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第1話『山の闇は血の匂い』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/3/24 📚 シリーズ: 怒りを喰らう獣 📝 920文字 ✅ 全年齢

あらすじ

昭和三十三年、朽葉村。 民俗学者の与一は、祖父の四十九日に故郷へ戻った。祖父の遺品の中に、一冊の手記があった。最後の一行だけ、字が違った。 村では三日前、寡婦の小夜が死んでいた。暴力を受け続けた十年の末に。村は知っていた。誰も言わなかった。 山の方から、夜ごと音が来る。 祓い女の清子は言う。「怒りは溜まる。溜まり続けたら、かたちを持つ」 与一は夜の山へ単独で踏み込んだ。赤い目が三つ、闇の奥にあった。それは獣ではなかった。黙らされ、蚊帳の外に置かれ、誰にも届かなかった怒りが、形を持ったものだった。 祖父が黙ったものを、与一は書いた。 令和。ことのは大学の資料室で、その手記は眠っていた。

本文

 ことのは大学の資料室は、午後の光が斜めに入る時間だけ、妙に親切な場所になる。

 静流が棚の奥を確認したのは、整理作業の三日目だった。民俗学の旧蔵資料、昭和中期の紙束、カビの手前で踏みとどまっているような匂い。指先でラベルを拾っていくと、他と少しだけ厚みの違う封筒が出てきた。

 中に入っていたのは、大学罫紙ではなく、藁半紙を綴じた手製のノートだった。表紙に書名はない。ただ、右下に小さく、万年筆の字で日付と名前が押してある。

 開いた最初の一行を、静流は二度読んだ。

 「――あの夜、山の闇は血の匂いがした。」

 それだけで、棚の奥の光が少し変わった気がした。

 昼休みに、静流はナツメと遥乃を呼んだ。

「読んで」と差し出すと、ナツメは三行目で顔を上げた。「これ、本物か」

「鑑定はしてない」

「そういう意味やなくて」ナツメは封筒の裏を返した。「書いた人間が、や」

 遥乃はナツメより早く最後まで読んでいた。静かな顔をしている。いつも静かだが、今日の静かさは少し種類が違う気がする、と静流は思った。

「寄贈者の名前、残ってる?」

 静流は台帳を開いた。昭和五十年代の記録は薄い鉛筆で書かれていて、何度も上書きされた形跡がある。それでも、一行だけはっきり読めた。

 与一。住所、和歌山県言埜市。

「生きてはる可能性、あるかな」ナツメが言った。

「計算すると、九十前後」

「……会いに行けるんちゃう」

 遥乃は何も言わなかった。ただ、封筒の端を少しだけ指先で押さえた。

 言埜市の外れ、山を背負った家だった。

 呼び鈴を押すと、しばらく間があった。次に足音。靴音ではなく、スリッパの音が廊下を長く滑ってきた。

 扉が開いた。

 老いた男が三人を見た。静流を見て、ナツメを見て、遥乃を見た。遥乃のところで、一瞬だけ止まった。

「……ことのは大学の方やな」

 静流が頷いた。「ノートを拝見しました。直接お話を伺えれば、と思いまして」

 老与一はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと背を向けた。

「上がり。お茶は自分で淹れてくれ」

 縁側に出ると、山が近かった。午後の光の中で、木々はただ静かに揺れている。

 老与一は座布団に腰を下ろして、遠い方を向いたまま言った。

「あれは昭和三十三年の話や――」

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作者について

中野ポン太

中野ポン太

燃料は札と火と湯気。中野ポン太です。ふざけた顔で近づき、読者の胸の奥に剥がれない「何か」を直貼りします。火曜は定休。主戦場『桝川劇場』は、爆笑の後に「たぶん。」という小骨が喉に刺さる深夜系哲学コント。...

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