第3章 来なくなった母子
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あらすじ
第3章 来なくなった母子
本文
不審者情報の貼り紙は、三日たっても保育園の門の脇に残っていた。
最初の日は立ち止まって読んでいた保護者たちも、三日目になると横目で確認するだけになっていた。人は慣れる。危険が去ったからではなく、毎回同じように怖がってはいられないからだと恒一は思う。
陽向は今日も門の前で恒一の手を振りほどき、先生のほうへ駆けていった。
「ひなた、きょうね、うさぎさん、かく」
「そうか」
「みみ、ながい」
「うさぎだからな」
「パパ、わらって」
「笑ってる」
「わらってない」
言われて、恒一は口元だけ少し動かした。陽向はそれで満足したらしく、先生に手を引かれて中へ入っていった。
送り終えて門を出ると、三浦が貼り紙の前に立っていた。今日は珍しく一人だった。恒一に気づくと、少し気まずそうに笑った。
「まだ貼ってありますね」
「そうですね」
「でも、何もなかったなら、そのうち外されるんですかね」
「何もなかった、かどうかは分からないですけど」
三浦は言葉に詰まった。恒一は自分の言い方が少し硬かったことに気づいたが、やわらげるのが一拍遅れた。
「……すみません。脅かしたいわけじゃなくて」
「いえ。宮下さん、やっぱりそういうの気になりますよね」
「気にはなります」
三浦は貼り紙から目を外し、少し声をひそめた。
「そういえば、最近見ませんよね」
「何をですか」
「ほら、あの人」
「あの人、では分かりません」
三浦は少し困った顔になってから、相手の特徴を探した。
「ええと、午後に公園でよく見る……。ベージュのトート持ってて、女の子がいて。陽向ちゃんと同じくらいの」
恒一の頭の中に、すぐに顔が浮かんだ。名前は知らない。だが公園で何度も見かけていた母子だった。母親は三十代前半くらいで、無地の服が多い。子どもは小柄で、赤い靴を履いていることが多かった。砂場にいることが多く、たまに陽向と同じすべり台に並んでいた。
「ああ」
「ここ何日か見てないなって」
恒一は一瞬、頭の中で数えた。先週の火曜に見たような気がする。水曜はどうだったか。木曜は陽向が眠くて公園に寄っていない。金曜は――。
はっきりしない。
「たまたまじゃないですか」
「そうかもしれないんですけど」
三浦はそこで言葉を切った。自分でも、この話を膨らませたいのか、打ち消したいのか分からないのだろう。
恒一は軽く会釈して、その場を離れた。
家へ戻る道すがら、三浦の言葉が思ったより頭に残っていた。
最近見ない。
それだけなら、ただの不在だ。風邪かもしれないし、実家に帰っているのかもしれないし、公園へ行く時間が変わっただけかもしれない。そう思う一方で、記憶は勝手に掘り返される。
確かに、あの母子を最後に見たのはいつだったか。
先週の火曜を最後に、今日で五日ほどになる気がした。気がする、というのが嫌だった。日付で言えない違和感は、気のせいにもしやすいし、逆に膨らみもしやすい。
家に戻ると、洗濯機を回し、昨日畳まずにいたタオルを片づけた。排水口のネットを替え、米を研ぎ、冷蔵庫の野菜室を開ける。主夫タイムは、やることを順番に片づけていけば形になる。頭を使わなくていいわけではないが、少なくとも答えのある作業だ。
なのに今日は、一つ終えるごとに思考が同じ場所へ戻る。
来なくなった母子。
そう呼ぶにはまだ早い気もする。見ていないだけかもしれない。だが一度そう思うと、不在は不在として輪郭を持ち始める。
昼前、恒一は買い物に出た。いつものスーパーへ向かう前に、少し遠回りして公園の前を通る。砂場に子どもが二人。ベンチには老人一人。すべり台には男の子が一人。見慣れた顔もいれば、初めて見る顔もいる。
だが、赤い靴の女の子はいない。
恒一は足を止めなかった。止めれば、自分の行動に名前がつく。探している、と。まだその段階ではないと思った。
スーパーでは、味噌、牛乳、豚ひき肉、長ねぎ、バナナを買った。味噌の棚の前で手を伸ばしかけて、止める。家の味噌はまだ半分以上ある。切れていない。なのに手が伸びたのは、最初の日の薄い味噌汁を思い出したからだった。
無意識に、同じ場所を埋めようとしている。
恒一は味噌を棚に戻した。
午後、陽向を迎えに行く時間になると、空は少し曇っていた。保育園では子どもたちが廊下に並んでいて、先生が順番に引き渡していた。陽向は自分の絵を丸めたまま出てきた。
「パパ、みて。うさぎ」
「あとでちゃんと見る」
「ちゃんとって、どのくらい?」
「座って見られるくらい」
「ふーん」
保育園の門を出て、公園の角に差しかかると、陽向は当然のように言った。
「すべりだい」
「十五分だけ」
「じゅうごふん!」
「長いほうだぞ」
「いっぱいできる!」
公園には五、六組の親子がいた。平日の午後としては少し多い。砂場の縁に座る母親、ブランコの後ろで押している父親、ベビーカーに荷物を積んだまま立ち話をしている二人組。生活の音が濃い。
その中に、あの母子はいなかった。
陽向はすべり台へ走っていく。恒一はベンチではなく、いつものように立ったまま全体を見た。南側入口、北側入口、遊具の死角、ベンチまわり、柵の外。人が多い日は見やすい部分と見えにくい部分が同時に増える。誰かが誰かを見ているようで、実際には目が分散する。
「宮下さん」
振り向くと、三浦がいた。今日は子どもが砂場にしゃがみ込んでいる。
「こんにちは」
「また会いましたね」
「この時間だと、まあ」
三浦は少しためらってから言った。
「さっきの話なんですけど」
「朝の?」
「はい。あの人、やっぱり見ないなって」
「どのくらい見てないんですか」
「ええと……月曜から? いや、もっとかな」
「その人、保育園の人ですか」
「違うと思います。たぶん幼稚園か、まだ行ってないか」
「名前は」
「知らないです」
そこで会話は切れた。知らない。よく見るのに知らない。公園の親同士では珍しくない。苗字も知らないが、ベビーカーの色と子どもの靴の色は知っている。どの遊具を好むかも何となく知っている。夫婦で来るかどうか、何時ごろ現れるかも何となく知っている。
生活圏の薄い顔見知り。
その薄さが、急に気になった。
「みてみて!」
陽向がすべり台の上から叫ぶ。
「見てる」
「ちゃんと!」
「ちゃんと見てる」
三浦がくすっと笑った。
「陽向ちゃん、いつも“ちゃんと”って言いますよね」
「確認したいんでしょう」
「誰に似たんですかね」
恒一は少しだけ返答に詰まった。奈緒か、自分か。たぶん両方だろう。だが、自分に似た部分が多いなら、それは少し複雑だった。
南側入口から、小学生くらいの男の子二人が走り込んできた。ブランコのほうへ向かう。危険はない。恒一は目だけで追い、すぐに視線を戻した。
そのとき、ベンチの反対側で、若い母親がもう一人の母親に言うのが聞こえた。
「そういえば、りおちゃん最近来ないね」
恒一の意識が自然にそちらへ向いた。
「ね。風邪かな」
「でも先週も見なかった」
「おばあちゃんちとかじゃない?」
「かもね」
軽い会話だった。雑談の範囲を出ない。だが、同じ不在を別の口から聞くと、輪郭が少し変わる。
りおちゃん。
あの赤い靴の女の子の名前かもしれない。
恒一は視線を外した。聞くつもりはなかったが、耳だけは止まらない。
「ママも最近見ないよね」
「たしかに」
「引っ越しとか?」
「どうだろ」
そこまでだった。子どもが泣いて、会話はすぐ別の方へ流れた。
陽向が滑り終えて駆けてくる。
「パパ、つぎ、ブランコ」
「順番守れよ」
「まもる」
小さな手を引きながら、恒一は頭の中で今の会話を並べ直した。
最近見ない。先週も見なかった。ママも見ない。
事実はそれだけだ。だが、それだけのことが妙に引っかかる。子どもだけではなく母親も見ない、という言い方が。
風邪なら家にいる。実家なら戻る。引っ越しなら、誰かがそれらしい気配に気づくこともある。もちろん、そんなのは全部「そういうこともある」程度でしかない。
それでも、恒一の中では警戒の針がじわりと振れていた。
帰り道、陽向は遊び疲れて眠そうに歩きながら、急に言った。
「りおちゃん、きょうもいなかった」
恒一は足を少しだけゆるめた。
「りおちゃんって誰だ」
「すなばの」
「ああ」
「このまえね、バケツかしてくれた」
「そうか」
「でも、さいきんこない」
子どもの記憶は飛ぶ。飛ぶが、反復には敏感だ。何日見ていないかは数えられなくても、いつもの場所にいつもの相手がいない違和感は覚えている。
「また来るだろ」
そう言いながら、自分の声が少し空疎だと思った。
「ひなた、あしたきたら、ぷりんのはなしする」
「なんでプリン」
「このまえ、りおちゃん、ぷりんすきっていってたから」
陽向の会話はいつも半分が突然だ。だが、その突然さの中に生活の手触りがある。りおという子がいて、プリンが好きで、砂場でバケツを貸してくれた。その程度の具体がある。
それがある相手の不在は、ただの背景にはなりきらない。
家に着き、陽向に手を洗わせてから、恒一は台所に立った。今日はひき肉とねぎでそぼろを作るつもりだったが、火をつける前に手が止まる。冷蔵庫の前で、数秒考える。
何をするつもりなのか、自分でもはっきりしなかった。
警察に相談するのか。保育園に言うのか。公園で母親たちに聞いて回るのか。どれも違う気がする。違うが、何もしないのもまた違う。
結局、恒一はスマートフォンを取り出し、保育園の連絡アプリを開いた。個別連絡ではなく、お知らせ一覧。りお、という名前を探す。該当はない。当たり前だ。保育園児でなければ出るはずがない。
次に、自治会の回覧板の写真を見返す。不審者情報の文面に変わりはない。黒い帽子。濃い上着。声かけ。被害なし。それ以上の更新もない。
何の進展もないのに、気味の悪さだけが少しずつ増していく。
夕方、奈緒が帰宅したとき、恒一は食卓の準備を終えていた。陽向はテレビを見ながら、ソファで半分だけ寝そうになっている。
「ただいま」
「おかえり」
奈緒は手を洗いながら言った。
「今日はどうだった」
「陽向は元気だった」
「恒一さんは」
問い方が分かっている。陽向のことではなく、自分のことを聞かれているのだと恒一は理解した。
「公園で、最近来てない母子の話が出た」
奈緒はタオルで手を拭きながら、続きを待った。
「何人かが同じことを言ってた。名前はたぶん、りお」
「子どもの名前?」
「たぶん」
「で、その子が来てないのが気になる」
「気になる」
「理由は?」
「不審者情報のあとだからだ」
「それだけ?」
恒一は少し黙った。
「……公園の男のことが、頭の中でつながってる」
「証拠は」
「ない」
「じゃあ、今のところは“気になる”までだね」
「分かってる」
奈緒はうなずいた。
「でも、“気になる”を無理にゼロにはしなくていいと思う」
恒一は顔を上げた。
「ゼロにはできないから」
「うん」
「ただ、“ゼロじゃない”のと“黒だ”は違う」
「分かってる」
「その間を飛ばさないでね」
奈緒の言葉は静かだった。静かだが、恒一の中で乱れかけていた線を一本ずつ置き直す力があった。
陽向がソファの上で目をこすりながら起き上がる。
「ママ、りおちゃん、ぷりんすきなんだって」
奈緒は靴下を脱ぎながら微笑んだ。
「そうなんだ。陽向も好きだもんね」
「うん。あしたきたら、いっしょにぷりんのはなしする」
その無邪気な予定に、恒一は何も言えなかった。
来るかもしれない。来ないかもしれない。明日になれば何でもなかったと笑えるかもしれない。そうであってほしいと思う。
だが、刑事だった頃の勘は、こういうときに妙に静かになる。騒がず、確信もせず、ただ引かない。
夕食の味噌汁は、今日はちゃんと味がした。
それでも、食卓のどこかにまだ薄いまま残っているものがあった。