第1話『山の闇は血の匂い』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昭和三十三年、朽葉村。 民俗学者の与一は、祖父の四十九日に故郷へ戻った。祖父の遺品の中に、一冊の手記があった。最後の一行だけ、字が違った。 村では三日前、寡婦の小夜が死んでいた。暴力を受け続けた十年の末に。村は知っていた。誰も言わなかった。 山の方から、夜ごと音が来る。 祓い女の清子は言う。「怒りは溜まる。溜まり続けたら、かたちを持つ」 与一は夜の山へ単独で踏み込んだ。赤い目が三つ、闇の奥にあった。それは獣ではなかった。黙らされ、蚊帳の外に置かれ、誰にも届かなかった怒りが、形を持ったものだった。 祖父が黙ったものを、与一は書いた。 令和。ことのは大学の資料室で、その手記は眠っていた。
本文
ことのは大学の資料室は、午後の光が斜めに入る時間だけ、妙に親切な場所になる。
静流が棚の奥を確認したのは、整理作業の三日目だった。民俗学の旧蔵資料、昭和中期の紙束、カビの手前で踏みとどまっているような匂い。指先でラベルを拾っていくと、他と少しだけ厚みの違う封筒が出てきた。
中に入っていたのは、大学罫紙ではなく、藁半紙を綴じた手製のノートだった。表紙に書名はない。ただ、右下に小さく、万年筆の字で日付と名前が押してある。
開いた最初の一行を、静流は二度読んだ。
「――あの夜、山の闇は血の匂いがした。」
それだけで、棚の奥の光が少し変わった気がした。
昼休みに、静流はナツメと遥乃を呼んだ。
「読んで」と差し出すと、ナツメは三行目で顔を上げた。「これ、本物か」
「鑑定はしてない」
「そういう意味やなくて」ナツメは封筒の裏を返した。「書いた人間が、や」
遥乃はナツメより早く最後まで読んでいた。静かな顔をしている。いつも静かだが、今日の静かさは少し種類が違う気がする、と静流は思った。
「寄贈者の名前、残ってる?」
静流は台帳を開いた。昭和五十年代の記録は薄い鉛筆で書かれていて、何度も上書きされた形跡がある。それでも、一行だけはっきり読めた。
与一。住所、和歌山県言埜市。
「生きてはる可能性、あるかな」ナツメが言った。
「計算すると、九十前後」
「……会いに行けるんちゃう」
遥乃は何も言わなかった。ただ、封筒の端を少しだけ指先で押さえた。
言埜市の外れ、山を背負った家だった。
呼び鈴を押すと、しばらく間があった。次に足音。靴音ではなく、スリッパの音が廊下を長く滑ってきた。
扉が開いた。
老いた男が三人を見た。静流を見て、ナツメを見て、遥乃を見た。遥乃のところで、一瞬だけ止まった。
「……ことのは大学の方やな」
静流が頷いた。「ノートを拝見しました。直接お話を伺えれば、と思いまして」
老与一はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと背を向けた。
「上がり。お茶は自分で淹れてくれ」
縁側に出ると、山が近かった。午後の光の中で、木々はただ静かに揺れている。
老与一は座布団に腰を下ろして、遠い方を向いたまま言った。
「あれは昭和三十三年の話や――」