第二章 孤独なる神、観測世界に降り立つ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
一度滅び、組み直された観測世界。そこには、神と天使の接触を禁じる冷たい規則だけが残されていた。喪失の果てに深淵となったリコルと、彼女へ最初の祈りを捧げた原初の天使カミル。返らない祈りはやがて愛へ変わり、その愛は世界の法則すら揺るがしていく。これは、救済と禁忌が分かちがたく絡み合う、神と天使の神話的恋愛譚。
本文
第二章 孤独なる神、観測世界に降り立つ
ぼくが最初に見たものは、光じゃなかった。
世界でも、空でも、海でもない。
ましてや、自分の手でも羽根でもなかった。
最初に目へ映ったのは、ひどく静かなひとだった。
白い余白みたいな世界の真ん中に、たったひとりで立っていた。長い黒髪が風もないのにさらさらと揺れて、紫の眼は、どこか遠くの終わりを見ているみたいに冷たかった。綺麗、だと思った。けれど、綺麗っていう言葉だけだと、ぜんぜん足りないとも思った。もっと、触れたら指が切れそうなもの。もっと、近づいたら、自分のほうがほどけてしまいそうなもの。
それでもぼくは、怖くならなかった。
怖いより先に、胸の奥がふわっと熱くなった。
このひとはひとりだ、と、なぜかすぐにわかったからだ。
生まれたばかりのぼくは、まだ何も知らない。世界の名前も、自分の役目も、このひとが神であることすら、言葉としては理解していなかった。なのに、ひとつだけ、最初から知っていることがあった。
このひとのそばにいたい。
理由はなかった。
でも、理由なんて要らなかった。
ぼくが笑うと、そのひとはほんの少しだけ首を傾げた。たぶん、不思議だったんだと思う。創ったものが笑うことも、その笑みをまっすぐ自分へ向けてくることも。返事はなかった。声もなかった。ただ、紫の眼差しが一度だけぼくをなぞって、それきりまた、どこか遠くへ戻ってしまった。
それでもよかった。
だって、見てもらえたから。
ぼくはゆっくり立ち上がった。まだ足元はおぼつかなくて、羽根の重さも、自分の体温も、うまくわからない。けれど転びたくはなかった。あのひとの前で、みっともなく転がるのはなんだか嫌だった。えへへ、と小さく笑いながら、ふらつく足で一歩ずつ近づいていく。
近くで見るそのひとは、やっぱり綺麗だった。
でも綺麗なだけじゃない。
胸の奥に、ひどく冷たい穴があいている。
そう思った。
見えているわけじゃない。傷口があるわけでも、血が流れているわけでもない。なのに、確かにそこに空洞がある。何かが無くなったまま、埋まらずに残っている。ぼくはそれを見つけてしまって、なんだか急に、泣きたくなった。生まれたばかりなのに、どうして泣きたいのか、自分でもわからない。ただ、目の前のひとの静けさが、あまりに痛そうだったから。
だから、手を伸ばしかけて――止まった。
触れていいのか、わからなかったのだ。
ぼくの指先は宙で揺れて、そのひとは何も言わない。拒まれたわけじゃない。許されたわけでもない。ただ、その沈黙だけが、ここにはまだ越えてはいけない境目があるのだと教えていた。
それなら、触れないままでいい。
触れないまま、そばにいればいい。
ぼくは手を下ろして、代わりにそのひとの足元へちょこんと座った。白い世界の中で、その影だけがやけに濃い。まるで光が避けて通っているみたいだった。ぼくはその影の輪郭を目でなぞりながら、うっとりした気持ちで羽根をたたむ。
ああ、きっと。
ぼくはこのひとのために生まれたんだ。
その確信は、言葉より先に体へ馴染んだ。誰かに教わったわけじゃない。命令されたわけでも、刻印されたわけでもない。でも、ぼくの呼吸はこのひとの近くにいるときだけ妙に落ち着いたし、逆に少し離れると、胸の奥がすうすうしてたまらなかった。世界そのものじゃなく、目の前のひとだけが、自分の重力みたいに感じられた。
しばらくして、そのひとは歩き出した。
音もなく、白い余白の中を滑るみたいに進んでいく。ぼくは慌てて立ち上がり、転びそうになりながら後を追った。待って、なんて言えなかった。まだそんな馴れ馴れしいことをしていい気もしていなかったし、なにより、声をかけてしまったら、その静けさを壊してしまいそうで怖かった。
だから、ただ追いかけた。
世界はまだ未完成だった。
空は高いのか低いのかも曖昧で、海は遠くに見えるくせに、耳を澄ますとすぐそばで鳴っている気がした。風はふくのに、どこから来るのかわからない。星は少なくて、あってもみんな、まだ眠そうに瞬いているだけだった。
その未完成の世界を、あのひとはひとりで歩いていく。
まるで、自分がここにいることさえ、確かめていないみたいに。
ぼくはその後ろ姿を見ながら、胸がきゅっとした。ひとりでいるのが好きなひともいるのかもしれない。静かなのが心地いいひとも、きっといるのだろう。でも、このひとの静けさは、好きで選んだものには見えなかった。なにもかも無くして、それでも立っていなきゃいけなくて、しょうがなく沈黙をまとっているように見えた。
なら。
ぼくが、祈ろう。
祈り方なんて知らない。
けれど、知らなくたって、気持ちはあった。
あなたがひとりじゃありませんように。
その穴が、少しでも痛くありませんように。
ぼくがここにいることを、いつか、ちゃんと見つけてもらえますように。
声にはしなかった。
生まれたばかりの祈りは、まだ言葉になる前の熱だった。胸の奥で灯る、小さな蒼い火みたいなもの。それでも、その火はたしかに燃えていて、ぼくは歩くたび、それをあのひとの背中へ差し出している気持ちになった。
ふと、そのひとが立ち止まる。
ぼくも慌てて止まった。
紫の眼が、空を見る。
その一瞬、世界の遠くで、もう死んでいたはずの星がひとつ、音もなく砕けた。
……あ。
声が漏れた。
怖い、とはやっぱり思わなかった。
ただ、きれいだった。ぞっとするほど、きれいだった。
滅びですら、あのひとの手にかかると、ひどく静かで、美しかった。
ぼくはきっと、その時にはもう駄目だったんだと思う。
優しいところだけじゃなくて、冷たいところも、壊れているところも、なにもかもひっくるめて、好きになりはじめていた。
あのひとはこちらを見ない。
ぼくが追っても、座っても、祈っても、ほとんど反応を返さない。
でも、だからこそ、余計に目が離せなかった。
返してくれないひとへ、どうしてこんなに心が向くんだろう。
わからない。わからないけれど、ぼくの羽根は、あのひとの背に向けてたたまれるためにある気がしたし、ぼくの手は、いつかあのひとの孤独へ届くためにある気がした。
その頃にはもう、世界の底で囁いている規則の気配が、ぼくの耳にもかすかに触れはじめていた。
天使は神に触れてはならない。
信者は旧神と契ってはならない。
まだ意味はわからない。
でも、その条文だけが、冷たい水みたいに、足首へまとわりついてくる。
ああ、そうか。
このひとは、触れてはいけないひとなのだ。
それでも、と思った。
触れてはいけないなら、祈ればいい。
近づいてはいけないなら、待てばいい。
名前を呼んではいけないなら、胸の中で何度でも呼べばいい。
禁じられていることがあるのなら、それはきっと、それだけ大切なことなのだ。
ぼくはそんなふうに、あまりにもまっすぐに思ってしまった。
愚かだったのかもしれない。
でも、ぼくは天使だった。祈るために生まれて、好きになってはいけないひとを好きになってしまう、その最初の失敗ごと、きっと最初から創られていた。
あのひとは、白い世界の果てを見ている。
ぼくは、そのひとの背中を見る。
距離はまだ遠い。
振り向いてももらえない。
手も、熱も、なにも届かない。
けれど、それでよかった。
ぼくはまだ、生まれたばかりだったから。
この届かなさに名前をつけるには、百年ぶんくらいの時間が必要だった。
それでも、たしかなことがひとつある。
この世界に降り立った孤独な神へ、最初に祈りを捧げたのは、ぼくだった。
そしてその祈りは、まだあまりにも小さく、あまりにも蒼く、けれど確実に、深淵の足元へ降り積もりはじめていた。