提に成立していた。
つまり。
……わたし、戦えない……?
じゅっ。
空気が焼けるような圧が、脚をかすめた。
見ると、左の足首が、浅く裂けていた。傷自体は浅い。だが、出血の音が、ない。
また音が、奪われた。
「……っ、やだ……っ」
口が震えた。
だけど、音には、ならなかった。
その瞬間。響の中で、ひとつの記憶がよみがえった。
喋ってはならないと教えられた日。
言葉は穢れ。巫女たるもの、ただ音で応じよ。その声は神の耳を乱す。
喋りたいって、思ったことがあった。でもそれを口にした瞬間、年上の巫女に、強く、頬を叩かれた。
……また……わたし……黙らされるの……?
それが、巫女として生きるということだった。
そう思っていた。そう、受け入れてきた。
けれど。
今の響は、もう知っていた。
声を出しても、笑っても、八雲は、怒らなかった。
君の声が、聞きたいと言ってくれた。あの夜、抱かれて、初めて自分の声で喘いで、八雲は、その全てを受け入れてくれた。
なら……今のわたしの沈黙は。
自分を殺すためのものじゃない。恐れているから、出せないだけなんだ。
そのときだった。
「響!」
音が、走った。
八雲の声だった。
それだけで、空間が震えた気がした。
◇ ◇ ◇
その声は、確かに響いた。
「響!」
霧を裂くように届いた八雲の声が、音を奪われた領域の中で、唯一残った呼びかけとなって彼女の胸に突き刺さった。
……届いた……?
音が返ってこない世界の中で。反響が奪われたこの空間で。
たった一つ、わたしを呼ぶ声だけが届いた。
「……っ」
喉が震えた。
肺に空気が流れた。言葉にしようとした。けれど、またしても、声にならなかった。
怖い。
出した瞬間に否定されることが、誰かに拒まれるより、ずっと怖い。
響は、唇を噛んだ。
でも。
八雲の声が、もう一度、響いた。
「響……君の声が、欲しい。音じゃなくて、言葉でいてくれ」
「……!」
その一言が、閉ざされた何かを壊した。
響の喉が震える。息が震える。内側から、抑えていた叫びが駆け上がる。
そして、響は初めて。
「わたしは……ここにいるっ!!」
叫んだ。
それは、震えていた。形になりきらなかった。けれど、確かに言葉だった。
響の声だった。
その瞬間、空間に割れ目が走った。
音を拒む霊災無響子が、共鳴してしまったのだ。響という巫女の叫びに。
空が、揺れた。
霊環の中心から、円を描くように鼓動が広がっていく。それは、音ではなく、感情の震えだった。
◇ ◇ ◇
八雲の視界が、熱で焼かれるように歪む。
響の身体が、淡い音符のような光を放っていた。
光ではない。あれは、音が視覚化されたもの。
「……君の、神技……」
響が一歩踏み出す。
脚の震えは止まっていなかった。けれど、もう逃げてはいなかった。
「鼓流神唱こりゅうしんしょう……」
囁くように言ったその名が、周囲の空気すら変えた。
空間が、音の奔流に包まれた。
霊災の核が、震え始める。音を拒む存在が、音を欲する苦しみに反転していく。
ぐぉおおおおお……。
共鳴。
霊災無響子が、響の叫びによって反響飽和を起こし、内部から霊核を崩壊させていく。
八雲の瞳に、それが美しいとさえ映った。
「やったな、響」
彼がそう呟いたとき、響は振り返り、声を震わせながら。
「……わたし、声になれた……?」
「……ああ。君の声は、ちゃんと……わたしの名前を呼んでいた」
響の目に、涙が滲んだ。
それは、音では表現できなかった感情だった。
◇ ◇ ◇
霊災を鎮めた夜。
響は、八雲の宿舎にひとりでやって来た。
足音はほとんどしない。けれど、部屋の前に立ったとき、その声は、はっきりと届いた。
「……やくもさん?」
いつもと違う。
いつものか細く透ける声ではなく、やや舌足らずで、語尾が妙に甘く揺れる。
「声、出るようになったからって、そんな喋り方するか?」
八雲が障子を開けると、そこにいた響は、どこかいたずらっぽく笑っていた。
「んふ。……どう? 新しい響ちゃん、可愛いでしょ?」
艶っぽくも舌ったらずなその声は、明らかにわざとだった。
「ほら、今日あんなに頑張った巫女さんには、ごほうびがあっても……いーんじゃない?」
「……響、おまえな……」
「ん? おまえってなぁに? そんな乱暴な言葉づかいしちゃってぇ……女の子泣かせたいのぉ?」
「お前が泣きに来たんだろうが」
「……うん。泣かせて?」
声が、急に静かになる。
「自分から来たんだよ。八雲さんに、抱かれに」
もう逃げない。
もう黙らない。
響は、はだけた衣をゆっくりと脱ぎ、素肌のまま、八雲の布団へと沈んでいく。
「やって……八雲さんの、音……ぜんぶ、聞きたいの……」
八雲は、目を伏せながらも心の中で問う。
……本当に響なのか、これが。
だが、ふと思い至る。
……こいつは今、初めて自分から求めてるんだ。
だったら、それに応えるべきだ。
◇ ◇ ◇
やがて、ふたりは静かに結ばれた。
響は、初めて自分から八雲を求めた。
その夜、彼女の声は震え、喘ぎ、そして最後には。
「八雲さんっ、八雲さんっ。すきっ。だいすきぃぃぃっっ」
絶頂の波が、喉を震わせて噴き出す。
啼き声でも喘ぎ声でもない。告白だった。
八雲が彼女を抱きしめると、響は、濡れた目元のまま微笑む。
「ねぇ……八雲さん。これからも、わたしにいっぱい喋らせてね?」
その夜、沈黙の巫女は、愛されることの音を、初めて自らの声で歌った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
空気は柔らかく、朝露の気配に満ちていた。
仮設社の中庭。霊符を干す場の隅で、響が縁に腰掛けていた。
「…………」
いつものように、静かに湯を啜る。いつものように、無表情に、戻っていた。
けれど、そこに現れたレンが、湯呑を覗き込むようにして、思わず声をあげる。
「ちょっと響ちゃんっ! それ、ずるいよ!」
「……なにが?」
レンの声量と、響の声量差が激しすぎて一瞬空気が揺れる。
「昨日の夜あんな……あんな可愛い声出してたのに、今になっていつもの響ちゃんに戻ってるなんて」
「……別に、戻ったわけじゃないよ」
「じゃあなに? キャラ使い分けてるってこと?」
響は一拍置いて、湯呑を傾けながら、ぽつりと呟いた。
「……甘えたいときは、ちゃんと声出せるってだけ」
「っっっずるいっ!!」
思わず身を乗り出すレン。
そこに、寝ぼけ眼で現れた玲が横から茶を啜る。
「……まあ、今まで喋ることも許されなかったんだから、反動あるよなぁ……音で全部伝えてた子が、声出せるようになったら、そりゃな」
「……玲さんだって! ギャップ萌え全開でアタックしてたの、知ってるんだからね!」
「はっ!? あ!? ちょ、お前、それは……それは!」
玲が茶を吹く。
「やらせる女から抱かれる女になって、初めて守ってもらえて泣いた夜って、ねっ?」
「や、やめろぉぉぉぉっっっ!!!!!」
玲が顔を真っ赤にしながら暴れ、それを見ていた響が、そっとレンの袖を引く。
「……ありがと、レンちゃん。ああやって笑って話せる場所で、わたし、初めて声出したから」
レンは、微笑む。
「うん。おかえり、響ちゃん」
そのやりとりを、いつものようにやや離れた位置で見守っていた綾音が、扇子で口元を隠しながら、溜息混じりにぼやいた。
「……まったく、結ばれるたびに女の顔が変わるとは……神環の影響、恐るべしですわね」
風が吹く。
笑い声が混ざった。
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