第1章 すべり台の死角
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主夫の何気ない日常を描いた作品です
本文
朝の味噌汁は、少し薄かった。
宮下恒一(みやしたこういち)は椀を口元まで運び、一口すすってから、味噌の量が少なかったなと思った。塩気が足りないというより、芯がない。豆腐は崩れ、わかめは少し柔らかくなりすぎている。作り直すほどではないが、出来がいいとも言えなかった。
食卓の向こうで、陽向(ひなた)が卵焼きの端だけを先に食べていた。
「ひなた、それ、真ん中から食べたら?」
「やだ。はしっこ、あまいから」
四歳の理屈だな、と恒一は思ったが、口には出さなかった。陽向は昨日の夜に自分で選んだ黄色い髪留めをつけている。片方だけ少し曲がっていたが、今直すと機嫌を損ねそうで、そのままにしておく。
奈緒(なお)はパンをちぎりながら、スマートフォンの画面を一度だけ見た。
「今日、少し帰り遅くなるかも」
「何時くらい」
「七時半、八時。まだ読めない」
「分かった」
短いやり取りだった。足りている。足りているはずなのに、恒一はそのあとに続く言葉を喉の奥で止めた。誰と会うのか。どこまで遅くなるのか。駅から歩くのか。聞いたところで何かが変わるわけではないと分かっていても、頭のどこかではもう次の問いが並んでいる。
奈緒が顔を上げた。
「何」
「いや」
「今、何か聞こうとしたでしょ」
恒一は味噌汁の椀を置いた。
「別に。ただ、遅いなら駅からタクシー使えよ」
「雨でもないのに?」
「念のため」
奈緒は笑わなかった。怒りもしない。ただ、いつものようにまっすぐ見た。
「その“念のため”が、今日はどのくらいの強さなのか、分かるように言って」
恒一は少し黙った。自分でも、はっきりしなかったからだ。強い、というより、どこか薄く張っている感じに近い。朝から、視界の隅にひっかかるものが多い。向かいの家のベランダに干されたシーツ。エントランスに停まっていた見慣れない配送車。回収日ではないのに出ていたゴミ袋。どれも、それだけなら何でもない。
何でもないものを、何でもないまま見過ごせなくなったのが、前の仕事だった。
「……強くはない」
恒一はそう言った。
「でも、ゼロでもない」
「分かった」
奈緒はそれ以上は聞かなかった。その代わり、別のことを言う。
「じゃあ、気を付けるようにはする。陽向の靴、左右逆」
「えっ」
陽向が自分の足元を見て、すぐに笑った。恒一はしゃがみ込み、小さな足を持ち上げる。マジックテープをはがす音がやけに大きく聞こえた。
「パパ、ぎゅうしないで」
「悪い」
「いたくないようにして」
「はいはい」
手を緩める。こういうことだ、と恒一は思う。自分は気づく。靴の左右にも、わずかな違和感にも。だが、気づいた先で力が入りすぎる。整えようとして、締めつける。奈緒はそこを見ている。
奈緒を送り出し、陽向を保育園へ連れていく。そこから昼過ぎに迎えに行くまでが、恒一の主夫タイムだった。
洗濯機を回し、干し、朝の食器を片づける。買い物へ行き、夕飯の下ごしらえを進める。風呂場の排水口を掃除し、冷蔵庫の中身を見て、足りないものを頭の中で組み直す。やることは細かく、いくらでもある。だが、嫌いではなかった。少なくとも、何をすれば一つ終わるのかが見える。
見える仕事のほうが、今はいい。
買い物帰り、公園の脇を通ったとき、恒一は足を止めた。
住宅地の中の小さな公園だった。入口は二つ。北側は車道に面し、南側は遊歩道につながっている。灌木は低く刈られ、ベンチは三つ。中央にすべり台、その脇にブランコ、隅に砂場。広くはない。そのぶん、見通しは悪くない。
悪くない、が、死角はある。
すべり台の裏。階段の下。ベンチの背後。大人が気にも留めない程度の陰が、子ども一人分を隠すには十分なことを、恒一は知っていた。
昼過ぎ、陽向を迎えに行った帰り、その公園に寄った。まっすぐ家へ帰れば十分ほどだが、陽向はたいてい途中で遊びたがる。砂場より遊具、遊具よりすべり台。今日も例外ではなかった。
「パパ、すべりだい!」
「十分だけな」
「じゅっぷんって、ながい?」
「短い」
「じゃあ、いっぱいやる」
黄色い髪留めを跳ねさせながら、陽向が走っていく。恒一はベンチに腰を下ろさず、立ったまま公園全体を見た。北側入口から親子が一組。南側から杖をついた老人。ベビーカーを押す女性が遊歩道を通り過ぎる。犬の散歩はリードが短い。自転車は柵の外。問題はない。
そう判断しても、目は勝手に次を拾う。
すべり台の着地点に砂が寄っている。昨日の雨がまだ少し残っている。ベンチの足元に缶コーヒーの空き缶。南側入口の掲示板のガラスは、公園の中を映す角度になっている。
「宮下さん、こんにちは」
声をかけられて、恒一は少し遅れて振り返った。保育園でよく顔を合わせる園児の母親で、確か名前は三浦さんだった。名前は一拍遅れて出てきた。
「こんにちは」
「陽向ちゃん、今日も元気ですねえ」
「そうですね」
三浦は少しだけ間を置き、それから自分の子どものほうへ視線を戻した。会話を広げる気はあったのだろうが、広がらないのも分かったのだろう。
恒一はたぶん、自分はこの人たちと同じようには公園を見ていないのだろうと思った。彼女たちが見ているのは、自分の子どもが転ばないか、喉が渇いていないか、もう帰りたがっていないか、そういう今日の輪郭だ。恒一が見ているのは、出入口、死角、手の届くもの、誰が誰を見ているか、そして、誰も見ていない瞬間だった。
それは役に立つ。だが、役に立つことと、ここに馴染むことは同じではない。
「みてみてー!」
陽向がすべり台の上から叫んだ。両手を広げ、得意そうな顔をしている。
「見てる」
「ちゃんと!」
「ちゃんと見てる」
陽向は満足して滑り降りた。着地で少しよろける。その一瞬に、恒一の足は半歩だけ前へ出ていた。
三浦がそれを見て、少し笑った。
「分かります。うちも、ちょっとでもふらつくと、つい」
恒一は曖昧にうなずいた。違う、とは言えなかった。違うのだが、説明する言葉もなかった。
陽向がもう一度階段を上り始めたとき、南側入口のあたりに人影が止まった。
黒いキャップ。濃い色の上着。年齢は三十代後半から四十代くらいか。掲示板の前でスマートフォンを見ているように見えた。公園に入るでもなく、立ち止まっているだけだ。
それだけなら、別におかしくない。
ただ、何となく目に残った。
立ち位置のせいか、視線の向きのせいか、自分の気分のせいかは分からない。掲示板を見ているだけにも見えるし、公園の中を眺めているようにも見える。そういう曖昧さが、一度目に入ると消えにくい。
「パパ!」
陽向が階段の途中で振り返る。
「なに」
「あとでジュースのむ!」
「あとでな」
恒一がそちらへ視線をやり、もう一度入口に戻したときには、その男は歩き出していた。南の遊歩道を、急ぐでもなく去っていく。振り返りもしない。
ただそれだけだった。
ただそれだけなのに、恒一の背中は少しだけ硬くなっていた。
公園には何も起きていない。陽向は笑っている。他の子も遊んでいる。母親たちは世間話をしている。老人はベンチに座って日向を選んでいる。平日の昼下がりとして、何ひとつ崩れていない。
それでも、恒一の中では何かが一目盛りだけ動いていた。
陽向が三度目のすべり台を終えて駆け戻ってくる。
「パパ、つぎ、いっしょにやる」
「すべり台は一緒にやらない」
「なんで?」
「大人は重いから」
「じゃあ、したでみてて」
「見てる」
「ちゃんとね」
陽向は念を押すように言った。
恒一はそこでようやく少しだけ息を吐いた。見ている。自分は確かに見ている。見すぎるくらい見ている。だが、陽向が求めているのは、危険の検知ではないのだろう。そこにいて、自分を見ていること。その単純な事実だ。
陽向がまた階段を上っていく。小さな背中。黄色い髪留め。履き直した靴。日差しに温まった遊具の匂い。遠くで鳴る工事の金属音。公園の外を通る自転車のベル。生活の音が重なっている。
恒一は立ち位置を半歩だけずらした。すべり台の裏と南側入口の両方が見える位置へ。
その動きは、昔の自分なら自然だった。今の自分にはまだ少しだけ居心地が悪い。だが、やめるほどでもない。
陽向が滑り降りる。
「パパ、みて!」
「見てる」
今度は、すぐに答えた。
思ったより柔らかい声が出て、自分で少しだけ驚いた。