静止した世界線
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あらすじ
「あきらめるのはまだ早い。……なんてな、古いギャグでも飛ばして笑い飛ばそうぜ!」
本文
次元の狭間に、鈍い打撃音が響く。
野山リトは、己の肉体を極限まで追い込んでいた。逆立ちしたまま指先だけで自重を支え、血管を浮き上がらせる。
「……ふぅ。よし、仕上がった」
165cmの体躯。しかし、その密度は常人のそれではない。いじめ抜かれ、鍛え上げられた大胸筋は、あらゆる悲劇を跳ね返すための盾だ。
彼は、これから向かう先の「悲劇」を知っている。零羅の絶望も、崚の沈黙も。
「一度行けば、死ぬまで戻れない片道切符。……冷やし中華、始めました……なんてな」
誰もいない空間で、リトはボソリと呟いた。
震えるような孤独。それを誤魔化すように、彼は次元の裂け目へと、弾丸のようにその身を投げ出した。
通路は、磨き上げられた鏡のように冷たい。
そこを、二つの影が通り過ぎていく。
澪は前だけを見つめ、朔はその一歩後ろを、機械のような正確さで追随していた。
二人の間に会話はない。視線の交差もない。
ただ、システムが「監視者」と「被検体」という役割を与えたから、そこにいる。それだけの関係。
その「完成された静止」の中に、一人の男が踏み込んだ。
リトは、二人の影が重なる場所へ、迷いなく歩み寄る。
「……いたいた。やっと見つけたぜ、お前ら」
リトの放った「声」は、その場にいた誰のタスクにも含まれていない異物だった。
瞬時に、朔の体が反応する。
感情の動揺ではない。あらかじめプログラミングされた、外敵への対処。
朔は腰から電磁警棒(スタンバトン)を引き抜くと、抑揚の一切ない、平坦な声で告げた。
「識別番号、不明。データベースに照合記録なし。……個体、感情値が規定値を大幅に超過」
バチバチと青白い火花を散らす棒を、リトの喉元へ突きつける。
朔の瞳には、目の前の男が人間であるという認識さえない。ただの「排除すべきエラー」としてリトを捉えている。
「現在時刻をもって、当該個体の強制排除プロセスを開始する」
「……相変わらず、可愛げのない挨拶だな、朔」
リトは、突きつけられた電流の唸りにも眉ひとつ動かさない。
ただ、朔の背後で、人形のように立ち尽くしている澪を真っ直ぐに見つめた。
「澪、お前もだ。そんな死んだ魚みたいな目、イケメンが台無しだぜ。……今のボケ、スルーか? まあ、今のお前らに言っても無駄だよな」
リトに向けられた電磁警棒。火花が散る音が、無音の世界でやけに大きく響く。
普段のリトなら「おっと、感電して腹筋が割れちまう!」なんて軽口のひとつも叩くところだが、今の彼は違う。
リトは、一切の抵抗を見せなかった。
ゆっくりと、相手を刺激しない速度で両手を上げる。
(……笑えないな。こいつは、思ってた以上に根が深い)
目の前の朔。かつて「俺」と名乗り、感情豊かに笑い、あるいは悔やんでいたはずの魂。それが今、システムの一部として、一寸の狂いもなく自分を「排除対象」として計測している。
そして、その背後で表情一つ変えず、こちらを「物体」として眺める澪。
リトは、あえて挑発を捨てた。
口を閉じ、余計な動きを止め、ただ静かに二人の視線を受け止める。
筋肉をいじめるのが趣味な男の鋭い観察眼が、二人の首筋――埋め込まれたチップの微かな明滅を捉えた。
「……了解した。好きにしろ。抵抗はしない」
リトの声は、驚くほど低く、平熱だった。
感情値が「バグ」として処理されるこの世界で、彼は自分の熱量をギリギリまで抑え込み、擬態する。
朔の無機質な声が続く。
「対象、無力化を確認。個体番号不明につき、中央管理施設へ移送……。M-30(澪)、追随せよ」
「……了解」
澪の短い返事。そこには、かつての彼が持っていた繊細な響きなど微塵もない。
二人の間に割って入るのではなく、あえて「管理される側」として潜り込む。
(まずは、この世界の『ルール』をじっくり拝ませてもらうぜ。……お前らのそのチップ、中からぶち壊すタイミングを見定めるまでな)
リトは、朔に促されるまま、音のない白い廊下を歩き出す。
背後を守る朔の冷徹な歩法。前を行く澪の、感情を奪われた背中。
イケメンの顔を少しだけ歪ませ、リトは心の中でだけ呟いた。
「待ってろよ。……次は、腹の底から笑わせてやるからな」
朔に促され、白く長い回廊を無言で歩くリト。
前を行く澪の後ろ姿は、まるで行進する人形のように正確で、血が通っているようには見えない。
(……ったく、どいつもこいつも、ツルツルの機械みたいになりやがって)
リトは、すぐ隣で自分を監視する朔の様子を、横目で観察した。
首のチップが青白く光り、彼の「思考」を常にAIへと同期している。普通の人間なら、この冷気に当てられて絶望するだろう。だが、次元を渡り、確かな「肉体」を持ってここに立つリトは違った。
歩調を合わせるフリをして、リトはわずかに朔の方へ重心を傾ける。
そして、監視カメラの死角に入った一瞬。
「……(〃´o`)フゥ…」
と朔の耳の後ろに息をふきかける。
朔の歩みが、コンマ数秒、乱れた。
感情のないはずの瞳が大きく見開かれ、電磁警棒を握る指先が激しく震える。
『警告。個体番号S-75、心拍数の急上昇を確認。神経伝達物質の異常分泌。バグの可能性があります』
首の後ろのチップが猛烈な警告を告げる中、脳裏に強制的に映し出されたのは、今のリトの姿ではない。
――それは、かつて自分が『崚』だった頃の、断片的な記憶。
「あーあ、そんな顔してっから、筋肉つかないんだぞー?」
「ほらほら、悔しかったらここまで来いよ! べーっだ!」
記憶の中の少年が、最大級にムカつく変顔をしながら自分を煽っている。鼻の下を伸ばし、指でまぶたを下げ、幼く、けれど最高に楽しそうに自分をからかってくる、あの顔。
(なんだ……今の、データ……。俺は、誰に、あんな顔で……)
その『記憶の中の煽り顔』が、今、目の前に立っている「野山リト」の顔と一瞬だけ重なった。
リト自身はまだ何もしていない。ただそこに立ち、静かにこちらを見ているだけだというのに。
「……あ……が……あ……っ!!」
朔は脳を焼かれるような錯覚に陥り、頭を抱えて膝をついた。
AIが「バグ」として処理しようとするが、あまりにも鮮明で、あまりにも『ムカつく』その記憶の熱量は、冷徹なプログラムでは消し去ることができない。
「……個体番号、S-75。心拍数、異常……っ。……お前、は……何だ……。なぜ、俺の……脳内に……」
朔の平坦だった声に、激しい「混乱」という名の感情が混じる。
リトは、崩れ落ちた朔を冷めた目で見下ろし、心の中でだけ呟いた。
(……やっぱそうか。お前の魂、まだちゃんと『崚』のままだな。……たった一吹きで、あの頃の煽り合いを思い出しちまうなんてよ)
リトはまだ、何も「実体」としての行動を起こしていない。
ただ、その存在そのものが、この静止した世界にとっての毒であり、薬だった。
その様子を、澪(M-30)がただ無表情に見つめている。
相棒の異常事態を「報告」すべきタスクすら忘れ、その瞳はわずかに、震えていた。
朔は、壁を伝いながらどうにか立ち上がった。
首の後ろのチップは、まだ警告の熱を帯びている。脳内に焼き付いた「変顔」の残像を、強引に未分類のゴミデータとして隔離しようとしているが、一度熱を持った思考回路は簡単には冷却されない。
「……個体、番号不明。歩行を、再開しろ。……最深部、管理ユニットへ……急げ」
声はかすれ、呼吸は浅い。それでも朔は、プログラムされた「執行官」としての役割を必死に繋ぎ止めていた。
リトは何も言わず、ただ促されるままに歩き出した。
周囲の景色は、より一層白く、無機質に、そして「静止」の色を深めていく。すれ違う人々はもはや人間というより、あらかじめ決められた軌道を滑るだけの部品のようだ。
(……救いようがねえな、ここは。感情をバグとして切り捨てて、残ったのはただの『効率』か)
リトは周囲の監視ドローンの数、壁の厚さ、そして通路の構造を、静かに、けれど完璧に脳内の地図に叩き込んでいく。筋肉をいじめるために鍛え上げた高い集中力が、今は冷徹な脱出経路の計算へと注がれていた。
その時、前を歩く澪が、ふと足を止めた。
「……どうした、M-30(澪)」
朔が問いかけるが、澪は振り返らない。
澪の視線の先には、最深部への入り口――厚い強化合金の扉があった。そこには『聖域:感情排除区域』と刻まれている。
澪は、その扉を見つめたまま、一瞬だけ自分の左胸に手を置いた。
(……あいつも、何かを感じてやがるな)
リトはそれを見逃さなかった。
朔が過去の記憶という「外側」からのノイズに揺さぶられているのに対し、澪は、もっと深い、魂の「内側」にある欠落に気づき始めている。
「……何でも、ない。扉の認証、完了」
澪の返答は機械的だったが、胸元を握る指先には、かすかな力がこもっていた。
プシュッ、と重苦しい音を立てて扉が開く。そこから流れ出してきたのは、今まで以上に冷たく、酸素の薄い、死んだような空気だった。
「さあ、案内してくれよ。……お前らの『神様』が、どんな面してふんぞり返ってるのか、拝ませてもらうぜ」
リトは、追い立てる朔を無視するように、自らその深淵へと足を踏み入れた。
大人しくしているのは、ここまでだ。
扉の向こう側――世界の心臓部で、リトは自分の中に押し込めていた「熱量」を解放するタイミングを、虎視眈々と狙っていた。
最深部。巨大なメインコンピューターが心臓のように脈動し、青白い光が部屋を満たしている。
重苦しい静寂を切り裂いたのは、一人の男の、呆れるほど呑気な声だった。
「――あーーーっ! やっと自由だなぁ、おい!」
リトは両手を高く上げ、バキバキと音を鳴らして背伸びをした。
さっきまでの、静かに「管理」されていた囚人の面影はどこにもない。
「……ッ!? 対象、突発的な行動を確認! 個体番号……」
朔が慌てて電磁警棒を構えるが、それよりも速かった。
リトは、弾かれたように床を蹴った。
「悪いな、俺はじっとしてるのが世界で一番苦手なんだわ! お前のそのデカい脳みそ、ちょっと俺の筋肉でマッサージしてやるよ!」
狙いは正面のメインコンピューター。
だが、この世界の「秩序」も黙ってはいない。
『緊急事態。最高レベルの脅威を検知。即時排除(デリート)を開始せよ』
無機質なアラートが鳴り響くと同時に、天井から防衛ロボットたちが蜘蛛のように降下し、リトの進路を塞ぐ。
さらに、システムの命令に直結している澪と朔の体が、意志を介さず機械的に跳ねた。
「……排除...プロトコル...」
澪が鋭い踏み込みでリトの懐に潜り込み、手にした高周波ブレードを振るう。
同時に、朔が横から電磁警棒でリトの退路を断つ。
「おいおい、そんなに歓迎してくれるなよ! 照れるじゃねえか!」
リトは、迫りくる澪の高周波ブレードを軽々と身を屈めてかわすと、そのまま、まるでダンスでも踊るかのようにステップを踏んだ。
「排除開始します」
天井から降下した防衛ロボットが、その巨体を振り回してリトに襲いかかる。
だが、リトの目は完全にその動きを捉えていた。
「よし、ちょうどいい筋トレだ!」
リトはニヤリと笑い、真正面から突っ込んできたロボットの腕を、鍛え抜かれた上腕二頭筋でガシッと受け止める。そのまま流れるような動きで腕を捻り上げ、ロボットの連結部分を豪快に破壊した。
「ほらよっと! ブルースカイキック!」
背後から迫る別のロボットには、しなやかな下腿三頭筋をバッと蹴り上げ、完璧な回し蹴りを叩き込む。金属の装甲がメキメキと音を立ててへこみ、ロボットはバランスを崩して壁に激突、火花を散らして機能停止した。
リトの動きは、破壊ではなく、むしろ「演舞」のように華麗だった。
「澪、朔! お前ら、そんな冷たい道具じゃなくて、もっと自分の『手』で語り合おうぜ!」
朔がすかさず前から攻撃を開始
「おっと、」
リトは、よろめきながらも冷静を保ち、再び電磁警棒を構え直す朔の動きを見切ると、今度はわざと、彼の視界に飛び込んだ。
「あー、朔! お前、まだそんなマジメな顔してんの? まだ俺に怒ってねーの? ホラホラ、俺がお前のこと、もっと怒らせてやるよ!」
リトは全力で、口を尖らせ、鼻をブタのように膨らませた。
それは、かつて朔(崚)の脳裏に焼き付いた『煽り顔』の、さらに数倍ムカつくリアルタイムの変顔だった。
「やーい、朔の、はなげーうんちー! へーくしょん! ぶーっだ!」
この世界の秩序からすれば、解析不能なまでに低俗で、理解不能なまでに幼稚な、最大級の煽り文句。
朔の首のチップが、再び限界突破の警告を上げる。
「……っ、この、下劣な、識別不能個体……っ!!」
朔の顔に、制御不能なほどの「怒り」の感情が爆発した。
それは、AIのプログラミングには存在しない、生身の人間だけが持つ、純粋な激昂。
電磁警棒が青白い火花を散らし、朔は怒りのままにリトへと襲いかかった。その攻撃には、もはや「排除」の任務ではなく、個人的な「憎悪」が込められている。
隣で、呆然と立ち尽くしていた澪(M-30)の瞳が、その朔の激しい怒りを目の当たりにし、大きく見開かれた。
「やーい、朔の、はなげーうんちー! ぶーっだ!」
その瞬間、最深部に流れる冷徹なシステム音が、一気に遠のいた。
全力で変顔を晒すリトと、顔を真っ赤にして怒りに震える朔。
そのあまりにも「高度な文明とは無縁」な光景を、澪は呆然と見つめていた。
(……うんち……?)
澪の脳内で、AIが必死に単語を検索する。
『排泄物:管理対象外の不潔物』。そんな無機質な定義を、澪の魂が嘲笑うように撥ね退けた。
「う……っ、う、ふふ……っ」
澪の肩が、不自然に揺れ始める。
首のチップが激しく点滅し、『異常:情動値の急上昇』という警告が視界を埋め尽くすが、もう止まらない。
「う、うんち……!? あははっ! さ、S75っが、う、う、ぶふっ!!」
澪は腹を抱え、その場に崩れ落ちた。
感情を殺し、人形のように振る舞ってきた少年の口から溢れ出したのは、管理された言葉ではなく、お腹の底から突き上げてくるような、純粋で、暴力的なまでの「笑い」だった。
「あはははは! なに、それ……っ! ひどい顔……(不明個体)、その顔、ひどすぎるよ……っ!!」
澪は床を叩きながら笑い転げる。
この男が誰なのか、自分たちとどういう関係なのか、そんな難しいことは今の彼にはもう分からない。ただ、自分の目の前で人生最大級に「しょうもないこと」が起きている事実が、AIに調教された彼の脳をハッキングしてしまったのだ。
「う、うんちって……ぶふっ、あははは!」
「M-30(澪)!! 笑うのをやめろ! 貴様、同期プロトコルが完全に死んでいるぞ!!」
朔は顔を真っ赤にし、プルプルと震える手で電磁警棒を握りしめている。
彼だって、この男が誰かなんて思い出せていない。ただ、なぜか分からないが、こいつの言う「うんち」という単語と「変顔」が、他のどんな攻撃よりも自分のプライドをズタズタにし、脳の奥にある「何か」を猛烈にイラつかせるのだ。
「お前……ぶっ殺してやる! 識別番号もクソもあるか、俺が今ここで、そのムカつく顔を物理的に消去してやる……っ!!」
「お、いいぜ! 来いよ鼻毛うんち君! ダンスの続きと行こうじゃないの!」
リトは華麗なステップで朔の突進をかわしつつ、心の中でニヤリと笑う。
(よしよし。思い出してなくても関係ねえ。まずはそのガチガチの『仮面』が剥がれりゃ、それで十分だ)
リトにとっては、彼らが自分を「母さんの知人」や「親友」だと認識していなくても構わなかった。
今、この無機質な最深部で、一人が涙を流して笑い、一人が顔を真っ赤にして怒鳴っている。
その「生きた熱量」こそが、この世界を管理するAIにとって最大の毒素。
「さあて、観客も盛り上がってきたことだし……」
リトは笑い転げる澪と、怒りで視界が狭くなっている朔を横目に、ついにメインコンピューターの基幹ユニットへ手をかけた。
「……そろそろ、このクソ真面目な『静止』を、強制終了(シャットダウン)してやるよ」
「あぁぁぁぁっ!! 黙れ、消えろ、このバグ野郎がぁぁぁ!!」
朔の怒りは、もはやAIの制御を完全に振り切っていた。
手にした電磁警棒が、過負荷で限界以上の青白い放電を撒き散らす。視界は真っ赤に染まり、目の前でひょこひょこと自分を馬鹿にするリトを仕留めること以外、何も考えられなくなっている。
リトは、メインコンピューターの基幹ユニットの真ん前に、背を向けて立った。
「ほらほら、どうした鼻毛うんち君! 狙いが甘いんじゃねえのー?」
リトは振り返りざま、お尻をペンペンと叩いて最後の大胆な煽りを加える。
「死ねッ!!」
朔が渾身の力で踏み込み、高圧電流を纏った警棒をリトの頭上へと振り下ろした。
その一撃は、まともに喰らえばリトの肉体をも焼き切るほどの威力。
だが、リトは動かない。
警棒が鼻先をかすめるほどの至近距離、リトはニヤリと笑い、筋肉を極限まで収縮させて、一瞬だけ「横」へスライドした。
「――はい、ご愁傷様」
「ッ、あ……!?」
空を切った朔の攻撃。その先にあるのは、リトではない。
この世界のすべてを司る、メインコンピューターの露出した心臓部――。
ガッシャァァァァァァン!!
朔の電磁警棒が、剥き出しの回路に深々と突き刺さった。
激しい爆発音と共に、数万ボルトの逆流電流がシステム全体を駆け巡る。
『警告……致命的な、内部破壊……検知……システムの、維持が……不……能……』
「あ、あ……あああああッ!!」
自分の手が、守るべき「秩序」をぶち壊した。
その衝撃の事実に、朔は警棒を握ったまま硬直する。
同時に、背後では笑いすぎて過呼吸気味だった澪が、システムの崩壊による光の渦を、涙を溜めた瞳で見つめていた。
「よしっ、ストライク! 自分の仕事(破壊)に惚れ惚れするんじゃねえぞ、朔!」
リトは火花を散らすメインコンピューターを背に、呆然とする二人の肩をガシッと掴んだ。
「さあ、お仕事終了だ。……ここから先は、管理(AI)もタスクもねえ。お前らの『自由な時間』の始まりだぜ」
周囲のモニターが次々とブラックアウトし、不気味なほどの静寂が、今度は「本当の沈黙」となって最深部を包み込んでいった。
朔の怒りの一撃が、皮肉にも二人を縛っていた檻をぶち壊しました。
自分のせいでシステムが壊れたとショックを受ける朔と、笑い疲れて呆然としている澪
メインコンピューターが火花を散らして沈黙し、非常用の赤い照明が不気味に明滅する最深部。
機能停止したシステムの煙が立ち込める中、朔がガバッと意識を取り戻した。
「……っ、は、……あ……ッ!!」
チップの束縛から解き放たれ、頭に響いていたAIのノイズが消えた瞬間。
彼の中に真っ先に溢れ出したのは、再会の感動でも自由への喜びでもなく――リトへの、純粋で、煮えたぎるような『怒り』だった。
「おまぇえええ! 初対面でなんだアレはぁあ!!」
朔は叫びながら、まだバチバチと火花を吹いている電磁警棒をひったくり、リトの鼻先に突きつけた。
肩で息をし、顔を真っ赤にして、殺意すら感じるほどにリトを睨みつけている。
「ひ、ひぃっ!? おっと危ない、まだ支配が解けてないのか!?」
リトは両手を上げて慌てて飛び退く。
(……いや、待てよ。このキレ方はシステムじゃねえ、本人の生身の怒りだ!)
「支配だと!? 貴様のあの、あの卑劣極まりない……『うんち』とかいう……! あんな、あんなものを脳内に流し込みおって! 貴様、人間としての尊厳というものがないのか!!」
「いや、あれは最善の策で……」
「黙れ! 座れ、そこ座れ! 今すぐだ!!」
「はい!喜んで!」
リトはあまりの迫力に、ぐうの音も出ない。
破壊され、煙を上げているメインコンピューターのド真ん前。この世界の王座とも言える場所で、リトはしぶしぶ膝を折り、背筋をピンと伸ばして「正座」をさせられた。
「いいか、俺は、俺は……! あんな屈辱的な煽りを受けるために、この世界の執行官をやっていたわけじゃないんだ!!」
「……だろうなぁ、知ってる」
「口を動かすな! 筋肉を動かすな! 猛省しろ!!」
棒を振り回しながら詰め寄る朔。その背後では、笑いすぎて腹筋が死にかけ、床に転がっていた澪が、ようやく「ふーっ、ふーっ」と息を整えながら起き上がってきた。
「……あはは……。あー、面白かった……。ねえ、S-75あんまり怒ると、また鼻毛、出るよ?」
「M-30!! 貴様までその単語を口にするな!!」
かつての静止した支配が嘘のように、最深部は「リトへの説教」という名の、あまりにも騒がしく、あまりにも馬鹿げた『自由』に満たされていた。
「……いいか? そもそもだ。初対面の相手に、しかもこっちは職務中だぞ? それに対して、耳元で『ふぅ』だの、挙句の果てに変顔で『うんち』だの……」
「:( ´ᾥ` ):」
リトは、煙を上げるメインコンピューターの前で、石像のように硬直して正座していた。
自慢の上腕二頭筋も今は縮こまり、膝の上に乗せた手は行儀よく揃えられている。
「……聞いているのか!? その顔は何だ、反省の色が見えないぞ!」
「:( ´ᾥ` ):(……いや、めちゃくちゃ反省してる……俺の計算では、これでシステムが壊れるはずだったし、実際壊れたし……でも、確かに言い過ぎたかもしれない、うんち。いや、うんちは禁句だ、今のは脳内再生だ、セーフ……)」
「今、脳内で『うんち』って言ったな!? 眉間がピクッとしたぞ!」
「:( ;´ᾥ` ;):」
朔の洞察力は、AIの補助を失ってもなお鋭かった。棍棒(もはやただの説教用。火花はもう出ていない)をビシッと突きつけられ、リトの額から冷や汗が流れる。
説教は止まらない。
「俺がどれだけ真剣に規律を守ってきたか、お前には分かるか? それを一瞬で『鼻毛』だの『うんち』だので台無しにして! 俺の誇りはどうなる! 今後どんな顔をして監視タスクに戻ればいいんだ!」
「(……あ、それ、もう世界が壊れたから戻らなくていいんだけど……あ、今言うと火に油だな……)」
「:( ´ᾥ` ):」
「返事は!!」
「……サー、イエッサー、猛省しております、サー!!」
その横で、ようやく呼吸を整えた澪が、正座するリトを不思議そうに見つめていた。
笑いすぎて涙を拭いながら、リトのその「:( ´ᾥ` ):」という変な顔を見ているうちに、ふと、自分でも気づかない「温かい既視感」が胸をかすめる。
「……ねえ、S-75その人、なんか……怒られ慣れてる感じがするね」
「慣れてるだと!? M-30お前も甘いぞ! こんな不審者に……!」
「:( ´ᾥ` ):」
小一時間、ひたすら朔の正論という名の電撃を喰らい続け、リトの足は完全に痺れていた。
次元渡りのヒーローが、今この瞬間、世界で一番「小さく」なっていた。
「:( ´ᾥ` ):」
小一時間。火花散る精密機器の前で、リトの精神は限界に達していた。
朔の説教は、もはや管理システムの警告音よりも執拗で、リトの自慢の筋肉を精神的に蝕んでいた。
「……そもそも貴様のその筋肉は、不当な威圧感を相手に与え――」
「――ぁあぁあ! もう、崚の癖にうるさいんだよぉおお!!」
「ッ!?」
痺れを切らしたリトが、バネのように跳ね起きた。
あまりの勢いに、説教していた朔が思わず一歩後退る。
「俺はリト! 野山リトだ! こんなところで説教とか受けてる場合じゃないんだよ、俺にはやることが……筋肉をいじめる以外にも山ほどあるんだっ!」
リトは叫びながら、無意識に「崚」という名前を口にしていた。
朔は、その聞き覚えのないはずの、けれど胸の奥を激しく掻き乱す響きに、目を見開いて硬直する。
「お前……今、俺を……なんて……?」
「あーもう、足痺れた! でも心はパンプアップしてるぜ! 見てろよお前ら、これが本物の『自由』ってやつだ!」
リトは自分の口から出た言葉の重大さに気づく様子もなく、いつものニカッとした、暑苦しいほどの笑顔に戻った。
そして、ムキムキと上腕二頭筋を誇示するようにダブルバイセップスのポーズを決める。
「いいか、この世界のルールは俺がブチ壊した! あとはお前ら二人で、せいぜい仲良く『鼻毛』の話でもしてろ!」
「貴様……逃げる気か! 待て、まだ話は終わって――」
「アデュー!!」
リトは古い映画のヒーローのようなポーズで親指を立てると、爆発するような脚力(下腿三頭筋)を解放した。
シュパッ! と空気を切り裂くような速度で、リトは最深部の出口へと猛ダッシュする。
爆発的な脚力で通路を駆け抜けた、はずだった。
だが、その襟足がガシッ!と強烈な力で引き留められる。
「うおっ!? ぐぇっ、く、苦しい……!」
「逃がすか、バカ者が。……お前、これだけの規律違反と器物損壊を起こしておいて、そのまま消え去れると思っているのか?」
振り返れば、そこには冷徹な執行官の顔に戻った(けれど、どこか人間臭い怒りを孕んだ)朔が、リトの首根っこを文字通り「捕獲」していた。
「まてよ、俺介入したし、死ぬまでここに……? しんどい :( ´ᾥ` ): 筋肉いじめる前に住む所探さなきゃいけないんだよ俺は!」
「住む所だと? 貴様の行く先など一つしかない。――独房だ」
「うわぁあん! 前世は俺の方が背丈高かったのにー! こんな、こんなちっこい奴に首根っこ掴まれるなんてぇええ!」
リトは手足をバタつかせながら、情けなく叫んだ。
実際、今のリト(165cm)は朔(175cm)より少し低い。かつての崚(160cm)の体格差が、転生して逆転してしまっている事実に、リトのプライドはズタズタだった。
「……前世? またわけの分からんことを……。いいから来い」
「やだぁあ! 俺は自由を謳歌するんだ! 筋肉をいじめ抜く権利があるんだよぉお!」
じたばたと暴れるリトと、それを無表情(でも少し呆れた顔)で引きずる朔。
その光景を、澪は少し離れた場所から、お腹を抱えたまま見つめていた。
「……あはは……。本当に、面白い人」
澪の胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。
首根っこを掴まれて騒いでいる男と、それに苛立ちながら応じている相棒。
その二人のやり取りが、なぜだか、遠い昔に見た「赤く染まった夕陽の公園」の光景と重なって見える。
(……なんだろう、この感じ。初めて会ったはずなのに、ずっと前からこうやって笑っていた気がする……)
澪は、自分の瞳に温かい涙が溜まっていることに気づき、慌てて袖で拭った。
AIが消し去ったはずの「絆」が、リトのあまりにも情けない叫び声によって、静かに、けれど確実に呼び起こされていた。
「おい、M-30! ぼーっとするな、こいつの足を押さえろ! 筋肉が無駄に発達していて重いんだよ!」
「あ、うん。……ふふ、今行くよ、S-75」
最深部の暗闇の中、三人の騒がしい声が響き渡る。
それは、この世界が「静止」から「鼓動」へと変わり始めた、最初の音だった。
結局、リトの身柄は「極めて異質な能力を持つ危険人物」として、特例の監視下に置かれることになった。
そして、その監視役に指名されたのは、他ならぬ朔と澪の二人だった。
「いいか、貴様は次元を渡るなどという不可解な供述をしている上に、この世界の基幹システムを物理的に破壊した。本来なら即刻デリートだが、その『実体』の謎を解明するまでは、俺たちが一秒たりとも離さず監視する」
朔は、没収したリトの荷物(といっても筋肉を鍛えるための謎の器具くらいだが)を、用意された「監視対象者用住居」にドカッと投げ込んだ。
「……地獄かよ。独房の方がまだマシだったぜ…… :( ;ᾥ; ):」
リトは部屋の隅で膝を抱え、絶望に打ちひしがれていた。
独房なら、誰にも邪魔されず心ゆくまで筋肉をいじめ抜くことができたはずだ。しかし今、目の前には「説教の鬼」と化した朔と、なぜか楽しそうに自分を観察してくる澪がいる。
「独房なんてダメだよ。だって、R-0(リト)は面白いこと、いっぱい知ってそうだし」
澪は、リトの隣にひょいと座り込むと、その顔をじっと覗き込んできた。
「ねえ、R-0『前世』では、S-75はもっと小さかったの? その頃も、こんなに口うるさかった?」
「あぁ……。もっと可愛げがあったよ。泣き虫で、俺の後ろをついて歩いてたんだ…… :( ;ᾥ; ):」
「……R-0!! 誰が泣き虫だ! 嘘の情報をM-30に吹き込むな!」
朔が割って入り、再びリトの耳元で説教という名の電撃が始まる。
リトは耳を塞ぎながら、「筋肉……筋肉をいじめたい……。パンプアップしたい……」と呪文のように呟き続けた。
こうして、前代未聞の「危険人物と監視役」の共同生活が始まった。
リトにとっては筋肉をいじめる暇もない地獄の日々だが、その騒がしい部屋の中には、かつて彼らが失った「熱」が、確かに灯り始めていた。
朔と澪はまだ、自分たちがなぜこの「不審な男」を放っておけないのか、その本当の理由は知らない。
ただ、リトの情けない泣き顔を見るたびに、彼らのチップに刻まれた『管理』の文字が、少しずつ、少しずつ、剥がれ落ちていく。
「……ま、いいや。住む場所は確保したしな。……よし、明日からお前ら二人、俺のトレーニングに付き合えよ? 根性叩き直してやるからな」
「誰が付き合うか!! 貴様は大人しく座っていろ!!」
「あはは、僕はいいよ。そのかわり、教えて?過去の僕らの話を」
地獄のような、けれど愛おしい、三人の新しい毎日。
リトの「実体」による改ざんは、この小さなリビングルームから、静かに、そして確実に加速していく。
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