プロローグ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
弟を追って禁域〈黒霧の森〉へ踏み込んだ少女ミレイは、怪異に襲われ死の淵へ追い詰められる。 彼女を救ったのは――“深淵の影”を纏う人外のハンター、レイ。 霧は彼を避け、怪異は跪き、霊子は逆流する。 その背中は、人ではなく深淵そのもの。 それでも少女は、その背中を追う。弟を救うために。 和風スチームパンク × 霊子 × 怪異。 孤独な少女と人外のハンターが歩む、深淵の物語。
本文
夜の灯京は、昼とはまるで別の顔を見せる。
瓦屋根の連なる街並みは濃霧に沈み、霊子灯の青白い光だけが、ぼんやりと闇を照らしていた。
その光は霧の粒子に反射し、まるで星屑が地上に降りたように瞬く。しかし、その美しさの裏には、誰もが知る“恐怖”が潜んでいる。
――夜になると、魑魅魍魎が徘徊する。
灯京の地下には、明治政府が敷いた霊子導管が張り巡らされている。
昼間は人々の生活を支える霊子の流れも、夜になると不安定になり、その乱れに引き寄せられるように、影の怪異が姿を現すのだ。
だが、今の魑魅魍魎は、かつて語られた怪談のそれとは違う。
深淵の皇――そう呼ばれる存在が霊子技術を歪めたことで、影と霊子金属が混ざり合った、異様な“半機械の怪物”へと変貌していた。
霧の奥で揺らめく影は、人の形を模しながらも、内部に赤い霊子核を脈動させている。
金属の軋む音と、湿った土を踏みしめる音が混じり合い、夜の灯京は、まるで巨大な生き物が呼吸しているかのようだった。
人々は夜を恐れ、日が沈む前に家へと戻る。
霊子灯の光が消える区域には、誰も近づかない。
そこは、魑魅魍魎が“歩く”領域だからだ。
しかし、この夜は、いつもより霧が濃かった。
霊子灯の光は揺らぎ、導管の脈動は不規則に跳ね、まるで街そのものが不吉な予兆を訴えているようだった。
灯京の中心にそびえる黒鉄の塔―― その最上階で、深淵の皇の“影”は静かに目を閉じていた。
◆
塔の内部は、明治の洋館を思わせる重厚な装飾と、霊子技術による青白い光が混ざり合う異様な空間だった。壁を走る霊子導管は、まるで巨大な生物の血管のように脈動し、時折、霊子の火花が散っては、闇を淡く照らした。
深淵の皇の“影”は、静かに呼吸をしていた。 いや、それは呼吸というより、霊子の流れそのものが“影”を通して脈動しているようだった。
影の身体は人の形をしているが、輪郭は常に揺らぎ、霧のように溶け、また形を成す。その姿は、存在しているのか、していないのかすら曖昧だった。
深淵の皇の“影”の意識は、灯京全体に広がっている。
霊子の流れ。魑魅魍魎の動き。人間たちの恐怖。
そして――
“唯一の失敗作にして成功例”の気配。
深淵の皇の“影”の瞳がゆっくりと開く。その瞳は深い闇色で、底知れぬ冷たさを湛えていた。瞳孔は存在せず、ただ“闇”だけがそこにあった。
「……動いたか」
低く、静かな声が塔の空気を震わせる。その声は、複数の声が重なったような、不協和音を含んでいた。
「欠片よ。 逃げ続けても無駄だ。 いずれ、霊子の流れが、お前をここへ引き戻す」
影は指先を軽く動かした。霊子導管が反応し、塔全体が低く唸る。まるで塔そのものが、影の意志に従っているかのようだった。
「巣を整えよ。 魑魅魍魎を巡回させろ。 “あれ”が動くなら、迎え入れる準備をしておけ」
影の声に応じるように、塔の外で魑魅魍魎たちが一斉に動き出す。霧の中へ溶けるように姿を消し、灯京の闇へ散っていく。
深淵の皇の“影”は微笑んだ。その微笑みは、感情を伴わない、ただ形だけのものだった。
「夜は、まだ始まったばかりだ」
その声は、灯京全体に響くような冷たさを帯びていた。
◆
黒霧の森は、夜になると別の世界になる。霊子の粒子が空気中に漂い、青白い燐光が揺れ、木々の影は不自然に伸び縮みし、まるで森そのものが呼吸しているようだった。
森の奥は、灯京のどの区域よりも霊子濃度が高い。霧は濃く、空気は重く、地面は脈動している。まるで、見えない巨大な心臓が地下で鼓動しているかのように。
その中心で―― ひとりの男が、静かに目を開けた。
黒い馬の背に座るその男は、闇そのものを纏ったような存在だった。外套は霧を吸い込み、風もないのに揺れ、髪は漆黒で、光を拒むように霧の中で揺れた。
瞳は深い闇色。霊子の揺らぎを映しながらも、感情の影をほとんど見せない。その姿は、人間の形をしていながら、どこか“異質”だった。
彼は寡黙だった。言葉を必要としない生き方を、あまりにも長く続けてきた者の静けさがあった。
霧の奥で、魑魅魍魎の気配が揺れる。 男は馬を止め、静かに目を閉じた。
――呼ばれている。
霊子の流れが、森の奥へと彼を誘っていた。まるで、彼の存在そのものを引き寄せるように
影の中から、小さな黒いリスが顔を出す
「……また霊子が騒いでるな。 お前の“同類”が動き始めたか」
男は答えない。ただ、霧の奥を見つめる。
その瞳の奥には、逃れられない宿命を知る者の静かな諦観が宿っていた。
霧が揺れた。魑魅魍魎の咆哮が、森の奥から響く。
男は馬の手綱を握り直し、霧の中へ踏み込んだ。
こうして、闇を歩む者の旅は、再び動き出す。
その先に待つのは、魑魅魍魎の巣、深淵の皇の影、そして彼自身の過去。
物語は、静かに幕を開ける。