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第78話 開かれない封筒と、手帳の一行

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/16 📚 シリーズ: 「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録 📝 2,946文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

「隅っこのこと、教えてよ」——クラスの有名人に観察係を任された僕の青春記録 - 第78話 開かれない封筒と、手帳の一行

本文

梅雨入りした六月の放課後は、教室の人口密度が上がる。

 雨の日は部活が早く終わるか、最初から休みになる。

 帰り道が億劫で教室に残る生徒も多くて、あちこちの机に問題集やスマホが広がっている。

 僕は窓際の最後列で、数学の問題集を開いていた。

 机の端に水筒を置いて、ペンケースを手前に出す。いつもの配置。

 隣では桜井が英語の長文読解に向かい合っている。

 シャーペンの先が紙の上を滑るたびに、かすかな音が規則正しく聞こえてくる。

 今日のホームルームで模試の結果が返却された。

 僕の封筒は開封済みで、鞄にしまってある。C判定。可もなく不可もなく。

 桜井の封筒は——机の端に裏返しのまま置かれていて、封すら切られていない。

 気づいてはいる。

 聞かないことにしている。

 雨粒が窓を叩く音と、教室のざわめきが混ざっている。

 問題を二つほど解いたところで、前方から足音が近づいてきた。

 ◇

「安藤、ここの置換積分なんだけどさ」

 大木だった。

 自分の席から問題集を持ってきて、僕の机の前に立っている。

 大木に数学を聞かれるのは、一年の頃から何度もある。

 もはや恒例行事みたいなものだ。

「どこ?」

「ここ、途中で式が変わるとこ」

 問題集を僕の机に載せてきた。

 ただでさえ広くない机が、さらに狭くなる。

 ペンケースが端に押しやられて、水筒が少しだけ奥にずれた。

「ここ、tに置き換えてから分母を整理すると——」

 大木のノートの端にペンを走らせる。

 説明していると集中が問題集に寄っていく。

 自分の勉強は進まないけれど、聞かれた以上は手を抜けない。

「おー、なるほど。サンキュ」

 大木が納得して、問題集を引き上げた。

 入れ替わるように、別の声がかかった。

「安藤くん、俺もいい? 英語の構文なんだけど」

 中村だった。プリントを片手に立っている。

 さっき大木が教わっているのを見て、タイミングを待っていたらしい。

「……まあ、いいけど」

 断るタイミングを逃した。

 中村は僕の前の席の椅子をくるりと反転させて座った。

 英語の構文を説明する。

 主語と動詞の関係を図に描いて、修飾の流れを矢印で繋いでいく。

 ——隣から聞こえていたシャーペンの音が、いつの間にか途切れている。

 気にはなったけれど、中村のプリントに視線を戻した。

「安藤くんの説明、教科書よりよっぽど分かりやすいな」

「それは教科書を読んでないだけでは……」

 ツッコミを入れつつ、もう一問さばく。

 ここまでで、自分の問題集は一ページも進んでいない。

 中村がプリントをまとめながら言った。

「助かった。——なあ安藤くん、明日の昼も少しだけ見てもらっていい?」

 その瞬間だった。

「明日の昼は、わたしと打ち合わせがあるから」

 桜井の声だった。

 テキストに目を落としたまま、姿勢は変わっていない。

 さっき止まっていたはずのシャーペンが、何事もなかったように動いている。

 ただ、声だけが——静かに、けれど隙間なく割り込んできた。

 中村が「え、そうなの?」と僕を見た。

 僕も知らない。

「……そうだっけ?」

 桜井がようやく顔を上げた。

 表情はいつもの穏やかなもの——に見えるけれど、唇の端がわずかに引き結ばれている。

「あるの。さっき決めた」

「さっきって、いつ——」

「今。今決めた」

 言い切った。

 中村が「あ、了解。じゃあまた今度な」と手を上げて、椅子を元の向きに戻して離れた。

 僕の机の上が、急に静かになった。

「……桜井さん、今のはちょっと強引じゃない?」

「強引じゃないよ。文集の打ち合わせはいつやってもいいんだから、明日の昼に入れても問題ないでしょ」

 理屈は通っている。

 通っているけど、明日の昼に打ち合わせを入れる必然性はゼロだ。

「佐伯さんのスケジュール表だと、次の打ち合わせは木曜の放課後だけど」

「それとは別。安藤くんとわたしの、個別の確認事項」

「個別の確認事項って何?」

「明日までに考えておく」

(……議題がまだないのに、打ち合わせだけ先に確定した)

 ツッコむべきなのかもしれないけど、桜井がシャーペンを握り直して長文に戻った横顔が妙に真剣だったので、それ以上は聞けなかった。

 ◇

「すみれ、さっきの何?」

 西村が、にやにやしながらこちらへ歩いてきた。

 さっきのやりとりをしっかり見ていたらしい。

「何って、文集の予定調整だけど」

「予定調整ね〜」

 西村の声には、明らかに「信じてません」が乗っている。

 ふと気配がして視線を動かすと、佐伯も鞄を肩にかけてこちらへ来るところだった。

 牛乳パックのストローを咥えたまま、口を開く。

「それ、時間の問題じゃなくて——」

「サエ、ストップ」

 西村が人差し指を立てて制した。佐伯の口がぴたりと止まる。

「本人の前でネタバレしちゃダメでしょ」

「……保留」

 佐伯は不服そうにストローを咥え直した。

 桜井は首を傾げている。僕もよく分からなかったから、たぶん同じ顔をしていたと思う。

 ◇

 五時を回ると、教室に残る生徒はまばらになった。

 西村が「うち先帰るね〜」と鞄を肩にかけて手を振り、佐伯も「お先に」とノートを閉じて出て行った。

 窓際の最後列には、僕と桜井だけが残っている。

 雨はまだ降っていた。

 蛍光灯の白い光が机の上だけを切り取っていて、窓の外は薄暗い。

 桜井の模試の封筒は、同じ場所に置かれたまま、まだ開かれていなかった。

 いつもの桜井なら、結果はすぐに確認するタイプだ。

 推薦入試に向けて成績を管理しているなら、なおさら後回しにする理由がない。

 僕は聞かなかった。

 代わりに、ペンケースから付箋を一枚抜いた。

 何を書くか、少しだけ迷う。

 「大丈夫」は無責任だ。根拠がない。

 「頑張れ」は、今の桜井にはたぶん重い。

 点数の話はもっと違う。

 結局、一行だけ書いた。

 『充電日。明日また拾えばいい』

 封筒の横に、そっと貼った。

 桜井の手が止まった。

 テキストから目が外れて、付箋に落ちる。

 文字をなぞるように読んでいるのが分かった。

 三秒。五秒。

 桜井は付箋を丁寧に剥がして、手帳の内側に貼り直した。

 粘着面を傷めないように、指先でそっと押さえている。

「……安藤くんってさ」

「ん?」

「たまに、ずるいよね」

 声が小さかった。

 さっき「今決めた」と言い切ったのと同じ人の声とは思えないくらい、小さかった。

「……隣にいたら気づくだけだよ」

「……それがずるいんだって」

 桜井が僕を見た。

 目尻が少しだけ下がっていて、口元はかすかに笑っている。

 でもその笑い方は、教室の真ん中で見せるものとは違っていた。

 手帳を閉じて、鞄にしまう。

 模試の封筒も、そのまま鞄に入れた。まだ開けていない。

 でも、手帳と同じ場所にしまったということは——たぶん、明日には開けるつもりなのだと思う。

「ねえ、安藤くん」

 桜井が鞄のファスナーを閉めながら言った。

「わたし、ちょっと寄るところがあるから先に出るね。

 ——明日の昼、よろしくね? 打ち合わせだから」

「……議題、考えてくるんだよね?」

「考えてくる。……たぶん」

 その「たぶん」に力がなくて、少しだけ笑えた。

「明日も雨っぽいよ」

「うん。知ってる」

 桜井は傘を取り出して、小さく笑った。

「じゃあね、安藤くん。また明日」

 足音が遠ざかって、教室のドアが閉まった。

 窓際の最後列に、僕だけが残った。

 机の上にはシャーペンと問題集と、一枚減った付箋の束。

 あの一行は、もう桜井のものになった。

 僕の頭の中で、明日の昼が埋まった。

 窓の外では、雨が降り続けていた。

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もりぞー

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