第二十九節 境界の裏

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/5/4 📚 シリーズ: 《アルマ》─観測者が見る夢─ 📝 4,828文字 ✅ 全年齢

あらすじ

《アルマ》─観測者が見る夢─ - 第二十九節 境界の裏

本文

石造りの門は、ただの出入口ではなかった。

 削れて角の丸くなった灰色の石が、何十年、何百年という時間の堆積を黙って語っている。【アリー】の街とその外とを断ち切る、れっきとした『境界』だった。重厚なアーチを、一行はくぐった。

 ――空気が、変わる。

 視界に広がったのは、これまで訪れたどの街よりも巨大で、そして静かに〝完成された〟光景だった。通りは広い。だが人の波に押されるような喧騒はない。行き交うのは、整然と動く住民たちだ。荷車を引く者、帳簿を抱える者、鎧姿の衛兵。それぞれが迷いなく己の役割を果たし、無駄な動きが一切ない。ロギアの読み通り、プレイヤーと思しき姿は疎らだった。

「ほな行ってくる、ルナシアちゃんのことは頼んだで先生」

「ああ、そっちもな。なるべく高く捌いてくれ」

 ルナシアとロギアの売却予定の素材は、すべてドルスへと預けてある。大きな街では売却先が複数あり、交渉次第で値も変わる。口下手な二人より彼に任せた方が早いという流れに、自然となっていた。

 相変わらず軽い身ごなしで手を振り、街並みの中へと紛れていく背中を見送って、二人も足を踏み出す。

「体調はどうだい?」

「……思ったよりは、平気だよ」

 どこかで金属を打つ甲高い音が響く。別の方向からは商人の張り上げる声。香辛料の刺激的な匂いと、焼きたてのパンの甘い香りが入り混じって、空気そのものが濃密だった。

 平気では、ない。

 遮音カバーが大半の騒音を遮ってくれる。それでも突き抜けてくる音はある。そして香りは、何一つ軽減されることなく押し寄せてくる。極端なまでのリアリティを追求されたこの世界では、NPCすら体温と匂いを纏っていた。人口の多いこの街の刺激は、ルナシアという脆く小さな城を、攻め落として余りあるほどの濃密さを孕んでいる。

 胃の奥が、じくりと重くなる気がした。それを悟られないように、彼女はただ前を向いた。

「すまない、聞くまでもなかったな」

 ロギアが短く詫びる。

「宿へ急ごう。日が落ちれば少しは喧騒も落ち着く、外出はそれからでも遅くはない」

「ほらオルド、こーゆー時に手を握ってやんだよ。お前そっち側な」

「なるほど、覚えておくよ」

 ロギアは小さく笑みを零した。両サイドを自身より小さな二人に挟まれ、前を歩く自分の姿を、彼はどんな目で見ているだろう。自分にはできない部分を、コギトは確かに担っていた。

 そのとき、ロギアの背中が、突き飛ばされた。

「ちょっとアンタ! 何やってんの! どきな!」

 振り返ると、赤髪の獣人の女性が立っていた。ルナシアと同じ、獣の耳を持つ獣人だ。だがルナシアのふさふさとした尻尾とは違い、細くしなやかな尻尾が、怒りを孕んで逆立っている。女性はすでにカバンから薬品瓶を取り出し、ガーゼに染み込ませ、迷いなくルナシアの鼻へと押し当てていた。

「何をやっている! ルナシアから離れるんだ!」

 聞いたことのない声量だった。ロギアの手はすでに腰の細剣まで伸びている。《アリストテレスの庭園エクスプリカーレ》と《風は此処にダーザイン》が同時展開され、彼の心境を映すように風が荒れた。細剣を握る手に汗が滲む。その緊張に呼応するように、コギトの姿が小狼へと変じる。周囲の住民がざわめき、足を止める。鞘と剣の間に、わずかな隙間が生まれようとしていた。

「失礼、ボクの主人に嗅がせているものの詳細を聞かせてもらえるかな。鎮静作用があるようだけど」

 傍らでオルドだけが、静かに問いかけた。一切の緊張感がなく、ただ薬品にのみ興味を注いだ声音で。

「ロギア、剣を収めるんだ。ルナシアを想っての行動に素直に感謝する。だが彼女がルナシアを害する存在であれば、すでにルナシアは死亡しているか、連れ去られているかしているよ。彼女がここに留まるメリットはない」

「返答次第だろう。これから行動に移す可能性もある。もう一度言う、ルナシアから離れるんだ」

 オルドの制止を受けてなお、臨戦態勢は解かれない。風は依然として荒れ、細剣は鞘に戻らないまま、ロギアの目には明確な敵意が宿っていた。

「ま、待ってロギア! 私は大丈夫だよ、むしろ少し楽になったくらいで……」

「コラ、まだ動かない。こんなに青ざめて、可哀想に」

 振り払おうとするルナシアの声が、ひとまずロギアの警戒を一段下げた。細剣には手をかけたままでも、荒れていた風が、少しずつ凪いでいく。女性の手がルナシアをそっと制し、ガーゼを鼻へと押し当て直す。

「嗅がせてんのは嗅覚を麻痺させる薬だよ、完全にじゃないけどね。少しは楽になるだろうさ。それよりあんた! こんな小さな子に聴覚の対策以外させてないのかい! これは立派な虐待だよ!」

 ルナシアへ向けられる声は、深く慈愛に満ちていた。ロギアへ向けられる言葉は、そこから遠く離れた温度をしていた。虐待、という言葉が街路に落ちる。周囲の目が鋭く光り、ロギアがたじろぐ。展開されていたスキルが中断され、細剣からも、静かに手が離れた。

「……すまない、そのような薬があることを、知らなかったんだ。非礼をなんと詫びればいいのか……」

 ロギアは深々と頭を下げた。その後を追うように、人型に戻ったコギトも頭を下げる。緊張が解け、足を止めていた野次馬も、潮が引くように散り始めた。

 頭を下げるロギアの背中を見て、ルナシアは何か言おうとした。だが力強い女性の手を振り払うことに失敗し、声だけが宙に残った。本来の獣人の膂力に、非力な彼女では敵わなかった。

「……すぐそこに、あたしの店がある。少し休んでいきな」

 しばらくの沈黙の後、女性がそう言った。

「すまない。そうさせてもらおう、ルナシア」

 普段のロギアからは遠い、低く沈んだ声だった。

 ルナシアは黙って、小さく頷いた。何か言葉を探したが、見つからなかった。自分のために動いたロギアに、何を言っても気を遣わせてしまう。それだけは、わかって

いた。

◇ ◇ ◇ ◇

 獣人の女性の店は、ルナシアたちがいた通りのすぐ裏にひっそりと建っていた。造り自体は頑強そうだが、寂れた雰囲気のある小さな店。店内は乱雑としていて、あちらこちらに薬品と思しき瓶が散乱している。

「ちょっと待ってな」

 女性は散らかった机の上を適当に片付け、引き出しから取り出した香木に火を着ける。

 香木の煙が、ゆるやかに立ちのぼる。冬の寒い日に毛布を被ったときの、あの最初の瞬間――外の冷たさがまだ肌に残っているのに、すぐそこに安心がある、矛盾を孕んだ感覚。甘く、けれど重くない。長い時間煮詰めた果実の、最後の一匙のような、喉の奥がほどけるような香り。

 煙は白く、ゆっくり昇る。

「あたしはファルマ、薬師だよ。商売相手は専もっぱら獣人だけどね」

「ロギアだ、その子はルナシア。それからコギトとオルド」

 ルナシアは軽く会釈のみだったのに対し、コギトは満面の笑みを浮かべ、オルドは香木を眺めて特に反応もない、それぞれに三者三様の反応だった。

「先ほどは申し訳なかった。しかし驚いたよ、獣人用の品は遮音カバーと耳栓くらいだと思っていた」

「あたしも少し強引だったし、気にせんでいいさ。それに、知らないのも無理ない。これはそこら辺に売るもんじゃないからね」

 ファルマは肩をすくめ、火を入れた香木を軽く揺らした。煙がゆるやかに形を変え、部屋の隅々まで染みわたっていく。

「さっきの薬をはじめ、感覚を鈍らせる薬は扱いを間違えりゃ生きる感覚そのものを削る。下手な奴が扱えば、飯の味もわからなくなるし、危険の匂いにも気づけなくなる。だから必要なやつにだけ渡してる」

 その視線が、まっすぐルナシアへと向けられる。

「その中でもこの子は別格だ。〝強すぎる〟この子には、普通の対策じゃ追いつかない」

 ルナシアは、少しだけ視線を落とした。否定も肯定もなく、ただ静かにその言葉を受け取る。

 ロギアの眉が、わずかに寄った。

「……ではどうすればいい。私は、何を見落とした?」

 問いは短い。だがそこに含まれたものは、決して軽くない。

 ファルマは一瞬だけ黙り、それから鼻で小さく笑う。

「見落とし? あんた、何かをわかった気になってたのかい? なら考えを改めた方がいいね。見な」

 ファルマは側頭部の髪を搔き上げてみせる。そこには退化していない、人間とまったく同じ形の耳があった。

「この耳の意味がわかんだろ? あたしはその子と同じ獣人だけど、そこまで高い感覚を有していない。同じ獣人でも、どの感覚がどれほど優れているかには個人差がある。獣人同士ですら、苦悩を分かち合えない。なのに種族すら違うあんたが、この子の何かをわかった気になんのは、そりゃあ烏滸がましいってもんさ」

 言い切る声には、責める色はなかった。ただ、現実を冷酷に告げる。

 ロギアは何かを言いかけ、それでも言葉は出てこない。ファルマの言う通り、〝わかった気〟でいた。過去に感覚過敏の生徒を受け持ち、知識を携え、導けると〝思い込んで〟いた。

「聴覚を塞ぐのは正しい。けれどね、それは〝外からくるものを減らす〟だけだ。この子にはそれだけじゃ不十分だ。〝入ってきたものをどう処理するか〟が問題なんだよ」

 香木の煙が、ふっとルナシアの横顔をなぞる。

「感じるな、は無理だ。だから〝流せるかたち〟にするしかない」

 ここまで香木を眺めているだけだったオルドが、初めてファルマ自身に興味を示した。

「興味深いね、具体的には?」

「段階を作るんだよ」

 ファルマは指を三本立てた。

「一つ、遮断。あんたらがやってるやつだね。でもこれじゃ足りない」

 指をひとつ、折る。

「二つ、鈍化。さっきの薬がそれだね。でもまだ足りない」

 ふたつ、折る。

「三つ──選別」

 最後の指を、ゆっくりと畳む。

「全部受け取らなくていい、それは嬢ちゃんのもんじゃない。拾うか、捨てるか。選んでもいいんだ」

 その言葉は、ルナシアだけに届くように、少しだけ柔らかく落とされた。

「匂いも音も、人の気配も。ぜんぶ同じ重さで受け取るからつぶれる。……〝大事なものだけ拾え〟」

 ルナシアの指が、小さく震える。怖がっているような、戸惑っているような、どちらなのか、全く違うものなのか、自分でもわからない。

「……そんなこと、出来るの?」

 か細い声だった。

 ファルマは、少しだけ困ったように笑う。

「難しいよ、とてもじゃないが簡単だなんて言えない。あたしも絶賛勉強中だからね。でも──」

 机を隔てて座っていたファルマとの距離が一段、近くなる。

「〝やろうとしないと、一生できない〟」

 静かな断言だった。

 部屋の中で、煙がひときわ濃くなる。

 ロギアはそのやり取りを黙って見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「私は守ることしか、減らすことしか考えていなかった」

 その声は、先ほどよりもさらに低い。

「減らすことばかりで、扱うことを教えていなかったんだな」

 ルナシアが、顔を上げる。

 ロギアは一瞬だけ視線を逸らし、それから正面に戻した。

「すまない」

 短い言葉。けれど今度は、逃げ場のない言葉だった。

 ルナシアは少しだけ目を瞬かせて、それから小さく首を振る。

「ううん……私も、ずっと耐えるだけだったから」

 その言葉に、ファルマがふっと息を吐いた。

「いいね。あたしたちには言葉がある。人とは違う感覚や経験を、相手に伝えることができる。やっと同じ土俵に立てたじゃないか」

 ぱん、と手を打つ。

「じゃあ、あたしが伝えられることは伝えてやるよ。必要そうなものも面倒みてやる、扱い方も含めてね。まずは、そうだね……嬢ちゃんたちとお話でもしようか」

 コギトがぱっと顔を輝かせる。

「それってガールズトークってやつか!?」

「ふっ、そうだね。女同士の話は〝パパ〟には刺激が強いかもな」

 ファルマはロギアに視線を移す。

「勘弁してくれ……」

 その言葉にファルマは満足げに笑う。

 煙が、ゆっくりと天井へ消えていく。

 外の喧騒は、まだ遠くにある。けれどこの小さな店の中だけ、別の時間が流れ始めていた。

 ルナシアは、ほんの少しだけ深く息を吸う。

 さっきまで刺さるようだった世界が、今は――ほんのわずかに、輪郭を持っている気がした。

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