115の天秤 第二章 見えない証拠
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あらすじ
2024年、警視庁創設150周年。工事現場から発見された懐中時計が、鑑識官・小菅令也を明治7年へと導く。初代大警視・川路利良と共に挑むのは、百五十年続く巨大陰謀。証拠なき時代、正義の天秤は誰が正すのか。時を超えた本格ミステリー。
本文
第二章 見えない証拠
小菅は遺体の周囲をゆっくりと歩きながら、現場の全体像を頭の中に刻み込んでいた。
警視庁の煉瓦造りの建物を背にして、佐竹の遺体は仰向けに倒れている。胸の刺し傷から流れ出た血が、冬の陽光を浴びて黒ずんでいた。
血痕の飛散パターンは、攻撃が一度だけ——しかも極めて正確に心臓を貫いたことを示している。
「川路さん、佐竹さんが発見されたのは何時ごろですか?」
「明け方だ。夜明けとともに出勤してきた役人が見つけた」
川路が腕を組んで答えた。
その傍らには、先ほど小菅を連行してきた若い役人・松岡が控えている。
「では、犯行は夜間に行われた可能性が高い」
小菅は遺体の手を見た。防御創はない。抵抗した形跡もない。
「佐竹さんは、犯人と面識があったのではないでしょうか」
「どういうことだ?」
「抵抗の痕跡がありません。突然襲われたのであれば、本能的に手で防ごうとするはずです。しかし、佐竹さんの手には傷一つない」
小菅は立ち上がり、遺体の位置を確認した。
「それに、この位置です。警視庁の正門からすぐの場所で殺されている。つまり、佐竹さんはここで誰かと待ち合わせをしていた。そして、その相手を信頼していた」
川路の目が鋭くなった。
「なるほど……だが、なぜそう言える?」
「もし犯人が見知らぬ者であれば、佐竹さんは警戒したはずです。特に夜間、人気のない場所で。しかし実際には、犯人を至近距離まで近づけている。これは——」
小菅は、血で書かれた「115」の文字を見つめた。
「犯人は、佐竹さんが信頼していた人物。おそらく、同じ警察組織の内部か、あるいは政府の関係者です」
その言葉に、松岡が息を呑んだ。川路は無言のまま、小菅を見つめている。
「小菅、続けろ」
「はい。次に凶器ですが——」
小菅は刺し傷を注意深く観察した。傷口の形状、深さ、角度。
現代であればルーペやライトを使うところだが、今は自分の目だけが頼りだ。
「刃物は短刀か小刀。刃渡りは二十センチ程度でしょう。そして——」
小菅は、遺体の着物の袖口を見た。
わずかに乱れている。
「犯行後、犯人は何かを探していました」
「探していた?」
「ええ。佐竹さんの懐や袖を探った形跡があります。おそらく、何か重要な物を取り去った」
川路は深く頷いた。
「佐竹の懐には、いつも手帳があった。だが、今朝発見された時には、それがなかった」
「手帳……」
小菅の脳裏に、ある推理が閃いた。
「その手帳には、何か重要な情報が書かれていたのではないですか?」
「おそらくな。佐竹は几帳面な男で、あらゆることを記録していた。証言、証拠、そして——」
川路は言葉を切った。周囲に他の役人がいることを気にしたのだろう。
「小菅、少し場所を変えよう。庁舎の中で話がしたい」
***
川路の執務室は、二階の奥にあった。
質素な部屋だが、窓からは東京の街並みが一望できる。壁には、ヨーロッパで撮影されたと思われる古い写真が飾られていた。
「これは……」
「ロンドンとパリだ。私が視察に行った時のものだ」
川路は写真を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「明治維新後、日本は新しい国家を作らねばならなかった。そのためには、ヨーロッパの制度を学ぶ必要があった。私は警察制度を学ぶため、一年間ヨーロッパに滞在した」
「そこで、近代警察の仕組みを……」
「そうだ。警察とは何か。法とは何か。正義とは何か——それを学んだ」
川路は振り返り、小菅を見た。
「だが、日本に帰ってきて気づいたのは、理想と現実の乖離だ」
「乖離……」
「新政府の中には、様々な思惑を持つ者がいる。警察を正義のために使おうとする者もいれば、私利私欲のために利用しようとする者もいる」
川路の声には、深い憂いが滲んでいた。
「佐竹は、そうした不正を嫌った。だからこそ、命を狙われた」
「佐竹さんは、何か不正を掴んでいたのですか?」
川路は少し逡巡したが、やがて頷いた。
「佐竹が最近追っていたのは、土地の不正売買だ。維新後、多くの武士が土地を失い、新政府の高官たちがそれを買い占めた。だが、その中には明らかに不当な取引もあった」
「不当な取引……」
「相場よりも遥かに安く買い叩き、転売して巨額の利益を得る。時には暴力や脅迫を使ってな。佐竹はそうした事例を調査し、手帳に記録していた」
小菅は、現代で自分が向き合っていた事件を思い出した。
権力者による汚職。証拠があっても、政治的圧力で握りつぶされる真実。
「その手帳を、犯人は奪った……」
「そうだ。そして、佐竹を口封じのために殺した」
川路は窓の外を見た。
「だが、問題はそれだけではない。あの血文字——『115』と歪んだ天秤だ。あれは単なる犯人の悪趣味ではない。何か、もっと大きなメッセージが込められている」
「川路さんは、『115』に心当たりはありませんか?」
「……ある」
川路は重い口調で答えた。
「新政府が発足した時、維新の功労者たち百十五名が、ある密約を交わしたという噂がある」
「密約?」
「『相互扶助の盟約』と呼ばれるものだ。互いに利益を分け合い、守り合う——表向きは美しい言葉だが、実際には利権の山分けだ」
川路の拳が、机を叩いた。
「私はこの盟約の存在を信じていなかった。だが、もし本当に存在するのなら——」
「佐竹さんの死は、その盟約を守るための殺人……」
「そうだ。そして、歪んだ天秤は、『正義を語る警察もまた、我々の手の内にある』という意味かもしれん」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
小菅は、現代で見た懐中時計を思い出した。百五十年後にも、同じ記号が残されていた。ということは——。
「この陰謀は、百五十年後まで続いているのかもしれない……」
小菅は思わず呟いた。川路が怪訝な顔をする。
「百五十年後? お前、何を言っている」
「あ、いえ……その」
小菅は慌てて言葉を濁した。未来の話は、まだできない。
「とにかく、この事件は単純な個人的恨みではない、ということですね」
「そうだ。だからこそ、慎重に捜査せねばならん。敵は強大で、手段を選ばない」
その時、ノックの音が響いた。
「川路様、失礼します」
入ってきたのは松岡だった。その後ろには、見慣れない中年の男が立っている。立派な髭を蓄え、高価そうな着物を着た、いかにも高官然とした風貌だ。
「これは、井口様」
川路が立ち上がった。その表情が、わずかに硬くなったのを小菅は見逃さなかった。
「川路殿、お久しぶりです」
井口と呼ばれた男は、丁寧に頭を下げた。しかし、その目は冷たく、値踏みするような光を宿している。
「佐竹の件、誠に残念でしたな。警視庁創設の初日に、このような不祥事が起きるとは」
「不祥事……とは、どういう意味です」
川路の声が低くなった。井口は薄く笑った。
「いやいや、言葉の綾ですよ。ただ、佐竹殿は最近、少々行き過ぎた調査をしていたと聞いております。それが災いしたのではないかと」
「行き過ぎた調査?」
「ええ。土地取引に関する調査でしたか。しかし、維新の混乱期、多少の行き違いは致し方ないこと。それを蒸し返すのは、新政府の安定を阻害するのではないかと、内務省でも懸念しておりました」
内務省——つまり、井口は政府の高官だ。
「井口様は、佐竹の調査を止めさせたかったのですか?」
小菅が口を挟んだ。井口は初めて小菅の存在に気づいたように、じろりと見た。
「君は?」
「小菅令也と申します。鑑識を——」
「ああ、川路殿の新しい部下か。若いな」
井口は興味なさそうに視線を外した。
「ともかく、川路殿。この事件は早急に解決していただきたい。犯人は恐らく、佐竹殿に個人的な恨みを持つ者でしょう。そのように処理していただければ、政府としても助かります」
「個人的な恨み……ですか」
川路の声には、明らかな憤りが含まれていた。
「証拠もなく、そのように決めつけるのは早計では?」
「いやいや、決めつけているわけではありません。ただ、政治的な混乱は避けたいということです。新政府はまだ不安定。警察への信頼を損ねるような事態は、避けねばならない」
井口は、にこやかに笑った。しかし、その笑みには威圧感があった。
「では、失礼します。良い報告を期待しておりますよ」
井口が去った後、部屋には重苦しい空気が残った。
「あの人は……」
「井口馨。内務省の高官だ」
川路は吐き捨てるように言った。
「維新の功労者の一人でもある。だが——」
「だが?」
「佐竹が調査していた不正取引に、井口の名前があった」
小菅の背筋が、ぞくりとした。
「まさか……」
「証拠はない。だが、佐竹は井口を疑っていた。そして今、井口は早期解決を迫っている。これは——」
「証拠隠滅の時間稼ぎ……」
川路は頷いた。
「そして、もし井口が『115の盟約』のメンバーだとしたら——」
二人の視線が、交わった。
この事件は、想像以上に深い闇に繋がっている。
***
夕暮れ時。小菅は再び現場に戻っていた。
遺体は既に運び去られ、血痕だけが地面に残っている。
周囲には誰もいない。小菅は一人、現場をもう一度検証していた。
「道具がないのは、やはり厳しいな……」
小菅は呟いた。
現代なら、ルミノール反応で血痕を可視化し、顕微鏡で繊維片を調べ、指紋を採取できる。だが、ここにはそれらが何もない。
あるのは、自分の目と、知識と、論理的思考だけ。
小菅は目を閉じ、犯行の状況を頭の中で再構築した。
夜。佐竹はここで誰かと会う約束をしていた。その相手は、佐竹が信頼する人物——おそらく同僚か、あるいは情報提供者。
二人は話をしていた。そして、至近距離で——。
小菅の目が、地面の一点に止まった。
血痕のすぐ近く。土の上に、わずかな足跡が残っている。雨が降っていないため、まだ消えていない。
「この足跡……」
小菅は膝をついて、よく観察した。
足跡は二種類ある。一つは草履の跡。もう一つは——。
「革靴……?」
明治初期、革靴はまだ珍しい。一般的な役人は草履を履いている。
革靴を履いているのは、洋式の教育を受けた者か、あるいは——。
「政府の高官……」
小菅は立ち上がった。
井口が履いていたのは革靴だった。だが、それだけで決めつけることはできない。他にも革靴を履いている者はいるだろう。
しかし、状況証拠は揃い始めている。
その時、背後で物音がした。
「誰だ!」
小菅が振り返ると、暗がりから一人の人影が現れた。
若い女性だった。
質素な着物を着ているが、その目には強い意志の光が宿っている。
「あなたは……佐竹の事件を調べている方ですか?」
「ああ、そうだが……あなたは?」
女性は少し躊躇ったが、やがて口を開いた。
「私は、佐竹の妹です。お兄様が……殺される前の晩、私に手紙を残しました」
「手紙?」
女性——佐竹の妹は、懐から一通の封書を取り出した。
「これを、信頼できる人に渡すようにと。もし自分に何かあったら、必ず——」
小菅は手紙を受け取った。封は開けられていない。
「中は見ていないのか?」
「はい。お兄様の遺言ですから……」
小菅は、慎重に封を開けた。
中には、几帳面な文字で書かれた手紙が入っていた。
「これは……」
そこには、こう書かれていた。
『もし私が死んだら、これを警察に届けてほしい。115の盟約は実在する。井口馨、山都有朋、その他百十三名の高官たちが、明治四年に密約を交わした。その証拠は、内務省の地下書庫に隠されている。連判状が——』
文章は、そこで途切れていた。おそらく、急いで書いたのだろう。
「連判状……」
小菅の手が震えた。
これは、決定的な証拠だ。
佐竹は115の盟約の存在を掴んでいた。そして、それを公にしようとして——。
「お願いします」
佐竹の妹が、小菅の手を握った。涙が頬を伝っている。
「お兄様の無念を晴らしてください。お兄様は、ただ正義のために働いていただけなのに……」
小菅は、強く頷いた。
「必ず、真実を明らかにします」
そう誓った瞬間、小菅は決意した。
この事件を解決することは、ただ過去の謎を解くだけではない。
現代に繋がる闇を断ち切ること。そして——。
自分自身が取り戻すべき、正義への信念を証明することだ。
手に握られた懐中時計が、微かに温かくなった気がした。
***
翌朝。小菅は川路に、佐竹の妹から受け取った手紙を見せた。
川路は手紙を読み終えると、険しい表情で小菅を見た。
「これが本当なら、大変なことになる」
「内務省の地下書庫……行けますか?」
「簡単ではない。だが——」
川路は立ち上がった。
「警視庁の初代大警視として、私には捜査の権限がある。それを盾にすれば、入れるかもしれん」
「しかし、相手は内務省の高官たちです。妨害されるのでは?」
「だからこそ、迅速に動かねばならん」
川路の目が、鋭く光った。
「小菅、お前も来い。お前の『科学の目』が必要だ」
小菅は頷いた。
いよいよ、核心に迫る時が来た。
115の盟約——その証拠が、今、明らかになろうとしている。
正義の天秤は、まだ歪んだままだ。
だが、それを正す戦いが、今ここから始まる。
(第二章 了)
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