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噛み合わない会話

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/4/19 📚 シリーズ: にくゑ-本編 📝 3,334文字 ✅ 全年齢

あらすじ

にくゑ - 噛み合わない会話

本文

夜更けの診療所は、静けさの裏に鉄と焦げの匂いをまだ抱えていた。

 処置室の惨状を片づけた後も、床や壁には黒い痕が残り、鼻腔には焼けた肉の甘ったるさが残響している。

 吉川は左腕に包帯を巻き直しながら、カルテ棚を漁っていた。火傷はじくじくと熱を放ち、衣服に貼りつくたび痛みを呼び覚ます。

 それでも視線は外せない。

 紙は嘘をつかない。

 ――森谷健太。

 ――林田美穂。

 二人のカルテは確かにここにある。

 日付、症状、処方、診察の記録。どれも自分が記したものだ。

 背後で小さな足音がした。

 振り返ると、包帯を巻いた腕を押さえた千鶴が立っていた。顔色は青ざめているのに、笑みだけを作っている。手には盆があり、湯気の立つ茶碗が揺れていた。

「先生……少しでも温かいものを」

 声は震えていた。

 吉川は椅子を引き、受け取った茶を机に置いた。

「千鶴さん。……今日のことを、覚えていますか?」

「……今日?」

 彼女の目が揺れた。

 吉川はカルテを指で叩く。

「今日起こった、不可思議な出来事です。あの遺体が元はこの村の住人だったことを覚えていますか?」

 千鶴の唇がかすかに震えた。

 一瞬だけ「知っている」という色が瞳に浮かんだ。だが次の瞬間には消え、柔らかな笑顔に覆われる。

「……誰でしょう、それに不可思議なことって?」

「――ッ!」

「あら、いつの間にこんな怪我……先生も腕を? どうなさいましたの?」

 その怪我は! 私たちが目撃したあの怪異は! と喉元までこみ上げてきた言葉を、吉川は飲み込む。

 千鶴の言葉は穏やかだった。だが声の奥には怯えが潜んでいる。彼女自身、何かを忘れさせられているのを感じ取っているのかも知れない。

「千鶴さん……」

 吉川は呼びかけながら、白衣の襟元を緩める。

 ――記憶が修正されている。

 逆に何故私は、覚えているのだろう? 彼女と私の何が違う?

 能面のように無表情になりながら、吉川の脳が全力で回転している。摂取している食物? あるいは環境的な何か? 未知の化合物。いや、それは違う。そんなものまで可能性に入れていたらもう絞りきることは出来ない。彼女と私の差異。性別? 年齢? それとも――。

 ――程なく答えが出た。直感でしかないが、可能性の高い答えが。

 時間、だ。この村に来てからの時間。

 私よりずっと彼女の方がこの村に居住している時間がずっと長い。この村に長く居ることによって、何かに汚染されているのかも知れない。それが記憶を曖昧にしている?

 だが、明らかに選択的に記憶を操作している。誰が? 何のために? そもそもそんなことが可能なのか?

 この村は彼女の記憶さえも削ってゆく。夫を失った彼女が、今度は子供たちの存在すら思い出せなくなる。

 左腕の火傷が疼く。千鶴の噛まれた腕からも血がにじみ、包帯を赤く染めていた。

 その姿を見た瞬間、吉川は腹の底に冷たい決意を覚えた。

 ――記録は残る。

 ならば、探るべきは記録――だ。

 そして残すベきも、また。

 吉川は、包帯を解く。腕の内側は、高熱の炎の輻射熱により、酷い有様になっていた。

「先生、何を?」

「すみません、黙って見ていて貰えますか?」

 いいながら吉川は、メスを取り出し刃先をバーナーで炙る。瞬間的に赤熱した刃を、負傷していない腕の外側に突き立てた! 刃先が皮膚を擦ると、湿った肉が焼ける匂いが鼻腔を襲った。ジュッという低い音とともに、切れ目の縁が黒く炭化していく。

「く……うぅ……」

「先生っ! 何をッ!?」

 千鶴の声に構わず、そのまま刃を動かす。熱を持つうちに終わらせなければ――。

「――っ、はぁ、はぁ、はぁ」

 作業を終えた吉川は、力尽きたようにメスを放り出す。

 千鶴が慌てて、その腕に治療を施し始めた。

「先生、どうしてこんなことを?」

「――いえ、保険です。気にならさずに」

「もう、わけがわかりませんっ!」

 千鶴が巻く包帯の感触を感じながら、吉川は自分はもうおかしくなっているのかも知れない、と少し笑う。

 だが狂気にも似たこの感情がなければ、もうとても立ち上がることは出来ない。

 カルテの文字を何度もなぞっても、頭の中は霧のようにぼやけていた。記録は残っている。だが村人の記憶からは消されている。

 診療所の玄関先は、昼の熱を失った夜気に包まれていた。

 月明かりが庭石を白く照らし、蝉の声の残響が遠くで消えていく。

 不意に外出すると言い出した吉川を、千鶴は訝しげな表情を浮かべながら玄関まで見送っている。

 火傷の疼きと、千鶴の傷から滲む血の匂いが、二人の間に生々しい沈黙を漂わせていた。

「……先生、もうやめましょう」

 千鶴が震える声で言った。

「……なんだか怖いんです……何があっても目をつむってさえいれば……」

 吉川は眼鏡の奥で視線を細め、低く答えた。

「私も怖いです。しかし、思い出せなくなるのはもっと怖い。林田美穗さん、森谷健太くん。どちらも大切な私の患者でした」

 その名を口にした瞬間、千鶴の顔がひきつった。

 記憶の霧に抗うように眉を寄せ、だが次の瞬間には怯えを隠す笑みを浮かべる。

「わからない……わからないんです、私……」

 言葉が嗚咽に溶けた。

 吉川は深く息を吸い、意識して声を落とした。

「だからこそ調べるんです。カルテには記録が残っている。だが村人たちの記憶は消される。――ならば村の公式記録、歴史そのものに答えがあるはずです」

「公式……記録?」

「役場です。戸籍、古文書、この村がどんな掟を抱えてきたのか……。医者が病の原因を探すのと同じです。表に現れる症状だけでは、治すことはできない」

 千鶴は目を見開き、首を振った。

「そんなことをしたら……それって犯罪じゃ……」

 声が震え、言葉が途切れる。

 吉川はその震えを真正面から受け止めながらも、包帯越しの火傷の痛みに顔を歪めた。

「……それでも、行かねばならない」

 千鶴は裾を掴み、必死に縋った。

 女の匂いが夜気の中で鮮烈に広がる。血と汗と涙が混じり合い、吉川の理性を試すように。

「先生……置いていかないで……ください」

 紙が真実を証明する――そう確信しかけた時、背後から震える声がした。

「……先生」

 振り返ると、千鶴がそのまま立っていた。包帯を巻いた腕は赤黒く滲み、髪は乱れて頬に貼りついている。

 蒼白な顔に、無理に貼りつけた笑み。けれどその瞳の奥は揺れていた。

「私……怖い……怖いんですっ!」

 唇がかすかに震える。

「何か恐ろしいことが起こって……でもそれが思い出せないッ!!」

 吉川の胸に冷たいものが落ちた。彼女もまた、記憶を削がれている。

「私……怖いんです……」

 千鶴はうつむき、声を絞り出すように続けた。

「……今晩は……一人でいたくない、です」

 その言葉を口にした瞬間、彼女の肩が震えた。

 夫を待ち続けて既に一年以上。だが、今晩は吉川と共にいたい――その罪悪感が、声を詰まらせているようだった。

 次の瞬間、千鶴は吉川に縋りついた。

 額を胸に押しつけ、両腕で抱きついて震える。

「……先生! どうか危ないことはなさらずに、今晩は私と一緒に……一緒にいてくださいっ!」

 熱を帯びた体温が火傷の腕に重なり、鋭い痛みと共に、生々しい温もりが伝わる。

 髪から漂うのは女の匂いだった。石鹸の香りに混じって、血と汗と涙が溶け合う匂い。

 それは処置室に漂った死と焦げの臭気とは違う、あまりにも生身の人間の匂いだった。

 吉川の胸の奥で警鐘が鳴った。人妻に抱きつかれ、恋情と罪悪感が入り交じるこの瞬間は危うい。

 それでも、目の前の彼女は追い詰められ、必死に拠り所を求めている。

「……大丈夫です」

 吉川は低い声で答え、彼女の背に手を回した。

「私がいます。その怖いことをなくすために、私は行くのですから」

 慰めの言葉を口にしながら、自らの胸に誓う。

 彼女を、子供たちを、この村から奪わせはしない。

 記憶が消されても、記録は残る。

 その信念が、罪を犯してでも真実を追わせる力へと変わっていった。

「先生……」

 千鶴が瞼を閉じ、顔を上げる。それは吉川の行動を待つ顔だった。それをしてしまえば、もう戻れなくなる行動を。

 一瞬、胸の奥が揺らいだ。

 だが吉川は千鶴からその手をそっと外し、代わりに包帯の上から指を重ねた。

「大丈夫です。戻ってきます。だから、待っていてください」

 瞼を開いた千鶴の瞳に涙が溜まり、やがて頷きに変わった。

 吉川は裾を解かれたまま振り返らず、闇へと足を踏み出した。

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作者について

カクナ・ノゾム

カクナ・ノゾム

カクナノゾムと申します。 趣味の小説を細々と書いてます。 面白いことは間違いないので是非是非ご一読くださいませ。

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