第20話:静寂と温もり
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
【2/16スタート】クアッドアームの静寂 ~錆びついた世界の約束~ - 第20話:静寂と温もり
本文
空から降るのは、もう毒を含んだ黒い雨ではなかった。
ヘリオス本社ビル『クロックワーク・タワー』が崩壊してから3ヶ月。空を覆い尽くしていた重金属の煤煙は「ゴースト・キー」によるプラントの一斉停止と共にゆっくりと薄れ、スラム街「ラット・ポート」にも、数百年ぶりとなる柔らかな陽光が届き始めていた。
瓦礫の山だった路地裏には、人々が持ち寄った廃材で新しい家が建ち並び、管理されない「不確かな、けれど自由な」活気が溢れている。
街の片隅、かつて時計塔があった場所の近くに、新しい看板が掲げられていた。
『ガラの店――義手・義足、人生の修理承ります』。
店内には、かつての相棒『ブラスト・ヘヴン号』の焼け焦げた装甲板が勲章のように壁に飾られ、オイルと石炭の懐かしい匂いが漂っている。
「おい、そこ! 1.5ミリのスパナだって言っただろ! 演算脳が泣いてるよ、このお坊ちゃん!」
ガラの怒声が響く。彼女は相変わらず油まみれのタンクトップ姿で、新しい義手を持ち込んできた老人の接合部を、魔法のような手つきで調整していた。
「……計算外だな。このネジの磨耗率は0.02ミリの誤差がある。僕の指先の方が、君の指示よりも正確だと言っているんだ」
エプロン姿で部品を磨いているのは、カイルだった。眼鏡は新調されていたが、多重レンズではない、シンプルな真鍮フレームのものだ。彼はかつてのCEO候補としての威厳をどこへやら、山積みの歯車を相手に四苦八苦していた。
そこへ、カランカランと入り口の鐘が鳴った。
「ガラ、頼んでいたパーツ、届いた?」
現れたのは、銀髪を短く切り揃えた少女――シグナだった。
彼女の背中には、もうあの異形の「4本の腕」はない。代わりに、白銀の流線型を描く、華奢で美しい2本の基本アーム(義手)が、彼女の肩からしなやかに伸びていた。それは武器を隠すためのものではなく、ただ「生活」するためにガラの愛が込められた最新作だった。
「おや、シグナ。ちょうどいいところに来たね。そこの雑用係がサボってて、アタシの血圧が上昇中なんだよ」
ガラがニヤリと笑う。シグナはカイルと目が合うと、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……3ヶ月も店番をしていて、まだそのネジ1本満足に磨けないの? あんたの演算脳、実はあの日焼き切れたんじゃない?」
シグナの毒舌に、カイルはため息をついて立ち上がった。
「失礼な。これでも僕のハッキング能力は、この街の配電網を最適化して、電気代を30パーセントも削減しているんだよ。……君こそ、新しい腕の調子はどうだい? 1日3回のグリスアップを忘れていないだろうね」
「忘れるわけないでしょ。ガラの特製オイルなんだから」
二人の間には、穏やかな、けれどどこか「あの日」の記憶に触れるのを避けるような、絶妙な距離感があった。
シグナはすべての記憶を取り戻していた。あの日、白い実験室でカイルと交わした約束。彼がどれほどの想いで自分を救い出しに来たのか。だが、あまりにも大きすぎる彼の愛を前にすると、どうにも素直になれず、いまだに「あの時のことはよく覚えていない」というフリを続けていた。
『――ご主人様。……生体センサー、起動』
シグナの肩の上で、ピカピカに磨かれたハルが真空管をピンク色に明滅させた。
『カイル様。ご主人様の心拍数が、今、平常時の150パーセントに達しました。瞳孔の開き、および頬の温度上昇を確認。……計算によれば、これは「お熱い」状態に分類されます。和解のダンスモード、起動しましょうか?』
「ハル! あんたは黙ってて!」
シグナが顔を真っ赤にしてハルを叩き落とそうとする。
「やれやれ. 僕の計算によれば、シグナが僕にデレる確率は、今後10年で5パーセント未満だと思っていたけれど……。ハルのセンサーが正しいなら、僕の演算も修正が必要かな?」
カイルが意地悪そうに微笑む。
「……うるさい! 借金返済のために、一生ここでネジでも磨いてなさい!」
シグナはガラの用意したパーツをひっ掴むと、逃げるように工場の屋上へと続く階段を駆け上がった。
◇◆◇◆◇
夕暮れが街をオレンジ色に染め、やがて群青色の夜が訪れる。
かつては煤煙の雲に隠されていた星々が、今、1つ、また1つと、シグナの瞳の中に瞬き始めた。
屋上のフェンスに寄りかかるシグナの隣に、カイルが静かにやってきた。彼は二人のために淹れた、粗末な、けれど温かいコーヒーを手渡した。
「……ヘリオスの灯りが消えて、夜は暗くなったけれど。……星は、あの日よりずっと綺麗だね」
カイルの言葉に、シグナは小さく頷いた。
「……ねえ、カイル。あんた、私のことを利用して世界を救ったって言ったわよね」
「……ああ。効率的な計算の結果だと言ったはずだよ」
「……嘘つき」
シグナは、新しく作られた2本の腕で、カイルの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「あんたの『ゴースト・キー』の最深部に隠されていたログ, ハルが全部教えてくれたわよ。……あの日、ゆりかごで言った『星を見よう』って約束を守るために、あんたがどれだけ無茶をしたか」
カイルは黙って、夜空を見つめていた。
「……なんだ、全部、思い出していたのか」
「……ええ。バカね。本当に、世界一のバカよ」
シグナは、4本の鋼鉄の腕を捨て、残された2本の、華奢で温かい腕をカイルの背中に回した。
「……これが、私からの最後の依頼よ。……依頼料は、さっきガラに払ったパーツ代で全額決済済み。……拒否権はないわ」
カイルは少し驚いたように目を見開き、そして優しく、彼女の細い肩を抱き寄せた。
「……聞こうか。死神(シグナ)の、最後のご所望を」
「……私の隣で、一生笑っていること。……計算なんてしなくていい。正解なんていらない。……ただ、ずっと私の隣で、不格好に生きて。……いいわね?」
カイルは、一瞬だけ言葉に詰まり、それから眼鏡を外して、彼女の銀色の髪に顔を埋めた。
「……ああ。……100パーセントの確率で、引き受けよう。……僕の人生を賭けてね」
少し離れた屋上の影、煙突に背を預けたガラが、電子タバコの紫煙をゆっくりと夜空へ吐き出した。その隣では、ハルが空中で静かにホバリングしている。
「ほら、見てな。結局男女の関係なんてあんなもんなんだよ」
ガラが口角を上げ、どこか誇らしげに目を細めた。
「あの二人以外、お互いを認め合えるような人間はいないわけさ」
『ですよね。お二人はごまかされていますが、ハルは最初から分かっておりましたよ!』
ハルが真空管を満足げにチカチカと点滅させる。
『お二人の鼓動がいつも、論理を超えた恋のビートを刻んでいたことを!!』
「言うねぇ、ハル。あんた、口だけは一人前になったじゃないか。ハハハ!」
ガラの快活な笑い声に、ハルは胸(の真鍮板)を張って答えた。
『お褒めの言葉ありがとうございます。私が二人の愛のキューピットだと言っても過言ではないのです! むしろ、当機をハッピーエンド・メーカーと呼んでいただいても構いませんよ!』
錆びついた世界が終わり、騒がしい逃避行の果てに訪れた、本当の「静寂」。
二人の心音だけが、夜の風に溶けていく。
それはどんな精密な時計仕掛けよりも正確で、どんな数式よりも美しい、二人の新しい鼓動だった。
『――ご主人様。……演算、終了。……どうか、お幸せに』
ハルの穏やかな声と共に、2人を祝福するように、流れ星が夜空を駆けていった。
機械仕掛けの運命を超えて。
二人だけの、計算外の物語は、ここから新しく始まっていく。
(完)
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