1・綴れない風景
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
発達障害により言語表現に困難を抱えながらも、「物語を書きたい」という夢を諦められない一人の男性。彼がAIと出会い、初めてコンテストに挑戦するまでを描いた短編小説。「自分の力で書いていないのでは?」という葛藤と、「それでも伝えたい」という衝動の狭間で揺れる主人公の姿は、創作に関わるすべての人、そして「何かが足りない自分」に悩んだことのあるすべての人に問いかける。夢の叶え方は、ひとつじゃない。
本文
僕の頭の中には、いつも物語がある。
金曜日の夜、帰宅ラッシュの電車に揺られながら、僕は向かいの座席に座る女性をぼんやりと眺めていた。三十代前半くらいだろうか。ベージュのトレンチコートを着ている。
彼女は膝の上に小さな紙袋を抱えていた。どこかのケーキ屋のロゴが見える。手土産だろうか。誰かの家に行くのかもしれない。
彼女の瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。泣いているわけではない。ただ、何かを堪えているような、そんな湿り気を帯びた目。視線は窓の外に向けられているけれど、流れていく夜景を見ているようには到底思えなかった。もっと遠くの、ここではないどこかを見ているような――。
僕は勝手に想像する。
彼女は今朝、誰かと喧嘩をしたのかもしれない。恋人か、あるいは家族か。言い過ぎたことを後悔している。だからケーキを買った。仲直りのために。
でも、電車の中で一人になった今、不安が押し寄せてきている。許してもらえるだろうか。また同じことを繰り返してしまうのではないか。
そんなことを考えながら、彼女はぼんやりと窓の外を見ている——。
もちろん、全部僕の妄想だ。実際には、ただ仕事で疲れているだけかもしれない。目が乾燥しているだけかもしれない。ケーキは自分へのご褒美で、これから一人で食べるのかもしれない。
でも、僕の頭の中では、もう物語が動き始めている。
彼女が帰宅する。玄関を開ける。「ただいま」と言う声が少しだけ震えている。リビングには誰かがいて、テレビの音が聞こえている。彼女はケーキの紙袋を持ったまま、その人の背中を見つめて佇む——。
その先は、まだわからない。でも確かに、僕の中で何かが形を成そうとしているのだった。
電車が駅に着いて、女性は降りていった。紙袋を大事そうに抱えたまま、人混みの中に消えていく。僕は彼女の後ろ姿を目で追いながら、頭の中の物語の続きを考えていた。
こういうことが、昔からよくある。
コンビニで小銭を数える老人の、震える指先。スマートフォンを見つめながら、時折ため息をつくサラリーマン。カフェで友人と笑い合っているのに、どこか目が笑っていない女子大生。そういう人たちを見るたびに、僕は勝手に彼らの物語を想像する。
この人は昔、何かを失くしたことがあるのだろう。この人は今、誰かを待っているのだろう。この人は本当は、ここにいたくないのだろう。
人の心の奥にあるものを、僕は勝手に覗き込む。覗き込んで、そこに物語を見出す。それが癖のようになっていた。
職場でもそうだ。
後輩が上司に叱られた後、給湯室でそっとため息をつく横顔。あの子は怒られたことを悔しがっているんじゃない、と僕は思う。怒られた内容が正しいことはわかっている。でも、それをうまく言い返せなかった自分が情けないのだ。もっと違う言い方をすればよかった。なぜあの時、ああ言ってしまったのか。彼女が悔やんでいるのは、ミスそのものではなく、ミスの後の自分の振る舞いなのだ——。
そんなことを考えながら、僕は自分のデスクに戻る。誰にも言わない。言う必要もない。ただ、頭の中で物語が静かに紡がれていく。
物語が、僕の頭の中にはいつもある。
人の心を想像することが、僕は好きだ。誰かの目の奥にある感情を読み取ろうとすることが、たぶん得意だと思う。それを物語にすることができたら、きっと素晴らしいものになる。そう信じている。
ただ——。
それを言葉にすることが、僕にはできなかった。
電車が僕の降りる駅に着いた。ドアが開くと同時に、夜の空気が流れ込んでくる。僕は鞄を持ち直して、ホームに降りた。
今日見た女性の物語は、きっと明日には忘れている。昨日見た誰かの物語も、一昨日見た誰かの物語も、全部僕の頭の中で溶けて消えていった。
形にできないまま、消えていく。
いつも、いつも、そうだった。
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