第二十八節 背中ひとつぶんの信頼
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あらすじ
《アルマ》─観測者が見る夢─ - 第二十八節 背中ひとつぶんの信頼
本文
夜明けは、静かに来ていた。
空はまだ青になりきれず、薄く白んだ光が荒野を撫でている。焚き火の名残は灰となって、微かに熱を残していた。夜を分けていたはずの火は、もうそこに境界を持たない。光が世界を溶かしていく。まだ、ゆっくりと。
風が吹く。冷たさは変わらないのに、どこか軽い。まるで夜が、ようやく荷を下ろしたかのように。
「起きへんなあ……」
背には小さな白銀の少女。
細い腕が肩に回され、体重を預けるように、静かに揺れている。呼吸は規則正しく、深い。揺らぎも途切れもない。眠りは、彼女をすっかり手放さないでいた。
起こそうと思えば起こせる。だがドルスは、それをしなかった。
「ま、ええか」
軽く言って、歩き出す。泥濘を避ける足取りはいつもと変わらない。けれどその歩幅は、ほんの僅かだけ、揺れを減らしていた。背で眠る体を、起こさないように。
「落とすなよ」
静かな声が、少し前から飛んでくる。ドルスは、深い付き合いの友人の声を鼻で笑った。
「アホ、何年パパやってると思っとんねん」
「ふっ、確かにな」
ロギアが肩越しに視線を送る。その腕には、半分ほど眠ったままの小狼が抱えられていた。コギトは眠そうな目をさらに細め、こちらをじっと見ている。
「起こさなくていーのか?」
「ええやろ。昨日はどっかの誰かさんの謀略で大変やったからな」
ドルスの言葉に、ロギアは目を細め口角を上げる。それ以上はなく、ただ歩調を合わせるように、少しだけ速度を落とす。
後方から、もうひとつ足音が重なる。
「興味深いね」
オルドの声は、いつも通り平坦だった。その視線はルナシアに向けられている。瞳に浮かぶ幾何学模様は、微かに明滅していた。星図を読むような目で、静かに観測を続けている。
「彼女の特性を考えれば、外部環境で深い睡眠状態には移行しないはずだ。加えて覚醒までの遅延だけでなく、他者の背で警戒反応も観測されない。観測されるすべてが彼女の熟睡を示している」
淡々と、目の前の観測結果を述べる。
「そか、よう寝てるんはええことや。この子はもっと寝て大きくなった方がええなぁ」
ドルスは振り返らない。その背でルナシアの頭が小さく揺れる。それを確かめるように、ほんの少しだけ肩の位置を直した。
「ルナシアは成人済みだ、身長が伸びる可能性は低い。だけど────」
オルドは一歩、距離を詰める。
「彼女はここが”安全である”と判断している」
短い言葉。だが、重さは軽くない。
風が、四人の間を通り抜ける。言葉の続きを、どこか遠くへ運んでいくように。
ロギアは何も言わない。ただ一度だけ、ドルスの背を見て、それから視線を前に戻した。コギトが、小さく鼻を鳴らす。
「ふーん、いいじゃん、それ」
それだけ言って、今度は完全に目を閉じる。
ドルスが僅かに笑う。
「ほーん、まあ、悪くない評価やな」
軽く返して、歩みは止めない。朝の光はまだ弱く、影は長いまま地面に伸びている。
その中で、ひとりだけ、歩いていない。
ルナシアは、起きない。ただ静かに、眠っている。かつて夜を越えるために必要だった何もかもが、今は何処にもないまま。朝の光の中で、ただ呼吸を繰り返している。
◇ ◇ ◇ ◇
何かが揺れている。規則的ではない、けれど不規則とも言い切れない。ゆっくりと、上下に。体の奥を撫でるような揺れ。
ぴくり、と耳が動いた。
風でもない。音でもない。もっと内側、均衡を保とうとする感覚が、わずかに軋む。
少し遅れて、尻尾が小さく揺れる。自分の意思とは関係なく、探るように。
冷たい空気が、頬に触れている。どこかに触れている感触がある。硬くはない。けれど、地面とも違う。足先に重さがない。
もう一度、耳が動く。今度は少しだけ鋭く。何かがおかしいと本能が告げている。
揺れが続く。
────運ばれている。
思考が、ようやく形を持ち始める。曖昧だった感覚が、少しずつ繋がっていく。近い。高い。支えられている。
視界が、ゆっくり、恐る恐る開く。
夜が明けて間もない、淡い光の中で、最近すっかり見慣れた外套の色が視界の端に揺れている。そこで、ようやく思考が追いついた。
「……あ」
声にならない息が漏れる。自分は今、背負われている。
その事実に辿り着いた瞬間、尻尾の動きがぴたりと止まった。耳も、僅かに張り詰めたまま固まる。
一拍。
遅れて、熱が来た。
じわり、ではない。一気に、内側から押し上げられるような熱。頬のあたりが、わかりやすく熱い。首筋。耳の付け根。胸の奥。触れている場所からではなく、自分の内側から熱が滲み出る。まるで、ずっと蓋をしていた何かが、不意に口を開けたように。
なのに、外気は冷たいままだ。頬を撫でる風はひどく澄んでいて、さっきまで感じていた夜と同じ温度をしている。冷たい風が、内側から滲む熱を際立たせる。
「……っ……! ……」
息が少しだけ詰まる。触れている感覚が鮮明になる。胸に当たる背中の硬さ。支えられている安定感。一歩ごとに伝わる振動。さっきまでただの”揺れ”だったものが、意味を持ち始める。鋭敏な感覚が、そのすべてを意識させる。
尻尾が、わずかに膨らんだ。
「おはよう、ルナシア」
「ん? 起きたんか」
ルナシアから表情は窺えない。それでも、目覚めには丁度いい、優しい声音。背から咄嗟に胸を引き離す。女性としての恥じらいより、心臓の早鐘が伝わるのを避けたかった。恥の上塗りはしたくない。
「お、おはよう……」
平静を保つことに、成功したのかどうか。ルナシアにはわからない。
「ドルス、降ろしてやれ。その姿で街に入るのはさすがに可哀想だ」
街、という言葉に視線を上げる。いつもより格段に高い目線に、大きく頑丈そうな石門が映る。
「まずは宿やな。それから消耗品の買い足しと、ルナシアの装備を見繕って────」
ドルスが言いながらゆっくりと腰を落とす。高かったルナシアの目線が少しずつ下がり、普段と変わらない高さになる。離れ際にドルスの手がルナシアの頭を軽く撫で、戻っていった。温度だけが、少し遅れて消える。
「ありがとう……重くなかった?」
立派な自身の尻尾を、宝物のぬいぐるみのように抱きしめる。この感覚器官が、己の意思に反して感情を表すことを彼女はすでに知っている。証拠に、腕の中の尾は彼女の意思とは別のところで揺れ動こうとしている。
「どういたしまして。もう少し食べた方がええなぁ、おじさん心配になってまう」
「この世界でも食事による体型変化は起こるけど、現実には反映されない。安心して食べて大丈夫だよ」
オルドの的を見事に外した気遣いで、ドルスとロギアが小さく吹き出した。オルドは理由がわからず首を傾げている。
「遮音カバーは着けているね? ここの街は少し大きいから、辛くなったら我慢せず言っていい」
「『ピザ』でもいいでー」
「宿で髪をまとめてあげるよ、新しい髪型を覚えたからね」
いつもと変わらない、距離感を保った優しさが先を進み、軽薄が手をひらひらと振りながら石門をくぐっていく。少し離れて、水面に光が宿るような静けさで歩む観測者。その背を追いかけながら、ルナシアは遮音カバーのフリルに指を触れる。
尻尾は、まだ少し、膨らんだままだった。