第二十七節 夜の味が変わるとき

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/2 📚 シリーズ: 《アルマ》─観測者が見る夢─ 📝 1,633文字 ✅ 全年齢

あらすじ

《アルマ》─観測者が見る夢─ - 第二十七節 夜の味が変わるとき

本文

火は小さかった。

それでも、夜を分けるには十分だった。

乾いた枝が、ぱちりと弾ける。小さな音が、やけに遠くまで届いた気がした。

荒野の夜は広い。昼間に見た広がりとは違う。もっと深くて、底のない広さ。光を持たない分だけ、闇はどこまでも均一で、境界を曖昧にしていく。

それなのに────

 息を吸っても、喉の奥に引っかかるものがない。

ふと、そんなことに気づいた。

以前に知っている夜は、もっと重かった。

空気は舌に残って、呼吸をするたびに、わずかな苦味が胸の奥へと沈んでいくような────

 舌の上で、半ば溶けた錠剤の味。

飲み込んだはずなのに、消えきらないまま、夜の間ずっと残っていた気がする。

……あの苦さ。

そんな感覚があったはずなのに。

 今は違う。

冷たいだけで、澄んでいる。

ただそれだけの、何も混ざってない夜。

小さく吐いた息は白くほどけ、そのまま何にも触れず消えていく。

苦く、ない。

その事実が、思っていたよりも静かに、けれど確かに胸の内に落ちた。

こんな夜を、自分は知っていただろうか────少しだけわからなくなる。

 火の周りには、自然と人が集まっていた。

輪のように並ぶでもなく、誰かが主導して配置したわけでもない。ただ、自然とそこに集まって、自然と距離を保ったまま、それぞれが腰を落としていた。

火の向こうにいるはずの誰かの顔は、はっきりとは見えない。揺れる光が輪郭を作っては壊し、作っては壊す。

 近いようで遠い。

 その曖昧さが、今の自分たちにはちょうどよかった。

 ルナシアは膝を抱え、炎の揺れを目で追っていた。橙の光が瞳に映りこみ、金色の奥で静かに揺れる。

 風がひとつ、夜を撫でる。

火はわずかに傾き、影の位置が変わった。

その一瞬だけ、隣にいるドルスの横顔がはっきりと浮かび上がる。

昼間とは違う、何もしていない顔。

何もしていないのに、そこにいるとわかる顔。

 言葉はまだない。

それでも沈黙は重くはなかった。

火があるからか、それとも────

さっきまで一緒に走って笑っていたからか。

 誰かが薪をくべたのだろう、炎がひときわ大きく揺れた。

火は小さな音を立てて息を継ぎ、また静かに燃え始めた。

 その揺らぎの中で、ルナシアの視線がふと逸れる。

火から少し離れた場所。

光の届き切らない、夜の縁。

眠ったままの観測者。

背に預けられるものもなく、ただ座している。瞳は開かれたまま、どこも見ていない。深い海だけが夜から切り離されて、波ひとつ立たない。

静止している、というより────切り離されているような在り方。

 ルナシアは少しだけ迷ってから、立ち上がった。足音を殺すでもなく、かといって踏みしめるでもなく、ただ自然な歩幅で近づいていく。

「オルド、君がいないと、少し寂しいよ。ほんの少し、だけどね」

 返事はない。

わかっていたことだ。それでも言葉にせずにはいられなかった。

一歩、距離を詰める。

火が届かないその場所は、少しだけ温度が低い。けれど、不思議と嫌な冷たさではなかった。先ほど感じた夜と同じ、ただ澄んでいる。

 ルナシアは、そっと指を伸ばす。

触れていいのかどうか、わからない。

指先が、オルドの肩に触れた────その瞬間。

「──────起動」

 微かな声が夜に落ちた。

深い海に、幾何学模様が灯る。

静止していたはずのものが、内側からゆっくりと動き始める。

「観測を再開」

 僅かに遅れて、焦点が結ばれる。

その視線が、まっすぐルナシアを捉えた。

いつもと変わらない、淡々とした声音。

「……おはよう」

 ルナシアの口から零れた言葉に、ほんのわずか、間があった。

本来必要のない沈黙。

幾何学模様が、一瞬だけ不規則に揺れる。

わずかな遅延。

それから────

「おはよう、ルナシア」

 火が、小さく音を立てる。

夜は変わらず静かで、広くて、冷たい。

それでも────

もう苦くはなかった。

 オルドの瞳に灯った幾何学模様が、炎の揺らぎを受けて微かに瞬く。

その光を見つめながら、ルナシアは小さく息を吐いた。

白い息は、夜に溶けて消えていく。

 それを────今度は、ちゃんと見送ることができた。

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