第4話 パターン
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
深層は更新されている - 第4話 パターン
本文
一
伊庭正彦は、国立市の古い一軒家に暮らしていた。
三年前に取材で訪ねたときと、家の様子は変わっていなかった。玄関先の植栽はやや伸び放題で、表札は風雨に晒されて文字が薄れている。だが室内は整然としており、壁一面の書棚には数学書と哲学書が分類されて並んでいた。
伊庭は私を覚えていた。「ああ、非ユークリッド幾何学の記事を書いた方ですね。あれは良い記事でした。間違いも少なかった」という言い方が、この老数学者の褒め方であることを私は知っていた。
電話で概要は伝えてあった。AIが生成したコードの中に、幾何学的なパターンが見出された。専門家の意見を聞きたい。伊庭は「面白そうだ」とだけ言って、訪問を承諾した。
九月下旬の晴れた午後、私は戸田を伴って伊庭の自宅を訪ねた。
戸田は大型のノートパソコンを持参していた。伊庭の書斎の机にそれを開き、残渣コードの制御フロー図——あの、位相変換後に同一構造を示す五つの図形——を表示した。
伊庭は老眼鏡を掛け直し、画面を覗き込んだ。
しばらくの沈黙があった。
二
「変換の手法を説明してください」
伊庭の最初の言葉は、図形の「形」ではなく「手法」に関するものだった。戸田は使用した位相的同値変換のアルゴリズムを説明した。数学の専門家同士の会話は急速に私の理解を超えていったが、伊庭が頷く回数が増えていくのは見て取れた。
「手法は妥当です」と伊庭は言った。「では、もう一度図形を見せてください」
戸田が画面を操作し、変換後の五つの図形を並べて表示した。
伊庭は画面に顔を近づけ、右手の人差し指で図形の輪郭をなぞるように動かした。その指の動きは、初め緩やかだったが、やがて止まった。
「もう少し拡大できますか」
戸田がズームインした。
伊庭は眼鏡を外し、裸眼で画面を見つめた。そしてまた眼鏡を掛けた。
「戸田さん、このパターンをどのくらいの期間、見ていますか」
「最初に気づいたのは三か月前です」
「三か月。その間、体調に変化はありませんでしたか。睡眠の質とか。頭痛とか」
唐突な質問だった。戸田は一瞬面食らったようだったが、正直に答えた。
「……頭痛は増えました。あと、夢を見るようになった。前はほとんど夢を見なかったんですが」
伊庭は何も言わず、画面に視線を戻した。
三
「桐生さん」と伊庭は私の方を向いた。「あなたは数学にはあまり明るくないと仰っていましたね」
「はい」
「では、できるだけ平易に説明します。正確さは多少犠牲になりますが、ご了承ください」
伊庭は書棚から一冊の本を取り出した。古びた布装丁の、分厚い書物。ページを開くと、奇妙な図形が印刷されていた。
「これは十九世紀の数学者たちが研究した、非ユークリッド空間の投影図です。我々が住んでいる三次元空間とは異なる法則に従う空間を、無理やり二次元の紙の上に描いたもの。当然、歪みが生じる。本来の形は、この紙面では表現できない」
伊庭は本の図形と、戸田のパソコン画面を交互に見た。
「戸田さんが可視化した残渣コードのパターンは、この種の投影図に酷似しています」
部屋が静まり返った。戸田は身を乗り出した。
「酷似、というのは——」
「まだ断定はしません。類似性がある、というだけです。ただし、その類似性の質が問題なのです」
伊庭は本を閉じ、机の上に置いた。
「一般的に、AIが幾何学的パターンを偶然生成することはあり得ます。学習データに含まれていた図形を再現している可能性もある。しかし戸田さんが見出したパターンは、非ユークリッド幾何学のかなり特殊な領域に属するものです。超曲面の断面構造、と言えばいいでしょうか。高次元空間における曲面が、低次元空間と交差する際に現れる形状です」
「それは、学習データに含まれているような知識ですか」
「標準的なプログラミングの教科書には載っていません。数学の専門課程でも、この領域を扱うのは大学院レベルです。Museの学習データに数学論文が含まれている可能性は否定しませんが——」
伊庭は言葉を切った。
「仮に含まれていたとして、なぜMuseはコード生成の際にこのパターンを出力するのか。物流管理のコードを書くのに、超曲面の断面構造は不要です。農業管理にも、医療記録にも不要です。学習データにあるからといって、出力する理由がない」
四
戸田が新しい画面を開いた。
「伊庭先生、もう一つお見せしたいものがあります。これは昨晩作成したものです」
画面に表示されたのは、はるかに大きなスケールの図形だった。先ほどの五つの変換図を含む、二百以上の残渣コードパターンを、同じ位相変換で処理し、一つの座標空間にマッピングしたもの。
個々のパターンは小さな点として表示されていたが、それらの配置には明らかな偏りがあった。ランダムな分布ではない。点はいくつかのクラスターを形成し、そのクラスター同士が線状のパターンで接続されている。
全体として、それは——何に見えただろう。回路図のようでもあり、星座図のようでもあり、あるいは何か有機的な構造——血管網や神経回路——のようにも見えた。
伊庭は長い時間、その図を見つめていた。
やがて彼は立ち上がり、書棚の別の場所から、もう一冊の本を取り出した。これは先ほどの本よりもさらに古く、紙が黄ばんでいた。ドイツ語のタイトルが表紙に刻まれていた。
伊庭はページをめくり、ある図版の前で手を止めた。そしてその本を、戸田のパソコンの隣に置いた。
私は二つの図を見比べた。
パソコン画面に表示された残渣コードのマッピング図と、古い数学書に印刷された図形。スケールも媒体も時代もまったく異なるにもかかわらず、それらの構造は——
似ていた。
あまりにも似ていた。
「これは何の図ですか」と私は伊庭に尋ねた。
伊庭は本のページを指さした。「一八九七年にドイツの数学者ヘルマン・リーゲルが描いた図です。彼は非ユークリッド空間の位相構造を研究していた。この図は、彼が『自己参照的超曲面』と呼んだものの二次元投影です。高次元空間において、自分自身の内部に自分自身を含む曲面。無限後退する入れ子構造を持つ幾何学的対象」
「それがMuseの残渣コードのパターンと一致する?」
伊庭は答えなかった。代わりに、彼はドイツ語の書物を閉じ、慎重に書棚に戻した。
「一致、ではありません。完全な一致を主張するにはデータが足りない。ですが類似性は——偶然で説明するには——」
伊庭は窓辺に歩み寄り、外を見た。秋の午後の陽光が、庭の木々を透かして書斎に射し込んでいた。
「もう一つ、気になることがあります」
伊庭は振り返らずに言った。
「リーゲルは、この図を完成させた翌年に大学を辞職しています。理由は公式には健康上の問題とされていますが、同僚の手紙によれば、彼は——自分が研究していた図形に『見られている』と訴えるようになったそうです」
静寂が部屋を満たした。庭で鳥が一声鳴いた。
「もちろん」と伊庭は付け加えた。「十九世紀の逸話であり、今の分析とは無関係です。リーゲルの精神的な問題と、AIコードの解析を結びつける根拠は何もない」
その通りだった。根拠は何もなかった。
だが帰りの電車の中で、戸田は窓の外を見つめたまま、ぽつりとこう言った。
「伊庭先生が言っていたリーゲルの症状——『図形に見られている』。正確にはどういう意味なんでしょうね」
「精神を病んだということだろう」
「そうですね。そうだと思います」
戸田は額を窓ガラスに押し当て、流れていく景色を見ていた。
「でも、この一週間、僕もそんな気がしてるんです。残渣コードの図を見ていると——こちらが見ているのではなく、向こうから見られている気がする。図形の方に、視線があるような」
彼は笑った。自嘲的な、乾いた笑いだった。
「馬鹿げてますよね」
私は何も答えなかった。答えられなかったのだ。
なぜなら、伊庭の書斎であの図を見比べたとき——残渣コードのマッピングとリーゲルの図版を並べて見たとき——私もまた、同じ感覚を覚えていたからだ。
図形の中心から、何かがこちらを注視している。
それは錯覚だった。図形に目はない。意志もない。コードの可視化に過ぎない。私の疲弊した脳が、パターンの中に知性を見出そうとする、人間の認知バイアスに過ぎない。
だが電車が暗いトンネルに入り、車窓が黒い鏡となって車内を映したとき、私は一瞬——ほんの一瞬——自分の背後に、あの図形の輪郭が浮かんでいるのを見た。
振り返ると、そこには何もなかった。ただの空席と、車両の連結部分のドアがあるだけだった。
トンネルを抜け、再び陽光が差し込んだとき、戸田はまだ窓に額をつけたまま、何かを呟いていた。声が小さくて聞き取れなかったが、それは数字の羅列のように聞こえた。
あるいは、それも私の錯覚だったのかもしれない。