第1章:慣性の檻(Cage of Inertia)①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
太陽系内移動が普遍化した時代。エリート戦闘艇パイロット候補生のカイ・セリザワは、突如として開発中の人型兵器『G-STRIKE』への兵科転換を命じられる。 そこには、重力アンカーを用いた「空間を蹴る」という、従来の物理法則を根底から覆す超機動技術が投入されていた。
本文
肺の最深部に溜まった空気が、目に見えない巨大な鉄族に圧搾されていく。
肋骨が悲鳴を上げ、視界の端から色が失われ、灰色のアナログな世界が迫る。
首筋に貼られたバイオセンサーが、限界に近い心拍数を検知して警告信号を明滅させていたが、それを認識する脳の処理速度もまた、重力の彼方へと引きずり込まれつつあった。
これだ。この感覚だ。
カイ・セリザワは、グレイアウト寸前の意識の淵で、むしろ安堵に近い感情を抱いていた。
自身の肉体が質量を持ち、物理法則の支配下にあるという絶対的な証明。
機首をわずかに1度傾け、メインスラスターの出力をコンマ数秒、最大戦速へと叩き込む。
背中をシートに縫い付けるGがさらに増した。
戦闘艇『スティングレイ』は、真空の海を、慣性という名のレールに乗って滑るように進む。
その軌跡は、幾何学的な美しささえ讃えていた。
「ハウンド1、目標(ターゲット)確認(コンファーム)。最終アプローチに入る」
押し潰された声が、通信(コミュ)に載る。
ノイズ混じりの応答は、どこか遠くから聞こえるようだった。
『了解(ラジャー)、ハウンド1。……貴様の計算、信じているぞ』
通信の向こうで僚機が、自身の肉体を襲うGと戦いながら、呻くように言った。
信じている、か。
カイは唇の端をわずかに歪めた。
信じる必要などない。必要なのは信仰ではなく、正確な座標、ベクトルの残量、そして燃料の燃焼効率だ。
コンソールに表示される複雑な数式の羅列が、彼の網膜上で、未来の軌道(パス)へと変換されていく。
眼下、と言っても、宇宙空間においては気休めの表現に過ぎないが、アステロイド・ベルトの一角に浮かぶ仮想敵艦のダミーデータが、FCS(火器統制システム)のレティクル内に捉えられた。
カイの指先が、操縦桿(スティック)のトリガーに、愛撫するように触れる。
指の腹に伝わる金属の冷たさと、微細な振動。
それは、彼がこの鉄の塊と完全に同期していることの証左だった。
この瞬間、世界から雑音が消える。
自身の呼吸音さえも、生命維持装置(ライフサポート)の作動音に溶け込み、純粋な演算の場へと精神が昇華される。
相対速度、毎秒40キロ。
射撃タイミングは、今。
人差し指が力を込める。
光学レールガンが咆哮し、機体に鋭い衝撃が走った。
それは、慣性という均一な世界に穿たれた、一瞬の不連続点。
カイの視線は、既にコンソール上の戦果確認(キルログ)すら見ていない。
射撃と同時に操縦桿を横に薙ぎ、逆噴射スラスターを点火、スティングレイを、ダミーの破片が撒き散らされる予測エリアから、物理的に回避(クリア)させる。
完璧な、一撃離脱(ヒットアンドアウェイ)。
肉体を苛むGが和らぎ、肺に酸素が戻ってくる。
カイは、大きく、深く息を吐き出した。
その呼吸は、勝利の凱歌ではなく、演算を終えた機械が排出する熱のような、無機質なものだった。
戦闘艇操縦士(パイロット)とは、慣性の檻の中で、最も自由に振る舞える存在のことだ。
ニュートン物理学の信徒。
カイは、自身の内に、その確固たる信仰があることを自覚していた。
この冷徹な真空の世界で、自身を裏切らないのは、感情ではなく、計算された慣性だけである。
彼には、見えていた。
スティングレイが描いた、無駄のない、鋭利なカミソリのような軌跡が。
それは、彼がこの宇宙で刻むことのできる、唯一の、そして最も美しい署名だった。