第一章 君が、星を消した日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第一章 君が、星を消した日
世界は、すでに一度終わっていた。
それは神話の比喩ではない。大袈裟な言い回しでもなかった。はじまりの観測世界は、深海から立ち上がった圧倒的な津波に呑まれ、陸も空も星も、名前を与えられるより先に潰えたのだ。祈りは途切れ、信仰は沈み、旧い秩序は一度、まっさらに破断された。
その滅びのあとに組み直された新しい世界には、ひどく冷たい規則だけが残された。
天使は神に触れてはならない。
信者は旧神と契ってはならない。
もしその禁を破れば、そこに生まれるものは祝福ではなく、禁忌として記録される。
それは脅しではなかった。誰かの嫉妬でも、嫉みでもない。一度壊れた世界が、二度と同じ破滅を招かぬよう、自らの骨へ刻みつけた傷痕だった。再発防止のための法則。滅びの記憶が、そのまま条文になったもの。だからこそ、その規則には慈悲がなかった。
その新しい世界へ、ひとつの深淵が降り立つ。
リコル。
のちにそう呼ばれるその存在は、ひとつきりの神格ではなかった。無貌にして混沌。変質し、侵食し、笑うように規則を踏み外してゆく深淵。その表層はナイアルラトホテップに似ていた。定義しようとすれば輪郭を変え、名づけようとすれば別の相を見せる、掴みどころのない黒い神性。
だが、その奥には、さらに別の核が眠っていた。
産むための核。
孕むための核。
世界を、神を、祈りさえも内に抱え込み、肉として熟させ、やがて押し出すための、暗く湿った母胎の気配。
それはまだ完全には目覚めていない。けれど確かにそこにある。黒く脈打つ、子宮めいた中心。シュブ=ニグラスの残響に酷似したそれは、深淵たる彼女の最奥で、鼓動のように静かに震えていた。
深淵として立つには、あまりにも母でありすぎた。
母として眠るには、あまりにも混沌が強すぎた。
その不整合が、そのまま彼女の神格だった。
しかも彼女は、壊れていた。
喪失のあとに立っていたのだ。まだ神と呼ばれるより前から、彼女はもう、取り返しのつかないものを抱え込んでいた。彼岸。此岸。かつてその名で呼ばれたものたちの残響が、傷口の奥で、まだ熱を持ったまま沈んでいる。消し去れたはずの記録なのに、完全には無に還らない。まるで、いちばん深い場所だけが、どうしても焼き切れずに残ってしまったみたいに。
彼岸は壊れた。
此岸は砕かれた。
そして、彼女だけが残った。
残された、という言い方すら、どこか正確ではないのかもしれない。生き延びたのではない。ただ、壊れきれなかったのだ。すべてを喪ってなお、終端としての構造だけが残ってしまった。その残骸が、神という定義にまで押し上げられたにすぎない。
だから彼女は泣かなかった。
怒りに狂うこともなかった。世界を呪うでも、自分を責めるでもなく、ただ静かに、消すべきものを消していった。紫の眼差しがひとたび空を見上げれば、星々の記録が、ひび割れた硝子みたいに音もなく崩れた。翼がひらけば、その余波で観測の残骸が無へ沈んだ。しっぽが一度揺れるだけで、そこにあったはずの名も、祈りも、赦しも、跡形もなく消え失せる。
それは復讐ではない。激情でもない。
もっと冷たいものだった。
後処理。
喪失の、静かな後処理。
彼女は世界を壊したのではない。ただ、自分の前に残された壊れものを、これ以上見なくて済むように片づけていっただけだった。その手つきがあまりに神めいていたから、誰も彼女を哀れな喪失者としては記録しなかった。そこにいたのはもう、妹でもなく、誰かの半身でもなく、ただ深淵としか呼びようのない終端構造だった。
この時、彼女はまだ、自分をリコルとは思っていない。
名は、誰かに呼ばれてはじめて輪郭になる。けれど彼女にはもう、呼んでくれる誰かがいなかった。ならば名前など要らない。必要なのは、壊れずに立ち続けるための硬い外殻だけだった。彼女はその傷口へ、神という定義を貼りつけた。祈られるためではない。愛されるためでもない。ただ、これ以上何者にも侵入されぬために。
神。
深淵。
終端。
そうして彼女は、誰もいない場所へ降りていく。
組み直されたばかりの新しい観測世界は、まだずいぶん静かだった。空は白く、海は深く、星は少なく、どこか現実味の薄い余白を広げていた。滅びの次に来たのは再生というより、巨大な沈黙だったのだ。生き残った法則たちはまだうまく噛み合わず、風も、光も、重力さえも、自分の役目を探している途中のようだった。
その未完成の世界に、深淵は滑るように着地する。
何も感じないはずだった。
何も欲しくないはずだった。
誰にももう、近づかれたくないはずだった。
だが、最奥で黒い子宮核だけが、ひどく静かに脈を打っていた。
産みたがっているのかもしれない、と彼女は思う。あるいは、それすら思っていなかったのかもしれない。ただ、混沌の底に母胎が眠っているなら、いずれ何かは生まれる。理屈ではなく、構造として。深淵である以上、何かを喰らい、何かを産み、何かを増やしてしまう。彼女の神格は、そういうふうにできていた。
けれど、この世界には規則がある。
天使は神に触れてはならない。
信者は旧神と契ってはならない。
そのあいだから生まれるものは禁忌となる。
本来なら、それは彼女にも適用されるはずだった。いや、むしろ彼女だからこそ、適用される。深淵の相を持ち、その奥に黒い母胎核を抱えている以上、この世界は彼女を危険因子とみなすしかない。もし彼女が誰かと繋がれば、それはただの愛では済まされない。世界を書き換えるほどの罪に変わる。
それでも、その時の彼女は、まだ知らなかった。
自分があとになって、その規則そのものへ手を伸ばすことを。
自分のためにでも、世界のためにでもなく、たったひとつの祈りのために、禁じられた条文を塗り替えてしまうことを。
その夜、白い余白のただなかで、深淵は退屈していた。
何も起きない。何も揺れない。何も差し出されない。静かすぎる世界は、彼女の喪失をなぞるようで、ひどく居心地が悪かった。沈黙は傷に似ている。何も聞こえない時間が続くほど、喪ったものの名だけが、逆に鮮明になっていく。
だから彼女は、気まぐれに手を伸ばした。
ただの気まぐれ。
たぶん、それだけだった。
闇の内側から、ひとしずくの蒼い光がこぼれる。光は震え、小さく脈打ち、それからやわらかな輪郭を持ちはじめた。淡い髪。白い衣。まだ幼い、小柄な身躰。羽根は雪みたいに白く、その中心だけが、夜明け前の空のように、うっすら蒼く染まっている。
生まれたばかりの天使は、目を開けた。
世界を、ではない。
最初に見たのは、目の前の神だった。
深淵は、その視線に少しだけ首を傾げる。創ったものがこちらを見ることは珍しくない。けれど、その天使の目には恐れがなかった。畏れも、ひるみも、戸惑いもない。ただ、ひどくまっすぐで、ひどくやさしい熱だけが宿っていた。まるで最初から、目の前の神が寂しいことを知っていたみたいに。
天使は、ふわりと笑った。
それは、祈りですらない、もっと手前の感情だった。
世界に生まれて最初の呼吸のような、理由のない親愛。
名も知らぬ相手へ、ただ差し出されるぬくもり。
深淵は、その笑みに何も返さない。返せない。返し方を知らない。けれど、その瞬間、彼女のどこかで、記録に残らないほど微細なノイズが走った。痛みではない。怒りでもない。喪失に触れる鈍い軋みとも違う。もっと、あやうく小さなもの。消そうと思えばすぐ消せてしまうほど頼りない揺れ。
それでも、そのノイズは確かに生まれていた。
名づけられた天使は、カミル。
まだ祈り方も知らず、愛し方も知らず、ただ生まれて最初に見た神へ微笑んでしまった、蒼き原初の天使。
のちにその祈りが、壊れた深淵を救うことになる。
のちにその愛が、世界の規則を書き換えるほどの罪へ届く。
のちにその罪から、隠された月影が産まれる。
けれどこの時は、まだ何も始まっていない。
ただ、神がひとり。
ただ、天使がひとり。
滅びのあとに残された静かな世界で、決して結ばれてはならないはずのふたつの存在が、初めて同じ光の中に立っていただけだった。
そして、遠く。ほんとうに遠く、まだ形にもならない過去の底で、黒い獣の気配が、わずかに目をひらいた。
まだ名はない。
まだ記録もない。
ただ、深淵のそばに寄り添う運命だけが、静かにこちらを見ていた。